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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

桃太郎⑳-3(一家和楽の秘訣)の補足②

2009年06月10日 | 桃太郎
桃太郎⑳-3(一家和楽の秘訣)の補足②

親鸞聖人が法然上人のお弟子になられたのが
29歳の御時であった。
親鸞聖人の勉学は凄まじく、瞬く間に
お弟子の中でも抜き出た存在になってゆかれた。

法然上人は親鸞聖人に『選択本願念仏集』の書写を
許された。

法然上人「親鸞よ。これは、私の教えていることのすべて
      を記したものじゃ。よければ、写すがよい」
親鸞聖人「こ、これは、お師匠様の『選択本願念仏集』で
      はありませんか」
法然上人「そうだ。阿弥陀如来の本願、あやまりなく伝え
      てくれよ」
親鸞聖人「はい。親鸞、命に懸けても、お師匠様の御心を
      お伝えさせて頂きます」

このことは弟子達の間で波紋を呼んだ。

弟子A 「『選択集』を写すことを許された、というのは
     どうも本当のようだな」
弟子B 「たかが、入門して四、五年の親鸞が」
弟子A 「オレなんか、十年たっても、許されないのに」
弟子B 「オレなんか、もう十五年になる」
弟子A 「気にくわん奴だ」

面白くない弟子たちが、ある晩、親鸞聖人の書き写されたものを
破り捨ててしまったのである。

それを法友の聖覚法印が気付き親鸞聖人に伝える。
親鸞聖人「聖覚殿、何か」
聖覚法印「親鸞殿、大変だ」
聖覚法印「あなたが、『選択集』の書写を許されたのを、
     ねたんでのことでしょう。それにしても、余りに
     ひどすぎるではありませんか、親鸞殿」

阿弥陀仏に救われても煩悩がなくなったのではない。
激しい怒りが吹き上がる。
親鸞聖人は、ハッと自分の気持ちに対して驚いて、
大きく息をつかれる

親鸞聖人「いやいや、親鸞、とがめることはできません」
聖覚法印「なぜですか」
親鸞聖人「聖覚殿。まさるを妬む心いっぱいの親鸞、
立場を変えれば、同じことをやったに違いない。
いや、もっと恐ろしいことを、やったでしょう。
     それなのに、親鸞、腹が立つのです。
何と馬鹿な親鸞でしょう」
聖覚法印「しかし、こんなことまでされれば、当然です」
親鸞聖人「聖覚殿。縁が来たら、いかなる振る舞いもする
     恐ろしい親鸞、そんな親鸞と見抜いて助けたもうた
阿弥陀如来の本願を、喜ばずにおれません」
と、合掌される。
聖覚法印「親鸞殿・・・」
親鸞聖人「私を縁として、あの方々も、一日も早く阿弥陀
    如来の本願に、救われて頂きたいばかりです」



桃太郎⑳-3(一家和楽の秘訣)の補足

2009年06月09日 | 桃太郎
桃太郎⑳-3(一家和楽の秘訣)の補足

この一家和楽の秘訣を読まれた方からの
質問があったので補足しておきたい。

(原文)
ある所に、内輪ゲンカの絶えないA家と、
平和そのもののB家とが隣接していた。

ケンカの絶えないA家の主人は、
隣はどうして仲よくやっているのか
不思議でたまらず、
ある日、B家を訪ねて懇願した。

「ご承知のとおり、私の家はケンカが絶えず
 困っております。
 お宅はみなさん仲よくやっておられますが、
 なにか秘訣でもあるのでしょうか。
 一家和楽の方法があったら、
 どうか教えていただきたい」

「それはそれは、
 別にこれといった秘訣などございません。
 ただお宅さまは、善人さまばかりの
 お集まりだからでありましょう。
 私の家は悪人ばかりがそろっていますので、
 ケンカにはならないのです。
 ただそれだけのことです」
 
てっきり皮肉られているのだと、
A家の主人は激怒して、
「そんなばかな!!」
と、言おうとしたとき、B家の奥で大きな音がした。
どうも皿かお茶碗でも割ったようである。

