華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

感性礼賛――「知るは力」、ただしそれを支えるものの方が重要

2006-05-06 07:28:35 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

ゴールデン・ウイークも、そろそろ終わり。もっとも、私は休みではなかった。貧乏暇無しというやつだ(周囲の人々が休んでいる時に働くというのは、かすかな不遇感?を伴うものである……ああ疲れた)。共謀罪、教育基本法改定等々、週が明けたらまた攻勢が始まる。今日はひと休みがてら、日頃感じていることをちょっと書いておこう。

10代の終わり頃、友人から「首から上で生きている」と評された。10代半ばからハタチ前後にかけて何度か同じようなことを言われた覚えがあり、どうやらオトナになりかけた頃の私は、頭の中だけでひねくり回した理屈をしゃべりまくる人間だったらしい。理論的にしゃべっていた、というわけではない。所詮は平凡なガキだから単に屁理屈を垂れ流していただけなのだが、「理論的に喋らなければいけない」と思い込んでいたのだろう。また、知識は豊富であればあるほどいい、と思っていたのも確かである。たまたま小さい頃から活字中毒で本だけはやたらに読んでいたから、文字で書かれたものを無秩序に頭に詰め込み(※1)、それを始終、適当に取り出してはひけらかしていた。

※1/そもそも10代の頃は誰でも記憶力が旺盛なので、自然に入ってしまうのである。もっとほかのものを詰め込んだら、人生、変わっていたかも知れない……。

……そういうことが、馬鹿馬鹿しく、かつ恥ずかしくなったのはいつ頃だろう。

「知るは力なり」「無知が栄えたためしなし」などと言われる通り、知識は大切である。正しいことを知り、正しい情報を得ることによって、私達はものを考える手掛かりを掴むのだから。ただ、あくまでも知識はものを考えるための参考資料である。自己満足のための飾りや、他者に対して優位に立つための道具ではない。そして、「知っているだけ」では何の意味もない。

知識はあった方がいいが、絶対に必要な基本的なところ以外は必要十分条件ではない。たとえば共謀罪。どんな法律であるかぐらいは知っていないと話にならないが、治安維持法との比較とか、法律家の意見はどうであるかとか、他の国の事情はどうであるかとか等々とは――むろん知っているに越したことはないけれども、知らねば意見を持てないわけではない。時間などの余裕があれば細かく知る努力をすればよいが、無理に情報を集めあさる必要はなく(あせってむやみに集めると、頭を整理するだけで大変で、未消化になってしまいかねない)、大まかなところを掴んでいればよいのではないか。

「もっと(本を読むなどして)勉強しなければいけない」という人は多い。それはある意味で正しいのだけれども、一生懸命に「お勉強」しても、「歩くエンサイクロペディア」になるだけでは何の意味もないのだ。知識を自分のものにできたかどうかは、「自分の言葉」で語れるかどうかでわかる(※2)。

※2/これは私自身のハンセイでもある。昔の私は嬉しげにムツカシイ言葉を使い、ダレがこう言った、ダレの理論によればこうである、などとひけらかして喜んでいたのだ。思い出すだけで赤面する。自分の言葉で語りたいと思い続けてきたが、「まだまだだなあ」というのが正直な気持ちで、この点も赤面。

知識を自分のものにできるかどうか――の鍵を握っているのは、いわゆる「感性」ではないかと私は思う。実は私は、感性という言葉があまり好きではない。ほかに適当な言葉を思いつかないままに安易に使っているが、ちょっと手垢にまみれすぎている気がするのだ(どうでもいいようなことに、ご大層に感性感性と大声あげられているし)。「思惟の素材となる感覚的認識」(広辞苑)とでも言った方が、何となく近いだろうか? あるいはいっそ、「存在を賭けたカン」とでも言ってしまった方がわかりやすいかも知れない。

そして今の私は、知識や理屈よりも「(やむを得ず使うが)感性」の方を優先している。知識を最上位に置く人は、知識によって足をすくわれるからである。「知識万能主義」で、かつ「理屈が通っている(ように見える)」ことに無条件でシャッポを脱ぐ人の場合は、自分以上に「よくものを知っていて」「理路整然としゃべる」人に会った時、コロリと転んでしまうことがある。

