ブログに寄せられるTBやコメントの扱いは人によって違うが、大別すれば次の3種類になる。
(1)TB、コメント共に受け付けない (2)TBは受け付けるがコメントは受け付けない (3)どちらも原則として受け付ける。
以前「愚樵空論」の愚樵さんが、メディアを「ピラミッド型」と「サークル型」に分けて論じておられた。その記事によれば、従来のマスメディアは情報の発信者と受信者が明確に区別され、しかも前者は少数で後者は多数の「ピラミッド型」であった。それに対してブログは発信者と受信者の区別がなく、「サークル型」の意思伝達を可能にするツールであるという。非常に秀逸でわかりやすい語り方で、感心しながら読んだ。なお愚樵さんは、ブログがすべてサークル型だと言っておられるわけではない。中にはピラミッド型のブログもある、とも書かれていた。私も、「ピラミッド型ブログ」は結構多いと思う。政治家やタレントのほか、たとえば小説家や評論家といった文筆業の人達のブログも多くはピラミッド型と言ってよい。形式はブログでも、いわゆる「ホームページ」と同じで、情報の伝達はほぼ一方通行である。
だが、愚樵さんの言われるとおり、やはりブログは基本的に「サークル型メディア」であろう。それを考えれば、TBやコメントの扱いも最初の分類で言えば(3)になるのが最も自然ではないかと私は思う。TBやコメントは、発信者と受信者の間にコミュニケーションが成立していることを表すものであるから。もちろん、(1)や(2)だからといって、そのブログがピラミッド型を志向していると決めつける気はない。アクセスが非常に多いためTBやコメントを受け付けていると収拾がつかない等々、さまざまな理由からシャットアウトしているケースもあると思う。「一般論としては(3)が自然だ」と言っているだけである。
ただ、(3)の場合でも、いっさい削除せず、100%受け付けるということはあり得ない。「原則として」という但し書きがつくのは当然である。では、「削除するかどうか」の線をどこに引くか。
最も寛容?なのは、「よほど目に余るものだけは削除する」というやり方。私は今のところ、この方法をとっている。削除するのは基本的に、「明らかに営利を目的としたTB」と「間違ってTBが二重に入った場合、その片方」だけである。コメントは、ほとんど削除したことがない。時には「コメンテーターが何を言いたいのかわからない」ものや「挑発的な言辞が目立つ」ものもあって、削除しようかとけっこう真剣に思い悩んだ?こともあるが、(ひとつには面倒臭いということもあって)そのままにしている。「あなたの考えはおかしい」と決めつけてくるコメントも、削除していない。何とかして意思の疎通をはかれればそれに越したことはない、と思っているからだ。
ちなみに双方向コミュニケーションに対する志向がなければ、私はブログを始めなかったし、続けてもいない。単なる情報発信なら、本業に専念している方がいい。こんな言い方をすると語弊があるが、収入にもつながるし(ブログ書いたって1円にもならない)。政治家やタレントではないから、支持者やファンを増やすなどという目的もない。
私は世の中に大きな影響を与えるような記事など書いた覚えはないし、おそらくこれからも書くことはないだろが、それでも自分で取材して記事を書いたり、企画や取材に協力したり、「アンカー」(人海戦術で取材し、1人が記事をまとめる場合、そのまとめ役をアンカーと呼ぶ)を引き受けるなど、こまごま仕事している。そしてそれらの出版物は多ければ十万単位、少なくとも数千の読者を持つ。むろん買ってくれた人々全員が私が関わった記事を読むなどということはあり得ず、せいぜい2~30%程度だろう。うっかりすると、10%にも満たないかも知れない。だが、それでも私のブログを読んでくださる人よりははるかに多いのである。ブログの場合も雑誌と同じで「ちょっと覗いてみただけ」の人の方が多いはずで、斜め読み程度であってもまともに読んでくださる人はおそらくアクセス者のごく一部だろう。私が「多少なりとも関わった記事」を読んでくださる読者の100分の1、もしかすると1000分の1にもあたるまい(客観的に見て、おそらく多くても40~50人といったところであろう)。
実際問題として私の場合、「護憲」や「共謀罪廃案」「教育基本法改定阻止」のためには、ブログなんぞ書いてるヒマがあったら、ビラを配ったり集会の企画を手伝ったりしている方がよほどいいのだ。それを十二分に承知の上で半ば自分を嘲笑しつつ「たかがブログ」を続けているのは、ひとえに「直接民主主義的なあり方」に希望をつないでいるからである。だからTBもコメントも、できれば削除したくない。
