友人からメールが来た。
「現代ファシズム形成史を実体験しているような気がします」
街を歩けば表面的な日常風景が急変しているわけではない。だが私には、そのことが恐ろしい。少しずつ少しずつ蚕食されていくからこそ、私達はいつの間にか慣れてしまうのだろう。
茶髪がはやり始めた頃は、中高年層を中心に「何だあれは」と眉をひそめる人々が大勢いた。「髪を染めた学生は不採用」などという常識?さえまかり通っていた。だが茶髪が少しずつ増え、やがて職場でもごく普通になり……今は40代50代の女性の中にも茶髪が珍しくなくなった。
憲法改正も同じことかも知れない。最初は「何それ」「何で今、改正する必要があるのさ?」という雰囲気だったのが、次第に「改正がトレンド」そして「常識」になりつつある。私は「憲法は未来永劫、変えてはいけないもの」とは思っていない。必要があれば変えるべきだろう。しかし私には「今、変える必然性」がどうしてもわからない(いや、何を意図しているのかはわかるのですよ。わからないというのは、そういう人達の頭の中が、知識として理解できても感覚としてどうしてもわからない)。
自民党は「国を愛する国民の努力で国を守る」という趣旨の文章を前文に盛り込みたいらしい。国を愛するのも愛さないのもこちらの自由だ、ほっといてくれ。国というのはまあ親族みたいなもの。こちらが選択したわけではなく否応なくその中に投げ込まれ、関係性の中で自我を育てざるを得ない。愛せるかどうかは、関係性の紆余曲折にかかっている。親に虐待された子供は親を愛せないのと同様、国に虐げられた国民は国を愛せない。人間が a priori に何かを愛せるというのは、そうでないがゆえに造られた虚構、幻想である。
私はいま、国を愛してなどいない。正直なところ、「滅びてしまえばいい」とひそかに、そして冷ややかに思ってさえいる。だが生まれ育った風土、慣れ親しんだ言葉に対するいささか感傷的な執着はあり、それに引きずられて「必死のプロテクト」をしてみたいと思う。
「現代ファシズム形成史を実体験しているような気がします」
街を歩けば表面的な日常風景が急変しているわけではない。だが私には、そのことが恐ろしい。少しずつ少しずつ蚕食されていくからこそ、私達はいつの間にか慣れてしまうのだろう。
茶髪がはやり始めた頃は、中高年層を中心に「何だあれは」と眉をひそめる人々が大勢いた。「髪を染めた学生は不採用」などという常識?さえまかり通っていた。だが茶髪が少しずつ増え、やがて職場でもごく普通になり……今は40代50代の女性の中にも茶髪が珍しくなくなった。
憲法改正も同じことかも知れない。最初は「何それ」「何で今、改正する必要があるのさ?」という雰囲気だったのが、次第に「改正がトレンド」そして「常識」になりつつある。私は「憲法は未来永劫、変えてはいけないもの」とは思っていない。必要があれば変えるべきだろう。しかし私には「今、変える必然性」がどうしてもわからない(いや、何を意図しているのかはわかるのですよ。わからないというのは、そういう人達の頭の中が、知識として理解できても感覚としてどうしてもわからない)。
自民党は「国を愛する国民の努力で国を守る」という趣旨の文章を前文に盛り込みたいらしい。国を愛するのも愛さないのもこちらの自由だ、ほっといてくれ。国というのはまあ親族みたいなもの。こちらが選択したわけではなく否応なくその中に投げ込まれ、関係性の中で自我を育てざるを得ない。愛せるかどうかは、関係性の紆余曲折にかかっている。親に虐待された子供は親を愛せないのと同様、国に虐げられた国民は国を愛せない。人間が a priori に何かを愛せるというのは、そうでないがゆえに造られた虚構、幻想である。
私はいま、国を愛してなどいない。正直なところ、「滅びてしまえばいい」とひそかに、そして冷ややかに思ってさえいる。だが生まれ育った風土、慣れ親しんだ言葉に対するいささか感傷的な執着はあり、それに引きずられて「必死のプロテクト」をしてみたいと思う。