華氏451度

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UTSで「国防」アンケート実施中――私にとって国防とは

2006-07-14 22:53:05 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

私も参加しているUnder the Sunで、「日本の国防に関するアンケート」(TBで回答する形式)を実施中。皆さん、ご参加下さい。

質問は「あなたが考える、この先、日本がとるべき国防の方向は?」で、回答の選択肢は次の8つ。

1.非武装をすすめ、他国から侵略されても抵抗をすべきではない
2.他国から侵攻は防衛しても、攻撃はおこなうべきではない
3.専守防衛は現在でも可能なので、現状を変更する必要はない
4.武装を強化し、専守防衛に徹すべし
5.武装強化・憲法改正をおこない、専守防衛に徹すべし
6.日本にとって危険な国に対しては、先制攻撃を加えるべき
7.核兵器の開発までふくめ、軍事力を増大していく必要がある
8.その他

◇◇◇◇◇◇◇

非常にデリケートで、難しい問題である……。

このアンケートについてTBをもらった瞬間、「2」を選ぶ人が最も多いのではないだろうかと思った(今、途中結果を見たら、実際にそうなっていた)。「他国に武力攻撃を加えない」「紛争の解決手段として武力は用いない」。ただし日本が攻撃された場合、何らかの形で防衛はする。憲法9条の精神は、まさしくこれであろう。

だが、私は「1」を選びたいと思う。実は「1」もやや違和感があって「8」を選びたいところなのだけれども、「その他」はありとあらゆる考え方が含まれる。一応、設定された中で一番近いものを……と考えた末の選択である。

「1」はあまりに非現実的であるとは言える。全世界が武装と無縁になるのが理想ではあるけれども現実にはまだまだ遙かに遠いユートピアだし、「万一侵略されても抵抗」しないなどというのは、多くの人にとって「馬鹿げている」としか思えないに違いない。「腰抜け」「おまえにはプライドがないのか」と眉をひそめられるかも知れない。人によっては「そんなことを言うのは、侵略してくださいと言っているのと同じだ」といきり立つかも知れない(※1)。

しかしそれらの嘲笑を承知の上で、私は「抵抗しない」という道を選ぶ。いや、むろんある程度の抵抗はするだろう。侵略されないように手を尽くし、侵略を企んでいる国があればそれを阻止するために手を尽くすだろう。だが、それでも侵略されたとしたら――まあ落とし穴を掘る程度のことはするかも知れないが、武装した軍隊に包囲されたら、私はあっさりと白旗を掲げる。人間の命と引き替えになるものなど――個々の人間にとってはそれぞれに存在する(自分の命と引き替えてもいいと思えるものが、常にではないが存在することがある)のだけれども――社会や集団には何ひとつ無いのである。国体はその最たるものだと言ってもよい。

もっとも、白旗を掲げるというのは「尻尾を振る」ということと同義ではない。侵略し新しい支配者となった者達に対しては徹底して不服従の姿勢を通したい。

「非暴力・不服従」などと言ってしまえば、まるでマハトマ・ガンジー(※2)の真似をしているようだが……。むろん彼ほど深い思想も信念もありはしないけれども、ああいった徹底した暴力否定以外に、世界の明日を拓く道はないのではないかと思ったりする(ちなみにカースト制度を否定しなかったなど幾つかの点が引っかかって、私はガンジーを充分には評価できないでいるのだが)。

不服従といっても、「服従しなければ殺すぞ」と言われれば表面だけ「服従したふり」をするかも知れない。

あるいは「逃げ出す」かも知れない。ボートに乗って海へ(何処かに行き着くまでに海の藻屑とやらになりそうだが……ほとんど普陀落渡海。笑)。あるいは山に籠もって隠者になるか。