もっとも、私がこんな太平楽なことを言っておれるのは、いわゆる「荒らし」の被害に遭っていないからであろう。幸いなことに狙われるほどのメジャーなブログではない(どころか、過疎ブログのひとつだと思う)から、嫌がらせを受けたこともない(今後も受けないことを祈る)。明らかに嫌がらせとしか思えないTBやコメントの攻勢に晒されたブロガーは、それどころではあるまい……ということぐらいはわかる。
ごく最近「お玉おばさんでもわかる政治のお話」や「嗚呼、負け犬の遠吠え日記」など、よく訪問しているブログが「迷惑コメント、迷惑TBを管理人の判断で削除する」方向に踏み切った。 いずれも執拗な嫌がらせに業を煮やした結果である。(嫌がらせと言えば「喜八ログ」のように、炎上させられてやむなくコメント欄を閉鎖せざるを得なかったブログもある)
TBやコメントはコミュニケーション成立の表れだと先に述べた。だが、人と人とがコミュニケーションを希求する時には、自ずから守るべきルールがあるだろう。
○「自分の主張だけ」を「自分だけがわかっている言葉」で押しつけるのではなく、相手の言葉にも耳を貸し、理解しようと努力すること(おまえは敵だと言い切るのはその後である)○最大限、イマジネーションを働かせること○「罵倒のための罵倒」的な言葉に酔わないこと○たとえ幻想だと言われても、コミュニケーションの可能性を信じること○「眼高手低」を肝に銘じること……エトセトラ
私も今後、コミュニケーションの基本を踏みにじったTBやコメントがあった場合、削除するかも知れない。いわゆる「ネット右翼」と呼ばれる人々や、愚樵さん言われるところの「サークル型」メディアの考え方をくだらないと切り捨てる人々は、激烈で、一見カッコよさげな言葉に酔っているのではあるまいか……などと私は思う。おずおずと手を差し伸べ合う関わりを冷笑したとき、ヒトはその傲慢さに復讐される時が来る。
〈以下、余談〉
こんなことを言うと、スパム・コメントなどに悩まされている人達は怒り心頭に達するかも知れない。おまえはヒトゴトだから甘いこと言ってるんだ、と叱責されるかも知れない。それを承知の上で(ひょっとすると出入り禁止にされるかも知れないけれども)、あえて言う――ある意味、「言葉による脅しなど、なんぼのことでもない」のである。ノーム・チョムスキーは、辺見庸との対談の中で「あなた自身、(アメリカ)政府当局から脅しを受けたりはしていませんか」という問いに対して次のように答えている(集英社新書『メディア・コントロール』)。
【批判的な立場をとると、脅迫の手紙を受け取ったり、人から嫌われたり、新聞に悪く書かれたりはする。そういうことが起こり得る、という現実に不慣れな人々は驚きはするでしょう。しかし、ここで起こっていることなど、どうということはないのですよ。それを取り立てていうこと自体、「不面目」なことです】
国家権力に批判的な言葉を口にしただけで逮捕されるような国の現状に触れた後、チョムスキーはさらに続ける。
【例えば、昨夜はMITで私を批判する大規模な集会が開かれた。気にはしていませんが。私を批判するために集会をしたければすればいい。ちっとも構いません。それを抑圧と呼べるでしょうか。世界中で、人々がいったいどのような現実と闘っているかに思いをめぐらせたならば、「抑圧」などと口にするのすらおこがましい。(中略)主流からはずれたことを言えば、知的ジャーナリズムからは批判されるかもしれない。誹謗され、断罪され、ひょっとして脅迫状の1通も受け取るかもしれない。しかし、だから何だというんでしょう】
「嫌がらせ」や「荒らし」は不快なことである。だが――ほんとスミマセン、被害者でもない私がこんなこと言うの悪いんですけど――積極的に何かに関わり、何かを発信しようとすれば、嫌がらせや脅しは常に、多少なりともつきまとう。私自身、ヤクザ系(変な言い方だな……)のオッサンに「夜道歩く時は気をつけろ」と脅かされたり(むろん平気だったわけではなく、膝がガクガクして小便ちびりそうになったが)、政治家に取材したときに「ボク、○○出版の重役とは親しいんだよねエ」とニンマリ笑われた(つまり、変なこと書くと圧力かけて干すぞというわけだ)こともある。いや、そんなものは脅しのうちには入らない。私の仲間には、カミソリ送りつけられたり、出版社に圧力かけられて大きな仕事を失った者もいる。そんな時、(私をはじめとする)臆病な者は心の底からビビる。だが、「ビビりっばなしでは、どの面さげてジャーナリストを名乗れるか」という最低限の誇りもあり、それこそ半ば逃げ腰で小便ちびりそうになりながら、ちまちまと抵抗を続けるのである。場合によっては仲間と手を携え、励まし合いながら。
