ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

ドナルド・キーンの「百代の過客」序にある日本の兵士の日記

2012年01月20日 | 読書

まだ「序」しか読んでいないけれど、この序に書いてあることに悲しい感動を受けた。
ドナルド・キーンはオペラ評論を書くとその言葉の美しさ・的確さなど絵巻物を観る思いに近かった。
たとえば、マリア・カラスが歌うヴェルディ「トラヴィアータ」で、高級娼婦だったヒロインが、アルフレードという田舎出身の青年に愛され、幸せな生活をしていたが、その青年の父親が彼女に「息子とは別れてくれ」と言ってくる。
ヴィオレッタは、アルフレードとその家族の為に自分は身を引く決意をするところ、「別れる」とは言わずに「アルフレード、あなたを愛しているわ」と歌って去る、大変悲しい場面、これを名歌手マリア・カラスがどう歌ったか、それを観ていない人々にもひたひたとその感動を伝えてくる書き手であった。

「音盤風姿花伝」にはこう書かれている。


・・・ときどき人々は、日本文学研究者のこの私が、日本の伝統的な価値基準である余情とはまったく対照的と思われているオペラに夢中であることに、驚きの気持ちを表明することがある。
確かに「アイーダ」のラダメスの勝利の帰還は、「熊谷陣容」の熊谷直実の勝利の(と思われている)帰還とはまったく異なった印象を生み出すものである。
しかし、われわれには人間が生まれつき持っている、変化を求める気持ちがあるから、パルテノン神殿と桂離宮の両方に感嘆することができるのである。
だが、それは別にしても、芸術にはどこか深いところで、互いに理解しあえる要素が確かに存在しているのだ。
六條御息所が光源氏の愛と、現世という「火宅」を捨て去る前に、鳥居の前でためらう瞬間は、「椿姫」(ヴェルディ「トラヴィアータ」)で、ヴィオレッタがアルフレードを追い払う前に「私を愛して、アルフレード、私があなたを愛するのと同じくらいに・・・さようなら!」と最後の愛の言葉を発する瞬間と、実はそれほどに違っていないのだ。
私はいまだにそう叫んだ時のマリア・カラスの声を聴き、カラスの身ぶりを見ることができるのだが、それは最高のドラマと忘れ難い音楽の見本として、わたしの六條御息所の思い出と溶け合っているのである。

これを読んだのは私の10代後半、ヴェルディを歌いたいと思っていた時であった。
でも、私はこの恐ろしい女のサガというのを歌うのを、特にこの「トラヴィアータ」については、数あるヴェルディのオペラの中で歌いたくない作品になってしまったのだ。
私にはとても・・・という気持ちがあった。ただ華やかに歌う曲ではない。
そして私はマリア・カラスという稀有なソプラノの実演をおおいに期待した。
彼女の歌はひとつひとつが最高だったし、あがめてしまうような存在になった。
しかし、彼女は衰えもはやく、私が実演(多分彼女の最後)を聴いた時は、もはやホールに声が響くような状態ではなかった。
そしてその尊大なステージマナーは、反感を持つようになったのだった。

以上が私が知っていた「ドナルド・キーン」だった。
しかし、今日、「百代の過客」の序を読んで、いたたまれない気持ちになってしまった。
ドナルド・キーンは戦時中、日本人兵士の遺した「日記」を読んでいた。


「例えば船体の中で自分の船のすぐ隣を航行していた船が魚雷を受けて目の前で沈むのを見たようなとき、その兵隊が突然経験する恐怖、これはほとんど読み書きができないような兵士の筆によってさえ、見事に伝えられていた。
特に私は部隊が全滅してただの7人生き残った日本兵が、南太平洋のある孤島で正月を過ごしたときの記録を覚えている。
新年を祝う食物として彼らが持っていたのは、13粒の豆がすべてであった。彼らはそれをわけあって食べたのだという。
太平洋戦争の戦場となったガダルカナル、タラワ、ぺリリュー、その他さまざまな島で入手された日記の書き手であった日本兵に対して、私は深い同情を禁じ得なかった。
たまたま手にした日記になんら軍事的な情報が見当たらない時でも、大抵の場合、私は夢中になってそれを読んだ。実際に会ったことはないけれども、そうした日記を書いた人々こそ、私がはじめて知るようになった日本人だったのである。
・・・こうした日記の中には、自分が戦死した後、拾って読んでくれるアメリカ兵に宛てた英語のメッセージを書き記したものもあった。

そしてそれらの日記は沖縄戦で誰かが持っていったと嘆いていられる。
私は、涙がでなかった・・・喉の奥でこらえた、涙を流すよりも苦しいときにそうなるのである。
「花の金曜日」であるが、私はケーキを買わなかった・・・(青字はベッラ記す)
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本を買った・・・でも読んでいない。

2012年01月20日 | 日記

近所のデパートに行ってはそこの書店で本を買い続けている。

昨日は文庫(手軽に買えるので)を2冊買った。
1、ドナルド・キーン「百代の過客」(講談社学術文庫)1700円
2、福澤諭吉「福翁百話」(角川ソフィア文庫)781円

ドナルド・キーンは今までオペラ評論の本を読んでいただけだった。
彼はオペラにくわしく、ほとんどの往年の名歌手を網羅して評論を書いている。
「音盤風姿花伝」など、はるか昔に覚えるほど読んで共感もした。
特に戦前のオペラ歌手など、「あらえびす」(銭形平次を書いた野村胡堂のこと、本業は音楽評論家で作家は副業)の評論と双壁を成す。

だいたい、本など難しいのを買いすぎる、疲れている時に読めるような代物ではない。
でも女性雑誌のような人をバカにしたのも嫌だ。
なぜか本を買い続けている。
買う中毒になったのかも知れない。
私はどこにも出掛けられないから、知識を増やそうと思ってこうなった。
自分の住む町のなかで買い物し、ほとんどを家の中で暮らしている。

おいしいコーヒーを淹れたり、食前酒でハーブワインを飲んだり(それもワイングラスに一センチほど)
焼きたてのパンを買ったり、まるで冬眠状態の生活だ。

政治や歴史のことも知りたくて、これも本がいっぱいに積み上げられている。

父の世話はせつないほどの愛情をこめているけれど、それでも至らないところばかりだ。

それにこのごろ決断力も鈍ってきている。

せっかくエントリーを書いたのに消すことが多い。(雪やんさまのは別、知識になり楽しい)
書き上げたものを、夜中にわざわざ起きて削除し、また寝る。
読まれたくない、と思うのが必ずある。
自分の感情を以前のように生々しくは書けない。
音楽の動画も徹底していて、少しでも嫌だったら削除している。

だから気にいったものだけしか載せない。
そして気に入らなくなったら削除する。

積み上げられた本は、今日から読む。感想も少し書こうかな、数行でも。
コメント (6)
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