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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

法然上人⑰(80才、一枚起請文)

2009年10月20日 | 七高僧
法然上人⑰(80才、一枚起請文)

法然上人は老齢と配流のご疲労からか
翌80歳正月から病床につかれる。

亡くなる2日前、横になり念仏しながら
過ごす上人に、高弟・勢観房源智がどうか形見に
一筆書いて下さいと懇願をした。

そして浄土仏教の肝要を『一枚起請文』として
お誓いになられ、書き残された。

『一枚起請文』
「もろこし、我が朝に、もろもろの智者達の沙汰し
 申さるる観念の念にも非ず。
 又、学文をして念の心を悟りて申す念仏にも非ず。
 ただ、往生極楽のためには、
 南無阿弥陀仏と申して、
 疑いなく往生するぞと思とりて申す外には、
 別の仔細候わず。」

ここにも法然上人が勧められたものは、
無信の念仏ではなく、
「疑いなく往生するぞと思いとりて申す」
信心の具足した念仏
であることが明らかである。

「生死の家には疑いをもって所止とし、
 涅槃の城には信をもって能入とす」
 (選択本願念仏集)

念仏ではなく、信心こそ
浄土往生の因であることが
ここに明白にされておられる。

建暦二年正月二十五日、
法然上人は静かに浄土に還帰
なされた。
法然上人、御歳80歳。


法然上人⑯-5(75才、四国へ流刑)

2009年10月19日 | 七高僧
法然上人⑯-5(75才、四国へ流刑)

法然上人は土佐に流刑となった。

上人に深く帰依していた関白・九條兼実が、
せめて老齢の法然にとって
過ごしやすい土地へとの願いから、
温暖な四国の讃岐に決定したのだ。

当時の「僧尼令」に、
僧侶を死罪や流罪にしてはいけないと
いう条文があった為、還俗され、
法然上人は「藤井元彦」
親鸞聖人は「藤井善信」
という俗名を与えられて、
俗人として配流されたのである。

法然上人は、流刑を
「辺鄙の群衆を化せんこと莫大の利生なり」

「今回の流刑は京都におっては
 伝えることのできない片田舎の人々に
 弥陀の本願をお伝えできる
 何と得難い機会であろうか」
と受け取られ、四国へ向かう道中でも
各所で仏縁を結んでおられる。

親鸞聖人も
「抑また大師聖人(法然上人)
 もし流刑に処せられたまわずば、
 我また配所に赴かんや。
 もしわれ配所に赴かずんば、
 何によりてか辺鄙の群類を化せん。
 これなお師教の恩致なり」
 (御伝鈔)
と仰有ている。 

「法然上人が、もし流刑にあわれなかったら、
 親鸞も流罪にならなかったであろう。
 もし私が流刑にあわなければ、
 越後の人々に弥陀の本願をお伝えする
 ことができただろうか。
 なかったに違いない。
 なんと有難いことであったのか。
 これ皆法然上人のお陰である」
と流刑を逆に真実開顕の勝縁と
喜んでおられるのだ。

弥陀に救われ、恩徳讃に身命をかけられた
法然上人・親鸞聖人でしか
言えないお言葉である。

法然上人は土佐へいく途中、
身体を壊され、香川県で流刑の生活を
送られる。

配所の生活が4年間続き、
京に戻られた法然上人は既に79歳。

吉水の禅房は荒廃していたため、
慈鎮和尚の計らいで東山大谷の地に住
まわれることになった。


法然上人⑯-4(75才、流刑の理由)

2009年10月18日 | 七高僧
法然上人⑯-4(75才、流刑の理由)

