タイトルはバッハの教会カンタータから借りてきたが、私は音痴で音楽のことは(音楽のこともと言うべきか?)全くわからない。言葉として好きなので使っただけである。
ヘンリー・オーツ氏のブログ「ヘンリー・オーツの独り言」に次のような一文があった。(この記事には「政治状況を表すチャート」も載っていて、これがなかなかおもしろい。ちょっと見ておかれることをお勧めする)
【昨日のサンデープロジェクトを見ていて感じたことは権力側の恐れが尋常のものではないということだ。彼らは自分たちに正義がないことが解っているから間違いを見られまいとすればするほど声が大きく荒くなる。つまり一般国民が目覚めることを非常に恐れているということなのだ】
私達は自分は目覚めていると思っている。新聞を読み本を読み、物事をよく知っていると思っている。物事を判断する知性もあると思っている。だが、本当に「目覚めて」いるのだろうか?
2~3日前に『感性礼賛』という文章を書いた。 知識はあった方がいいが、基本的な部分以外は必要十分条件ではない、と。知識や情報は目覚めるための有効な道具だけれども、いくら豊富な知識を持ち、豊富な情報を手に入れていても、それを自分の中で仕分けし、整理し、判断する能力がなければ目覚めることはできない。
現代人は、五感が鈍っているという。まずい水をまずいと感じたり、微かな音を聴き分ける能力が鈍っているという。おそらく五感だけではなく、「おかしいものをおかしいと直感する能力」も鈍ってきているのだろう。それを知識や情報で懸命に補うわけだが、基礎の部分が脆弱なままでは、知識や情報に溺れるだけだ。たとえば共謀罪にしても、法務省と日弁連のサイトを睨み比べ、どちらが正しいかよく考えてみよう――などということになってしまう。
眠っているのは、この「基礎になる部分」ではないか。いや、眠っているのではなく、信じない(くだらないと思う)習慣がついているのかも知れない。王様が裸で練り歩いた時、大人達は裸に見えるのは自分だけではないかと怯え、それを口にできなかった。自分が見たありのままを、信じることができなかったのだ。新聞にこう書いてあるから、政治家がこう言っているから、インテリの人達がこう言っているから――そんなふうな情報コレクションはいったん止めて、生き物である自分の声に耳をすませてみよう。「身も心も縛られるのはイヤだ」「人に踏みつけにされたくない、踏みつけにもしたくない」等々、ごく当たり前の声に……。
〈追記〉私は昔からTEXTに慣れてしまっているのでそれを使うことが多い(goo blogの場合、HTMLでは記事内に複数のバナーを貼りにくいという事情もある)。他のブログやサイトを紹介するときも普段はhttpをそのまま紹介することで御容赦願っているが、今日はHTMLを使った。それでついでと言っては何だが、ここ2日ほどの間にTBいただいた共謀罪関連のエントリを2~3ご紹介しておく。
「共謀罪とカルト前夜」(T.N.君の日記)――共謀罪は内心の自由という価値体系を崩壊させるもので、カルトを大量に生み出す結果になるだろうと警鐘を鳴らす。
「井戸端会議で冗談も言えない社会に」(再出発日記)――共謀罪に今ひとつピンとこない主婦の人にやや乱暴な説明をしたところ一発でわかった、という話がおもしろかった。
「オウムのような(以下略)」(雑食系ブログ(仮))――オウムのようないわゆる“反社会的集団”の犯罪を防ぐために必要な法律、という言い方に対するわかりやすい反論。
ほかにも優れたエントリがたくさんあり、(さぼってるだけだが)全部ご紹介しきれない。TB欄を参照して、行って御覧ください