華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

コミュニケーションのルール(ブログ、そしてその他の場でも)

2006-05-31 03:24:03 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

ブログに寄せられるTBやコメントの扱いは人によって違うが、大別すれば次の3種類になる。

(1)TB、コメント共に受け付けない (2)TBは受け付けるがコメントは受け付けない    (3)どちらも原則として受け付ける。

 以前「愚樵空論」の愚樵さんが、メディアを「ピラミッド型」と「サークル型」に分けて論じておられた。その記事によれば、従来のマスメディアは情報の発信者と受信者が明確に区別され、しかも前者は少数で後者は多数の「ピラミッド型」であった。それに対してブログは発信者と受信者の区別がなく、「サークル型」の意思伝達を可能にするツールであるという。非常に秀逸でわかりやすい語り方で、感心しながら読んだ。なお愚樵さんは、ブログがすべてサークル型だと言っておられるわけではない。中にはピラミッド型のブログもある、とも書かれていた。私も、「ピラミッド型ブログ」は結構多いと思う。政治家やタレントのほか、たとえば小説家や評論家といった文筆業の人達のブログも多くはピラミッド型と言ってよい。形式はブログでも、いわゆる「ホームページ」と同じで、情報の伝達はほぼ一方通行である。

だが、愚樵さんの言われるとおり、やはりブログは基本的に「サークル型メディア」であろう。それを考えれば、TBやコメントの扱いも最初の分類で言えば(3)になるのが最も自然ではないかと私は思う。TBやコメントは、発信者と受信者の間にコミュニケーションが成立していることを表すものであるから。もちろん、(1)や(2)だからといって、そのブログがピラミッド型を志向していると決めつける気はない。アクセスが非常に多いためTBやコメントを受け付けていると収拾がつかない等々、さまざまな理由からシャットアウトしているケースもあると思う。「一般論としては(3)が自然だ」と言っているだけである。

ただ、(3)の場合でも、いっさい削除せず、100%受け付けるということはあり得ない。「原則として」という但し書きがつくのは当然である。では、「削除するかどうか」の線をどこに引くか。

最も寛容?なのは、「よほど目に余るものだけは削除する」というやり方。私は今のところ、この方法をとっている。削除するのは基本的に、「明らかに営利を目的としたTB」と「間違ってTBが二重に入った場合、その片方」だけである。コメントは、ほとんど削除したことがない。時には「コメンテーターが何を言いたいのかわからない」ものや「挑発的な言辞が目立つ」ものもあって、削除しようかとけっこう真剣に思い悩んだ?こともあるが、(ひとつには面倒臭いということもあって)そのままにしている。「あなたの考えはおかしい」と決めつけてくるコメントも、削除していない。何とかして意思の疎通をはかれればそれに越したことはない、と思っているからだ。

ちなみに双方向コミュニケーションに対する志向がなければ、私はブログを始めなかったし、続けてもいない。単なる情報発信なら、本業に専念している方がいい。こんな言い方をすると語弊があるが、収入にもつながるし(ブログ書いたって1円にもならない)。政治家やタレントではないから、支持者やファンを増やすなどという目的もない。

私は世の中に大きな影響を与えるような記事など書いた覚えはないし、おそらくこれからも書くことはないだろが、それでも自分で取材して記事を書いたり、企画や取材に協力したり、「アンカー」(人海戦術で取材し、1人が記事をまとめる場合、そのまとめ役をアンカーと呼ぶ)を引き受けるなど、こまごま仕事している。そしてそれらの出版物は多ければ十万単位、少なくとも数千の読者を持つ。むろん買ってくれた人々全員が私が関わった記事を読むなどということはあり得ず、せいぜい2~30%程度だろう。うっかりすると、10%にも満たないかも知れない。だが、それでも私のブログを読んでくださる人よりははるかに多いのである。ブログの場合も雑誌と同じで「ちょっと覗いてみただけ」の人の方が多いはずで、斜め読み程度であってもまともに読んでくださる人はおそらくアクセス者のごく一部だろう。私が「多少なりとも関わった記事」を読んでくださる読者の100分の1、もしかすると1000分の1にもあたるまい(客観的に見て、おそらく多くても40~50人といったところであろう)。

実際問題として私の場合、「護憲」や「共謀罪廃案」「教育基本法改定阻止」のためには、ブログなんぞ書いてるヒマがあったら、ビラを配ったり集会の企画を手伝ったりしている方がよほどいいのだ。それを十二分に承知の上で半ば自分を嘲笑しつつ「たかがブログ」を続けているのは、ひとえに「直接民主主義的なあり方」に希望をつないでいるからである。だからTBもコメントも、できれば削除したくない。

もっとも、私がこんな太平楽なことを言っておれるのは、いわゆる「荒らし」の被害に遭っていないからであろう。幸いなことに狙われるほどのメジャーなブログではない(どころか、過疎ブログのひとつだと思う)から、嫌がらせを受けたこともない(今後も受けないことを祈る)。明らかに嫌がらせとしか思えないTBやコメントの攻勢に晒されたブロガーは、それどころではあるまい……ということぐらいはわかる。