法然上人。親鸞聖人がなぜ盗みも働いていない、
人殺しもされていないのに死刑、流刑の判決を
受けねばならなかったのか。
その真の原因は何か。

親鸞聖人の流刑の原因は肉食妻帯という人がいる。
そうなると結婚もしれおられない法然上人が
なぜ流刑にあわれたのかが疑問になる。

両聖人の流刑の決定的原因は、
一体、何であったのであろうか。

正しくそれは、
「一向専念、無量寿仏」の高調にあった。

「一向専念、無量寿仏」は、
釈尊出世の本懐経たる『大無量寿経』の、
結びをあらわす仏語である。

釈尊一代の教説の結論は
「一切の人々は、阿弥陀仏一仏に向かい、
 阿弥陀仏一仏を信じ仰がねば、
 絶対に助からない」
という、釈尊の大宣言であった。

この釈尊の大精神を無我に体験し、
身命を賭して伝承されたのが、
法然上人、親鸞聖人の御一生であった。

阿弥陀仏以外の一切の諸仏、諸菩薩、諸神に、
近よるな、礼拝するな、信ずるな、
弥陀一仏に向かえと叫べば、
それらを礼拝し信じていた人々から
猛烈な反感、非難、攻撃、迫害が起きるのは
至極当然であった。

しかし、大衆の幸福を念じ、
真実の開顕を全生命となされた両聖人には、
人倫の弄言などは眼中にはなかった。

それどころか「辺鄙の群類を化せん」と、
自身の生命の危機すら、
有難い人界受生の本懐として、
慶ばずにおれなかったのである。

法然上人⑯-3(75才、西阿の破門)

2009年10月17日 | 七高僧
法然上人⑯-3(75才、西阿の破門)

法然上人が土佐へ旅たつ日が来た。

法然上人とのお別れに、弟子や、
在家の人々が、続々と集まっている。

やがて法然上人が、駕籠に乗り込まれる。

弟子  「お師匠様。いよいよお別れです。
    悲しゅうございます。最後のお言葉を」

法然上人「皆さん、いよいよ、お別れの時が参りました。
    この法然のお伝えしてきた事は、
    お釈迦様のみ教え以外には、ありません。
    後生の一大事、救い給うみ仏は、
    阿弥陀如来ただ一仏です。
    それ故に釈尊は、阿弥陀如来のみを信じよと、
    教え徹して行かれた。
    一向専念無量寿仏」

その時、弟子の西阿が駆けてくる。
西阿  「お師匠様。お師匠様
     今しばらく、しばらく」

法然上人「うんっ?どうした。西阿」

西阿  「お師匠様。今、あそこへ、捕り手の者が。
     一向専念の教え、今しばらくお控え下さい」

法然上人「何?。一向専念の教えを控えよとな。西阿」

西阿  「はい。お師匠様に、これ以上の重罰が」

法然上人「何を言うか!西阿。この法然、
    身は八つ裂きにされようとも、
    一向専念無量寿仏を、曲げることは
    できないのだ。
    釈尊出世の本懐を叫んで殺されるなら、
    仏法者の本望ではないか。
    今日限り、私の弟子ではない。立ち去れい!」

それまでお側に置かれていた西阿であったが
この時をもって、破門されたのであった。


法然上人⑯-2(75才、両聖人の悲しい別れ)

2009年10月16日 | 七高僧
法然上人⑯-2(75才、両聖人の悲しい別れ)

九条兼実公の並々ならぬ計らいにより
法然上人と親鸞聖人には流刑の判決が下された。

親鸞聖人「上人様。短い間ではございましたが、親鸞
     多生の間にも遇えぬ、尊いご縁を頂きました。
     有難うございました」

法然上人 「親鸞よ。そなたは越後か。
     いずこに行こうと、ご縁のある方々に、
     弥陀の本願を、お伝えしようぞ。
     では、達者でな」

親鸞聖人 「はい、お師匠様。
     お師匠様は、南国・土佐へ。
     遠く離れて、西・東。生きて再び
     お会いする事ができましょうか。
     親鸞、かねて覚悟はしていた事
     ではございますが。
     余りにも余りにも。お師匠様」