「お母さん、申し訳ありませんでした。
 私が足元を確かめずにおりましたので、
 大事なお茶碗をこわしてしまいました。
 私が悪うございました。お許しください」
心から詫びている、お嫁さんの声がする。

「いやいや、おまえが悪かったのではありません。
 先ほどから始末しようしようと思いながら横着して、
 そんなところに置いた私が悪かったのです。
 すまんことをいたしました」
と、続いて姑さんの声が聞こえてきた。

「なるほど、この家の人たちは、みんな悪人ばかりだ。
 ケンカにならぬ理由がわかった」
A家の主人は感心して帰ったという。

「謗るまじ たとえ咎ある 人なりと
    我が過ちは それに勝れり」


(補足)
「どのポイントでB家が悪人ばかりであると合点されたのかが
よくわかりません…」
という質問を頂いた。

B家の人はいつ悪人と知ったのかということだと思うが、
これは地下水と井戸のような関係と思ったら良い。
地下水は常に流れている、
その地下水に地上より穴を掘り、地下水に達すると水が吹き出る。

弥陀に救われると真実の自己は悪人であると常に照らし出される。
これは救われてから死ぬまで変わらず続くから地下水のようなものだ。
これを親鸞聖人は歎異鈔の中で悪人正機と
全ての人間の正しい機様は悪人であると
仰言っておられる。

しかし、これが表面に現れるのは縁に触れてのことである。
姑が片付け忘れた皿を足元も注意せず踏んで割ってしまった嫁。
これは足元を注意もせず歩いていたお嫁さんも悪いが、
片付け忘れたお婆さんも悪いのである。

ところが真実の自己が知らされていないA家で
同じことが起きたらどうなるか。

「誰、こんなところに皿を出しっぱなしにして、
 お母さん、もたもたしないで片付けぐらい
 しかりしてくださいよ。
 このボケ老人が」
と嫁は自分の非を棚に上げ、毒つく。

それが聞こえてきた姑も黙ってはおれぬ。
「私は見えるところに置いておいたのに
 家の中を踏ん反りかえって歩いているから
 見えるものも見えないのでしょう。
 これ高い皿なのよ。弁償してくださいね」
と切り返す。

同じことが起こっても、こうも違ってくるのだ。

お互いが私は悪くない善人だと思っている間は
どのポイントもない。B家のようなことにはならない。

先ずは嫁、姑、どちらでもいい。
仏法を真剣に聞き求め、真実の自己を知らされたなら
必ず相手も変わってくるようになる。

仏教は行学を重んずる。
光に向かって進んでみよう。



桃太郎⑳-4(信心の蚊帳)

2009年06月07日 | 桃太郎
桃太郎⑳-4(信心の蚊帳)

正しい信心を昔、夏につった蚊帳(カヤ)に譬えることがある。

蒸し暑い、蚊で悩まされる夏の夜の風物詩といえば
蚊帳である。
40歳以上の人なら少なからずお世話になってきたはずだ。

「大名も 頭を下げる 蚊帳の中」

蚊帳の中に入る時には
たとえ百万石の殿様であっても、総理大臣であっても、
頭を低く下げて入らなければならない。
「こんなカヤに頭を下げれるか」
と、立ったままカヤの中に入れば、
蚊も一緒に入り、元も子もなくなってしまう。
意味がない。

正しい信心を獲得するには、
「自分ほど悪いものはなかった」
と、知らされ、心の頭がぐっと下がった時でなければ、
正信心の蚊帳の中には入れない。
阿弥陀仏に救われ、法鏡に照らし抜かれた
ご自身の姿を親鸞聖人は
『教行信証』の中に書かれておられる。

『悲しきかな、愚禿鸞、
 愛欲の広海に沈没し、
 名利の大山に迷惑して、
 定聚の数に入ることをよろこばず、
 真証の証に近くことをたのしまず。
 恥ずべし、痛むべし。』
    (教行信証)

