歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉と千利休)

2010年12月31日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉と千利休)

千利休は言わずとも知れた茶道の開祖。

利休との名は堺の南宗寺の
大林宗套から与えられた居士号で、
正親町(おおぎまち)天皇より
下賜されたもの、

「利心、休せよ」

の意で、才能におぼれずに
「老古錐」の境地を目指せ、
との意味合いがあるという。

利休は堺に生まれ、
姓を田中、名は与四郎といった。

「千」は祖父が千阿弥と称して、
八代将軍の足利義政に仕える
同朋衆だった人物に由来し、
そこから田中の姓を千に改めた。

時は戦国時代、堺で茶人として名を
上げていた利休は織田信長の茶頭と
して召し出されることになる。

その信長が本能寺の変で敗れてからは
豊臣秀吉に仕えることになる。

そして、秀吉の関白就任御礼の禁裏茶会、
北野天満宮における
北野大茶湯などを成功におさめ、
「天下一の茶匠」の名を不動の
ものとすると共に、茶の範疇を越えて
秀吉の側近と云った側面も見て取れる
ようになるのである。

利休は秀吉の依頼で
黄金の茶室を造っている。
これは解体して持ち
運びできるように造られていた。

黄金の茶室は秀吉の俗悪趣味として
批判されることが多いが、
草庵の法に従って三畳の小間であり、
それなり洗練されたものも持っている。
黄金の茶室も利休の茶の一面を
示しているという見方もある。

秀吉は天下一の茶匠を抱えていることを
誇示した。

しかし、天正十九年(1591)、利休は
秀吉の怒りにふれ、突然に堺へ蟄居を
命ぜられる。 
その後、京都へ呼び戻された利休は秀吉
より切腹を命じられることになる。

切腹の理由は定かではなく諸説あり
ますが、まず、大徳寺山門である
金毛閣の階上に勝手に雪駄を履いた
利休像を設置したこと、また、茶器の
鑑定に不正を働いたことなどが、その
理由ではないかと言われている。

派手好みで、黄金の茶室を造ったりの
秀吉に対して、利休は侘び茶を好み
目指した。

利休は高額で売買される
茶器、茶道具などに媚びる
茶の世界に批判的だった。

このような反発が秀吉の行動とも
重なり反目する態度が秀吉には気に
くわなかった。

大徳寺山門の利休像はくぐる者を
踏みつける意図があるとかの噂、
これも秀吉にしてみれば、自分への
挑戦的な仕業に映ったのだろう。

天正19年2月28日、
利休は葭屋(よしや)町の屋敷で切腹した。
享年70歳。

大徳寺山門の利休像も降ろされ、
その木像は一条戻り橋において
磔(はりつけ)にされ、
利休も同じく一条戻り橋に晒された。

秀吉と利休は互いに利用しようと
目論んだけれど、やはり根本的なところ
で背反する側面があり、利休は権力者の
秀吉には抗しきれなかった。





人間の実相を語る歴史人(夢のまた夢 豊臣秀吉)

2010年12月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(夢のまた夢 豊臣秀吉)

貧しい農民のせがれから、
一躍、天下人に上りつめた男、豊臣秀吉。
世界史をひもといても、
彼ほどの成功者は少ない。

立身出世の鑑、庶民の憧れの的として、
根強い人気がある。

私たちが、

「これがあったら幸福になれるだろう」

と思っているものを、
すべて獲得したような人物である。

しかし、秀吉は、
最期に意外な言葉を残している。

「おごらざるものも久しからず 
 露とおち 露と消えにし わが身かな 
 難波のことも 夢のまた夢」
 
夢の中で夢を見ているような、
はかない一生だった、との告白。

彼の辞世は、何を意味しているのだろうか。

平家物語の冒頭の部分は

「祗園精舎の鐘の声、
 諸行無常の響きあり。
 娑羅双樹の花の色、
 盛者必衰の理をあらわす。
 おごれる人も久しからず、
 唯春の夜の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、
 偏に風の前の塵に同じ。 」