何かを発信するというのは、そういうことである(と私は思う)。怖いのは、同じ土俵に立っている(と思える)人間とのすれ違いだけではないだろうか。その「基本」が自分の中で崩れた時、私はおそらく(私的にも、仕事としても)情報の発信を止めるだろう……と思っている。
確かにここの所、スパムや嫌がらせの話題が多いですね。
嫌がらせをする人達は、集団でまさにいやらしい嫌がらせをしますね。
WEBという性善説で成り立っている世界では、ある程度はしょうがないのかもしれませんが、それを越えるとやられた方はたまらない。
(話題がずれてしまいますが、日常生活や社会・法律も性善説で成り立っていますね。共謀罪もそうならいいのだけれど・・・)
余談の所で書かれていたことを見て、マスコミに携わる人は斯くあるべきと思いました。
今の多くのマスコミ人には、上から下まで、全くマスコミ人としてのプライドがないように思えます。
新聞・テレビ・雑誌などの全てのマスコミが一斉に某首相を応援した結果が、今あるわけですからね。
もちろんマスコミにも商売としての一面があるわけですが、それにしても皆一斉に同じ方向を向いてしまうという結果には恐怖を覚えます。
それだけ戦後の日本のマスコミには危うさがあったのに(戦前も同じかもしれませんが)、また同じ過ちを犯そうとしていて、自浄しようという動きが見えてきません。
じわりじわりとまたいつかきた道を歩んでいるということに気づいているはずなのに。
今はInternetによるブログ・WEBという武器がこちら側にもあることが、救いです。
マスコミに比べれば小さな影響力かもしれませんが、少しずつ影響力は大きくなってきています。
自分でブログを立てようという気持ちにはまだなりませんが、こうやって考え方の合うブログへ時々コメントをすることで、少しでもよい方向へ向かわせる動きに加勢できればと考えています。
まだこういう形でしか参加できませんが、これからも他のブログとは違う、マスコミのプロとしての観点からの記事を期待しています。
(長文失礼しました)
TBありがとうございました。今回はなぜかTB入りました。よかったです。
たかがブログ...。そんなふうに考えることが、私もよくあります。
>ひとえに「直接民主主義的なあり方」に希望をつないでいるからである
そうでしょうとも。以前、与太話としてそんなお話(3/29『こんな国家』)もされてました。いつも思います。華氏さんの記事はいつも水平志向です。サークル志向です。私も「たかがブログ」にはまり込んでしまうことになったのは、「水平志向・サークル志向」に触れたからだと思っています。
華氏さんは本業の方では、どんな記事を書かれているのでしょう? そちらでは垂直志向でしょうか?確認してみたいという誘惑に駆られます。ホントはそんなことはどうでもいいことですけど、ここらは性根が下衆にできているんですね(苦笑)。
「ピラミッド型・サークル型」の構造の違いは、メディアだけではなく、世の中のあらゆる場面で問題になってくると予測し、また期待しております。
ピラミッド型マスメディアからサークル型ブログへ。
権力もサークル型直接民主主義へ。
「ビジネス」もピラミッド型構造でなければ成立しえません。ここまでもがサークル型になると、経済の仕組み、ひいては世の中なかの仕組みそのものの大変革になる。
そういう芽がブログの中には潜んでいる。私はそう思っています。
スイマセン。ずいぶんと大風呂敷を広げてしまいました。
しかし、ここまで考えなくても、ブロガーがブログをサークル型と「意識すること」は大切なことではないでしょうか。そう意識し発信することで、ピラミッド型に出来上がってしまった世の中、そして、ピラミッド型であることになんの疑念も抱かずにいる人々に、「次の社会」への種を撒くことが出来る...。
やっぱり大風呂敷になってしまいました(苦笑)。
H-Yamaguchi.net 「新聞記者はえらい、という話」
http://www.h-yamaguchi.net/2006/06/post_b072.html#more
華氏さんは、この記事をどうお読みになりますか?
