goo blog サービス終了のお知らせ 

歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

蓮如上人物語(49)(真宗最大の危機 石山戦争1570-1580)

2010年11月18日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(44)(真宗最大の危機 石山戦争1570-1580)

門徒の団結はどこから生まれたか

石山本願寺落成から80年後、
石山戦争が勃発する。
相手は、比叡山の焼き打ち、
後の三重・長島門徒の皆殺しなど、
敵対する者は容赦なく
根絶やしにした織田信長である。

この仏敵に敢然と立ち向かった
真宗門徒のエネルギーは、どこから生まれたのか。

親鸞学徒の団結は、
金や名誉の利害打算ではない。
信心の沙汰によって
徹底された聖人の教え
「一向専念無量寿仏」の信仰の団結が、
信長軍を撃退したのだ。

この歴史上の事実を、
高森顕徹先生著の
『光に向かって123のこころのタネ』
(1万年堂出版)から教えていただこう。

明応五年、蓮如上人が親鸞聖人の教えを
宣布する法城として建立されたのが、
かの有名な摂津(今の大阪府)石山の本願寺である。
 
それより真実を求める人は全国より群参、
石山は大発展し戦国諸大名も
無視できない一大勢力となった。

中でも石山の軍事的、政治的要害の地であることに、
いち早く着目した織田信長は、
幾度も譲渡の相談を持ちかけてきた。

蓮如上人以来、血と涙で守ってきた法城を
仏敵に渡すことはできない。
本願寺が拒絶したのは当然である。

姦雄・信長は遂に元亀元年、
石山攻略の大兵を起こしたが、
予期せぬ敗北に大いに士気を喪失した。

反織田の諸将の挙兵もあって、
さすが強気の信長も一時撤退を余儀なくされる。
むろん彼は目的を放棄したのではない。

果たせるかな天正四年。
陸海からの猛攻は三度におよんだが、
民兵とはいえ真心から守る城は堅かった。

千軍万馬の信長勢も、またまた大敗し
捲土重来を期せねばならなかったのである。

野望あくなき信長の攻撃は、
その後も四度、五度と敢行されたが、
護法の鬼となった人々の魂で築かれた
『南無六字の城』は、
がむしゃらな兵馬の蹂躙を許さなかった。

永禄三年。桶狭間の奇襲より、
戦えば勝ち攻めれば落ち、
朝に一城夕べに一国と領土を広げ、
群雄草のごとくなびき、
五畿内の猛将を馬前の塵に蹴った信長も、
石山攻略だけは断念せざるを得なかったのだ。

この恐るべき力は何処からあらわれたのか。

「人は城 人は石垣 人は堀
 情は味方 仇は大敵」

と戦国武将はいう。

外敵を防ぐには、幾万金を投じた鉄壁よりも
人の団結が凄い力を発揮する。

地の利や毛利の援助があったとはいえ、
何ものよりも大きな力は弥陀の本願真実から
湧き出ずる信仰の団結が、
法城を盤石の泰きにおいたのである。
諺にいう。

「ペンは、剣よりも強し」

と。信はまた剣の力に勝るのだ。

蓮如上人物語(48)(蓮如上人の御遺言)

2010年11月17日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(48)(蓮如上人の御遺言)

