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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

法華経と浄土三部経(蓮如上人が出世本懐を開顕)

2009年08月13日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(蓮如上人が出世本懐を開顕)

蓮如上人が釈迦出世本懐を明らかにされた御文と
いえば、御文章4帖目3通である。

「それ、当時世上の体たらく、
 いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。
 しかるあいだ、諸国往来の通路にいたるまでも、
 たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても、
 千万迷惑のおりふしなり。

 これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。
 これにつけても、人間は老少不定ときくときは、
 いそぎいかなる功徳善根をも修し、
 いかなる菩提涅槃をもねがうべきことなり。

 かるにいまの世も末法濁乱とはいいながら、
 ここに阿弥陀如来の他力本願は、
 いまの時節はいよいよ不可思議にさかりなり。

 さればこの広大の悲願にすがりて、
 在家止住のともがらにおいては、一念の信心をとりて、
 法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもって、
 たからの山にいりて手をむなしくしてかえらんににたるものか。
 よくよくこころをしずめてこれを案ずべし。

 しかれば、諸仏の本願をくわしくたずぬるに、
 五障の女人、五逆の悪人をば、
 すくいたまうことかなわずときこえたり。

 これにつけても、阿弥陀如来こそ、
 ひとり無上殊勝の願をおこして、
 悪逆の凡夫、五障の女質をばわれたすくべき
 という大願をおこしたまいけり。
 ありがたしというもなおおろかなり。

 これによりて、むかし、釈尊、霊鷲山にましまして、
 一乗法華の妙典をとかれしとき、
 提婆・阿闍世の逆害をおこし、
 釈迦、韋提をして安養をねがわしめたまいしによりて、
 かたじけなくも霊山法華の会座を没して、
 王宮に降臨して韋提希夫人のために淨土の教を
 ひろめましまししによりて、
 弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。

 このゆえに法華と念仏と同時の教といえることは、
 このいわれなり。
 これすなわち末代の五逆・女人に
 安養の往生をねがわしめんがための方便に、
 釈迦、韋提、調達、闍世の五逆をつくりて、
 かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、
 かならず安養の往生をとぐるものなりと、
 しらせたまえりとしるべし。」

法華経と浄土三部経(覚如上人が出世本懐経を開顕)

2009年08月12日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(覚如上人が出世本懐経を開顕)

覚如上人の口伝鈔の中に、
釈迦出世本懐の中の本懐は
浄土三部経であることが
明らかに説かれているので
あげておこう。

「 いわゆる三経の説時をいうに、
 『大無量寿経』は、法の真実なるところを
 ときあらわして、対機はみな権機なり。
 『観無量寿経』は、機の真実なるところをあらわせり。
 これすなわち実機なり。
 いわゆる五障の女人韋提をもって対機としてとおく
 末世の女人、悪人にひとしむるなり。
 『小阿弥陀経』は、さきの機法の真実を
 あらわす二経を合説して、
 「不可以少善根福徳因縁得生彼国」と等、とける。
 無上大利の名願を、一日七日の
 執持名号にむすびとどめて、
 ここを証誠する諸仏の実語を顕説せり。
 これによりて「世尊説法時将了」(法事讃)と等、
 釈光明寺 しまします。
 一代の説教、むしろをまきし肝要、
 いまの弥陀の名願をもって
 附属流通の本意とする条、文にありてみつべし。
 いまの三経をもって、末世造悪の凡機にとききかせ、
 聖道の諸教をもっては、その序分とすること、
 光明寺の処処の御釈に歴然たり。
 ここをもって諸仏出世の本意とし、
 衆生得脱の本源とする条、いかにいわんや、
 諸宗出世の本懐とゆるす『法華』において、
 いまの浄土教は、同味の教なり。
 『法華』に説時、八箇年中に王宮に五逆発現のあいだ、
 このときにあたりて、霊鷲山の会座を没して、
 王宮に降臨して、他力をとかれしゆえなり。
 これらみな、海徳以来乃至釈迦一代の出世の元意、
 弥陀の一教をもって本とせらるる太都なり。」
  (口伝鈔)

  

法華経と浄土三部経(阿弥陀経が出世本懐経である根拠)

2009年08月11日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(阿弥陀経が出世本懐経である根拠)