「ああ、情けない親鸞だなぁ。
 愛欲の広海におぼれ、
 名誉欲と利益欲にふりまわされて、
 “浄土へ往ける身になった(定聚の数に入る)こと”
 をよろこばず、
 “仏のさとり(真証の証)に近づいていること”も、
 たのしまないとは。
 どこどこまでも痺れ切った奴だなぁ! 
 恥ずかしきことよ、悲しきことか」
 
と同時に
『教行信証』は「よろこばしきかな」で始まり
「よろこばしきかな」で終わっている。
『教行信証』全巻には大歓喜の声が
ひびきわたっている。

「ここに愚禿釈の親鸞、よろこばしきかなや、
西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、
あいがたくして今あうことをえたり、
聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教・行・証を敬信して、
ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
 ここをもって、聞くところをよろこび、
獲るところを嘆ずるなり。」
    『教行信証』総序

「ああ、幸せなるかな親鸞。
なんの間違いか、毛頭遇えぬことに、今遇えたのだ。
絶対聞けぬことが、今聞けたのだ。
釈迦が、どんなすごい弥陀の誓願を説かれていても、
伝える人がなかったら、無明の闇の晴れることは
なかったにちがいない。
 ひろく仏法は伝えられているが、
弥陀の誓願を説く人は稀である。
その希有な、弥陀の誓願を説く
印度・中国・日本の高僧方の教導に、
今遇うことができたのだ。聞くことができたのだ。
この幸せ、何にたとえられようか。
どんないよろこんでも過ぎることはない。
 それにしても知らされるのは、
弥陀如来の深い慈恩である。
なんとか伝えることはできないものか」
 
はじめに、『教行信証』を起草せずには
おれなかった心情を、こう述べて、六巻の
『教行信症』は書き始められている。

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桃太郎⑳-3(一家和楽の秘訣)

2009年06月07日 | 桃太郎
桃太郎⑳-3(一家和楽の秘訣)

ある所に、内輪ゲンカの絶えないA家と、
平和そのもののB家とが隣接していた。

ケンカの絶えないA家の主人は、
隣はどうして仲よくやっているのか
不思議でたまらず、
ある日、B家を訪ねて懇願した。

「ご承知のとおり、私の家はケンカが絶えず
 困っております。
 お宅はみなさん仲よくやっておられますが、
 なにか秘訣でもあるのでしょうか。
 一家和楽の方法があったら、
 どうか教えていただきたい」

「それはそれは、
 別にこれといった秘訣などございません。
 ただお宅さまは、善人さまばかりの
 お集まりだからでありましょう。
 私の家は悪人ばかりがそろっていますので、
 ケンカにはならないのです。
 ただそれだけのことです」
 
てっきり皮肉られているのだと、
A家の主人は激怒して、
「そんなばかな!!」
と、言おうとしたとき、B家の奥で大きな音がした。
どうも皿かお茶碗でも割ったようである。

「お母さん、申し訳ありませんでした。
 私が足元を確かめずにおりましたので、
 大事なお茶碗をこわしてしまいました。
 私が悪うございました。お許しください」
心から詫びている、お嫁さんの声がする。

「いやいや、おまえが悪かったのではありません。
 先ほどから始末しようしようと思いながら横着して、
 そんなところに置いた私が悪かったのです。
 すまんことをいたしました」
と、続いて姑さんの声が聞こえてきた。

「なるほど、この家の人たちは、みんな悪人ばかりだ。
 ケンカにならぬ理由がわかった」
A家の主人は感心して帰ったという。

「謗るまじ たとえ咎ある 人なりと
    我が過ちは それに勝れり」
  (光に向かって100の花束より)

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桃太郎⑳-2(西村法剣と校長)

2009年06月06日 | 桃太郎
桃太郎⑳-2(西村法剣と校長)