蓮如上人が建立された山科本願寺は、
四方土塁をもって固められていたので、
誰の目にも城塞と映った。

しかし、城のような構えを
とりながら武器庫がなった。

世俗の武器はなくとも、
法城を護る人々には、
真実の利剣、南無阿弥陀仏の名刀が
あったのだ。

分立していた真宗諸派を、
次々に統一し、まさに、
燎原の火のごとく、
日本全国を席捲した。

蓮如上人が、本願寺八代目法主に
就かれたのは43歳。
数々の法難にあわれながらも、
山科本願寺を建立されたのは
69歳(完成時)の御時だった。

上人の不惜身命のご布教の結実が、
まるで、法城建立の時期に
あわせるがごとく、
次々に開花していった。

しかし、形あるものは必ず滅びる。
それが、諸行無常の真理だ。

「建物は無常、
 心の中に永遠の大殿堂
 真実信心を建立せよ」

が、蓮如上人の御心だった。

「あわれあわれ、
 存命の中に皆々
 信心決定あれかしと
 朝夕思いはんべり。
 まことに宿善まかせとは
 いいながら、
 述懐のこころ
 暫くも止むことなし」

蓮如上人のご遺言である。

親鸞聖人のみ教えを
無我に相承なされ、
そのご布教に、
85年の全生涯を
捧げられた蓮如上人。

何頭もの駿馬を乗り継いで
全国を駆け巡り、
津々浦々に聖人の教えを
浸透させられた。

応仁の大乱の戦火をかいくぐり、
吉崎御坊、山科本願寺、石山本願寺と、
幾つもの法城を建立され、
拡大させられた。

今日、浄土真宗が
日本で最も多くの人々に
信奉されているのは、
偏に蓮如上人のご尽力による。

その蓮如上人の『御文章』は、
どれも親鸞聖人のみ教えばかりが書かれ、
ご自身のことは全くない。

最も親しまれている「聖人一流の章」も、

「聖人一流の御勧化の趣は~」

で始まり、親鸞聖人の教え以外には
何も記されていないのだ。

ある人に、親鸞聖人のことを聞かれて、

「我も知らぬことなり、
 何事も何事も知らぬことをも、
 開山(親鸞聖人)の
 めされ候ように御沙汰候」

たとえ納得できなくても、
何事も親鸞聖人のなされた通りに
するのがよいのだ、と言われている。

いかに親鸞聖人を尊崇されていたことか。
聖人のみ教えを伝えるためなら
何でもなされ、使えるものは
外典でも引用された。

まさに親鸞学徒の鑑である。

その蓮如上人の絶筆が、冒頭のお言葉なのだ。

「あわれだなあ、不憫だなあ、
 すべての人々よ、
 どうか命のあるうちに、
 信心決定してもらいたい。
 このこと一つ、蓮如は
 終日思い続けているのです」
 
これだけは言っておきたい、
伝えたい、分かってもらいたいと
いう切々たる願いが胸を打つ。

たった一つのことを、
生涯にわたって思い続けることなど、
人間にできるのか、
と驚嘆する人も多かろう。

そのたった一つの願い。それが

「信心決定あれかし」

である。

この漢字四つに仏教が収まる。
釈迦45年間の一切経の目的は、
我々に信心決定させること一つであり、
親鸞聖人の不惜身命の九十年も、
このためのご苦労であったのだ。

これはだから、親鸞聖人のご遺言
そのものである。

「弥陀の本願に疑心有ること無し」

の信心を、早く決定せよ。
今生で信心決定しなければ、
死んでからの極楽往生は
何人も絶対にできないのである。





蓮如上人物語(47)(石山本願寺)

2010年11月16日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(47)(石山本願寺)

同朋の熱烈なご報謝により、
蓮如上人83歳、石山本願寺が完成した。
小坂という町を大坂と命名され、
一大都市に築き上げられたのは、
蓮如上人だといわれる。

85歳で浄土往生なされるまで、繰り返し、
信心の沙汰を勧めておられたことは、
『御文章』に明らかだ。

石山完成後に書かれた4帖目12通を精読してみよう。

「抑、毎月両度の寄合の由来は
 何の為ぞというに、
 更に他の事にあらず、
 自身の往生極楽の
 信心獲得の為なるが故なり。
 然れば、往古より今に至るまでも、
 毎月の寄合ということは、
 何処にもこれありと雖も、
 更に信心の沙汰とては
 嘗て以てこれなし。
 殊に近年は、何処にも寄合の時は、
 ただ酒・飯・茶なんどばかりにて
 皆々退散せり。
 これは仏法の本意には
 然るべからざる次第なり。
 いかにも不信の面々は
 一段の不審をもたてて、
 信心の有無を沙汰すべきところに、
 何の所詮もなく退散せしむる条、
 然るべからず覚えはんべり。
 よくよく思案をめぐらすべきことなり。
 所詮、自今已後においては、
 不信の面々は、相互に
 信心の讃嘆あるべきこと肝要なり」
  (御文章4帖目12通)

