歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(一寸法師④ 鬼退治と打出の小槌)

2011年08月31日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(一寸法師④ 鬼退治と打出の小槌)

打出の小槌と聞くと、ドラえもんを思い出す。
何をしても駄目な小学生、野比のび太と、
22世紀から彼のもとにやってきたロボット・ドラえもんの
日常生活を描いた作品である。
典型的なプロットは「のび太の身にふりかかった困難を、

ドラえもんから貸し与えられた
ひみつ道具で一時的に解決するが、
その後その道具を不適切に使い続けた結果、
しっぺ返しを受けるというものである。

子供達に楽して幸福が舞い込んでくる筈がないことを
自然に感じられるいい番組だ。
大人でもつい見入ってします。
打出の小槌も同じである。

ある人が有名な音楽家タンベルグに、
ピアノの演奏依頼にいった。
近日にせまった新曲発表を、
ぜひ、成功させたかったからである。
ところが、タンベルグの返事は意外であった。

「申し訳ないが、練習する日がたりません」

「あなたほどの大家、4~5日もあれば、
 これくらいの歌曲は、わけないでしょう」

「いや、私は公開の席に出るには、
 一日50回、一ヶ月1500回以上の
 練習をしなければ出演いたしません」

さすが達人の言というべきか。
大家でも、かかる信念に生きているのだ。
飲み、食い、眠り放題で、頭角を現そうとすることは、
木に縁(よ)って魚(うお)を求めるに等しい、と
言わねばならぬ。

「この槌は宝うち出す槌でなし。
  なまくら者の頭うつ槌」

苦にするな金は世界に預け置く
ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)
1月17日に生まれたアメリカの政治家。
合衆国独立の立役者。
印刷業者であり、科学者でものあり、
多彩な活動をした。
たこをあげて、雷が電気であうことを立証した。

「立てる農夫は座る紳士よりも高し」

このごろの風潮か、
三Kの職業が大変嫌われる傾向にある。
農業に従事している若者と、
ブランドの洋服で身を固めている色男と
どちらを女性は選ぶか。
もちろん遊んでいるイケメンだ。

ある貴族がいった。

「自ら働いて生活するは真の紳士なり、
 自らを怠って人を働かすは盗賊なり」

働くとは端を楽にすること。
儲かるとは信用ある者にお金が入ってくる。

「苦にするな金は世界に預け置く
  入用ならば働いて取れ」


人間の実相を語る歴史人(一寸法師③ 障害があるからこそ、ものの本質が見える)

2011年08月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(一寸法師③ 障害があるからこそ、ものの本質が見える)

アメリカ・アラバマ州の北部、タスカンビヤの町近くで、
ヘレンケラーは1880年6月27日誕生した。
生後6カ月目には早くも片言ながら

『こんにちは』

を言い、1歳の誕生日にはヨチヨチ歩き出すほどの成長ぶりだった。
 
しかし1歳9カ月目に、原因不明の高熱と腹痛におそわれ、
一命だけはとりとめたものの、耳と目をおかされ、
光と音の世界から完全に隔離されてしまった

両親は見識の高い人であった。
ヘレンのために家庭教師のあっせんを依頼した。
そこで推薦されて来たのが、アンニー・サリヴァン嬢で、
このサリヴァンこそ、50年間ヘレンのよき半身となって
献身的努力を続けた『偉大なる教師』であった。

サリヴァンが、ヘレンの家へ来たのは、22歳だった。
ヘレンに会ってみると、7歳になった彼女は
頭脳が極めて明せきで、ことに記憶力がよく、
適切な教育により素晴らしい子供になれるとの確信を抱いた。
 
サリヴァンは着いた翌日から人形をヘレンに抱かせ、
指文字で「DOLL(人形)」という字をその掌に書いた。
もちろんヘレンは何のことか判らなかった。
繰り返しているうちに、それが自分の抱いているものの名前であることを覚り、
すべてのものに名のあることを理解するようになった。

教育をはじめて3カ月目、ヘレンはもう300の言葉を覚えた。
ある日ヘレンがコップとその中に入っている水を
同じものだと主張してゆずらず、
遂にサリヴァンとけんかになってしまった。
サリヴァンはヘレンの気分を転換させるため、
しばらく他のことに興味を移し、
その上で初めて戸外に誘い出し、
ポンプ小屋に連れて行って、
持っているコップに冷たい水を注ぎこんでやった。

