歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(トルストイの人生の普遍的意義の探求)

2012年12月11日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(トルストイの人生の普遍的意義の探求)

三十代後半のトルストイに何が起こったか。

「五年前から、何やらひどく、
 奇妙な状態が、時おり私の内部に
 起るようになって来た。
 いかに生くべきか、
 何をなすべきか、
 まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、
 生活の運行が停止してしまうような瞬間が、
 私の上にやって来るようになったのである。
 そこで私は度を失い、
 憂苦の底に沈むのであった。
 が、こうした状態はまもなくすぎさり、
 私はふたたび従前のような生活を続けていた。
 と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、
 層一層頻繁に、いつも同一の形をとって、
 反復されるようになって来た。
 生活の運行が停止してしまった
 ようなこの状態においては、
 いつも何のために?
 で、それから先きは?と
 いう同一の疑問が湧き起るのであった」

トルストイは
「何のために生きるのか」
人生の普遍的意義の探求を始めたのだ。

彼が半生をかけて打ち込んだ
芸術は人生の目的であったのか。
自身の輝かしい文学的業績に
ついて語っている。

「私の著作が私にもたらす
 名声について考える時には、
 こう自分に向って反問せざるを
 得なくなった。
 よろしい、お前は、ゴーゴリや、
 プーシキンや、シェークスピヤや、
 モリエールや、その他、
 世界中のあらゆる作家よりも
 素晴らしい名声を得るかも知れない。
 が、それがどうしたというんだ?
 これに対して私は何一つ
 答えることができなかった。
 この疑問は悠々と答えを
 待ってなどいない。
 すぐに解答しなければならぬ。
 答えがなければ、生きて行くことが
 できないのだ。
 しかも答えはないのだった」
 
人生とは如何なるものか。

「今日、でなければ明日、
 疾病が、死が、
 私の愛する人々の上へ、
 また私の上へ、襲いかかって
 来るであろう、現にいくどか
 襲いかかって来たのである。
 そして、腐敗の悪臭と蛆虫のほか、
 何物も残らなくなってしまうのだ。
 私の行為は、それがどのような
 行為であろうとも、
 早晩すべて忘れられてしまい、
 この私というものは、
 完全になくなってしまうのだ。
 それなのに、何であくせく
 するのだろう? 
 どうして人はこの事実に
 目をつぶって生きて
 行くことができるのか?
 実に驚くべきことだ! 
 そうだ、生に酔いしれている間だけ、
 われわれは生きることができるのだ。
 が、そうした陶酔から醒めると同時に、
 それがことごとく欺瞞であり、
 愚劣な迷いにすぎないことを、
 認めないわけには行かないのだ!
 つまり、この意味において、
 人生には面白いことや
 おかしいことなど何にもないのだ。
 ただもう残酷で愚劣なだけなのである」


人間の実相を語る歴史人(世界の大文豪トルストイの懴悔)

2012年12月09日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(世界の大文豪トルストイの懴悔)

世界的名作を書いた文豪トルストイ。
1862年に34歳で18歳の女性ソフィアと結婚し、
これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに
居を定めることになる。
夫婦の間には9男3女が生まれた。

幸福な結婚生活の中で書かれたのが、
世界文学史上に残る傑作『戦争と平和』と
『アンナ・カレーニナ』である。

前者はナポレオン軍の侵入に抗して戦う
ロシアの人々を描いた歴史小説であり、
500人を越える登場人物が
リアリズムの手法によって
みな鮮やかに描き出されている。

後者は当時の貴族社会を舞台に
人妻アンナの不倫を中心に描く
長編小説である。

世界的名声を得たトルストイだったが、
『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から
人生の無意味さに苦しみ、
自殺を考えるようにさえなる。