毎月2度開催する会合は
何のためかといえば、ほかでもない、
自身の往生極楽の信心獲得のためである。

随分以前から、毎月の会合は
どこでも行われているが、
信心の沙汰は全く
なされていない有り様だ。

とりわけ最近は、
どこでも会合の時には、
ただ酒や食事やお茶などを
楽しむばかりで、
皆引き揚げてしまう。
これは仏法の本意ではない。

未信の人々は、教えに対する疑問を
一つでも申し立てて、
真実信心の有無を
論じ合うべきである。
何の甲斐もなく帰ってしまうのは、
非常によろしくない。
よくよく反省すべきである。

詮ずるところ今後は、
不信心の人々は、
互いに信心の沙汰をすることが
最も大切である。

石山御坊建立(83歳)の翌年2月、
蓮如上人84歳の御時のお手紙である。
ご往生なされたのが85歳だから、
その前年に当たる。

冒頭からズバリ、
親鸞学徒が会合する目的を
言明されている。
それは、ただ一つ。
往生極楽の信心獲得以外にはない。

聞法しても、聖教を拝読しても、
聞き誤り、誤解がたくさんある。
それを放置しておいては、
正しい教えは身につかない。

会合の場で、法友と仏法を
語り合うことで、
その誤りが正されるのだ。

せっかく法友が集っても、
酒飯やお茶を頂いて
世間話をするだけで
帰ってしまうのでは、
仏法の大目的が
全く忘れられているのだ、
と大喝されている。

法友と会食することで、
互いの心の距離も近くなるのだから、
会食がよくないのではない。
信心の沙汰のないことが悪いのである。

肝要」は、仏法で非常に重い言葉だ。

「相互に信心の讃嘆あるべきこと肝要なり」

とおっしゃる御心を銘記したい。




蓮如上人物語(46)(二益法門)

2010年11月15日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(46)(二益法門)

蓮如上人の『御文章』の中に

「親鸞聖人のみ教えは一益でしょうか、
 二益でしょうか」

と尋ねた人に対して、
上人は、

「一益ではない、二益だ」

と答えられて、
現当二益が浄土真宗の教えだと
教えておられる。

二益とは、

「現世の利益」と
「当来の利益」を

いうのだが、これを略して
現当二益といっている。

現世というのは、現在ただいま、
人間界に生きている時をいうが
「人生は苦なり」と
釈尊が喝破されたように、
科学や医学や文明は
長足の進歩を遂げているが、
人間の苦悩は少しも減ってはいない。

これらの発達は世界的なものだが、
年々自殺者は増加こそすれ
少なくなっていない。
いかにみんなが苦しみ悩んで
いるかが分かる。

釈尊は

「有無同然
 あればあることで苦しみ、
 無ければ無いことに苦しむ」

とおっしゃって、
物や金の有無に関係なく、
人々は苦しんでいる。
それは各自の造った業に
よるのだと教えられている。
その業を断ち切らない限り
絶対に人間は幸福に
なれないとおっしゃいる。

その我々を縛って
苦しめている業を
断ち切ることのできるのは
阿弥陀仏の御名号しかない。

阿弥陀仏の御名号のみが
私たちの業を断ち切り、
我々を絶対の幸福に
してくだされる力がある。

これを親鸞聖人は

「念仏者は無碍の一道なり」

と『歎異鈔』で叫ばれた。
また、ご自身が救われた体験を

「弥陀五劫思惟の願を
 よくよく案ずれば、
 ひとえに親鸞一人が為なりけり。
 されば若干の業を
 もちける身にてありけるを、
 助けんと思召したちける
 本願のかたじけなさよ」
   (歎異鈔)

と一切の業苦から解放された
喜びを告白しておられる。

そして『和讃』には、

「南無阿弥陀仏をとなうれば 
 この世の利益きわもなし 
 流転輪廻のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ」
  (正像末和讃)