と同時に「水」と指文字で書くと、
瞬間ヘレンの顔色がさっと変り、
コップを落して打たれたようにじっと考えこんでしまった。
彼女の面にいつもと違う輝きが現れはじめた。
自分の誤りが分ったのである。

このことがあってから、あれほど頑固だったヘレンが
急に素直になり、サリヴァンの教えをよくうけ入れて、
進歩も目立って来た。

ヘレンは水といっても、コップの水もあれば、
流れる水もある。水の本当の姿を知ったのである。
目も見え、耳も聞こえる私達には
水は水だろうと分かっている気持ちになっている。

しかし、本当に判っているのだろうか。
ヘレンのように水の本質を自分の心で感じとってこそ、
分かったといえるだろう。




人間の実相を語る歴史人(一寸法師② いつの時代にもイジメはあるものだ)

2011年08月29日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(一寸法師② いつの時代にもイジメはあるものだ)

一寸法師は友達から小さいことをどれだけ
なじられ、イジメられていたか想像にあまりある。
昔からイジメはあるものだ。

私がある母子の相談を受けたことがある。
京都で金持ちの人と恋愛、子供ができた。
ところがその人には家庭があり、不倫だった。
母子の身を寄せることができたのは実家だけだった。

しかし、田舎はウワサの広がるのは早い。
「あの子は父親のない子よ」と親たちがウワサする。
それを聞いた子供達、
集団登校で、家の前を通るとき、
大きな声で歌いだす。
「親がないのに子ができた、
 こりゃ不思議、こりゃ不思議」

5月5日の子供の日、村のあちこちで
大きな鯉のぼりが風になびいている。
お金のない親子は玄関に手作りの小さな
鯉のぼりをたてた。
それを見た近所の子供達。
また歌いだす。
「屋根より低い鯉のぼり」

子供は無垢で罪がないというが、
そうだろうか。
相手の気持ちを考えずに、恐ろしいことを
平気で言ってのける。
相手は追い詰められ、不登校。
イジメられた子供が、自分の子ならどうする。
どう支えてやればよいのか。
一寸法師はそのヒントを教えている。

一寸法師のように身体に障害があれば、
今の子なら自殺していただろう。
親を恨み、家庭内暴力に走ったに違いない。

でも彼はそうしなかった。

ある学校で「水戸黄門ごっこ」というイジメが
始まった。
新任の女性の先生が教室に入ってくると
生徒みんなが「ハハハ」と言って頭をさげ、
顔をあげないのだ。
先生がいくら言っても聞いてくれない。
授業が始まらない。
新米の先生は困ってしまい、
泣きながら教室を逃げ出した。
校長室に行った新任教師、
「もう教師を続けてゆく自信がありません」
と泣きながら訴えた。
すると校長先生。
「私に任せなさい」とその教室へ向かった。
校長が入ってきても生徒達
「ハハハ」と頭を下げる。
校長、すかさず
「苦しゅうない、面をあげい」
これには生徒もたまらず、
「ハハア」と顔をあげ、
一件落着。





人間の実相を語る歴史人(一寸法師① イジメを受けている子に読んでほしいお話し)

2011年08月28日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(一寸法師① イジメを受けている子に読んでほしいお話し)

この一寸法師の話も色々な変遷をへて、
今の話しに落ち着いた。
おとぎ話は子供達も、語りかける親も
話しの中から、素晴らしい宝物を受け取らなければ。

この一寸法師はイジメを受けて、自殺したり、
親を恨んでいる子供達に聞かせたい
話しではなかろうか。

(原文)
むかしむかし、あるところに、おじいさんと
おばあさんが住んでいました。
二人にの間に小さな小さな子どもが生まれたのです。
ちょうど、おじいさんの親指くらいの男の子です。
二人はさっそく、一寸法師(いっすんぼうし)という
名前をつけました。
ある日のこと、一寸法師は、おじいさんとおばあさんに、
こんな事をいいました。
「わたしも都へ行って、働きたいと思います。
どうぞ、旅の支度をしてください」
そこでおじいさんは一本の針で、一寸法師にちょうど
ピッタリの大きさの刀をつくってやりました。
おばあさんは、おわんを川に浮かベて、一寸法師の
乗る舟をつくってやりました。
「ほら、この針の刀をお持ち」
「ほら、このおはしで舟をこいでおいで」
「はい。では、行ってまいります」
 一寸法師は上手におわんの舟をこぐと、都へと出かけました。

