語り継ぎたい昔話の伝えておきたい深い意味(はじめに 「昔々、ある処に」)
「昔々、ある処に」
日本昔話はこの言葉から始まる。
夜、なかなか寝付かれない時、
親のオトギ話に胸躍らせたもの。
同じ話を何度聞いたか分からないが、
毎回、初めての話のようにきけたのが不思議だ。
ところが現代、子育ては大変である。
「昔々、ある処に」
と、話し始めると、現代っ子なら
「おかあさん、昔々って、いつの時代、平安時代、室町時代。いつ?」
「いつ」と聞かれても答えられない。
「おとうちゃん、あるところって、東京、大阪、京都、どこ?」
そんなこと言われても知らないぞ。
内心穏やかでない。
しかし、そんな質問にはこう答えたらいい。
「昔々とは何時の時代でも、こんな話はあるんだよということだよ。
千年前の時代でも、現代でも、これから何千年たった未来ても、
このような話はあるのだよ。
つまり、多くの昔話はいつの時代にも通じる話なのである。
じゃ、ある処とは、どこを指しているのだろう。
私がアメリカへ行った時、ロサンゼルスに住んでいた友人に
桃太郎の話をしたことがあった。
するとアメリカ育ちの彼が
「その話、幼稚園の絵本で読んだころがあるよ」
と一冊の絵本を持ってきた。
その本は英語で「Old Stories of Japan」(日本の昔ばなし)と
いう題名だった。
その最初の話が「TAE PEACH BOY」
「Long, long ago, there lived an old man
and his old wife in a village.
He went to the mountain to gather woods.
She went to the river to wash clothes,
when a big peach came floating down the river.」
読んで見ると桃太郎の話が英語に訳され、アメリカの子供達にも
読まれていたのには、ビックリ。
日本の昔話は全人類に重要な何かを教えていることが
分かる出来事だった。
何時でも、何処でも貫くものでなければ真理といわれぬ。
これを三世十方を貫く真理という。
三世とは過去・現在・未来ということ。
十方とは東西南北上下四惟のことである。
仏法の法とは過去・現在・未来を貫き、
どの国へ持っていっても変わらない真理を法と
いわれる。
だから身近なことでも法と使われているのは
滅多に変わらないものに使用される。
憲法―――男女同権が毎年ごとに変えられては大変だ。
法律―――決まった年金支給が急にストップされたらたまらん。
交通法規-信号機の赤青黄色の意味が毎日変わっていたら、
大事故が頻繁に起きるに違いない。
それに対して、水戸黄門の印籠はどうだろう。
いつも同じパターンで悪代官と悪徳商人に
お仕置きをして、「よっ、待ってました」と
最後に決めゼリフ。
三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を前にかざし
「控え居ろう! この紋所が目に入らぬか」
と黄門の正体を明かす。
ボコボコにしてから出さずに
もっと早く見せたらいいのにと
思えてくるのは私だけだろうか。
それはさて置いて、
水戸黄門の印籠は果たして三世十方を貫くだろうか?