と、この世で、
際もない大功徳大利益を頂いて、
幸せいっぱい、満足いっぱいで
生活させてもらえるようになるのだ
と教えておられる。
これが現世の利益である。

この大功徳大利益を頂いて、
ただいま絶対の幸福に
生かされている人は、
娑婆の縁尽きた暁は、
報土往生ができ、
阿弥陀仏と同体の仏に
成ることができる。

報土往生とは
弥陀の浄土のド真ん中へ
生まれるということ、
弥陀同体とは
阿弥陀仏と同じく
無量寿、無量光の仏に
成るということである。

そして、思う存分、
自由自在に衆生済度に
活動できるということである。
これが当来に頂く利益である。
 
しかし、これは飽くまで、
現益を頂いている人で
なければあらわれてこない。

今日の浄土真宗の道俗のように、

「この世はどうにもなれない。
 死んだらお助け、
 死んだら極楽」

などと言っている者は、
絶対この世も未来も
助からないから現当無益である。

現当二益の尊い教えだといいながら、
この世はどうにもなれないと
言っているのは情けない限り。

真宗を破滅せしむる者は他にあらず、
現益を獲得することを忘れて、
当益を夢みている真宗の道俗なのだ。





蓮如上人物語(45)(易往而無人)

2010年11月14日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(45)(易往而無人)

釈尊は、『大無量寿経』の中に、

「易往而無人」

と説かれている。
 
これを蓮如上人は、

「この文の意は、安心を取りて
 弥陀を一向にたのめば
 浄土へは参り易けれども、
 信心をとる人稀なれば
 浄土へは往き易くして
 人なしと言えるは
 この経文の意なり」
   (御文章2帖目7通)

と仰言っている。そして、

「この一流のうちに於て
 確々とその信心のすがたをも
 得たる人これなし。
 かくの如くの輩は
 いかでか報土の往生をば
 容易く遂ぐべきや。
 一大事というはこれなり」
  (御文章1帖目5通)

「しかれば、当時は
 さらに真実信心を、
 うつくしく獲たる人、
 至りて稀なりと覚ゆるなり」
  (御文章2帖目5通)

「近年、仏法は人みな
 聴聞すとはいえども、
 一往の義を聞きて、
 真実に信心決定の人
 これなき間、
 安心も疎々しきが故なり」
  (御文章4帖目7通)

「おおよそ心中を見及ぶに、
 とりつめて信心決定のすがた
 是なしと思いはんべり。
 大に歎き思うところなり」
  (御文章4帖目13通)

と悲嘆なされている。
 
親鸞聖人のご在世の時も同じで、
『御伝鈔』には、

「法然上人のお弟子三百八十余人の中で
 信の座に入ったのは五、六輩にすぎず」

とあるように、
法然上人のような明師に就き、
親鸞聖人のような友を
持った人たちでさえ、
このような有り様だったから、
いつの時代でも信後の人は雨夜の星で、
ほとんどの人は信前なのだ。

それを、この身このままこの機のなりで、
死にさえすれば極楽往生、弥陀同体、
いつとはなしに法の尊さを知らされて
念仏称えている者を、
みんな信後の者と思っているのが、
世間の実態である。

「まことにもって坊主分の人に限りて、
 信心のすがた一向無沙汰なりと聞えたり。
 以てのほか歎かしき次第なり」
 (御文章4帖目7通)
 
蓮如上人が、特に坊主に
信心決定している者がいないことを
深く嘆かれたとおりである。
 
圧倒的に多い信前の後生の一大事を
鮮明に教えなければ、
仏法どころか鉄砲にもならない。
 
仏教はこの地獄必定の一大事に驚き、
この一大事の解決で終わるのだから、
この一大事が分からなければ、
仏教は金輪際分かるものでは
ないのである。
 



蓮如上人物語(44)(親鸞聖人の教えが一向宗といわれる訳)

2010年11月13日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(44)(親鸞聖人の教えが一向宗といわれる訳)

