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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

蓮如上人物語(20)(山科へ 御自ら陣頭指揮を)

2010年10月19日 | 死の名場面
蓮如上人物語(20)(山科へ 御自ら陣頭指揮を)

「実に広大な土地でございますぞ」

蓮如上人を案内して、
先に立つ道西。
彼の足は勇みたっていた。

「私は、山科へ行くたびに、
 ここが本堂、この辺を大門に、
 などと、いつも夢に描いておりました」

蓮如上人は、笑みをたたえて
聞いておられた。

やがて、山科へ着かれ、
一巡された上人は、

「良い所を知らせてくれた。
 自然に恵まれ、
 人里離れた静かな環境といい、
 聞法道場としては最適な場所だ。
 この地に大殿堂を建立しよう」

と決断された。

道西は、躍り上がって喜んだ。
土地の所有者は、
出口御坊へ、よく参詣する
海老名五郎左衛門。

「上人のお気に召せば、
 いつでも財施したい」

と、前々から申し出ているので
話は早く進んだ。

「道西よ、早速山科へ移るとしよう。
 早々に工事に取りかからなくてはな」

上人の仰せに、道西は、

「まず、山科に仮のお住まいが
 できるまでお待ちくださいませ」

と、しきりに申し上げたが、
聞き入れられる上人ではない。

二十日後の一月二十九日には、
もう、お弟子を連れて
出口から移ってしまわれた。

付近の農家に分宿され、
蓮如上人、御自ら、
建築工事の指揮を執られる。

時は、今から五百年もさかのぼる室町時代。
ブルドーザーやトラックなどはない。
土地造成も人力。
建築用資材を運ぶだけでも、
大変な日数を要した。

土地を財施した海老名五郎左衛門だけでなく、
全国の門信徒の熱い浄財、
労力奉仕があればこそ進む大事業である。

翌文明十一年には、
庭園と寝殿(上人とご家族が使用される所)が完成。
次は、本堂の建設。

本堂は、蓮如上人が説法される所であり、
最も大切な建物である。
しかも、ただいたずらに威容を
誇ることが目的ではない。
参詣者一人一人が、
ご説法を真剣に聴聞できる条件を
完備しなければ意味がない。

吉野の山奥から、
棟木となる大木が切り出され、
年末には、すべての資材がそろった。

しかし、蓮如上人は慎重を期された。
いきなり本建築にかかられず、
先に、設計図どおりの模型(三畳敷)を作られ、
細部にわたる検討を重ねられた。
建築工事が本格的に開始されたのは、
明けて文明十二年二月三日からだった。




死の名場面(31)-6(スコットの敗北の理由)

2010年06月15日 | 死の名場面
死の名場面(31)-6(スコットの敗北の理由)

スコット隊がアムンセン隊に敗れ、
遭難死した理由については、
その当時から数多くの者が分析を行っている。

中でも、スコット率いる南極探検隊に参加し、
スコット達の捜索隊にも参加した、
アスプレイ・チェリー=ガラードらは、
スコットがアムンセンに遅れをとった事や
遭難死に至ったその敗因について、
以下の様な分析を残している。

①アムンセン隊は犬ゾリとスキーによる
 移動を行い、極点に到達したが、

 スコット隊は当初使用した雪上車、
 主力とした馬による曳行が悉く失敗し、
 人力でソリを引かざるを得ず、
 いたずらに体力の消耗を招いた。
 寒冷な気候に強いとされる品種
 の馬を用意していたものの、
 馬そのものの体重が重いため
 雪に足をとられたり、
 クレバスに転落した事などに加え、
 馬が生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、
 馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。

②アムンセン隊では現地に棲息する海獣を
 狩るなどして携行食糧を少なめに抑えた。
 この肉は人だけでなく犬ぞりの犬も食している。

 一方スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。
 特に馬のための干草類は現地では
 全く入手できるものではなかったうえに、
 馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。

③アムンセンの探検隊が南極点到達を
 最優先していたのに対し、

 スコットは地質調査等の
 学術調査も重視しており、
 勢力を分散させる結果となった。

④アムンセン隊は南極点への最短距離にあたる
 クジラ湾より出発したが、

 スコット隊は学術的調査の継続のため、
 より遠いマクマード湾より
 出発せざるを得なかった。
 スコット隊の最終メンバーは30代が中心であり、
 30歳以下の隊員はバウアーズ一人だけだった。
 夏期としては異例の暴風雪にみまわれた。

人類史上初の南極点到達を競うことになるが、
2着に終わり、さらに帰路1912年3月29日、
死去した。享年43。
同年10月に救援隊により遺体・遺品が発見される。







死の名場面(31)-5(スコットの遺書)