「国防」という言葉は、「守るべき自分達の国」というものの存在が前提にある。では、国とは何か。いわゆる国体か。時の政府か。元首か。国土か。住む人々か。守り育てられてきた文化か。あるとすれば、私は最後の2つであろうと思う。国体などというものは、そしてやや極論過ぎるかも知れないが国土(※3)でさえも、「器」にすぎない。そこに住む人々が生きることができれば、そして彼らにその信念があれば、文化は守り続けることができる。また、何処かの国が侵略してきて、今の日本の国土にその侵略国の住人が大勢移住してきた時、彼らがいつの間にか日本の文化に巻き込まれ、文化的にも生物学的にも混血が進み、今までなかった新しい国?が生まれる可能性もないではない。

侵略には、武力的侵略以外のものもある。第二次大戦後、日本は連合国の(実質的にはアメリカの)占領下におかれ、アメリカの価値観を受け入れた。連合軍による占領はむろん言葉の普通の意味では侵略ではなかったわけだが、結果として文化的な侵略につながったことも事実であろう。当時、欧米型の食事を奨励されて「米を食べると頭が悪くなる。パンを食べよう」と本気で(?)言っていた、などという話を聞くと、ふと「日本人はもともと自分達の文化に大して愛情はないのではないか」「捨ててもいいと思っているのではないか」などと皮肉な感想を持ってしまう。

実のところ私も日本の文化にはさほど思い入れはない(国体に対してはさほどどころか全く無い)。したがって、愛国心も薄い。だが、他人の愛国心にケチをつける気はないし、彼らはおそらく「同朋の命を大切に思い、日本の山河や文化に愛情を持っているのだろう」と思う。いや、思いたい。それならば、「同朋が死んだり山河が焼け野原になってもいい」とは考えないはずだ。重ねて言う、器などは(どうでもいいとは言わないが)何よりも大切なもの、ではないのである……。

私は「腰抜け」で「いくじなし」だ。しかしどうせなら、「国家や国体などいう器を白い眼で見続け、それよりもひとりひとりの人間が生きていくことの方が大切だと呟く腰抜け」になりたい。少なくとも、中身よりも器の方が大切だと考える勇者や、「敵」に対する憎悪に身を焼く英雄にだけはなりたくないと常に思う。

〈蛇足的註〉

※1/侵略してくれと言っているようなもの=以前、こんなふうに言われたことがある。「女性が『私は襲われたら絶対に抵抗しないわ』と言ったり、おっさんが『オヤジ狩りに遭ったら抵抗せずに財布を差し出す』と言うのと同じ。カモにしてくれと言ってるようなものだ」と。人によってはなるほどと頷くかもしれないが、ちょっと待って欲しい。強姦やオヤジ狩りをする連中は、相手が抵抗しようとしまいとやるのである。圧倒的に強かったり、複数だったりすれば、少々抵抗しても無駄というもの。場合によっては命にかかわるかも知れない。それよりも、そういう犯罪が起きないような社会を目指し、「ギャーッ、助けてー!」という大声の上がるのを聞けばすぐ駆けつけるような習慣をつけるなどの方法を皆で考えるほうが有効であろう。

※2/マハトマ・ガンジー=マハートマ・ガーンディーと書く方が原音に忠実だと言われているが、ここでは「俗に使われている表記」に従う。余談ながら、私は人名にせよ地名にせよ原音になるべく忠実に呼び、かつ表記した方がいいと思っているけれども、完璧に原音を再現するのは困難なことも多い。悪意でなく単なる発音のしやすさなどで多少変わるのは、まあいいのではないか、とかなりいい加減に考えている。むろんお互いにである。他国の人の名前は原音通りに発音しないくせに、自分たちの名前だけは間違えるなと言うなどは問題外。

※3/国土=ある国のものとされた山河、という意味である。地面も山も川も木々も、そして人間以外の動物もすべて、実際には国という枠組みとは無関係に存在する。たとえば日本という国がなくなっても、その瞬間に富士山や琵琶湖が無くなったり、国中の松が杉になったりシカがトラになったりするわけではない。

コメント (15)
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