親鸞聖人の教えが、
後に「一向宗」と
いわれるようになったのは、
真宗門徒が、固く
「一向専念無量寿仏」を
護り通したためである。

世の人々は、
浄土真宗といわずに、
一向宗と呼んだのである。

ところが今日、その意味は、
全く知られていない。

「うちは代々一向宗」

と胸を張る一家のあるじに、

「一向宗の意味をご存じか」

と尋ねると、

「何を拝んでおっても
 一向にかまわんから
 一向宗というのだろう」

と答えたという、
笑うに笑えない話もある。

親鸞聖人は、

「一向専念の義は、
 往生の肝腑、
 自宗の骨目なり」
 (御伝鈔)

我々が救われるかどうかは、
一向専念無量寿仏するか否か、
これ一つで決するのだ。
と断言され、蓮如上人も、

「更に余の方へ心をふらず」
  (御文章5帖目1通)

「みなみな心を一つにして、
 阿弥陀仏を深くたのみ
 たてまつるべし」
 (御文章)

と勧められている。
 
江戸中期の有名な儒者・太宰春台は、

「一向宗の門徒は、
 弥陀一仏を信ずること専にして、
 他の仏神を信ぜず、
 如何なる事ありても、
 祈祷などすること無く、
 病苦ありても呪術・符水を用いず、
 愚なる小民・婦女・の類まで、
 皆然なり、是親鸞氏の教の力なり」

と驚嘆している。
 
ここからも、私達の先達は
一切の迷信行為をしなかったばかりか、
弥陀一仏以外は、決して礼拝したり、
信ずることがなかったことがよく分かる。

私たち親鸞学徒の、
進むべきはただ

「一向専念無量寿仏」。

光に向かって幸せな道を、
ただひたすら、進ませて頂こう。


蓮如上人物語(43)(一心一向)

2010年11月12日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(43)(一心一向)

仏教は後生の一大事を知るところから始まり、
後生の一大事の解決で終わるのだが、
どうすれば後生の一大事を解決できるのか。

釈尊は一切経の結論で

「一向専念無量寿仏」

"無量寿仏に一向専念せよ"

と仰言ったのある。

それを蓮如上人は

「一心一向というは、
 阿弥陀仏に於て、
 二仏をならべざる意なり」
  (御文章2帖目9通)

と御教導なされている。

一心とは、阿弥陀仏だけを信じ、
ほかの仏や菩薩を並べて拝んだり
信じたりしないことだ。

これは最も大切なことだら蓮如上人は、

「忠臣は二君につかえず、
 貞女は二夫をならべず」

と、分かりやすい比喩まで挙げて、
ご教示になっている。

この言葉は中国の歴史書『史記』に出ている。
仏教の経典以外の書だから、
蓮如上人は外典と言われている。

その『史記』には次のような有名な話がある。

昔、中国の斉という国の国王が、
おごりに長じて酒食にふけり、
大事な政治を怠っているのを嘆いて、
忠義な王燭という大臣が
たびたび王に諫言したが、
いつも馬耳東風で一切
聴き入れてくれなかった。

そこで王燭は、
身の不徳を嘆いて役職を辞退して
画邑という所へ隠居してしまった。

王燭のいなくなった斉の国は
崩壊を待つばかりの状態であったので、
隣国の燕王が今がチャンスと
楽毅という人を総大将として、
斉の国に攻め込んできた。
斉はひとたまりもなく壊滅した。

その時、燕の大将・楽毅は、
かねてから王燭の賢徳手腕を高く
評価していたので、
燕の高官に迎えたいと
幾度も礼を厚くして勧めたが、
王燭は頑として応じようとしない。

それでも楽毅が勧誘を
あきらめなかったので、
最後にその使者に向かって、

「忠臣は二君につかえず、
 貞女は二夫をならべず」

と喝破して、庭先の松に縄をかけ、
自ら縊れて死んだとある。
 
蓮如上人はこのことを思い出されて、
わずか娑婆一世の主従でさえ、
忠臣は二君に仕えずと言って
死んで心の潔白を表しているではないか。
ましていわんや、
未来永劫の一大事の解決を求めている者が、
二仏をならべていてどうして
一大事の解決ができようか。