で始まる。

平清盛は最高位である太政大臣となり、
天皇の外祖父となることで、
政権の正当性を確立させていった。

平氏一門は知行国を日本国66ヶ国のうち
32カ国を領した。

また、日宋貿易などによる経済力と
強大な軍事力とに支えられ、

「平家にあらずんば人にあらず」

と放言したとされる
平時忠らに代表される、
一部の平氏一門は
おごりにおごった。

これが清盛の死後、
周りの怒りをかい、
源氏による平家追討に
なったのである。

朝廷と結びつき半分貴族化していた
平氏が滅んでしまったのは、
当然の帰結であった。

秀吉は平家物語を参考に、
天下統一の夢を実現しても
決しておごることがあってはならない。
必ず滅びることを予感していたに
違いない。

しかし、実権を握った者に
そのおごりを捨てることは
到底できなかったに違いない。





人間の実相を語る歴史人(喜劇王チャップリンの危険なリズム)

2010年12月29日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(喜劇王チャップリンの危険なリズム)

チャップリンの有名なステッキは、
滋賀県産の竹で作られておりしなりが強い。

また、運転手に高野虎市を採用し、
家の使用人が一時期すべて日本人で
占められていた時があった。

2番目の夫人であるリタ・グレイは
この様子を

「まるで日本人の中で
 暮らしているかのよう」

と評した。

銀座の「花長」で海老の天ぷらを36匹も食べ、
さらに「花長」で修行したコックが
乗船しているということで
帰国時の船を氷川丸に決めたのは
この最初の来日のこと。
その後も繰り返し天ぷらを食べている。

漫画家手塚治虫は、

「どうすれば、人々の記憶に
 残る漫画が描けるのですか?」

という質問に対して
決まって次のように答えている。

「とにかくチャップリンの映画を観ろ。
 あれに全ての答えがある」

といっているほどである。

彼が自分の人生をこう述懐している。

「私は支配したくない。
 私は人の幸福を願いながら生きたい。
 貪欲が人類に憎悪をもたらし
 悲劇と流血をもたらした。
 思想だけがあって感情がなければ
 人間性は失われてしまう」

「人生はクローズアップで見れば悲劇。
 ロングショットで見れば喜劇」

「私は悲劇を愛する。
 悲劇の底にはなにかしら
 美しいものがあるからこそ
 悲劇を愛するのだ」

彼のつくたショート映画に
人生を考えさせられるのがあった。

銃殺が行われようとしていた。
銃殺は型どおりで行われる。

「気をつけ」
「銃をかまえ」
「ねらえ」
「撃て」

のリズムである。

ところが指揮官が最初の命令をかけた時、
死を待つ男が咳をした。

それが指揮官のリズムを狂わせた。
意志に逆らう反逆の血が
どこかで流れたようだ。

指揮官はそれでも、
とぎれとぎれに
第二、第三の号令を発した。

兵士は銃をかまえた。
その瞬間、助命の使いがやってきた。

指揮官は叫んだ。

「止め」

と。しかし、銃殺隊は
すでにリズムのとりこになっていた。

号令と同時に七つの銃は一斉に火をふいた。

人間はリズムに
乗りやすくできているらしい。
ロックのリズムにカラオケのリズム。
はたまた手拍子・足拍子。

しかし、奇妙なリズムは、
時には正しい判断をマヒさせるようだ。

「人生は食て、寝て、起きて、糞たれて、
 子は親となる、子は親となる」

人生は変なリズムに
取り付かれているのではなかろうか。








人間の実相を語る歴史人(喜劇王チャップリン国外追放と最期)

2010年12月28日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(喜劇王チャップリン国外追放と最期)

喜劇王チャップリンに
第二次世界大戦前の
1936年に製作された
『モダン・タイムス』のあたりから、
鋭進的な右左両派からの
突き上げが激しくなった。

既に1933年の日本訪問中に
偶々発生した国粋主義的な士官による
クーデター未遂事件(五・一五事件)では
「日本に退廃文化を流した元凶」として
首謀者の間で彼の暗殺が検討されていた。

更に大戦前後の戦争あるいは
ファシズムを批判する
チャップリンの作風が、
第二次世界大戦が終結し、
ソビエト連邦をはじめとする
東側諸国との冷戦が始まった
アメリカで「容共的である」とされ、
非難の的とされた。