ごく最近「お玉おばさんでもわかる政治のお話」「嗚呼、負け犬の遠吠え日記」など、よく訪問しているブログが「迷惑コメント、迷惑TBを管理人の判断で削除する」方向に踏み切った。 いずれも執拗な嫌がらせに業を煮やした結果である。(嫌がらせと言えば「喜八ログ」のように、炎上させられてやむなくコメント欄を閉鎖せざるを得なかったブログもある)

TBやコメントはコミュニケーション成立の表れだと先に述べた。だが、人と人とがコミュニケーションを希求する時には、自ずから守るべきルールがあるだろう。

○「自分の主張だけ」を「自分だけがわかっている言葉」で押しつけるのではなく、相手の言葉にも耳を貸し、理解しようと努力すること(おまえは敵だと言い切るのはその後である)○最大限、イマジネーションを働かせること○「罵倒のための罵倒」的な言葉に酔わないこと○たとえ幻想だと言われても、コミュニケーションの可能性を信じること○「眼高手低」を肝に銘じること……エトセトラ

私も今後、コミュニケーションの基本を踏みにじったTBやコメントがあった場合、削除するかも知れない。いわゆる「ネット右翼」と呼ばれる人々や、愚樵さん言われるところの「サークル型」メディアの考え方をくだらないと切り捨てる人々は、激烈で、一見カッコよさげな言葉に酔っているのではあるまいか……などと私は思う。おずおずと手を差し伸べ合う関わりを冷笑したとき、ヒトはその傲慢さに復讐される時が来る。

 

〈以下、余談〉

こんなことを言うと、スパム・コメントなどに悩まされている人達は怒り心頭に達するかも知れない。おまえはヒトゴトだから甘いこと言ってるんだ、と叱責されるかも知れない。それを承知の上で(ひょっとすると出入り禁止にされるかも知れないけれども)、あえて言う――ある意味、「言葉による脅しなど、なんぼのことでもない」のである。ノーム・チョムスキーは、辺見庸との対談の中で「あなた自身、(アメリカ)政府当局から脅しを受けたりはしていませんか」という問いに対して次のように答えている(集英社新書『メディア・コントロール』)。

【批判的な立場をとると、脅迫の手紙を受け取ったり、人から嫌われたり、新聞に悪く書かれたりはする。そういうことが起こり得る、という現実に不慣れな人々は驚きはするでしょう。しかし、ここで起こっていることなど、どうということはないのですよ。それを取り立てていうこと自体、「不面目」なことです】

国家権力に批判的な言葉を口にしただけで逮捕されるような国の現状に触れた後、チョムスキーはさらに続ける。

【例えば、昨夜はMITで私を批判する大規模な集会が開かれた。気にはしていませんが。私を批判するために集会をしたければすればいい。ちっとも構いません。それを抑圧と呼べるでしょうか。世界中で、人々がいったいどのような現実と闘っているかに思いをめぐらせたならば、「抑圧」などと口にするのすらおこがましい。(中略)主流からはずれたことを言えば、知的ジャーナリズムからは批判されるかもしれない。誹謗され、断罪され、ひょっとして脅迫状の1通も受け取るかもしれない。しかし、だから何だというんでしょう】

「嫌がらせ」や「荒らし」は不快なことである。だが――ほんとスミマセン、被害者でもない私がこんなこと言うの悪いんですけど――積極的に何かに関わり、何かを発信しようとすれば、嫌がらせや脅しは常に、多少なりともつきまとう。私自身、ヤクザ系(変な言い方だな……)のオッサンに「夜道歩く時は気をつけろ」と脅かされたり(むろん平気だったわけではなく、膝がガクガクして小便ちびりそうになったが)、政治家に取材したときに「ボク、○○出版の重役とは親しいんだよねエ」とニンマリ笑われた(つまり、変なこと書くと圧力かけて干すぞというわけだ)こともある。いや、そんなものは脅しのうちには入らない。私の仲間には、カミソリ送りつけられたり、出版社に圧力かけられて大きな仕事を失った者もいる。そんな時、(私をはじめとする)臆病な者は心の底からビビる。だが、「ビビりっばなしでは、どの面さげてジャーナリストを名乗れるか」という最低限の誇りもあり、それこそ半ば逃げ腰で小便ちびりそうになりながら、ちまちまと抵抗を続けるのである。場合によっては仲間と手を携え、励まし合いながら。

何かを発信するというのは、そういうことである(と私は思う)。怖いのは、同じ土俵に立っている(と思える)人間とのすれ違いだけではないだろうか。その「基本」が自分の中で崩れた時、私はおそらく(私的にも、仕事としても)情報の発信を止めるだろう……と思っている。

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