全身を震わせ、泣き崩れられる親鸞聖人であった。
その時、親鸞聖人が歌を詠まれた。

『会者定離、ありとはかねて聞きしかど
 昨日今日とは思わざりけり』

それに法然上人は歌で応えられた。。

『別れ路の、さのみ嘆くな法の友
 また遇う国のありと思えば』

ついに両聖人は今生での最期の別れと
なったのである。

親鸞聖人は後にこのように述懐しておられる。
「人間の八苦のなかに、
 さきにいうところの愛別離苦、
 これもっとも切なり。」
(口伝鈔)

親鸞聖人は人生の苦しみの中で
愛する者と別れることほど、
辛いものはなかったと告白しておられる。
4歳の時にお父さん。
8歳にして心の支えだったお母さん。
35歳、人生の師法然上人。
行く先々で、どれだけ愛する人と
別れをしてこられたか。
その度に切ない気持ちで
死に別れ、生き別れを迎えられたか。

親鸞聖人の別れの中でも
法然上人とのお別れが
一番辛かったであろう。

法然上人⑯(75才、承元の法難)

2009年10月15日 | 七高僧
法然上人⑯(75才、承元の法難)

朝廷の権力者が恐れるのは、
延暦寺や興福寺の僧兵による
強訴であった。
大寺院は、僧兵を動かして、
自らの要求を、朝廷や公家に
無理やり認めさせようとしたのだ。

これら、激しい抗議行動が続く中、
朝廷にあっては、九条兼実公はじめ、
法然上人支持派の運動で、
なんとか穏便に処理されていたが、
反対派は、常に、弾圧の機を
うかがっていた。
そういう緊張した空気の中、
突発したのが、松虫鈴虫事件だったのである。

法然上人に住蓮、安楽というお弟子がいた。
共に情熱的な布教家で有名だった。

建永元年十二月、後鳥羽上皇が
熊野山に参詣している留守中、
御所の女房松虫鈴虫の両名が、
住蓮房、安楽房と一夜を過ごしたことを
知った上皇は、烈火のように怒った。

天皇時代から、中宮や女御など、
たくさんの女達を自由にしてきた人間に、
たとえその時、どんな事があったにせよ、
怒る資格も制裁する権利もない筈だが、
後鳥羽上皇には、そのような反省は一切みられず、
女房達を捕え、住蓮、安楽らを院の庭に
ひき据え、あらんかぎりの拷問にかけて
自白を迫った。

余りにも無法な仕打ちに奮然とした
安楽房は、その時、後鳥羽上皇の面前で
喝破したのある。

「上皇たちよ、お前らこそ、真実の仏法を謗り、
 破壊する最も憐れむべき者達だ。
 お前達は必ず地獄へ堕ちるであろう。
 そして、永遠に地獄の責め苦から、
 逃れることはできないのだ」

それを聞いて上皇は、ますます怒り狂い
秀能という役人に命じて、
安楽房を六条河原に連れて行き、
首を斬らせた。

安楽房は、いさゝかの動揺もみせず、
声高々に念仏して、静かに浄土へ還った。
これをみていた多くの人々が念仏者になったと、
法然上人の伝記には記されている。

比叡山や興福寺は、この事件をもとに
攻撃を強化した。
怒り狂った上皇は、これら旧仏教と結託し、
法然門下に弾圧を加えたのである。

念仏は停止。
一向専念無量寿仏の布教は禁止。
さらに、法然上人は四国・土佐へ流刑。
親鸞聖人には死刑が宣告された。
しかし、九条兼実公の並々ならぬ計らいにより、
親鸞聖人は越後国・直江津、
今の新潟県上越市へ流刑ということになった。
これを承元の法難という。



法然上人⑮(南都の奏状文)

2009年10月14日 | 七高僧
法然上人⑮(南都の奏状文)

法然上人のご布教により、浄土仏教が
盛んになってゆくと
当時の仏教界を代表して
法相宗の僧、解脱貞慶は
時の天皇に九項目に亘って、
法然上人らに対する公然たる非難攻撃を
提出している。
これが世に有名な、
「南都の奏状文」
と言われているものだ。