2010年06月14日 | 死の名場面
死の名場面(31)-5(スコットの遺書)

先に帰還した隊員たちは、
2月末までに全員エヴァンズ岬の基地に到着した。
救難隊により3人が発見されたのは、
次の夏を迎えた6ヵ月後のことだった。
スコットは親友でもあったウィルソンの胸に手をかけ、
もう一方の手にはブラウニングの詩集が握られていた。

テント内では、遺品の他、
死の直前まで書かれた日記・地質標本等も遺されていた。
特筆すべきは、南極点でアムンセン隊から
委託されていた手紙である。
スコット隊が持ち帰った事により
アムンセン隊の南極点先達は証明され、
またスコット隊の名声を高めた。

スコット本人の遺書はイギリスの名誉に
対する隊員の働きを称え、遺族への保護を訴え、
キャサリン夫人に対しては、

「我が愛する人よ、
この寒さの中では
書くことも容易ではない。
零下70度、
 しかもこのテント以外に
 防御するものが何もない。
 この状況下で最悪なことといったら、
 君にもう二度と会えない
 だろうということだよ」

相応しい男性と出会えば再婚を勧める
という内容のものであった。

探検隊は翌1913年1月22日に
南極を離れ、帰国の途についた。



死の名場面(31)-4(スコット 南極で力尽きる)

2010年06月13日 | 死の名場面
死の名場面(31)-4(スコット 南極で力尽きる)

1912年1月17日に南極点に
到達したスコット隊は
翌18日に英国国旗を立てる。

しかしその時は、アムンセン隊が南極点に
到達してから既に約1ヶ月も経っており、
極点にはノルウェーの国旗が立てられていた。

極点から3km程離れた場所にテントが設営され、
食料・防寒具・手紙が置かれていた。

映画などでは劇的効果を高めるために
南極点到達時にアムンセン隊に先を
越されたことが初めて判明したように
描写されることが多い。

しかしスコット達はそれ以前にアムンセン隊の
ソリの滑走痕を視認しており、
遅くとも1月16日には彼等に先を越されたことは
ほぼ確実であると認識していた。

E・エヴァンズの衰弱と凍傷は激しく、
2月16日、最初に死亡した。

しかし、このような状況にあっても、
ウィルソンを中心に標本採集を継続していた。
さらに不運な事に、2・3月としては
例外的な荒天が続いた。
また、前年にデポに貯蔵した燃油も、
冬と夏の気温差により缶が損傷したため、
著しく欠乏していた。

続いてオーツが足に重度の凍傷を負い、
自らを見捨てるよう嘆願するようになった。
彼が重態となった3月14日、
スコットは日記に、携行していた
阿片・モルヒネの使用を
ウィルソンに相談した事を記した。

3月17日の朝、オーツは
「I am just going outside and may be some time」
と言葉を残してブリザードの中
テントから出て行方不明となる。
この日は、彼の32歳の誕生日でもあった。

3月21日、食料を置いたデポまで
あと20kmのところで猛吹雪に見舞われ、
テントでの一時待機を余儀なくされる。

吹雪は10日間も吹き荒れ
テントに閉じ込められたが、
スコット隊の持っていた食料は
たったの2日分だけだった。

スコットは日記に1912年3月29日付で
「もはや力尽きてしまった」
と書き残し、寝袋に入ったまま3人とも
テント内で息を引き取った。

死の名場面(31)-3(スコット 南極点に到達)

2010年06月12日 | 死の名場面
死の名場面(31)-3(スコット 南極点に到達)

1911年1911年10月、
マクマード湾での越冬を終えたスコット隊は、
エヴァンス岬(ロス棚氷)から南極点に向け出発する。
雪上車2台による先発隊が10月24日、
そしてスコットが率いる馬ソリの本隊が11月1日に出発した。

しかし、これに先立つ10月19日には、
より南極点に近いクジラ湾から
アムンセンの犬ぞリ隊も南極点を
目指し出発していた。

出発前にアムンセンはスコット隊の隊員と会見した時、
そり犬を譲ろうと申し出ているのだが、
イギリス側はその申し出を断っている。

スコット隊は投入した2台の雪上車が、
スコットの期待に反し1週間足らずで
両方とも故障し、修復不可能になる等、
南下は困難を極めた。

主力の馬も、11月21日に1頭、
寒さと疲労、餌の欠乏で次々と失い、
南下のペースが鈍ってゆく。

12月2日、ついに食料節約のため最後の一頭も
射殺せざるを得ない状況に追い込まれた。
ついに人力でソリを曳かざるを得なくなっのだ。

この時点で、4人一組で曳引するソリが3台、
犬ゾリが2台となる。

12月11日、まず犬ゾリ隊が帰還。
同月22日に、4名が帰還した。

1912年1月4日に南緯87度32分の
地点でグループは分かれ、
エヴァンス少佐ら3名が帰還した。

最終的に南極点を目指すのは
スコット、ウィルソン、バウアーズ、
オーツ大尉、エヴァンスの5人に絞られた。

スコットが直前になってバウアーズを加え、
当初の予定より1名多い。

1月9日、かつてシャクルトンが
到達した南緯88度23分を越える。
翌10日、最後のデポを建設。

1月17日18時30分頃、
スコット達は遂に南極点に到達した。



死の名場面(31)-2(スコット 南極探検計画)