特に1947年の『殺人狂時代』以降には
非難が最高潮に達し、
ジョセフ・マッカーシー上院議員の指揮の下、
「赤狩り」を進める
上院政府活動委員会常設調査小委員会から
何度も召喚命令を受けた。

その後、1952年に『ライムライト』の
ロンドンでのプレミアのために
イギリスに向かう最中、
事実上の国外追放命令を受け、
その結果、彼自身の意には
そぐわなかったが、
スイスのローザンヌの
アメリカ領事館で再入国許可証を
返還しアメリカと決別する。

アメリカを去ったチャップリンは、
映画への出番もめっきり
少なくなる一方で
名士として尊敬され、
また自身の作品の再編集や
作曲に没頭した。

なお、彼が再びアメリカの地を踏むのは、
アメリカを去って20年後の1972年に、
アメリカ映画界からの事実上の謝罪を
意味するアカデミー賞特別賞を
手にしたときであった。

1975年には、それまでの活動を評価され、
ナイトに叙され

「サー・チャールズ」

となった。

1977年のクリスマスの朝に
ヴェヴェイの自宅で没した。

喜劇王チャップリンの死後、
金銭目的で墓から遺体が
持ち出される事件があったが、
遺体は墓の近くの農地で発見された。




人間の実相を語る歴史人(喜劇王チャップリンの人生は悲劇か喜劇か)

2010年12月27日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(喜劇王チャップリンの人生は悲劇か喜劇か)

チャールズ・スペンサー・チャップリン。
ハリウッド映画初期の俳優、
脚本家、そして映画監督である。

映画の黎明期に数々の作品を作り上げ、
「喜劇王」の異名をもつ。

各種メディアを通じ、
現在においても彼の姿や作品に
ふれることは容易である。

また、バスター・キートンと
ハロルド・ロイドと並び、
「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。

彼は1889年4月16日に
イギリス・ロンドンで生まれた。

両親はミュージック・ホールの芸人だったが、
1歳のときに離婚。

その11年後、父は
アルコール中毒によって死去し、
母ハンナ・ヒルも精神病にかかる。

彼自身も幼いころから
ミュージック・ホールで
パントマイム劇などを演じて、
一家の家計を支えていた。

1908年にカーノー劇団に入り
頭角を現すようになる。

1913年、カーノー劇団の
2度目のアメリカ公演の際に、
「キーストン・コップス」シリーズで
有名な映画監督マック・セネットの目にかない、
映画俳優としてデビューする。

後に人気を二分することになる
ロスコー・アーバックルと
共演するなどした。

1919年には、配給会社
ユナイテッド・アーティスツを設立し、
1918年に建設された
チャップリン撮影所と合わせて、
無干渉で映画制作が
出来る環境を手に入れた。

彼の最もよく知られている
役柄は放浪紳士である。

「窮屈な上着に、
 ぶかぶかのズボン
 大きすぎる靴(どた靴)
 山高帽に竹のステッキ」

といった、いでたちのちょび髭の人物で、
アヒルのように足を大きく広いて、
がにまたで歩く特徴をもつ。

浮浪者だが、優雅な物腰と
紳士としての威厳をもつ。

この役柄は1914年の2作目
『Kid Auto Races at Venice』で
初めて登場している。

チャップリンは無声映画時代で
最も創造的な人物の一人である。
俳優、監督、脚本家、ディレクター、
そして時には自らの映画のための
作曲家までもつとめた。

チャップリンの人生は
決して平坦なものではなかった。

『サーカス』撮影中の1927年、
当時の妻リタ・グレイに
離婚訴訟を起こされ、
自身の私生活を暴露される。

示談金62万5000ドルを
支払うことで終結するが、
この騒動は当時38歳の
チャップリンを心労で
白髪させるほどのものであった。

「金を失うことは小さく失うことである。
 名誉を失うことは大きく失うことである。
 しかし、勇気を失うことは
 すべてを失うことである。」

「死と同じように避けられないものがある。
 それは生きることだ」

「笑いのない一日は、
 無駄に過ごした一日だ」

これらの言葉からも
彼の人生の過酷さが忍ばれる。



人間の実相を語る歴史人(オナシス、黄金のトンネルの果て)