現代に持ってきたらどうだろう。
東京歌舞伎町で怖いお兄さん方が女性を恐喝していた。
それを見た助さん、格さんが助けに入った。
いつもの通り「この印籠が目に入らぬか」
それを見たヤクザさん達。
こんな印籠、誰が見ても知らない。
「何じゃ、これ。どこの組のもんじゃ」
と逆にボコボコにされてしまう。
この設定を江戸時代、アメリカにもっていったらどうなるか。
ブロードウェーでギャングが少女を脅している。
それを助けようと助さん、格さんが印籠を前に出す。
すると男たち、印籠を見ても分からない。
「What is this?」
と逆にピストルで撃たれて水戸黄門一行は殺されてしまう。
黄門様の印籠も「いつでも、どこでも」通じる品物ではなかたようだ。
しかし、これから始まるオトギ話は違う
三世を貫き、十方を普く真理が説かれている。
子供の為のオトギ話かと思ったら大間違い、
これは全人類が知らなければならない
大切なことを教えられた、貴重な話なのだ。
親がその意味を知って、子供に聞かせることができれば、
こんな立派な親はいないと思う。
子に尊敬される親になろうではないか。
「昔々、ある処に」
日本昔話はこの言葉から始まる。
夜、なかなか寝付かれない時、
親のオトギ話に胸躍らせたもの。
同じ話を何度聞いたか分からないが、
毎回、初めての話のようにきけたのが不思議だ。
ところが現代、子育ては大変である。
「昔々、ある処に」
と、話し始めると、現代っ子なら
「おかあさん、昔々って、いつの時代、平安時代、室町時代。いつ?」
「いつ」と聞かれても答えられない。
「おとうちゃん、あるところって、東京、大阪、京都、どこ?」
そんなこと言われても知らないぞ。
内心穏やかでない。
しかし、そんな質問にはこう答えたらいい。
「昔々とは何時の時代でも、こんな話はあるんだよということだよ。
千年前の時代でも、現代でも、これから何千年たった未来ても、
このような話はあるのだよ。
つまり、多くの昔話はいつの時代にも通じる話なのである。
じゃ、ある処とは、どこを指しているのだろう。
私がアメリカへ行った時、ロサンゼルスに住んでいた友人に
桃太郎の話をしたことがあった。
するとアメリカ育ちの彼が
「その話、幼稚園の絵本で読んだころがあるよ」
と一冊の絵本を持ってきた。
その本は英語で「Old Stories of Japan」(日本の昔ばなし)と
いう題名だった。
その最初の話が「TAE PEACH BOY」
「Long, long ago, there lived an old man
and his old wife in a village.
He went to the mountain to gather woods.
She went to the river to wash clothes,
when a big peach came floating down the river.」
読んで見ると桃太郎の話が英語に訳され、アメリカの子供達にも
読まれていたのには、ビックリ。
日本の昔話は全人類に重要な何かを教えていることが
分かる出来事だった。
何時でも、何処でも貫くものでなければ真理といわれぬ。
これを三世十方を貫く真理という。
三世とは過去・現在・未来ということ。
十方とは東西南北上下四惟のことである。
仏法の法とは過去・現在・未来を貫き、
どの国へ持っていっても変わらない真理を法と
いわれる。
だから身近なことでも法と使われているのは
滅多に変わらないものに使用される。
憲法―――男女同権が毎年ごとに変えられては大変だ。
法律―――決まった年金支給が急にストップされたらたまらん。
交通法規-信号機の赤青黄色の意味が毎日変わっていたら、
大事故が頻繁に起きるに違いない。
それに対して、水戸黄門の印籠はどうだろう。
いつも同じパターンで悪代官と悪徳商人に
お仕置きをして、「よっ、待ってました」と
最後に決めゼリフ。
三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を前にかざし
「控え居ろう! この紋所が目に入らぬか」
と黄門の正体を明かす。
ボコボコにしてから出さずに
もっと早く見せたらいいのにと
思えてくるのは私だけだろうか。
それはさて置いて、
水戸黄門の印籠は果たして三世十方を貫くだろうか?
現代に持ってきたらどうだろう。
東京歌舞伎町で怖いお兄さん方が女性を恐喝していた。
それを見た助さん、格さんが助けに入った。
いつもの通り「この印籠が目に入らぬか」
それを見たヤクザさん達。
こんな印籠、誰が見ても知らない。
「何じゃ、これ。どこの組のもんじゃ」
と逆にボコボコにされてしまう。
この設定を江戸時代、アメリカにもっていったらどうなるか。
ブロードウェーでギャングが少女を脅している。
それを助けようと助さん、格さんが印籠を前に出す。
すると男たち、印籠を見ても分からない。
「What is this?」
と逆にピストルで撃たれて水戸黄門一行は殺されてしまう。
黄門様の印籠も「いつでも、どこでも」通じる品物ではなかたようだ。
しかし、これから始まるオトギ話は違う
三世を貫き、十方を普く真理が説かれている。
子供の為のオトギ話かと思ったら大間違い、
これは全人類が知らなければならない
大切なことを教えられた、貴重な話なのだ。
親がその意味を知って、子供に聞かせることができれば、
こんな立派な親はいないと思う。
子に尊敬される親になろうではないか。