そして都に着くと、一寸法師は都で一番立派な家を
たずねていきました。
「たのもう、たのもう」
「はーい。・・・あれ?」
出てきた手伝いの人は、首をかしげました。
「おや、だれもいないねえ」
「ここだよ、ここ」
手伝いの人は玄関のげたの下に立っている、
小さな一寸法師をやっと見つけました。
「あれまあ、なんて小さい子だろう」
そして一寸法師は、その家のお姫さまのお守り役になったのです。
ある日のこと、一寸法師は、お姫さまのお供をして、
お寺にお参りに行きました。
するとその帰り道、突然、二匹の鬼が現れたのです。
「おおっ、これはきれいな女だ。もらっていくとしよう」
鬼はお姫さまを見ると、さらおうとしました。
「待て!」
一寸法師は、おじいさんにもらった針の刀を抜くと、
鬼に飛びかかりました。
ところが、
「なんだ、虫みたいなやつだな。お前なんぞ、こうしてくれるわ」
鬼は一寸法師をヒョイとつまみあげると、パクリと、
丸呑みにしてしまいました。
鬼のお腹の中は、まっ暗です。
一寸法師は針の刀を振り回して、お腹の中を刺してまわりました。
これには鬼もまいりました。
「痛っ、痛っ、痛たたた!」
困った鬼は、あわてて一寸法師を吐き出しました。
「よし、今度はわしがひねりつぶしてやるわ!」
もう一匹の鬼がいいましたが、一寸法師は針の刀をかまえると、
今度は、その鬼の目の中へ飛びこんだものですから、
鬼はビックリです。
「た、た、助けてくれー!」
二匹の鬼は、泣きながら逃げ出してしまいました。

「ふん! これにこりて、もう二度とくるな!
 ・・・おや? これは何でしょう。お姫さま」
鬼が行ってしまったあとに、不思議な物が落ちていました。
「まあ、これは打ち出の小づちという物ですよ。
トントンとふると、何でも好きな物が出てくるのです」
そこで一寸法師は、お姫さまに頼みました。
「わたしの背がのびるように、『背出ろ、背出ろ』と、
 そういってふってください」
お姫さまは喜んで、打ち出の小づちをふりました。
「背出ろ、背出ろ」

すると一寸法師の背は、ふればふっただけグングンとのびて、
だれにも負けない立派な男の人になりました。
そして一寸法師はお姫さまと結婚して、仕事もがんばり、
たいへん出世したということです。



人間の実相を語る歴史人(儚い=墓ない=墓にはもってゆけない)

2011年08月27日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(儚い=墓ない=墓にはもってゆけない)