2010年12月26日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(オナシス、黄金のトンネルの果て)

息子アレクサンダーの
飛行機墜落の事故死に
打ちのめされた
オナシスは急に老け込んだ。

そして追い打ちをかけ翌年、
やはり息子の死にショックを受けた
前妻ティナがアルコール中毒の末、
突然この世を去ったのだった。

重度の筋無力症にかかった、
人生最大の失意にあるオナシス。

そんな時も夫に寄りつかない
ジャクリーンに失望した彼は、
彼女への遺産相続を法律上より
少なくし、娘クリスティーナに
帝国を受け渡す内容の
遺言をしたためた。

1975年、オナシスの病状は
悪化の一途を辿り、
パリの病院で69年の
波乱の生涯に幕を閉じた。

オナシスは自分の人生を振り返り、
こう語ったという。

「自分の生涯は
 黄金の絨毯を敷き詰めた
 トンネルの中を
 走ってきたようなものだ。
 トンネルの向こうには
 幸福があると思い、
 出口を求めて走ったが、
 走れば走るほどトンネルも
 また長く伸びていった。
 幸福とは遠くに見える
 出口の灯りなのだろう。
 しかし黄金のトンネルから、
 そこには辿りつけないの
かもしれない」

では金で買えたものは
何だったのだろうか。

1兆円ともいわれる遺産と
オナシス帝国を受け継いだ娘、
クリスティーナ24歳。

相続を巡って彼女と
ジャクリーンの争いは法廷へと
持ち込まれた。

父の椅子を継いだ彼女は、
この間2回の結婚をしたが
いずれも2年と続くことはなく
やがて鬱病と判断された。

睡眠薬が手放せなくなった
彼女の体重は増え続けた。

そして4度目の結婚をした彼女に、
娘アシーナが生まれた。

やっと幸せをつかんだかと思った矢先、
夫が他の女とも子供を
作っていたことが発覚。

またもや離婚に至った彼女は
1987年、長年の薬物乱用が
心臓発作を引き起こし、
37歳で他界した。

オナシス家の家族は
こうして誰もいなくなった。

残されたのはクリスティーナの
娘、アシーナだけ。

わずか3歳で億万長者となった。
再婚した父の元で育てられた。

2005年に障害馬術選手の
ミランダ・ネトと結婚、
2006年には名前を
アシーナ・オナシス・デ・ミランダと
変更した。

アシーナは、オナシス家の後継者と
して育てようとする管財人たちと
反対する父親の間に挟まれ、
こう溜め息をつく。

「オナシスの名前は忘れたい。
 それが全てのやっかい事を
 引き起こしているのだから。
 もし私がお金を燃やしてしまえば
 やっかい事もなくなるわ…。」







人間の実相を語る歴史人(オナシスが求めた愛と引き起こる悲劇)

2010年12月25日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(オナシスが求めた愛と引き起こる悲劇)