私は仕事柄「浅く広く」いろいろなことを知っているが、「まあまあ知っている」と言えるものは僅かしかなく、ほとんどの事柄についてはいわゆる「常識程度」の知識しかない。それはおまえがアホだからだ、と言われれば返す言葉がないが、同様の人は多いのではないかと思う……いや、思いたい(思い込んでいるだけだろうか?)。まあそれはそれとして、どれほど優れた人でも「すべてのことについて完璧な知識を持っている」ことは(皆無ではないかも知れないが)ほとんどあり得ない。だから知識の豊富さや理屈の通り方だけを尊んでいると、その点で勝っている相手に会った時、無条件でひれ伏してしまいかねない。

知識や理屈に対して「イエス」「ノー」と判断する時のよりどころになるのが、先ほどから言っている「感性」あるいは「カン」なのである。

A、B、2人の人物がいたとする。Aはインテリで山のように本を読んでおり、政治経済から世界情勢、文化等々さまざまな知識も豊富。Bはさほど本を読んでいるわけではなく、海外に行ったこともなく、ムツカシイ言葉も知らない。でも、たとえば「愛国心」について知識を総動員してしゃべるエライサンに会った時、Aは変に納得し、Bは「難しいことはわからんけどな。そんなん、強制するもんやないやろ」とひとことで片付けたりすることがある。これはAB両者の感性に依る。何千、何万もの本を読んだ人よりも、本など数冊しか読んだことがないという人の方が、一直線に核心に迫るというのはままあることだ。

先に「知識や理屈よりも感性を優先する」と書いたが、それでころか、もしかすると私は「思想信条」よりも優先しているかも知れない。思想信条は、何かのきっかけで変わることがある。「知識」が深まるにつれて変わっていくこともある。年をとるにつれて保守的になったとか、独身時代と家庭を持ってからでは微妙に思想が変わってきたとか、勝ち組になって自民党支持に回った、などという話はよくある。

だが感性は、(変わらないとは言わないが)おいそれとは変わらない。何を美しいと思い、何を嫌だと思い、何を歓び何を恐れるかという、個人の存在を根底から支えている、いわば骨髄のようなものだからだ。

だから私はひととの付き合いで――誤解を恐れずに言うならば――思想信条が一致しているかどうかよりも、感性が近いかどうかを重視する(むろん思想信条が正反対、では困るけれども)。思想信条が多少違っても、感性が比較的近ければ言葉が通じ、胸襟を開いたコミュニケーションができる。知識をひけらかしあうのでなく、知らないことを補い合うことができる。同じ目的を目指して行動していても、感性が全く違う人達とは必ずと言ってよいほど、何処かの時点で袂を分かつことになってしまう。あるいは目的のために目をつぶり、多くのことを我慢して手を結び続けたとしても、(お互いに)疲れ果て、心がやせ細ってしまう。

「勉強」は大切。――と心から思う。だが、自分を取り巻く世界との関わりの中で打ち震える感性を目覚めさせておくことは、それ以上に大切だと私は思う……(勉強しない私は言うのは忸怩たるものがあるのだが。こういうことは、できればきっちり勉強しているかたがたに言っていただきたいものである)。

これは(長いか短いかはわからないが、ともかく)ある程度の年月生きてきた私の実感である。随分と大雑把かつ舌足らずな言い方なので、何つまらんこと言ってるんだと嗤う人もおられると思うが、馬鹿をさらしているということで御容赦。

〈追加の余談〉
私はヒトが書いた原稿(取材記事)を読んだ時、「これに関する詳しい知識はないけれども、でも、この部分は間違ってるんじゃないか」とカンが働くことがある。ときどき仕事として若い人の書いた記事を読むことがあるが、たとえば「この流れの中でこういうことは出てこないはずだ」「ここはごまかしがある。もう1度取材した方がいい」などと思い、そのことを言ったりする。これは職業上いつのまにか身についたカンであって、同業人は誰でも同じようなカンを持っているはずだ(どんな人でも、自分の仕事上や生活上で関わりの深いことについてはカンが働くと思う)。だから感性とは何の関係もないが、「感性」はこれと似た働き方をするのではないかと思う。何かに接したとき、「ごく基礎的な、だいたいの知識」に基づいて「おかしい部分」を察するカン……である。





コメント (12)
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