人の見る夢と書いて

「はかない」

と呼ぶ、なぜだろう。
それは

「墓ない」と書いて

「墓には持ってゆけない」

から、「はかない」と

呼ばせたのだと
解釈する人もいる。
納得できる説明だ。

昔、ある金持ちの男が
三人の妻を持って
楽しんでいた。

第一夫人を
最もかわいがって、
寒いといっては労り、
暑いといっては心配し、
ゼイタクの限りを
尽くさせ一度も
機嫌を損なうことはなかった。
 
第二夫人は、
それ程ではなかったが
種々苦労して、
他人と争ってまで
手に入れたので、
いつも自分の側に
置いて楽しんでいた。

第三夫人は、
何か寂しい時や、
悲しい時や、困った時だけ
逢って楽しむ程度であった。
  
ところがやがて、
その男が不治の病床に
伏すようになった。

刻々と迫りくる死の影に
恐れおののいた彼は、
第一夫人を呼んで
心中の寂しさを訴え、
ぜひ死出の旅路の
同道を頼んだ。

ところが、

「ほかのこととは違って、
 死の道連れだけは、
 お受けすることは
 できません。
 枕元でお別れ
 させて頂きます」

と、すげない返事に、
男は絶望の淵に
突き落とされた。

しかし、寂しさに
耐えられぬ男は、
恥を忍んで第二夫人に
頼んでみようと思った。

「貴方があれ程、
 かわいがっていた
 あの女でさえ、
 イヤとおっしゃったじゃ
 ありませんか。
 私もまっぴらごめんで
 ございます。
 貴方が私を求められたのは、
 貴方の勝手です。
 私から頼んだのでは
 ありません。
 しかし、お世話になった分
 門前までお供させて
 頂きますが、
 それから後はお一人で
 行ってください」
 
案の定、第二夫人の返事も
冷たいものであった。

男は、恐る恐る
第三夫人にすがってみた。

「日ごろのご恩は、
 決して忘れては
 いませんから、
 村外れまで同道させて
 いただきましょう。
 しかし、そのあとはどうか、
 堪忍してください」

と突き放されてしまった。

男というのは、
すべての人間のことである。

第一夫人は肉体、
第二夫人は金銀財宝、
第三夫人は父母妻子兄弟朋友などを
喩えたのだ。

今まで命にかえて
大事に愛し求めてきた、
それら一切のものから見放され、
何一つあて力になるものが
なかったことに驚き悲しむ、
これが人間の実相なのである。

これさえあれば幸せになれると
夢見たことも
最後は死んでゆかねば
ならなくなった時、
何一つ持ってはいけない。

「墓までは持ってゆけない」

「墓ない」

「儚い」ものではないか。


人間の実相を語る歴史人(南柯の夢)

2011年08月26日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(南柯の夢)
  
唐の徳宗の時、
広陵というところに
淳于芬 (じゆんうふん)と
いう者がいた。

家の南に大きな槐の
古木があった。

ある時、芬が酔って
その木の下で眠っていると、
ふたりの紫衣の男があらわれ、

「槐安国王の御命令で
 お迎えにまいりました」
 
といった。
芬が使者について
槐の穴の中に入っていくと、
大きな城門の前に出た。

「大槐安国」と
金書した額がかかっている。

国王は芬がきたのを見ると
非常に喜んで娘を娶せた。

この国で暮らすうち、
芬は友人の周弁と田子華に
出会った。
 
ある時、国王は
淳于芬にむかって、
 
「南柯郡の政治が
 うまくゆかなくて
 困っているのだが、
 太守になっていっては
 もらえまいか」
 
といった。
芬は周弁と田子華を
部下として、
南柯郡に赴任した。
 
芬はふたりの友人の
助けをかりて
政治につとめたので、
郡は非常によく治まった。

太守となって二十年、
人民はみな業に安んじ、
碑をたてて
芬の徳をたたえた。

国王も芬を重んじて
領地をたまわり、
宰相とした。

その年、檀羅国が
南柯郡に攻めてきたので、
芬は周弁を将として
防戦させたが、
弁は敵をあなどったために
敗北してしまった。

敵は分取品をもって
引き揚げた。
弁は間もなく背中に
疽ができて死んだ。
 
芬の妻も病気になり、
十日ほどで死んだ。
芬は太守をやめて
都に帰った。

都における彼の声望は
非常なもので、
貴顕・豪族は
きそって交りを求め、
権勢は日ましに
強大になっていったので、
国王も内心不安になった。

ちょうどこの時、
都を遷さねばならぬような
異変の徴候があると、
上奏文を奉った者があった。

世間では淳于芬の勢力が
あまりにも強大で
あることが、
その禍いの原因で
あろうと取沙汰した。

国王はついに彼を
私邸に軟禁した。

芬は自分に過失が
あったわけでもないのに、
不当な扱いをされたので
不満にたえなかった。

国王はそれを察して
芬を家に送り返した。
 
と、淳于芬は
もとのように槐の下に
寝ていたのである。

あまりに不思議な夢なので、
槐の根もとを見ると
果して穴があった。

下僕に斧をもたせて
その穴をたどってゆくと、
ゆうに寝台一つが
入るほどの広々とした
ところがあり、
蟻が群がっていた。

その真中に大きな蟻が二匹いた。
ここが槐安国の都で、
大蟻は国王夫妻であった。

また一つの穴をたどってゆくと、
南側の枝を四丈ほど
のぼったところに、
また平らなところがあって、
ここにも蟻が群れていた。

ここが芬が治めていた
南柯郡なのであった。
(柯は枝の意)
 