昭和の初期に「昭和の一休」といわれた僧侶に
西村法剣という人がいた。

ある村に招待を受けた時のことである。
この村には仏法嫌いの小学校の校長先生がいた。
なぜ仏法が嫌いになったのか。
仏教では人間はみな悪人であると言い切ることが
気にいらなかったのだ。

丁度そこに西村法剣が説法に来るという知らせがあり、
そんな有名人が来るのなら、一度行って懲らしめてやろうと
思い参詣した。

当日、寺は聴衆で一杯。
校長先生はその中で説法を聞いていた。
西村和上はいつものように
「仏の眼からご覧になると
 この世に善人は一人もいない。
 皆、悪人ばかりである」
と力一杯話しをしていたのである。

説法が終わり、校長は西村和上の控え室を
訪れた。
校長は仁王立ちになり、西村法剣に問いただす。
「あなたは今、人間はみな地獄行きの悪人ばかりと
 仰言ったが、それは困ります。
 渡しは子供を教育する教職の立場になりますが、
 そうなれば悪人が教育していることになりますよ。
 今後、社会秩序を乱すようなことは絶対に
 言ってもらっては困ります。」
とカンカンになった講義した。

それを聞いた和上、すぐさま校長の下座へ
下がって土下座する。
「申し訳ございませんでした。
 あなたのような善人さまがお参りに
 なっているとは露知らず、どうかお許し下さい」
と謝った。

余りの意外さに、校長は怒るよりも
気持ち悪くなってきた。

「そんなにまで、謝ってもらわなくても結構です。
 今後、あのような説法さえ、されなければいいのです」
と校長は言葉を残し、帰ろうとした。

玄関に向かって歩く校長の後を
西村法剣は念仏を称えながら見送りに行く。
玄関を一歩出た時のことである。

「ところで校長先生、チョットお待ち下さい。
 先程、世の中に善人と悪人があると言われましたが、
 あなたは一体どちらでしょうか」
と西村法剣は優しい声だが、鋭く切り込んできた。

さあ、そう問われると校長も困った。
善人といえば自惚れているようで、
なかなか言えない。
悪人ですといえば、校長でさえ悪人ならば
教師全員は勿論、悪人ということになる。
返答に窮したのである。

「校長先生、あなたのことですよ。
 お答えできなければ、
 別のことをお尋ねします」
と法剣は順々に正していった。

「校長、ウソは悪いことですか」
「それは悪いことです。
 嘘つきは泥棒の始まりと言われますし、
 正直者の頭には福が宿るとも言われます。
 ウソを言わないようにと子供たちに話しをしています。」
と校長は堂々と答えた。

すると法剣は
「では、校長はウソをつかれたことはありませんか」
と切り返してきたのである。

「それはウソをつかないと都合の悪い時もありますから、
 ウソは悪いと知りながら、嘘をつくこともあります」
と校長はしぶしぶ、嘘は悪いと思いながら、
ついていることを認めた。

「では校長、生き物を殺すことは良いことですか。
 悪いことですか」
と尋ねると、

「それは殺生は悪いことですよ。
 道徳の時間には浦島太郎のような
 生き物を可愛がる優しい人になりなさい
 と教えています」

すると、西村法剣は
「じゃ、校長は生き物を殺したことはありませんね」
と尋ねる。

校長は困った。
彼の趣味は休日の釣りだからである。
「生き物を殺すことは恐ろしい殺生罪ですが、
 沢山の殺生をしてきましたな」
と日頃、多くの悪を犯していることが
思い出されてきた。

とどめをさすように
「では、ケンカは悪いことですよね。
 校長はケンカをしたことはありませんか」
と西村和上は聞く。

校長は観念したかのように
「ケンカ両成敗。
 仲良くしなさいと言ってはおりますが、
 毎日、夫婦喧嘩、親子喧嘩、
 学校でも口喧嘩が絶え間ないです」
とションボリ答える。

日常、何とも思わずにやっている
悪いことを一一つ正されて、
校長は我が身を振り返らずにおれなかった。

校長は今までは心の底で、
自分は良い人間と自惚れでいたのだが、
西村和上に指摘されてみると
自分の気付かないところで、
どれだけ多くの悪を積み重ねているか、
思い知らされたのである。