阿弥陀経は一切経の中で無問自説の経と
呼ばれている。
無問自説が阿弥陀経の最大の特徴と
なっている。

弟子達の誰の問いを待たずに釈迦が自ら説かれたのだ。

これはどういう理由があってのことだろうか。

①阿弥陀経は釈迦が誰の問いもなく、
 自ら舎利弗尊者をお呼びになって、
 阿弥陀仏の世界を説かれ始めた。

 問わず語りである。
 
 これは余程、釈尊はご機嫌が良かったからに
 違いない。
 それもそのはず。
 阿弥陀経の内容は、釈迦が35歳、
 仏の覚りを開かれてより、
 本師本仏の阿弥陀仏のこと一つ
 説かれたかった。
 正にその時が来たのだ。

②智慧第一の舎利弗が
 阿弥陀経の中で36回も呼びかけられながら、
 一言も返答はないのである。
 こんな失礼なことはない。
 しかし、釈迦は叱ってはおられない。
 それは、阿弥陀経の内容が
 どんなに智恵第一といわれた舎利弗尊者でさえ、
 おどろきあきれて、一言も発せることが
 できなかったのだ。
 人間の自力の智慧の限界をはるかに
 超えているということである。

③また、阿弥陀仏の説法の相手は
 十方衆生すべてであった。

 阿弥陀仏を聞きにきた人は
 十大弟子をはじめとする弟子達
 文殊・弥勒をはじめとする菩薩達
 その他、諸天大衆と
 男女・貴賎を問わず、すべての人であった。

 十方衆生に
 「この阿弥陀経を聞かなかったなら
  仏教を聞いたことにはならないぞ」
 と説き聞かせられたのである。

親鸞聖人は

「この『経』(阿弥陀経)は
 大乗修多羅のなかの無問自説経なり。
 しかれば如来、世に興出したまふゆえは、
 恒沙の諸仏の証護の正意、
 ただこれにあるなり。」
 (教行信証化土巻)

と阿弥陀経が出世本懐の経であることを
明らかにしておられる。


親鸞聖人は『教行信証』に
「衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、
 これを聞という」
と仰せになっているように、

仏教を教えるということは
阿弥陀仏の本願の生起本末を説くということであり、
仏教を聞くということは
阿弥陀仏の本願の起こった一部始終を聞いて
疑心のなくなったことをいうのである。

では、阿弥陀仏の本願は、どうして起こされたのであろうか。
その生起本末を明らかにしよう。

「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。
 心偏に常没の衆生を憐念す」
と説かれているように、一生造悪、必堕無間の我我を
あわれんだ三世の諸仏方は、
何とか救わんと大慈悲心を起こして下された。
だが、残念なことには、我々の罪業が余りにも重く、
諸仏の力ではとても救うことが不可能であった。

そこで諸仏は「汝らは仏法修行の器に非ず」と
背相を見せて逃げたのだ。
我々は諸仏から見捨てられた極重の悪人なのである。

このことは『悲華経』に
「煩悩多き衆生は賢劫の一千余仏が放捨する所」
と説き、
『不空絹索神変真言経』には
「常に十方三世の一劫の如来、一切の菩薩の棄捨する所」
とも説かれている。
『教行信証』にはこのことが詳しく説示せられている。

然るに、他人に嫌われるような子供は、
なお可愛い親心のように、
かゝる三世の諸仏や一切の菩薩に見捨てられた極悪人ならば
尚更捨ててはおけないと大悲やるせなく、
立ち上がって下されたのが阿弥陀如来であり、
建てられた願いを弥陀の本願というのである。

蓮如上人は、これを平易に
「この阿弥陀仏と申すは、如何ようなる仏ぞ、
 また如何ようなる機の衆生を救い給うぞというに、
 三世の諸仏に捨てられたる、
 あさましき我ら凡夫女人をわれひとり救わんという大願を
 発したまいて五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、
 それ、衆生の罪に於ては、如何なる十悪五逆・謗法闡提の輩なりと
 いうとも救わんと誓いましまして、
 すでに諸仏の悲願に超え勝れたまいて、
 その願成就して阿弥陀如来とは成らせたまへるを
 即ち、阿弥陀仏とは申すなり」
(御文章三帖)と教えられている。

我々を救うことの出来る力のある仏は大宇宙広しと雖も
阿弥陀如来以外にはないのである。
否、我々凡夫だけではない。

『般舟経』には
「三世諸仏、念弥陀三昧、成等正覚」
と説いてある。

これは、釈尊も含めて一切の仏は阿弥陀仏の願力によって
成仏したということを釈尊自ら告白なさった。

凡夫だけでなく一切の諸仏や菩薩も、
最後は弥陀三昧によらずしては仏になることは
出来ないのである。

さればこそ釈尊も阿弥陀仏を本師本仏と崇め
『楞伽経』には
「十方もろもろの刹土に於ける衆生と菩薩の中の、
 あらゆる法報身と化身と及び変化身とは、
 みな無量寿(弥陀)の極楽界中より出ず」
とまで仰有っている。