芬は穴をもと通りに
直しておいたが、
その夜大雨が降った。

翌日、穴を見ると、
蟻はみないなくなっていた。
国に異変がおこって
遷都するというのは
このことだったのである。
 
この物語は唐の
李公佐の「南柯記」に
くわしく書かれてあり、
「南柯の夢」というように
なったのである。





人間の実相を語る歴史人(一炊の夢)

2011年08月25日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(70)(一炊の夢)

人生の短さ、はかなさを
教えた話に、中国の
「一炊の夢」という故事がある。

街道沿いの茶店に、
呂翁という老人が休んでいた。

そこへ近くの村の、
盧生という青年がやってくる。
粗末な身なりで、
馬に乗って田んぼへ
行く途中であった。

盧生も茶店に入り、
先客の呂翁と打ち解けると、
大きなため息をついて言った。

「男として生まれながら、
 惨めなことです。
 これからの人生を思うと
 情けない限りです」

「一体、どうしたんだね」

「私は、立身出世を果たし、
 将軍や大臣となり、
 豪華な食事や
 美しい歌声を楽しみたい。
 一族は繁栄し、
 一家ますます富んでこそ
 幸福といえるのではないですか。
 私は出世を望んで
 学問を志しましたが、
 三十歳になっても
 野良仕事にあくせくしている」
 
言い終わったかと思うと、
ウトウトと眠くなってきた。

この時、茶店の主人は、
きびの飯を炊き始めたところ。

呂翁は、一つの枕を取り出して、
盧生に手渡す。

「おまえさん、
 この枕をしてごらん。
 望みをかなえて進ぜよう」
 
盧生は、横になって、
枕に頭をのせた。

数ヵ月後、盧生は、
名門の家から絶世の美人を
嫁にもらう。
生活は派手になっていった。

翌年、官僚の登用試験に合格。
その後は、順調に出世街道を
まっしぐらに進み、
要職を歴任し、
大いに業績を上げていく。

皇帝に見込まれて軍司令官と
なった盧生は、
異国の襲撃を退け、
領土を広げる。

軍功によって官位はうなぎ登り。

途中、地方左遷の
憂き目にも遭うが、
やがて宰相という、
官僚の最高位に就いたのである。

ところが、出世をねたむ
同僚の讒言により
謀反の疑いをかけられ、
流刑に遭う。

数年後、無実が証明されて
宰相に返り咲いた彼は、
皇帝の信任も大変厚く、
政界に長く君臨する。

五人の息子も順調に出世、
まさに栄耀栄華を極めた。

やがて心身も衰え、
惜しまれつつ盧生は一線を退く。
病に伏せた彼の元には、
勅命を受けた名医が来診した。
臨終の時、皇帝は
見舞いの勅使を派遣、
その夕方、盧生は世を去った。
 
「ああ、おれは死んだか……」
 
大きくあくびをし、
盧生は目を覚ました。

名家の娘との結婚から、
国家の元老として死ぬまで、
五十年間の夢を見ていたのだ。

五十年、気の遠くなるような
長い歳月のはず。
それなのに、どうであろうか。

茶店の主人が炊いていたきび飯は、
まだ、できていなかったのである。

「ああ、夢だったのか……」

呂翁は、笑いながら言った。

「人生の楽しみも、
 そんなもんだよ」

盧生は頭を下げ、

「栄耀栄華、立身出世とは
 どんなことか、
 よく分かりました」

と、礼を述べて、
茶店を出て行ったという。

人生五十年、その間
どれだけ栄えようとも、
まさに一炊の夢の間の楽しみ。

若くしてその真実を知った盧生は、
まだ幸福であったかもしれない。

ところが、ほとんどの人は
夢の浮世を夢と知らず、
人生の大事を忘れ、
小事に追い立てられて
酔生夢死してはいないだろうか。


人間の実相を語る歴史人(夢の中で夢を見ていたお婆さん)