精神的な彷徨の末、
宗教や民衆の素朴な生き方にひかれていった。

世界的名作を書いた文豪トルストイに
『懺悔』という哲学論文がある。

内容は「人は何のために生きるか。人生の意義」
についてである。

三十代後半に『戦争と平和』を書き、
世界的名声をほしいままにした彼は、
それから四十代後半に至るまで、
約十年の歳月をかけて
この問題と真剣に取り組んだ。

その間の思索内容を発表したのが
『懺悔』である。

当時、ロシア政府はこの書の
青少年に与える影響を考慮し、
直ちに発売禁止の処分を
とったとのことであるが、
それ程、露骨な、赤裸々な告白であった。

最初に書かれていたものは
思想家に対する懐疑であった。

「これらの人々、つまり、
著作における私の同僚達、
 の人生に対する見解は、
 こうであった。
 一般に人生は伸展しつつ
 進んでいくものである。
 そしてその伸展において
 主要な役割りを演ずるのは
 われわれ思想家であり、
 その思想家の中でも主要な感化力を
 持っているのはわれわれ芸術家、
 詩人である。
 世人を教え導く、
 これがわれわれの使命である。
 こういうのが彼らの人生に
 対する見解であった。
 そして、私は何を知っているか、
 何を教えることができるか?
 という、きわめて自然な疑問が
 自分に対して起って来ないようにするため、
 この理論の中に、
 そんなことなど知る必要はない、
 芸術家や詩人は無意識のうちに
 教えて導いているのだ、
 ということが表明されてあった。
 私は素晴らしい芸術家であり
 詩人であると自認していたから、
 この理論を自分のものにしたのは、
 きわめて自然な成り行きだった。
 私は、芸術家であり詩人である私は、
 何を書くべきかを
 自分で知らずに書きまくり、
 何を教えるべきかを知らずに、
 ただいたずらに教えていた。
 そして私はそれに対して
 金銭の報酬を受けていた」
 
トルストイによれば、思想家、詩人とは
実は何も知らない代物なのである。
彼らが言ったり、
書いたりすることはみな
金銭と名声を得るためである。




人間の実相を語る歴史人(仏説譬喩経)

2012年12月08日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(仏説譬喩経)

『仏説譬喩経』の中に
釈尊は給孤独園に於いて
大衆の中で勝光王に向かって
次のような説法をなされている。

「王よ、それは今から幾億年という
昔のことである。
 ぼうぼうと草の生い茂った、
広々とした果てしのない昿野、
しかも木枯らしの吹く
 淋しい秋の夕暮れに、
 独りトボトボと歩いてゆく
 一人の旅人があった。
 
 ふと旅人は急ぐウス暗い野道に
 点々と散らばっている白い物を
 発見して立ち止まった。

 「これは一体何だろう」
 と一つの白い物を拾い上げて
 旅人は驚いた。
 それはなんと人間の白骨ではないか
 「どうして、こんな処にしかも
  多くの人間の白骨があるのだろうか」
 と不気味な不審をいだいて考えた。
 
 間もなく旅人は前方の闇の中から
 異様な唸り声と足音を聞いた。
 
 驚いた旅人は前方を凝視すると、
 はるか彼方から飢えに狂った
 見るからに獰猛な大虎が
 自分をめがけてまっしぐらに
 突進して来るではないか。
 
 旅人は瞬時に白骨の意味を知った。
 自分と同じくこの昿野を通った人達が
 この虎の為に喰われていったのだ。
 
 そして自分もまたそれと
 同じ立場にいるのだ。
 
 「これは大変」
 旅人は無我夢中で今来た道へ
 と突っ走った。
 所詮、人とトラとのかけっこ
 勝てるはずがない。
 旅人が猛虎の吐く恐ろしい鼻息を
 身近に感じて、
 「もう駄目だ」
 と思った時である。
 
 どう道を迷ったのか
 断崖絶壁の頂上で
 ゆきづまってしまった。
 
 途方に暮れた彼は
 幸いにも断崖に一本の樹が
 生えていて、その樹の根の方から
 一本の藤蔓が垂れ
 下がっているのに気がついた。
 
 旅人は、その藤蔓を伝って
 ズルズルと下りたことは言うまでもない。
 文字通り九死に一生を得た旅人は
 ホッとして頭上を仰ぐと
 猛虎はすでに断崖の上に
 立ちせっかくの餌物を逃したので
 如何にも無念そうな面持ちで吠えながら
 ジーと見下ろしているではないか。