私たちの一大事の後生を
救い切れるお方は、
本師本仏の阿弥陀如来しかないのだから、
弥陀一仏に一心一向になれよと、
お諭しになっているのだ。

蓮如上人物語(42)(二つの後生の一大事)

2010年11月11日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(42)(二つの後生の一大事)

釈迦一代の教えは一切経に
書き残されている。
七千余巻の膨大な経典だから
「八万の法蔵」ともいわれる。

では、何が教えられているのが仏法だろうか。

一つは、万人に「後生の一大事」が厳存することと、
その「解決方法」の二つである。

親鸞聖人九十年の教えも、その外はない。
ゆえに仏教は後生の一大事を
知ることから始まり、
その解決で終わるのだ。

「後生」をまだまだ先のことと
誤解している私たちに蓮如上人は、
有名な「白骨の章」で切々と、
こう指摘されている。

「されば、人間のはかなき事は
 老少不定のさかいなれば、
 誰の人も、はやく
 後生の一大事を心にかけて、
 阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
 念仏申すべきものなり」
(白骨の章)

では後生の一大事とは何かというと、
後生とは死んだら後生である。
来世のことである。

蓮如上人は御文章の中で
二つの後生の一大事を
教えておられる。

一つには

「信心決定して、
 その信心のおもむきを
 弟子にもおしえて、もろともに、
 今度の一大事の往生を、
 よくよくとぐべきものなり」
  (御文章1帖目11通)

「それ、当流親鸞聖人の勧めまします所の
 一義の意というは、
 先づ他力の信心をもって
 肝要とせられたり。
 この他力の信心ということを
 詳しく知らずば
 今度の一大事の往生極楽は
 真にもってかなうべからずと、
 経釈ともに明らかに見えたり」
  (御文章2帖目10通)

信心決定している人が死ねば、
報土往生(極楽往生)し、
弥陀同体のさとりを得るという
一大事を必ず体験するから、
信後(信心獲得している人)の
後生の一大事は
極楽往生することである。

それに対して、
信前(信心獲得していない人)の
後生の一大事は蓮如上人が、

「後生という事は、ながき世まで
 地獄におつることなれば、
 いかにもいそぎ
 後生の一大事を思いとりて、 
 弥陀の本願をたのみ、
 他力の信心を決定すべし」
   (帖外御文)

「この信心を獲得せずば、
 極楽には往生せずして、
 無間地獄に堕在すべきものなり」
  (御文章2帖目2通)

「命のうちに不審もとくとく
 晴れられ候わでは
 定めて後悔のみにて
 候わんずるぞ、
 御心得あるべく候」
  (御文章1帖目6通)

「あわれあわれ、
 存命の中に
 皆々信心決定あれかしと
 朝夕思いはんべり」
  (御文章4帖目15通)

等とご教示になっているように
地獄へ堕在するという
一大事のことである。

親鸞聖人は、これを、

「若しまたこの廻疑網に
 覆蔽せられなば更りてまた
 昿劫を逕歴せん」
  (教行信証総序)

と仰言っている。

蓮如上人は信前と信後の
後生の一大事の相違を
承知して教えているのだ。

そして仏法を求めている人の
ほとんどの人は信前の人である。

この信前の人に必ず引き起こる
後生の一大事の解決こそが
人生の目的であることを
蓮如上人は生涯をかけて
ご教導なされてゆかれた。





蓮如上人物語(41)(信心の沙汰)

2010年11月09日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(41)(信心の沙汰)

急速な真実興隆は、上人が一貫して、
親鸞聖人の本当のみ教えを説き続けられ、
信心の沙汰を勧めておられたからである。

吉崎御坊時代の『御文章』には、
こう書かれている。

「せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて、
 わが信心は・ひとの信心は如何あるらんという
 信心沙汰をすべき用の会合なるを、
 近頃はその信心ということは
 かつて是非の沙汰に及ばざるあいだ
 言語道断あさましき次第なり。
 所詮、自今已後はかたく会合の座中に於て
 信心の沙汰をすべきものなり。
 これ真実の往生極楽を遂ぐべき謂なるが故なり」
  〈御文章1帖目12通〉