2011年08月24日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(夢の中で夢を見ていたお婆さん)

あるお婆さん、朝早く起きてしまった。
今更、寝ることもできない。

そこで日頃行かない寺参りに
行くことにした。
正信偈と念珠を手提げ袋に入れ、
玄関を出てみた。

その日は寒い冬の朝、

「寒い、寒い」

と言いながらも
この欲深婆さん、
何か落ちてはしないかと
下を見ながら歩いていた。

すると道路の真ん中に
水溜りがあり、そこに、
お金が落ちているではないか。

「しめた。早起きは
 三文の得とは
 よく言ったものじゃ」

と、お金を拾おうとした瞬間、
夢から覚めた。
夢を見ておったのだ。

「なんじゃ、夢か」

とガッカリしたが、
そこは欲深婆さん、

「正夢ということも
 あるじゃろう」

と、再び寺へ出かけていった。

夢の中でお金を見つけたことも
あって、しっかりと下を
見ながら歩いていると、
夢と同じところに
水溜りがあるではないか。

「夢ではないだろうな」

とホッペを叩くが痛い。

「今度は夢ではない」

そこでお金を拾おうとしたが、
拾うことができなかった。

水溜りが凍っていて、
その氷を割らなければ、
下のお金を取ることはできない。

しかし、厚い氷はお婆さんの
力では割ることができない。

そこで考えた。

「氷にはお湯だ。
 しかし、周りにお湯がある訳はなく、
 家に帰ってお湯を沸かして
 戻ってきた頃には
 他の人が来て、拾ってしまうだろう。
 かといって、この近くには
 お湯はない」

と、思案していると
名案が浮かんだ。

「そうだ。ここに湯があるではないか。
 ここに」

と自分の下腹を見た。
一晩、温めてある湯が
あった。

お婆さん、周りを見回すが、
朝早く、誰も通る気配はなし。
着物、腰巻をまくし上げ、
水溜りをまたぎ、
オシッコを始めた。

期待通り氷は解け、
汚い水ではあるが、
お金には代えられない。

手を入れて、
お金を拾っていた。

「さあ、100円玉だろうか。
 五百円玉だろうか。
 大きさから見ると、
 十万円金貨かも
 しれないぞ」

と、思いながら、
見てみると、
それはなんと、
ビールの蓋ではないか。

と、知った瞬間、
夢から覚めた。

このお婆さん、
夢の中で夢を見ていたのだ。

あれだけ恥ずかしい
思いをしてまで
拾ったお金は
夢の中の夢であった。
何も残っていない。

ところが現実が一つあった。
夢の中でシャーとやった
あれだけは本当だった。

お婆さん、年甲斐もなく、
布団の中で、世界地図を
書いてしまい、

「どう嫁さんに言い訳
 したらいいのだろう」

と泣きべそをかいた。

これは我々の人生を
現している。

金や財産、地位や名誉を
必死で追い求めているが、
いよいよ死んでいかなければ
ならなくなった時、
何一つ、もっていけないではないか。
振り返ってみれば
夢のまた夢。

その中で唯一つ
夢でないものがある。
それはそれらを築き上げる為に
造ってきた悪業である。

これだけはしっかりと
後生へと持ってゆかねば
ならない。


人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉 夢のまた夢)

2011年08月23日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉 夢のまた夢)

貧しい農民のせがれから、
一躍、天下人に上りつめた男、豊臣秀吉。
世界史をひもといても、
彼ほどの成功者は少ない。

立身出世の鑑、庶民の憧れの的として、
根強い人気がある。

私たちが、

「これがあったら
 幸福になれるだろう」

と思っているものを、
すべて獲得したような人物である。

しかし、秀吉は、
最期に意外な言葉を残している。

「おごらざるものも
 久しからず 
 露とおち 露と消えにし
 わが身かな 
 難波のことも 
 夢のまた夢」
 
夢の中で夢を見ているような、
はかない一生だった、との告白。

彼の辞世は、何を
意味しているのだろうか。

平家物語の冒頭の部分は

「祗園精舎の鐘の声、
 諸行無常の響きあり。
 娑羅双樹の花の色、
 盛者必衰の理をあらわす。
 おごれる人も久しからず、
 唯春の夜の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、
 偏に風の前の塵に同じ。 」