そうすると、校長は西村法剣に先程言った言葉が
恥ずかしくなり、
とうとう玄関に座り込み、
土下座して詫びた。
「失礼なことを申してしまいました。
 私ほど悪い人間はおりませんでした。
 こんな私みの助かる道はございましょうか。
 お教えください」

こういうことから校長は仏教を聞くようになり、
仏縁の厚い先生になったのである。

自分は悪人だということに気付いた人の心の中に
正しい信心の華が開けるのだ。


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桃太郎⑳(蓮華の徳)

2009年06月05日 | 桃太郎
桃太郎⑳(蓮華の徳)

仏教では蓮の華を非常に大切にする。
仏様は皆、蓮の華の中におられることかも
分かろう。
蓮華は正しい信心の特長を見事に教えているからだ。
正しい信心とは阿弥陀仏に救われたことを
信心決定(しんじんけつじょう)という。

蓮華には他の華にはない幾つかの特長があるが
これを蓮華の徳といわれる。
阿弥陀仏に救われると
蓮華の徳が示す正しい信心の獲得することができる。
その人のみが死んで仏になれるのだ。

まず、淤泥不染の徳があげられる。
これは蓮華の咲く場所を教えられている。
「淤」「泥」もドロドロの泥沼のこと。

蓮の華は高原陸地には咲かず、
人の嫌う汚い泥沼でなければ咲かない華である。
しかし、咲いた華はドロに少しも汚れず
染まってはいない。
これが不染である。

淤泥は悪人を譬え、高原陸地は善人を譬えてある。
正しい信心は自分は善人だと自惚れている善人
の心の中には絶対に頂けない。

自分ほど悪い人間はないと自分の本当の値打ちを知った人、
自分の本当の悪を知らされた悪人の心の中に
正しい真実の信心の華が開けるということだ。

仏様の眼からご覧になると、世の中の人は
みんな悪人で、善人はカケラもいない。

ところが皆、本当の自分の値打ちを知らないから、
自分は善人だと自惚れている。
仏教の法鏡の前に立ち、
仏教を真剣に聞いてゆくと、
真実の自分は善人どころではない、
極悪人であることが分かってくる。
地獄より行き場のない自分であることが
照らされ知られる。
自分の本当の姿を知らされた人の心の中に
正しい信心の華が開けるのだ。

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桃太郎⑲(鬼退治と宝物)

2009年06月05日 | 桃太郎
桃太郎⑲(鬼退治と宝物)

「鬼退治と宝物」

鬼退治と聞くと鬼を殺してしまったと思っている人が多い。
しかし、鬼は死んではいないのだ。
鬼が申し訳なかったと降参している。
そして、鬼退治をした桃太郎は鬼ヶ島から宝物を
持ち帰ったということだが

これは真実の相がオニと知らされ、懺悔させられた時、
大変な宝を獲る、人生の宝を獲るということである。
つまり人生の目的を達成することができる。
それを教えてゆかれたのだ。

全人類を意味する桃太郎は人生の目的を果たしたときに
大変な宝物をえた。

では人生の宝物とは何か。

これは人生の目的があることを教えている方から
聞く以外にはない。
仏教を説かれたお釈迦様や、
平生業成と平生、生きている時に人生の大事業が完成すると
教えられた親鸞聖人は
その目的をハッキリと教えられているのである。

桃太郎の話も人生の目的を知り、求め、達成する為の
ヒントを教えているとなって、話も活かされるのだ。
何事も活きた話しにして意味がある。

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桃太郎⑱(団子とは団結を意味する)

2009年06月04日 | 桃太郎
桃太郎⑱(団子とは団結を意味する)