せめて月に一度でも、法友が集まり、

『自分の信心は、ほかの人の信心はどうか』

と、信心の沙汰をするのが会合である。
しかし最近は、その信心の是非について
話し合われていないのだから、
言語道断、あきれて物が言えない。
今後は会合で、信心の沙汰をしなさい。
これが真実の極楽往生を遂げるに
大事なことであると
蓮如上人は信心の沙汰を勧められておられる。

吉崎に立ち並んだ「多屋」は、
各地の寺の宿舎であったのみならず、
上人のご説法をお聞きしたあとに、
布団に入るまで信心の沙汰をする場でもあったのだ。

山科御坊完成2年後に書かれた四帖目八通にも、

「もとより我が安心の趣
 いまだ決定せしむる分もなきあいだ、
 その不審をいたすべき所に、
 心中を包みて有の儘に語らざる類あるべし。
 これを責め相尋ぬる所に、
 有の儘に心中を語らずして、
 当場を言い抜けんとする人のみなり。
 勿体なき次第なり。
 心中を遺さず語りて、
 真実信心に基くべきものなり」。
  (御文章4帖目8通)

信心決定していないにもかかわらず、
疑問を尋ねずに心中に包み隠して、
ありのままに語らない者があるようだ。
その場を言い抜けようとする人ばかりである。
もってのほかだ。
心中を余すところなく語り、
真実信心を獲得せねばならない。

信心の沙汰を繰り返すことで、
門徒の信度が深まり、

「群集して幾千万」

と『帖外御文』にあるほど
人々が群参した山科には、
他派の門徒も、蓮如上人を慕って
参詣していたことが分かっている。

初めは、京都に小堂を構えるに
すぎなかった本願寺に比して、
仏光寺派、木辺派などの
真宗他派のほうが、ずっと優勢だった。
が、それらのトップが
末寺数十カ寺を引き連れて
蓮如上人に帰属し、
真宗地図が大きく
塗り替えられてしまったのだ。

このように、山科本願寺で
盤石のドメインを築かれた上人であったが、
82歳になられてさらに、
山科御坊の別院として思い立たれたのが、
大坂・石山本願寺であった。

未来の親鸞学徒のためにも、
これはぜひ必要だと決断され、
衰えを知らぬ情熱を傾けて
建立なされたのである。

翌年、門徒同朋の熱烈なご報謝で完成。
政治・経済・交通の要衝であることを
見抜かれた蓮如上人の先見性によって、
この石山の法城が、さらに80年後、
日本史を左右する激動の舞台となっていく。


蓮如上人物語(40)(堅田の法住)

2010年11月08日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(40)(堅田の法住)

近江堅田・本福寺三代目の住職・法住が
十七歳の頃、病気で寝ている時に、
次のような夢を見た。

薄い墨染めの衣をまとった貴い僧が二人、
法住の家に入ってこられ、

「お前は何て愚かなのか」

と言われながら羽ぼうきで
仏壇を掃除された。

すると、いろいろな虫が、
はらはらと落ちてきた。
夢の内容を語ると、母は、

「その二人の貴い僧こそ、
 法然上人と親鸞聖人に違いない。
 もともと、祖父・善道が
 覚如上人のお弟子となり、
 浄土真宗本福寺を開いたのに、
 父の覚念が、禅宗に改宗したのを、
 両聖人さまが悲しく
 思われたのでしょう。
 病気が治ったら、必ず、
 本願寺へ参詣しなさい」

と諭した。
法住は全快後、友人を誘って、
京都の本願寺へ参詣した。
胸躍らせ、訪れたはずなのに、
法住が見た本願寺は、
あまりにも寂れていた。
その驚きを、次のように記している。

「人せきたえて、参詣の人一人も
 みえさせたまわず。さびさび」
 (本福寺由来記)

これはちょうど、
蓮如上人がお生まれになる二年前、
応永二十年(1413)のことであった。