で始まる。

平清盛は最高位である
太政大臣となり、
天皇の外祖父となることで、
政権の正当性を
確立させていった。

平氏一門は知行国を
日本国66ヶ国のうち
32カ国を領した。

また、日宋貿易などによる
経済力と強大な軍事力
とに支えられ、

「平家にあらずんば人にあらず」

と放言したとされる
平時忠らに代表される、
一部の平氏一門は
おごりにおごった。

これが清盛の死後、
周りの怒りをかい、
源氏による平家追討に
なったのである。

朝廷と結びつき
半分貴族化していた
平氏が滅んでしまったのは、
当然の帰結であった。

秀吉は平家物語を参考に、
天下統一の夢を実現しても
決しておごることがあってはならない。
必ず滅びることを予感していたに
違いない。

しかし、実権を握った者に
そのおごりを捨てることは
到底できなかったに違いない。

豊臣秀吉の子、秀頼がわずか4歳で
元服式を行なっている。
 
徳川家康や前田利家など宿老が
居並んでいる中で
秀吉も皆の前で
威厳を誇示していたが、
話している途中で
秀吉の足元に水がしたたる。
秀吉が失禁したのである。
いまで言う、認知症が
始まったのだ。

その場は、前田利家が

「秀頼様、そそうをしては
 いけませんよ」

と機転を利かせて、
事なきを得るが。

そこから死に至るまで、
秀吉の正気と痴呆が
入り交ざった言動は
周りの目にもあわれだった。

そして、伏見城で秀吉は最期を迎える。

日本国の統一だけでは飽き足らず、
明(中国)や朝鮮まで出兵した
太閤秀吉にも、
寿命が近づきつつあった。

死に臨み、秀吉の心配はひとつ、
幼い跡取りの秀頼(6歳)の
ことであった。

生涯をとじる13日前に
書いた遺言状は
次のごとくであった。

「五人の大老たちよ。
 秀頼のことを、くれぐれも、
 たのみまいらせる。
 たのむ。たのむ。
 自分はまもなく死ぬるが、
 まことに、名残りおしいことじゃ。
 秀頼が大きくなり、
 立派に豊臣家のあるじとなるよう、
 たのみまいらせる。
 このほかに、おもいのこすことはない。
   八月五日    秀吉
 いえやす(家康)
 ちくぜん(利家)
 てるもと(輝元)
 かげかつ(景勝)
 ひでいえ(秀家)
 まいる」

その後、意識の混濁した秀吉の
耳元に淀君が囁く。

「市である茶々が産んだ子は
 豊臣の世継ぎではなく、
 織田家の世継ぎである。
 早よう逝きなされ。猿」

そして、秀吉は悶え苦しみ、
狂い、壮絶な最期をとげたのである。

「おごらざるものも久しからず、
 露と落ち露と消えぬるわが身かな
 浪花(なにわ)のことは夢のまた夢」

時は、慶長3年(1598年)8月18日。
ここに、怒涛渦巻く戦国時代を
トップまで上り詰めた豊臣秀吉が、
62年の生涯に幕を閉じたのである。



人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 蓮悟の夢②)

2011年08月22日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蓮如上人 蓮悟の夢②)

「次夜、夢に云わく、
 蓮誓、仰せ候う。
 「吉崎前々住上人に、
  当流の肝要のことを、
  習い申し候う。
  一流の依用なき聖教や
  なんどを広くみて、
  御流をひがざまに
  とりなし候うこと候う。
  幸いに、肝要を
  抜き候う聖教候う。
  是が、一流の秘極なりと、
  吉崎にて、前々住上人に
  習い申し候う」と、
 蓮誓、仰せられ候いし」と云々

「私に云わく、
 夢等をしるすこと、
 蓮如上人、
 世を去りたまえば、
 今はその一言をも、
 大切に存じ候えば、
 かように夢に入りて
 仰せ候うことの、
 金言なること、
 まことの仰せとも
 存ずるまま、
 これをしるす者なり。
 誠に、これは、
 夢想とも、申すべき事
 どもにて候う。
 総別、夢は妄想なり。
 さりながら、
 権者のうえには、
 瑞夢とてある事なり。
 なおもって、かようの
 金言のことをば
 しるすべしと云々」