 「ヤレヤレこの藤蔓のおかげで助かった。
  一先ずは安心」
 と眼を足下に転じた時である。
 旅人は思わず口の中でアッと叫んだ。
 足下は底の知れない深海の怒涛が
 絶壁を洗っているではないか。
 それだけではない。
 その波間から三匹の毒龍が
 大きな口を開け紅い焔を吐いて
 自分の落ちるのを
 待ち受けているではないか、
 旅人は余りの恐ろしさに
 再び藤蔓を握りしめて
 身震いした。
 
 しかし旅人は稍て空腹を感じて
 周囲に食を求めて眺め廻した。
 
 その時である。
 
 旅人は今までよりも、
 もっともっと驚くべきことを
 発見したのである。
 
 「見よ!!藤蔓の元の方に
  白と黒の二匹のネズミが
  現れ交々、旅人の命の綱である
  藤蔓を一生懸命に
  噛っているではないか」
 
 旅人の顔は蒼ざめ歯は
 ガタガタと震えて止まらない。
 だがそれは続かなかった。
 
 それは、この樹に巣を
 造っていた蜜蜂が
 甘い五つの蜜の滴りを
 彼の口におとしたからである。
 
 旅人は忽ち今までの
 恐ろしさを忘れて
 陶然と蜂蜜に心を
 うばわれてしまったのである」

釈尊が、ここまで話されると
王は驚いて

「世尊よ、何と恐ろしいことでしょう。
 それ程危ないところに居ながら
 旅人はなぜ五滴の蜜位に、
 そのおそろしさを
 忘れるのでしょうか。
 アキレた人ではありませんか」

「王よ、聞かれるがよい。
 これは一つの譬である。
 私は今からそれが何を
 教えているか詳しく話そう」

と仰有って我々人生の実相
を説示なされている。







人間の実相を語る歴史人(灯台もと暗し))

2012年12月06日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(灯台もと暗し))
    
我々の眼は万物を見ることが出来るが
視力の届かぬ遠方のものは
見ることが出来ないと同時に、
余りに近すぎるものも
見ることが出来ない。

目、目を見ることあたわず、
刀、刀を切ることは出来ないのである。
皆も一生に一度なりとも
他人の顔を直接見るように
自分の顔を見たいと
思うことがないだろうか。

これは到底不可能なことであろう。
どんな利発な人間でも
自分の眼で自分の顔を
直接見ることは出来ない。

それは余りにも近すぎる存在だからである。

昔から

「灯台下暗し」

という諺がある。

千里の遠きを照らす灯台も、
その下は真っ暗なものであるように、
我々は他人の事になると善も悪も、
殊に悪いことについては目がつくが、
自分の事になると白痴同様なのは
自分が自分に近すぎるからである。

灯台下暗しということわざの意味だが、

「身近の事情はかえって
 分かりにくいものである。」

という意味のことわざである。

本来は「灯台」とは、
船の目印になる岬の「灯台」ではない。

「灯台下暗し」の「トウダイ」、

実は「灯明台(とうみょうだい)」
のことを指している。 

灯明台とは昔使われていた、
油やろうそくを燃やして明かりと
する室内照明具のこと。

「燭台(しょくだい)」

とほぼ同じ意味だ。

灯明台の芯に火をつけて
辺りを明るくしても、
台の足元は暗くなっている。

暗い部屋でろうそくをつけて見れば
このことがよく分かるだろう。
今なら懐中電灯で前を照らしても
肝心要の足元を照らすことはできない。
真っ暗のまま。

そこから一番分っていそうで
分っていないのが自分のことだから、
灯台下暗しといわれるように
なったのだ。

ところが、現在は灯明台など
使われてはいない。
海を照らす灯台がピッタリくる。

日本一高いところにある灯台は
日本海に面した
兵庫県の余部埼灯台である。

伊笹岬に立つ日本一標高の高い灯台で
光達距離も日本一である。

では、この灯台の光の
とどく距離はというと、
余部埼灯台のレンズは250ワットの
メタルハライドランプを使って
光は、約73キロメートルの
遠くまで届くそうだ。

ところが、その灯台の下は
真っ暗闇である。

何事に置いても、
意味さえ間違わなければ
ことわざも変化して
いっていいのでは。

人間の実相を語る歴史人(蔡君謨のヒゲ)

