人間の実相を語る歴史人(人間死んだらどうなるか)
我々は悠久の過去より、
六道輪廻を繰り返してきた。
その迷いの打ち止めを
できるのは人間界のみである。
その人間が死んだらどうなるのか。
流転輪廻を繰り返してゆくには
違いないが、
人間死んだらどうなるか。
よく知っておかねばならない。
私たちは、己の行為によって
未来の運命のタネを日々刻々と
造っている。
世の中にいくら背の高い人が沢山いても、
一番高い人はただ一人のように、
沢山の業があっても、
その中で一番重い業は一つしかない。
生涯に造った業の中で最も重い業が、
私たちの死後生まれる世界を決定し、
これを「引業」という。
引業以外の一切の業を「満業」といい、
死後の男女・貧富など、
さまざまな運命を引き起こす。
私たちは、体と口と心で行為をするが、
この身口意の三業の中でも
最も重いのは意業である。
口も体も、つまるところは
心に動かされているにすぎない。
「一人一日のうちに
八億四千の憶いあり、
念々になすところ
これみな三塗の業なり」
「四六時中、心は変わり通しで、
いろいろなことを思っている。
そのすべてが他人にはとても言えぬ、
三悪道に堕ちねばならぬ恐ろしい
タネまきばかりだ」
と善導大師は懴悔され、親鸞聖人も、
「いずれの行も及び難き身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし」
(歎異鈔)
「微塵の善もできない親鸞なれば、
地獄へ堕ちて当然だ」
と、悲嘆なされている。
これは、善導大師や親鸞聖人だけの
ことだろうか。
総ての人間はやがて死んでゆくが、
一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、
八万劫年苦しみ続けねばならぬ
という大事件をいうのだ。
死後の世界を認める人も
認めない人も関係なく、
この一大事から逃れることはできない。
地獄の実在を肯定する人にも、
否定する人にも同じく
この一大事が惹起致する。
経典に釈尊は、
「一切衆生、必堕無間」
と説かれている。
これは、総ての人間は
必ず無間地獄へ
堕ちて苦しむということだ。
後生の一大事の
説かれていない経典はない。
大無量寿経には
「心は常に悪を念い
口は常に悪を言い
身は常に悪を行い
曽って一善の無し」
の十方衆生は
一息切れた後生は
「遠く他所に到りぬれば、
能く見る者なし。
善悪自然にして
行を追うて生ずるところなり。
窈窈冥冥として別離久しく長し。
道路同じからずして
会い見ること期なし。
甚だ難し、甚だ難し。
また相値うことを得んや。」
死んで堕ちる地獄とは、
「お前も来たのか、
俺も来たよ。
一緒に助け合って
地獄の苦に耐えてゆこう」
というような世界ではない。
自分の撒いた種が皆違うのだから
堕ちる世界も皆違うのだ。
地獄の寿命が尽きるまで
まさに孤独地獄に
堕つるのだと教えられている。
その地獄の激しさは
「寿終わりて、
後世にもっとも深く
もっとも劇(はげ)し。
その幽冥に入り、
生を転じて身を受く。
たとえば王法の痛苦、
極刑なるがごとし」
死んで堕ちる世界は
この世のどんな苦しみも譬えることが
できない、苦しみの激しい世界である。
と、明らかにされた。
観無量寿経には
「あるいは衆生ありて、
五戒・八戒および具足戒を毀犯す。
かくのごときの愚人、
僧祇物を偸み、現前僧物を盗み、
不浄に説法す。慚愧あることなし。
もろもろの悪業を
もってして自ら荘厳す。
かくのごときの罪人、悪業をもっての
ゆえに地獄に堕すべし。
命終わらんと欲る時に、
地獄の衆火、一時に倶に至る」
「あるいは衆生ありて、
不善業たる五逆・十悪を作る。
もろもろの不善を具せる
かくのごときの愚人、
悪業をもってのゆえに
悪道に堕すべし。
多劫を経歴して、
苦を受くること窮まりなからん」
と、全ての人間は十悪・五逆の罪人。
そんな極悪人でありならが
悪を犯しながらも
自分に恥じる心もない、
他人に恥じる心もない
無慚無愧の十方衆生で
みな地獄行き、
と説かれている。
親鸞聖人は教行信証に
最勝王経疏を引用され、
「五逆といふは
最勝王経疏によるに
五逆に二つあり。
一つには三乗の五逆なり。
いはく、
一つにはことさらに思うて
父を殺す、
二つにはことさらに思うて
母を殺す、
三つにはことさらに思うて
羅漢を殺す、
四つには倒見して
和合僧を破す、
五つには悪心をもって
仏身より血を出す。
恩田に背き、福田に
違するをもってのゆえに、
これを名づけて逆とす。
この逆を執ずるものは、
身破れ命終へて、
必定して無間地獄に堕して、
一大劫のうちに無間の苦を受けん、
無間業と名づく」
と、「一切衆生、必堕無間」の
後生の一大事が説かれている。
「五逆罪を犯していない者も
いるだろう」
という者に対して、親鸞聖人は
「また下品下生のなかに
五逆を取りて謗法を除くとは、
それ五逆はすでに作れり」
(教行信証信巻)
と、すべての人間、
五逆罪を造っていない人は
一人もいない。
皆、造りづくめであると