最後の巨大な財を築いたオナシスが
買おうとしたのは、「愛」だった。

1946年にアシーナと結婚し、
2人の子供である
アレクサンダーと
クリスティナが生まれた。

1957年にヴェネツィアで
開かれたのパーティーで
世界一のプリマドンナ、
マリア・カラスに心を奪われ、
豪華な花束を贈り続けた。

じきに二人は意気投合。
文化や芸術に縁のなかった
オナシスにとって、
彼女は新たな勲章と
なったのである。

その裏で妻ティナは
酒と睡眠薬に溺れ、
子供たちはどんどん
心を閉ざしていった。

1960年にアシーナと離婚した。

なおも世界にオナシス帝国を
広げようと野望を燃やす彼に、
アメリカは黙っていなかった。

CIAやFBIが
過去の罪状を暴露、
オナシスの商売敵を次々と
味方につけ、初めて彼は
挫折を味わうこととなった。

そんな時に起こった
歴史的大事件、
ケネディ大統領が
1963年11月22日に
テキサス州ダラスで
暗殺された。

以後悲劇のヒロインとなった
未亡人ジャクリーンに、
オナシスは執拗に
アタックをした。

1968年には莫大な金をちらつかせ、
とうとうジャクリーンを
手に入れた。
これにより社会的な体面を整え、
アメリカにも一矢
報いたのであった。

1968年10月20日に
オナシスはジャクリーンと
ギリシャのスコルピオス島で
結婚式をあげた。

ジャクリーンは義理の弟であった
ロバート・ケネディが3ヶ月前に
暗殺されたとき、

「ターゲットにされるなら、
 次に狙われるのは
自分の子供たちだ」

と語り、オナシスとの結婚は
意味があるように思われた。

オナシスには彼女が求めた
財力と保護する力があった。

オナシスはジャクリーンと
結婚するためオペラ歌手
マリア・カラスとの
関係を清算した。

しかし、ジャクリーンとの
結婚生活は、甘いものでは
なかった。

あるだけの金を浪費する
ジャクリーンに腹をたてるオナシス、
結局金と体面でしか繋がっていない
結婚だったのであった。

この結婚にショックを受けた
マリア・カラスは
睡眠薬中毒となり、
前妻ティナはオナシスの
宿敵と再婚、
娘のクリスティーナは
アメリカ人と駆け落ちした。

結婚を機に狂い始めた歯車。
酒の量が増え、
感情の起伏が激しくなったオナシス。
そんな1973年、事件は起きた。

父と決別し小さな航空会社を
運営していた息子、アレクサンダーの
乗った小型機が整備不良が
原因で墜落、25歳の若い命を
散らしたのである。



人間の実相を語る歴史人(海運王オナシスの世界戦略)

2010年12月24日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(海運王オナシスの世界戦略)

アリストテレス・オナシスは
1906年1月15日に
ギリシャに生まれた。
彼は後に
「20世紀最大の海運王」
と言われるのである。

若い頃難民生活を余儀なくされた彼は、
20歳すぎて単身、南米に渡る。

1906年、エーゲ海に面した
トルコの港町に生まれたオナシス。
ギリシャ商人であった父は
彼にこんな教育を施した。

「つきあう人間は、どれだけ
 自分の得になるかで決めろ」

しかし、トルコとヨーロッパの
動乱の中、一家で難民暮しを
余儀なくされた彼は単身、
南米アルゼンチンに渡った。

首都ブエノスアイレスで
皿洗いなど転々とした彼は、
ある時電話交換手の
アルバイトにありついた。

深夜、その気になれば電話を
盗み聞きできることを知った彼は
株の取引を巡る裏事情に
聞き耳をたてた。

ブエノスアイレスは、
ロンドンとニューヨークの
時差の間に位置し、
株式市場の閉まった後に
大きな取引が動くことに
気づいた彼はめぼしい情報を
そっとメモしては、
自分も小遣いを投資した。

これで小金を貯めたオナシスは、
タバコの輸入で一儲け。
さらにギリシャの領事に
取り入った彼は、
“外交特権”を不法に利用し
ヨーロッパの外貨を
闇市場で売りさばき、
20代後半で既に
百万長者に成り上がった。

オナシスは6隻の中古船を買い、
海運事業を始めた。
海運業はリスクも上がりも大きい、
ギャンブルに近い商売だった。
休む間もなく働いた
オナシスの睡眠は、
いつも服を着たまま。
食事も労働者達に混じって取り、
自分の船を無駄なく稼働させる。

手段を選ばずビジネスの手を
広げていくオナシス。
世界のエネルギーが
石炭から石油へとって代わり、
巨大タンカーが時代の主役と
なることを予見した彼は、
1万トン級タンカーを造らせ、
世界の海に、その威容を
見せつけていくのであった。

また、第二次世界大戦後、
アメリカが払い下げた
リバティ船をダミー会社を
通じて安く買いあさった彼は、
これをさらに転売。
巨万の富を手に入れるのであった。

そしてオナシスは、
結婚をもビジネスの
一環に取り入れた。

ギリシャの老舗
海運業者リバノス家の
令嬢アシーナの嫁入り道具は、
「石油運送の権利譲渡書」。

この結婚によって彼は
ギリシャの支配階級に
食い込むことに成功。
自分を成り上がり者だと
見る上流階級に、
金に糸目をつけずに
造った豪華ヨット
「クリスティーナ号」
を披露。