2012年12月05日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(蔡君謨のヒゲ)

蔡君謨(さいくんぼ)とは
1012年に中国の福建省に生まれた
北宋四大家の一人と
謳われる書家である。

55歳でなくなったが、
福建のお茶を有名にした功労者でもある。

お茶の歴史は古い。
喫茶の風習は元々中国の唐代から
宋代にかけて発展したものである。

8世紀頃、中国の陸羽が著した
『茶経』(ちゃきょう)には
茶の効能や用法が詳しく記されている。

これは固形茶を粉末にして
茶釜で煎じる団茶法であった。

抹茶の発生は、龍鳳団茶に代表される
高級な団茶を茶碾で
粉末にしたものを用いており、
団茶から抹茶が発生した。

宋代(960~1279年)になると、
茶は片茶(固形茶)と
散茶(葉茶)に分類された。

しかし、宋代の『茶録』に現れるのは、
龍鳳茶などと呼ばれる固形茶。
    
また、それまで主流だった
固形の茶葉を粉にして
湯に入れてそのまま漉さずに飲む
「投茶法」がより進化して、
「点茶法」が生まれた。

よくすられた茶葉を丁寧に石臼で挽き、
天目茶碗の様な深い茶碗を用いて
茶筅で泡立てて飲む方法に進化した。

この点茶法が栄西のような禅僧によって
日本に伝えられた。

『茶経』に故郷のお茶が
掲載されていないことを
常々不満に思っていた蔡君謨は
さらに茶書『茶録』を執筆し、
福建省のお茶を一躍歴史の主役的位置に
引きあげた。

蔡君謨が福建の役人になり、
大龍鳳団を改良した
小龍鳳団を作って献上し
北宋4代目仁宗皇帝の寵愛を
受けることにある。

その後、5代、6代皇帝にも
信頼を受け、福建のお茶を
有名にしていった。

その北宋6代目神宗(しんそう)皇帝の時
のことである。

蔡君謨は五丈六尺(19メートル)の
見事なヒゲで有名であった。

そのヒゲを見た天子が

「そなたはまことに
 立派なヒゲをもっているが
 そのヒゲを寝る時、
 夜具に入れて休むのか
 外に出して寝るのか」

と尋ねた。

天子に聞かれて蔡君謨、ハタと困った。
毎日、気にかけずにおったが、
どう寝ていたのか思い出せない。
毎日やっているのにである。

いい加減なことは言えないと蔡君謨。
早速、家に帰って試してみた。

始めは布団の中に押し入れてみたが、
どうも胸が押さえられて息苦しい。

次に出してみたが、今度は喉の辺りが
スースーして、どうも寝付かれない。

出したり、入れたりと朝までやったが
ついに分らなかった。

次の日、目を真っ赤にして、
天子に答えた。

「毎日、やっていることながら、
 このヒゲ、どのようにしているのか
 分りませんでした。」

すると天子

「政治のことでは何事も
 良く知っているそなたが
 自分のことは全く
 分からんようじゃのう」

『知るとのみ 
  思いながらに 
   何よりも 
    知られぬものは 
     己なりけり』

である。

「お前の前にいる。
 これがオレじゃないか」

といわれるかも知れぬが、
では頭のギリギリから
足の爪先までオレか、
それでは床屋で
生き別れして来るのか、
判らない最大のものが
我身自身である。




人間の実相を語る歴史人(孔子家語)

2012年12月02日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(孔子家語)