1:わが国にはすでに仏教の宗派が八宗も
あるのだから、新たに浄土宗なるものを
立てる必要は全くないのである。
それなのに法然らは天皇の許可も得ずに
一宗を名乗っているのは僣越至極のことである。

2:法然らは阿弥陀仏の救いの光明が
専修念仏者のみを照らし、他の仏教者には
それて全く当たっていない絵図をわざと描き、
それをもてはやしているのは大変怪しからぬことである。

3:法然らは阿弥陀仏だけを信じて供養し、
仏教徒にとって最も大切な釈迦牟尼仏を軽んじて
礼拝供養しないのは本末顛倒も甚だしい。

4:法然らは他宗を誹謗して、仏像を造ったり
寺や塔を造るという善行をやっている者たちを、
あざけり謗っていることは言語道断の振舞と
言わねばならぬ。

5:日本では古来仏教と神道とは堅く結びついている。
だからこそ伝教や弘法のような高僧たちも、
みな神々をあがめ尊んできたのである。
それにもかかわらず法然らは、
「若し神を拝めば必ず地獄に堕ちるぞ」
と言いふらし世人を迷わせている。
若し法然らの言が正しければ、
伝教や弘法は地獄に堕ちていることになる。
法然は伝教や弘法達より偉いとでも
思っているのだろうか。
このような暴挙は即刻禁止させないと
大変なことになる。

7:念仏というのは本来、
「阿弥陀仏のことを心の中で念じる」ことなのに
法然らは称えさえすればよいと思って、
口で称えることを念仏だと教えている。
とんでもない仏教の曲解である。

8:彼らは、
「囲碁や双六、女犯や肉食、何をやってもかまわぬ」
といって、仏法の戒律を軽蔑している。その上、
「末法の今日、戒律を守る人間なんて
 街の中に虎がいるようなものだ」
と暴言し、尊い仏法を破壊している。

9:仏法と王法とは丁度、肉体と心の関係で
完全に一致すべきであるのに、
念仏者たちは他の諸宗と敵対し我々と
協力しようとはしない。
このような排他的独善的な邪宗は一日も早く
この世から抹殺しなければならない。

そして最後に、
「このたびのように全仏教徒が一丸となって
訴訟するという前代未聞のことを致しますのは、
事は極めて重大だからであります。
どうか天皇の御威徳によって念仏を禁止し、
この悪魔の集団を解散し法然と、
その弟子達を処罰して頂きますよう
興福寺の僧綱大法師などがおそれながら申し上げます
と結んでいる。

以上が、法然上人や親鸞聖人に対する
当時の非難攻撃の要項であった。

法然上人⑭(73才、親鸞聖人に選択集の書写を許す)

2009年10月13日 | 七高僧
法然上人⑭(73才、親鸞聖人に選択集の書写を許す)

法然上人「親鸞よ。これは、私の教えていることの
     すべてを記したものじゃ。
     よければ、写すがよい」

法然上人が差し出された一巻の巻物。
親鸞聖人はうやうやしく受け取られ、
表題を見て驚かれる

親鸞聖人「こ、これは、お師匠様の『選択本願念仏集』で
    はありませんか」
法然上人「そうだ。阿弥陀如来の本願、あやまりなく
     伝えてくれよ」
親鸞聖人「はい。親鸞、命に懸けても、お師匠様の御心を
    お伝えさせて頂きます」

巻物を押し頂いて、親鸞聖人は下がって行かれた。

法然上人の門下生にとって、
『選択本願念仏集』の書写を許されることは
師匠の厚い信頼の証であった。
380余人のお弟子の中でも
聖覚法印、善慧房証空、勢観房源智
聖光房弁長、隆寛律師などの
少数に限られていた。

故に入門まもない親鸞聖人に
対する嫉妬の情が、周囲から沸き起こるのも
当然であった。



法然上人⑬-2(71才、肉食妻帯への非難攻撃)