仲の悪い犬・猿・キジを一つにする為に
登場するのが吉備団子だ。

なぜ団子なのと思うだろう。
「饅頭でもケーキでもいいだろうに」と思うが、
これは団子でないといけないんだ。

キビはなかなか、まとまり難い粉である。
それを団子にするとは団結を意味する。

まとまり難い仁義と智恵と勇気が団結してこそ、
鬼退治ができるのである。

人生の岐路に立たされた時、
必要なのが、仁義、智慧、勇気の3つである。

人生の決断をせまられた時、
人間に生まれてきたのは何の為か、
ここまで大きくしてもらえたのは誰のお陰か、
そのご恩を感謝し、報いるにはどうすればよいのか。
このご恩に感謝する仁義がなければ始まらない。

次に智恵で何が真実の教えであるかを
しっかりと確かめる、これが重要である。
「急いては事を仕損ずる」
「溺れる者はワラをもつかむ」
で苦しいと、とんでもないものを信じてしまう。
そこで登場するのが智慧なのだ。
一度しかない人生を本当に幸せにする教えであるか。
智慧によって判断する。

最後は勇気を持って決断。
人生で必ず「ここぞ」という時がある。
絶対にある。
その時、勇猛果敢に決心し、
目的果たすまで光に向かって進んでゆく。
そして、人生の目的を達成ということが
あるのだ。

この3つの団結が極めて大切か、知らされる。

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桃太郎⑰(キビ団子のキビ)

2009年06月04日 | 桃太郎
桃太郎⑰(キビ団子のキビ)

仁義と智慧と勇気、この三つの心は素晴らしい心だが、
犬、サル、キジは仲が悪いように、大変、仲が良くない。

犬猿の仲と呼ばれるように、
頭は良い者が親の恩を感じることが
できるかというと、そうではない。

成績優秀の有名大学の学生が
親の恩を感じているかというとそうでもないようだ。
「どうせ老後の世話をしてほしいから仕送りして
いるのだろう。それならもっと金を送ってこい」
と親の恩を感じるどころか、しっかり未来の計算までして、
親の苦労など考えていなし、感謝もしない。

また頭のいい人は「負けるケンカはしない」と勇気がない。
逆に頭のチョット弱い人は友達の為に
「俺がやつっけてやる」
と無謀にもやくざに立ち向かってゆき、
ボコボコにやられて帰ってくる。

なかなか仁義と智恵と勇気が一つにまとまることはない。

そこで登場するのがキビ団子だ。


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桃太郎⑯(雉=勇気)

2009年06月04日 | 桃太郎
桃太郎⑯(雉=勇気)

鳥は本来、臆病ものである。
しかし、キジは違う、
林の中でメスの雉がビッコを引いて歩いている。
それに気を取られ見過ごすところだったが、
足元にキジの巣があり、卵があった。
子供を守るために自分が犠牲になろうとしている。 
イノシシなどがヒナ鳥を襲うと、
「ギ・ギ・ギ」という声をたてながら、勇猛果敢に立ち向かう。

キジとは勇気を表しているのだ。

超大型台風が、関西を直撃したときのことである。
大阪のある学校で、先生はじめ大勢の生徒たちが、
狂風にもまれ、ぶきみにきしむ校舎の中で、
どうしたらよいものかと、生きた心地もなく、
とほうにくれていた。

一人の教師がそのとき、敢然と立って叫んだ。
「みんな、風に向かって出ろ」
生徒たちは外へ飛び出した。
しかし、出るには出たが、たちまち風に吹きとばされてしまう。
自然に風下へ、風下へとゆこうとする。
「それではダメだ。はって、田んぼへ出て、
 稲にすがって進むんだ」
教師のえらい剣幕に驚いて、子供たちは、田んぼへ出て、
稲につかまって進んだ。

まもなく大音響がとどろき、
風下へ校舎が倒壊したが、一人の死傷者も出なかった。

人生もまたしかり、泰然自若
大勇士の覚悟で苦難に向かってゆけばよいと、
いくらわかっていても、敢行が難しい。

人生で私達は大事な決断をしなければならない時が必ず来る。
その決断すべき内容が重要であればあるほど、
必要なのが仁義・智恵・勇気である。

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