他人の欠点を責めることは知っているが
自己のそれは判らないのだ。

盗賊仲間が大勢集まって
山中で宴会を開いた。

勿論何一つ盗品でないものはない。
その中に金盃が一個あった。

一同は、その金盃を
かわるがわる廻し飲みしていたが
やがて宴たけなわとなった頃
金盃が見えなくなった。

すると泥棒の頭領が立腹して

「今まであった金盃がない。
とあっては、
 この中に泥棒がいるに違いない」

といったそうだ。

泥棒の親分が
己が泥棒であることを
忘れている様に
我々には自己を見失っては
いないだろうか。

「孔子家語」師弟の一問一答の中に

「先生世にも珍らしい
 慌て者があるものです。
 私の友人が先日
 引っ越しをしたのですが
 諸道具から猫まで運び乍ら
 自分の妻を忘れたので
 奥さんは独り空家に残って
 泣いていましたよ」
 
すると孔子は言下に

「女房を忘れる位は
 まだよろしい方だ。
 世の中には自分を
 忘れている連中が
 どれ程多いか判らない」

と答えている。

孔子は儒教の創始者、
紀元前500年ごろの人である。

孔子といえば論語と
いわれるほど有名であるが、
『論語』に劣らぬ内容を持つのが
「孔子家語」(こうしけご)である。
論語に漏れた孔子一門の説話を
編集したものだ。

「孔子家語」の中で有名なものといえば

「良薬は口に苦くして病に利あり。
 忠言は耳に逆らいて行いに利あり」

という誰でも知っている故事であろう。

良い薬は、苦くて
飲みにくいが病には効く。
忠告は、聞くのはつらいが行いを
正してくれるので為になる。
という意味である。




人間の実相を語る歴史人(柴田鳩翁 鳩翁道話)

2012年12月01日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(柴田鳩翁 鳩翁道話)

鳩翁道話とは柴田鳩翁の説法集である。

柴田鳩翁(1783‐1839)は
江戸時代後期の心学者である。
天明3年5月5日生まれ。
江戸で職を転々としたあと,
郷里の京都にかえり野史(やし)講談で
生計をたてる。
39歳のとき薩?徳軒(さった-とくけん)に入門し,
心学を修業した。

心学は 心を修練し、その能力と
主体性を重視する学問。
宋の陸九淵(りくきゅうえん)や
明の王陽明の学問である。

45歳で失明した柴田鳩翁は
剃髪(ていはつ)して「道話」の形で
心学教化につくした。

その道話が鳩翁道話となってまとめられた。

近畿を中心とする12州10万の百姓が,
文政・天保の封建社会より
新興明治にむかう一大変動の響きを
聞く中、精神の支えとしてしたのが、
この書であった.

ここに収められている柴田鳩翁の道話は
心学道話史上の粋であるといわれている。

彼は天保10年5月3日、57歳で死去した。

その鳩翁道話の中に、
このような話が載っていた。

或る富農家に、多くの召使いが
雇われ、生活を共にしていた。

その中に十五、六になっても
ひえ症で毎夜、寝小便する者がいた。

夜具も畳もぬれくさるので
困った主人は、止むを得ず、
馬小屋の屋根裏に夜具を運び
馬と同宿させることにした。

馬小屋の二階は丸竹を
あみ簀の子にしてあるから
夜中に小便が瀧のように流れても、
そのまま馬の下に敷いたワラに
落ちて肥料になる。

夜具の濡れず、肥料もできて
これは一石二鳥である。
名案を早速、実行に移した。

気の毒なのは馬の方、
夜中に必ず、夕立がある。

ところがその中にスノコの竹に
虫が入っていたのと
夜毎の小便で次第に腐って
遂に或る晩、床が割れ、
二階に寝ていた小僧が落ちた。

幸いなことに
馬の為に一面に藁が敷いてあるのと
大して高くないので
怪我もなく無事だった。

落ちたことも知らず、
白河夜船の小僧だが、
びっくりしたのは
気持ち良くねていた馬さんで
よくよく見れば宅の子供、
しかし安眠妨害されたので
耳元に口をあてて

「ヒヒンヒヒン」

と一声高くいなないた。

流石の子供も眼を
こすりこすり横をみれば
馬が立っている。

思わず小僧は叫んだ。

「誰か来てくれ馬が二階に上った」

我身知らず程、
哀れな、なさけないものはない。