2009年10月12日 | 七高僧
法然上人⑬-2(71才、肉食妻帯への非難攻撃)

親鸞聖人の肉食妻帯への非難は凄まじいものであった。

「法然門下の坊さんが、嫁さん貰うたいうて、
 えらい騒ぎじゃのう」
「親鸞とか言うじゃないか」
「坊さんじゃいうても、カゲで何しとるか、
 分か ったもんじゃない」
「その親鸞が、間もなく、あそこを通るそうだ」
「何?そりゃ、本当か」
「破戒坊主。どんなツラか、見てやろうじゃないか」

親鸞聖人と玉日姫は仲良く牛車で
法然上人のご法話へと向われる。

大路を通られる聖人に町人たちがはやしたてる。
「おい、堕落坊主」
「気でも狂ったか。色坊主」
町人が石を投げはじめる。

「怖くて顔がみせられんのか。腐れ坊主」
「仏敵、親鸞。出てこい」
「み仏にかわって、オレが、成敗してくれるわ」
と僧兵までが聖人を襲う。

しかし、親鸞聖人は少しも動ぜず、
玉日に声を掛けられた。

親鸞聖人「よいか、玉日。今こそ、そなたに、言っておこ
    う。僧侶も、在家の人も、男も、女も、ありのま
    まで、等しく救いたまうのが、阿弥陀如来の本願
    その真実の仏法を、今こそ、明らかにせねばな
    らんのだ。阿弥陀如来の、広大なご恩徳を思えば
    どんな非難も、物の数ではない」

玉日姫 「はい。私も、お従い致します」
親鸞聖人「うむ」

世間の人々の非難を、一身に浴びられた親鸞聖人で
あったが、その、不退の決意は固かったのである。


法然上人⑬(71才、親鸞聖人に妻帯を勧める)

2009年10月11日 | 七高僧
法然上人⑬(71才、親鸞聖人に妻帯を勧める)

法然上人は生涯、結婚もなされず、
清廉潔白で一生を全うされた方であった。

しかし、その法然上人が弟子親鸞聖人にだけは
違っておられた。
法然上人71歳、親鸞聖人31歳のことである。

関白九条兼実公のたっての願いということで
娘玉日姫を親鸞聖人に嫁がせたいとの
申し出があった。

法然上人「唐突な話だがな、
       そなた、結婚する気はないか」
親鸞聖人「は?!結婚?そ、それは・・・」
法然上人「今、関白殿がこられてな。そなたを是非、
       娘の婿に、と言われるのじゃ」
親鸞聖人「関白殿が・・・」
法然上人「娘御は、玉日と言われる方でなあ」
親鸞聖人「玉日様、ですか・・・」
法然上人「知っているのか」
親鸞聖人「はい。以前少し、お会いしたことが・・・」
法然上人「そうか。知っていたのか。
       それなら、話は早い。どうかな」
親鸞聖人「はい。あの玉日様ならば。
       しかし、お師匠様。
       お師匠様や、門下の皆さんに、
       ご迷惑がかかるのでは・・・」
法然上人「ワシはかまわん。皆の事も、
       案ずることはなかろう。
       そなたに、その覚悟さえあれば」
親鸞聖人「ならば、喜んで、お受け致します」
法然上人「よいか、親鸞。弥陀の本願には、
       出家も、在家も、差別はないが、
       天台や真言などの、聖道自力
       の仏教では、肉食妻帯は、
       固く禁じられているのは、承知の通りじゃ。
       彼らや、そして世間から、
       どんな非難攻撃の嵐が起きるか、
       わからぬぞ」
親鸞聖人「はい。それは、覚悟しております。
       すべての人が、ありのままの姿で
       救われるのが、真実の仏法で
       あることを、分かっていただく
       御縁になれば。
       親鸞、決して厭いは致しません」
法然上人「その覚悟、忘れるでないぞ」
親鸞聖人「はい」