2010年06月11日 | 死の名場面
死の名場面(31)-2(スコット 南極探検計画)

ロバート・スコットは 1868年、
醸造業を営むジョン・エドワード・スコットの長男として、
誕生。武人の家系であり、
13歳で海軍兵学校に入学する。
15歳で士官候補生となる。
1888年、海軍大学を卒業。

1899年、少佐だったスコットは、
王立地理学協会による南極探検計画を知り、
隊長として参加する事を熱望する。
翌年中佐に昇進し、その任にあたった。

1901年から1904年にかけて、
第1回南極探検が行われた。
この際、アーネスト・シャクルトンらと共に
南極点到達を目指し、残り733kmの地点まで迫っている。

また、ペンギン生態観察等を行い、
南極に関する多くの科学的知見を得て、
高い評価を得、帰国と同時に大佐に昇進するのであった。

1908年に、彫刻家のキャサリン・ブルースと結婚。
1909年9月、彼の南極探検計画が発表され、
同年12月には自ら予備役に転じ資金調達に奔走する。

前回の南極探検は、国家的プロジェクトだったが、
今回の探検はその立案から
スコット個人によるところが大きい。

1910年6月1日、スコットはテラ・ノヴァ号にて
第2回南極探検に出発する。
この探検には8,000名の希望者から選抜された
33名の上陸隊員が参加し、
南極の科学的探査を行うと共に、
世界初の南極点到達を目標としていた。

同年アムンセン率いるノルウェー隊は、
北極点到達が米国により達成された事を知り、
目標を南極に変更。

10月12日、オーストラリアのメルボルンに、
10月27日にはニュージーランドのウェリントンに到着。
ここで、ノルウェーのアムンセン隊も
南極点到達を目指すことを知るのだ。

なお、スコット本人は資金調達のため別行動を取った。
両隊とも、1911年1月には南極大陸に上陸し、
翌夏の南極点到達を目指し、
デポ(前進基地)の建設等準備を進めた。
この冬の段階で、すでに馬は10頭まで減っている。

また、ウィルソンやキャンベルを中心に学術調査も行われた。



死の名場面(31)(スコット 探検史上、最大の悲劇)

2010年06月10日 | 死の名場面
死の名場面(31)(スコット 探検史上、最大の悲劇)

イギリスの海軍大尉スコットと4人の隊員が
南極点の一番乗りを目指して、
苦難の行進のすえ、やっと極点に到達したのは、
1912年1月17日だった。
前人未到の処女地である筈の大雪原に、
黒い旗が立っているのを見て、
彼らは信じがたい驚きにうたれた。
それは1カ月も早く極点を征服した
ノルウェーのアムンゼン隊が
残したテント跡だったのである。

先陣争いに負けたスコット隊は、
失望のあまり、帰路、猛吹雪にあって、
ついに全員が死亡した。
世界の探検史上、最大の悲劇といわれている。

敗北の原因は輸送力にあった。
スコット隊はシベリア馬を使ったが、
馬は意外と寒さに弱く、
出発してまもなく全滅した。

アムンゼン隊のほうは、
多数の犬にソリを引っ張らせ、
帰りの補給品を途中に残していく度に
荷が軽くなりと、不用意になった犬を射殺して、
その肉を食料にした。

スコット隊が全行程のほとんどを
人力でソリを引っ張って歩いたのに比べて、
アムンゼン隊は往復とも犬ゾリに乗って
完走したのである。

スコット隊の足取りは重かった。
一人は凍傷で死に、
もう一人は歩行が困難になると、
仲間に迷惑をかけるよりも死を選んで、
自ら吹雪の中へさ迷い出て、行方不明になった。

残る3名が最後のテントを張ったのは、
3月21日だった。
補給貯蔵所まであとわずか20キロの地点だったが、
彼らにはもはやそこへたどり着く余力がなかった。
荒天の為、小さいテントの中に9日間も
閉じ込められて、食料と燃料が尽き果て、
ついに全員が死亡したのである。


死の名場面(30)-7(何一つ報われなかったマゼラン)