「上品さは金で
買うことはできないが、
 それがないことを
大目に見る寛容さは
買うことができる」

これだけの富を手にしながら、
オナシスはまだ
飽き足らなかった。

カジノなどで知られる
ヨーロッパ社交界の
花形舞台モンテカルロ。
ここを金の力で乗っ取り、
ギリシャの国営航空を買収し、
海と空を一手に
制することになった。



人間の実相を語る歴史人(ノーベル賞)

2010年12月23日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(ノーベル賞)

1900年6月29年、
「ノーベル財団規約」が定められ、
ノーベル財団が設立された。

ノーベルの遺産の90パーセント
遺産総額、日本円にして
約207億円が基金となった。
2度の世界大戦と
インフレに耐え抜いて、
なおこれほど巨額だから、
如何に彼の残した遺産が
大きかったが分る。

ノーベル賞は6部門から
構成される。

・物理学賞
・化学賞
・生理学・医学賞
・文学賞
・平和賞
・アルフレッド・ノーベル記念経済学
スウェーデン銀行賞(経済学賞)

特に自然科学部門の
ノーベル物理学賞、
化学賞、生理学・医学賞の
3部門における受賞は
科学分野における
最大級の栄誉であると
考えられている。

複数人による共同研究や、
共同ではないが
複数人による業績が
受賞理由になる場合は、
一度に3人まで
同時受賞することができる。

ただし性質上
「複数人による業績」が
考えづらい文学賞は例外で、
定数は一度に1人と
定められている。

また、基本的に個人にのみ
与えられる賞であるが、
平和賞のみ団体の受賞が
認められており、
過去に国境なき医師団などが
受賞している。

選考は「物理学賞」、
「化学賞」「経済学賞」の3部門に
ついてはスウェーデン科学アカデミーが、
「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所が、
「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会が、
「文学賞」はスウェーデン・アカデミーが
それぞれ行っている。

ノーベル賞の選考過程は
秘密裏に行われる。

ただし選考過程は受賞後、
50年経過してから公表されている。

億万長者と裏町の
あばずれ娘との恋物語。

ノーベルのしかつめらしい
顔写真を見ていると、
思うどおりにならない人生の
ロマンスといったものを
感じてしまう。



人間の実相を語る歴史人(愛人の浪費から生まれたノーベル賞)

2010年12月22日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(愛人の浪費から生まれたノーベル賞)

ノーベルは遊び好きな
愛人ゾフィーに
半ば失望しながらも、
18年間、彼女の
際限のない浪費に
金をつぎこんだ。

そのうちに彼女は
若い騎兵大尉と浮気して、
赤ん坊を産んだが、
それでもなお彼は
彼女への未練を断ち切れず、
ふしだらな将来の生活を心配して、
多額の年金まで与えている。

その彼女がノーベルの死後、
遺産の分与を脅迫まじりに
要求したのである。

もし、分け前が
もらえなかったら、
彼からもらった
二百通のラブレターを
出版社に売り渡すと脅したのだ。

癒已後の執行人達は
このスキャンダルを
もみ消す為に、彼女から
手紙を買い取ったという。

彼女と知りあう少し前に、
実は秘書にやとった
伯爵令嬢に彼は求婚したが、
あっさり振られている。

この失恋の直後に、
彼はゾフィーと知り合ったのだ。

その令嬢は後に反戦運動家になって、
第5回ノーベル賞を受けたのも、
まことに皮肉な巡りあいである。

ともあれ、偉大な発明家で、
また計算高い事業家だった彼も
ことに女性に関しては
みじめな敗北者だった。
そのため、晩年は
気がふさぎこんで、
女性への愛の幻惑をいだいた
孤独な生涯を閉じたのである。

もし、ゾフィーが
彼の期待にそう立派な女性か、
それとも彼の子を
産んでいたならば、
おそらく遺産は彼女か、
その子が相続して、
ノーベル賞は生まれなかった
はずである。
その意味では、
この無教養な悪女は
人類に大変な文化遺産を
残したことになる。