脳内の理論を書き散らすだけなのかとか、ソースを示せとか決まり文句で畳み掛けてきますが、きちんと取材をして書いているブログに関して、彼らは攻撃を仕掛けてくることは無いようです。
記者として仕事をし、覚悟を持っている華氏さんのような方のブログが炎上することはないと思いますよ。
どうやら、私はエセフリーランスライターだと思われているみたいで(自嘲
要するに,パソコン通信時代の「シスオペ」にあたる管理者が,どれだけ「荒らし」に対して毅然とした態度を示せるかってことじゃないかな。
ただ,ブログの場合,それだけの勇気や能力がない人でも管理者になれるので,お玉さんや小路さんのように一定の基準を設けるしかない所まで追い込まれてしまう,ということになるんじゃないかなって思っています。
# ニフティの某フォーラムのスタッフ及びサブシス経験者として……
にハゲしく同意です。コミュニケーションは呼吸と同じ。吐き続けることはできません。吸うのは他人がもつココロとキモチということになります。そのことが解っている人は、たとえ今はその口が閉じていようとも文面にそのことが滲みでているものです。
ならば私が荒らしましょう。覚悟してください。(笑?)
というわけで、、「共謀罪廃案」「教育基本法改定阻止」について、ひとつずつ質問。。
今回、自民党は民主党案丸呑みの姿勢を見せましたが、自民党案と比べて民主党案はどう評価されますか?それとも、「どの党の案が、という問題ではなく、共謀罪の概念自体が絶対に認められない」でしょうか。
通知表に、
「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする」
との項目があったことを問題視しておりましたが、この文章、そんなに問題でしょうか?「国を愛する」という表現はともかく、「我が国の歴史や伝統を大切にし」というのはアリだと思いますけど。
やっぱ荒らしって継続的にやらなきゃですよね。また立ち寄らせていただきますm(__)m
最近色々なブログを回っているのですが、
そんな中、華氏451度様のブログに辿り着きました。
エントリ拝見させていただきましたが、エントリで書かれていることはまったくそのとおりだと思いました。
>TBやコメントはコミュニケーション成立の表れだと先に述べた。
>だが、人と人とがコミュニケーションを希求する時には、
>自ずから守るべきルールがあるだろう。
まさにそのとおりですね。
ネット上では顔が見えないとはいえ、同じ人間を相手にしているのには変わりはありませんから。
もし今回の書き込みで失礼な点がありましたら厳しく御指摘ください。
それではこの辺で失礼させていただきます。
タートルさん;
そう……マスコミはプライドを失っています。それはもしかすると、本来は「何とかと新聞記者にはなるな」と嘲笑されたヤクザ商売であったジャーナリストという職業が、いつのまにか「カッコイイ仕事」になってしまったから、かも知れません。そして私がプライドにこだわり続けておれるのは、自分が吹けば飛ぶような末端ジャーナリストだからかも知れない、と思います。その意識は、ブログというものとつながっているのかも知れません。
みやっちさん;
炎上しかけた経験が! それは大変でしたね。またそういうことがあればご一報ください、応援に行きます。私のブログがまだ炎上したことがないのは、ほんとに「たまたま」です。何かでちょっと目立ったら、炎上させられてもおかしくはありません。手を携えていきましょう!
朱色会さん;
わぉ、同意していただいて嬉しいです。ココロとキモチを吸う。……そう!なんですよね。一方的な発信は気分がいいかも知れないけれど、常に何か淋しい。「ここにいるよ」とお互いに口笛吹いたり目配せしたりしながら、他者との関わりの中で生きていることの喜びを感じていたいと思います。
バイリニアさん;
ははははは、ずぁんねんながら貴君のは「荒らし」ではないのです(と私は思う)。荒らしの必要十分条件は、「コミュニケーションの拒否」ですから。貴君の書かれたことについては、改めてエントリを立ててお答えしたいと思います。
飛鳥五郎さん;
はじめまして。「失礼な点」などひとつもありません。私は「聞く耳持たない、卑しい言葉を使った一方的な(相手の存在そのものをバカにする)罵倒」と「上から目線」以外は、この世に失礼なことなど何一つないと思っています。また立ち寄っていただければ嬉しく思います。
愚樵さん;
提起された問題は、とても重い。実のところひとことでは答えにくいので、いずれ別途にエントリを立てさせていただきます。それにしても、ほんとに愚樵さんの言葉はいつも刺激的です。
kaetzchenさん;
(毎度、グレートヒェンという名を思い出しつつ……)ども。おっしゃるようにパソ通の時代に問題は出尽くしたのでしょうけれども、ここ何年かのネット世界の驚異的?な拡大によって、そして実体験としてパソ通を知らないごく若い人達の参加によって、もう1度それが浮上してきたなという思いは持っています。
とむ丸さん;
はい、チョムスキーはえらいです。とむ丸さんは「まねできない」と言われましたが、私も絶対に真似できません。支えてくれる仲間がいるから、膝をガクガクさせながら辛うじて突っ張っていられるのです。支え合っていきましょう!