次の夜の夢である。
兄、蓮誓が、

「私は吉崎で
 蓮如上人より
 浄土真宗の肝要を
 御教導頂いた。
 浄土真宗では用いない
 書物などをひろく読んで、
 親鸞聖人のみ教えを間違って
 受けとめることがあるが、
 幸いに、ここにみ教えの
 肝要を抜き出した
 お聖教がある。
 これが浄土真宗の
 極めて大事な書であると、
 吉崎で蓮如上人から
 習い受けたのである」

と言われたのである。

私が今まで見た夢の数々を
書き記したことについて
こう思っている。
蓮如上人がお亡くなりに
なられた今は、
その一言の仰せも
大切であると思われる。

夢の中に現れて
仰言った金言も、
ご存命のときと同じ
尊い仰せであり、
真実の仰せであると
受けとめているので、
これを書き記したのである。

ここに記したことは
本当に夢のお告げ
霊夢ともいうべき
ものである。
夢というのは
概して妄想であるが、
仏様の生れ代わりのようなお方は、
夢に姿をあらわして
教え導くということがある。
なおさら、このような夢の中で
貴重なお言葉を書き
残しておくのである

「享禄二年、十二月十八日の夜、
 夢に、蓮如上人、
 『御文』をあそばし候う。
 その御詞に、梅干のたとえ候う。
 「梅干のことをいえば、
  みな人の口、一同に酸し。
  一味の安心は、かように、
  かわるまじきなり」
 「同一念仏 無別道故」
 (論註)の心にて
 候いつるようにおぼえ候う」
  (御一代記聞書)
 
享禄二年十二月十八日の
夜の夢である。

蓮如上人が蓮悟様に
御文章を書いて下さった。
その御文章のお言葉に
梅干しのたとえがあったのだ。

「梅干しのことをいえば、
 聞いている人はみな口の
 中がすっぱくなる。
 親鸞聖人が教えられた
 一味の安心とは
 人によって変わるものではない
 同じでなのだよ 」

と記されていた。
これは、『往生論註』の
「誰もが同じく
 信心決定して念仏する者は
 必ず、極楽へ往生するのであり、
 他に救われる道はない」

という文の
こころをお示しに
なったように思われる。

戦後、特に自由平等と
いうことが高調される
ようになったが
現実は余りにも
不平等に満ちている。

美醜、賢愚、利鈍、
善悪、禍福等、
千差万別億差兆別である。

ましてや各人の心に
いたっては平等などとは
到底望むことは
不可能である。

ところが、この千差万別、
億差兆別のままで
万人が一味平等に
遊べる世界があると
親鸞聖人は大変なことを
教えていられる。

『正信偈』に

「能発一念喜愛心、
 不断煩悩得涅槃、
 凡聖逆謗斉廻入、
 如衆水入海一味」

とあるのがそれである。

「能く一念喜愛の心が発れば
 煩悩を断ぜずして涅槃を得る」

とは、阿弥陀仏の
大願業力によって
我らの心に
一念に大信心が
発起すれば、
欲や怒りの煩悩や肉体は
変らないままで
広い平等無碍の世界に
救われるぞ、
一度この大信心の世界に
帰入すれば、
もろもろの河川の水が
海に流れこめば
一味平等の海水に
とけこむように
凡夫も、聖者、
五逆の罪人も
仏法を謗った極悪人も
平等一味の境地になることが
できるぞと
仰せになっているのが

「凡聖逆謗斉しく
 廻入すれば
 衆水の海に入りて
 一味なるが如し」

のお言葉である。

このようなことは
他の宗教には、
かつて説かれたことの
ないことである。

然るに全ての人は
一念他力の信海に入れば、
時代を超え
十方を貫き、
親鸞聖人、蓮如上人方と同じ
一味平等の慶喜と大満足、
大安心の世界を
味わわせて頂けるのだ。
仏教の偉大さは
実にここにある。

他力大信心の
最も秀れた特徴でもある。
自力信と他力信の
峻別点であり
真仮の分水嶺である。