断言しておられる。
我々は悠久の過去より、
六道輪廻を繰り返してきた。
その迷いの打ち止めを
できるのは人間界のみである。
その人間が死んだらどうなるのか。
流転輪廻を繰り返してゆくには
違いないが、
人間死んだらどうなるか。
よく知っておかねばならない。
私たちは、己の行為によって
未来の運命のタネを日々刻々と
造っている。
世の中にいくら背の高い人が沢山いても、
一番高い人はただ一人のように、
沢山の業があっても、
その中で一番重い業は一つしかない。
生涯に造った業の中で最も重い業が、
私たちの死後生まれる世界を決定し、
これを「引業」という。
引業以外の一切の業を「満業」といい、
死後の男女・貧富など、
さまざまな運命を引き起こす。
私たちは、体と口と心で行為をするが、
この身口意の三業の中でも
最も重いのは意業である。
口も体も、つまるところは
心に動かされているにすぎない。
「一人一日のうちに
八億四千の憶いあり、
念々になすところ
これみな三塗の業なり」
「四六時中、心は変わり通しで、
いろいろなことを思っている。
そのすべてが他人にはとても言えぬ、
三悪道に堕ちねばならぬ恐ろしい
タネまきばかりだ」
と善導大師は懴悔され、親鸞聖人も、
「いずれの行も及び難き身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし」
(歎異鈔)
「微塵の善もできない親鸞なれば、
地獄へ堕ちて当然だ」
と、悲嘆なされている。
これは、善導大師や親鸞聖人だけの
ことだろうか。
総ての人間はやがて死んでゆくが、
一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、
八万劫年苦しみ続けねばならぬ
という大事件をいうのだ。
死後の世界を認める人も
認めない人も関係なく、
この一大事から逃れることはできない。
地獄の実在を肯定する人にも、
否定する人にも同じく
この一大事が惹起致する。
経典に釈尊は、
「一切衆生、必堕無間」
と説かれている。
これは、総ての人間は
必ず無間地獄へ
堕ちて苦しむということだ。
後生の一大事の
説かれていない経典はない。
大無量寿経には
「心は常に悪を念い
口は常に悪を言い
身は常に悪を行い
曽って一善の無し」
の十方衆生は
一息切れた後生は
「遠く他所に到りぬれば、
能く見る者なし。
善悪自然にして
行を追うて生ずるところなり。
窈窈冥冥として別離久しく長し。
道路同じからずして
会い見ること期なし。
甚だ難し、甚だ難し。
また相値うことを得んや。」
死んで堕ちる地獄とは、
「お前も来たのか、
俺も来たよ。
一緒に助け合って
地獄の苦に耐えてゆこう」
というような世界ではない。
自分の撒いた種が皆違うのだから
堕ちる世界も皆違うのだ。
地獄の寿命が尽きるまで
まさに孤独地獄に
堕つるのだと教えられている。
その地獄の激しさは
「寿終わりて、
後世にもっとも深く
もっとも劇(はげ)し。
その幽冥に入り、
生を転じて身を受く。
たとえば王法の痛苦、
極刑なるがごとし」
死んで堕ちる世界は
この世のどんな苦しみも譬えることが
できない、苦しみの激しい世界である。
と、明らかにされた。
観無量寿経には
「あるいは衆生ありて、
五戒・八戒および具足戒を毀犯す。
かくのごときの愚人、
僧祇物を偸み、現前僧物を盗み、
不浄に説法す。慚愧あることなし。
もろもろの悪業を
もってして自ら荘厳す。
かくのごときの罪人、悪業をもっての
ゆえに地獄に堕すべし。
命終わらんと欲る時に、
地獄の衆火、一時に倶に至る」
「あるいは衆生ありて、
不善業たる五逆・十悪を作る。
もろもろの不善を具せる
かくのごときの愚人、
悪業をもってのゆえに
悪道に堕すべし。
多劫を経歴して、
苦を受くること窮まりなからん」
と、全ての人間は十悪・五逆の罪人。
そんな極悪人でありならが
悪を犯しながらも
自分に恥じる心もない、
他人に恥じる心もない
無慚無愧の十方衆生で
みな地獄行き、
と説かれている。
親鸞聖人は教行信証に
最勝王経疏を引用され、
「五逆といふは
最勝王経疏によるに
五逆に二つあり。
一つには三乗の五逆なり。
いはく、
一つにはことさらに思うて
父を殺す、
二つにはことさらに思うて
母を殺す、
三つにはことさらに思うて
羅漢を殺す、
四つには倒見して
和合僧を破す、
五つには悪心をもって
仏身より血を出す。
恩田に背き、福田に
違するをもってのゆえに、
これを名づけて逆とす。
この逆を執ずるものは、
身破れ命終へて、
必定して無間地獄に堕して、
一大劫のうちに無間の苦を受けん、
無間業と名づく」
と、「一切衆生、必堕無間」の
後生の一大事が説かれている。
「五逆罪を犯していない者も
いるだろう」
という者に対して、親鸞聖人は
「また下品下生のなかに
五逆を取りて謗法を除くとは、
それ五逆はすでに作れり」
(教行信証信巻)
と、すべての人間、
五逆罪を造っていない人は
一人もいない。
皆、造りづくめであると
断言しておられる。