2010年06月09日 | 死の名場面
死の名場面(30)-7(何一つ報われなかったマゼラン)

マゼランの船団は出港して3年で
世界一周を成し遂げた。
しかし、277人いた組員のうち、
生還者はわずか18名にすぎなかった。
その一番の指導者マゼランさえ、
帰国することができなかったのだ。


船内ではビタミンC不足による壊血病が
多くの船員の命を奪った。

その後、マゼランが提唱した西回り航路は
危険が大きすぎるために省みられずに
ポルトガルへ売却されることになる。

しかし、マゼランが
「地球が丸い」ことを実証したことは
ヨーロッパの大航海時代にとって
非常に大きな意味があったと言える。

なお、マゼランを殺したラプ=ラプは
フィリピンで侵略者を撃退した英雄
として伝説になっている。

マゼランが発見した海峡は
マゼラン海峡と呼ばれるようになり、
またマゼランが航海中に観測したという話から
大マゼラン銀河、小マゼラン銀河の名がついた。

また、太平洋は、マゼランが一度も嵐に合うことなく、
大きな海を乗り切った静かなる海と
いう意味で名付けられたといわれる。

しかし、マゼランの妻も子供も
すでに死亡していたので、
地球が丸いことを証明した
この偉大な航海者の栄誉は
何一つ報われなかったのである。


死の名場面(30)-6(マゼランを失った船団のその後)

2010年06月08日 | 死の名場面
死の名場面(30)-6(マゼランを失った船団のその後)

マゼランは部下にとって
邪魔な指揮官だった。
だが、すぐれたリーダーを
見殺しにした船団の帰路の
運命は悲惨だった。

残された乗組員はひどく人数が
少なくなってしまったため、
損傷の激しいコンセプシオン号を
セブ島で焼き捨てることにした。

そして残った2隻の船長らが中心となって
再び航海を続けるため出航し、
しばし迷走しながらも1521年11月8日
当初の目的地であったモルッカ諸島に
何とかたどり着くことができた。

しかしティドーレ島で大量の香辛料を
積み込んだものの、トリニダー号が破損し、
大掛かりな修理をしないと
出航不能なことが判明。

やむなくビクトリア号だけが
先に西を目指して帰航の途に
就くことになるが、
結果的にこれが最後の一隻となった。

この時、最後の指揮官となったのが
船長のフアン・セバスティアン・エルカーノである。
香辛料を満載したビクトリア号は
1521年12月21日、残された航路を
急ぐためティドーレ島を出航。
喜望峰を回って、
1522年9月6日にスペインに帰還した。

マゼランの忠実な召使いだった
エンリケの報復によって、
ベテラン船員の多数が虐殺されたので、
船団は乱れてバラバラになり、
漂流する難破船のような姿で、
とにかく世界一周を果たして、
スペインに帰りつくことができたのは、
たった1隻だけだった。

死の名場面(30)-5(部下たちに見放されたマゼラン)

2010年06月07日 | 死の名場面
死の名場面(30)-5(部下たちに見放されたマゼラン)

マゼランがアクタン島の原住民の
襲撃にあって悲運な死を遂げたのを
マゼランの部下たちは、三隻の帆船から、
救助にくるどころか、援護射撃さえもなかった。
自分達の司令官が殺されるのを
他人事のように、手をこまねいて、
甲板上から傍観していたのである。

それというのも、マゼランと他の船長たちとの間に
反目があったからである。
この航海の第一の任務は、香料諸島(モロッカ諸島)へ
いく最短距離の新しい航路を発見し、
そこの特産であるコショウを満載して帰ることだった。

当時、コショウは現代の石油に匹敵するほどの
重要な物資だったのである。
なにしろ冷蔵庫のない時代であるから、
食肉が腐りやすく、その腐臭を消すための調味料として、
食生活にかかせない必需品だった。

モルッカ諸島のコショウを独占する国が
ヨーロッパを支配するとまでいわれていた。
スペインの王や貿易商が他国からのマゼランに出資して、
5隻の船団を提供したのも、実はこれが目的だった。

ところが今世界一周に成功した彼は、
コショウのことよりも、フィリピン全島に
探検家としても領土的な野心をいだいたのである。

だから彼が反抗的な酋長を討伐しようとした時も
他の船長たちは反対して、
こんな無用の島には長居しないで、
はやくモルッカ諸島へ行くことを主張した。

それなのに、彼はあえて上陸作戦を決行したため、
部下から見捨てられ、
自ら太平洋と名付けた海の渚で、
一命を落とす結果になったのである。

船団は彼の遺体を引き取ろうともしなかった。
邪魔な指揮官がいなくなって、むしろ
せいせいしたのである。