一切経を読んだ天台の刑溪大師は、
「諸経に讃ずるところ、多く弥陀にあり」
と驚嘆したのも、またゆえあるかなというべきである。

あらゆる仏をして仏たらしめた仏こそ阿弥陀仏なのであるから、
我々凡夫は尚更、この仏によらずしては助かる道は絶対にないのだ。

釈尊が「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
お勧めになるのは当然至極のことである。

しかも『梵網経』には、
「われわれ此界の衆生を勧めんが為に
 無勝荘厳の浄土より往きつもどりつ八千遍」
とまで説かれている。

また「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
お勧めになっているのは決して釈尊だけではない。
一切の諸仏も菩薩も、
凡て阿弥陀仏の本願を説くためにこの世にあらわれ、
これ一つを勧めることをもって、
その任務となされたことは『阿弥陀経』の中に明らかである。

即ち、東西南北上下の十方微塵世界(大宇宙)に
まします恒河の砂の数ほどの諸仏菩薩が異口同音に、
各々その国に於て広長の舌相をもって
阿弥陀仏の威神功徳の不可思議なることを
讃嘆していることが説かれている。

また、このことは『大無量寿経』の中にも
「阿弥陀仏の光明の威徳を称讃することは、
 われ(釈尊)のみならず、
 一切の諸仏、声聞、縁覚、諸菩薩衆、
 ことごとく共に嘆誉したまうこと亦またかくの如し」
と説かれていることでも明らかである。

ではなぜ諸仏菩薩はかくの如く
阿弥陀仏を讃嘆するのであろうか。
 ただに讃嘆するのではない。
我らに阿弥陀仏の本願を信じさせんがために
外ならないのである。

されば、釈尊を始めとして
一切の諸仏、菩薩の出世の本懐は、
弥陀の本願を説く為であり、
われわれに「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
勧めることをもって、その任務とされたことが
明白になったのであろう。

故に「一向に専ら無量寿仏を念ぜよ」と
鮮明に徹底的に教え勧むる方こそ、
まことの善知識ということが出来るのである。

蓮如上人が
「善知識の能というは一心一向に弥陀に
 帰命したてまつるべしと人を勧むべきばかりなり」
 (御文章二帖)
と仰せになっているが、
まことに善知識の任務を教えて余すところが
ないというべきであろう。

法華経と浄土三部経(観無量寿経が出世本懐経である根拠)

2009年08月10日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(観無量寿経が出世本懐経である根拠)

浄土三部経の中で大無量寿経が真実の経である
ことは明らかになった。

次に観無量寿経が出世本懐の経であることを、
親鸞聖人が教行信証に明らかにされている。

「達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の
 悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。
 韋提別選の正意によりて、
 弥陀大悲の本願を開闡す。」
    (教行信証化土巻)

観無量寿経に
「いま世尊に向かいて、五体を地に投じて、
 求哀し懺悔す。乃至
 その時に世尊、すなわち微笑したまう」
とある。


人間は、現実の結果には驚くが、
過去のタネまきは、全くというほど気づかない。
王舎城の悲劇ほど、人間の愚かさ、弱さ、
身勝手さをあらわにした話は少なかろう。

慰めでなくても一言なりと、
釈尊の言葉が聞きたい。
どんなに心が安らぐことかと、
韋提希は必死に訴えるが、
釈尊の無言はつづく。
聞かれているのか、いないのか。
投げても投げてもはね返ってくるボールのように、
ウンともスンとも応えてもらえぬもどかしさに、
イダイケはいっそう深い悲しみの淵へと落ちてゆく。

やがて、精も魂も尽き果てて、
なりふりかまわず身を投げて懇願する。
「私はなんのために生まれてきたのでしょうか。
 こんな苦しい、おぞましい人生、
 この世ながら地獄です。
 来世は二度とこんな苦しみのない世界へ
 行かせてください」
 
韋提希夫人の切なる希願に、
ようやく口を開かれた釈尊は、
眉間の白毫相より光明を放って、
十方諸仏の国土を展望させられる。

「まあ、なんというすばらしい世界……」

つくづくと、それらの国々を拝見した韋提希が、
「十方諸仏の国土は、いずれも結構なところでは
 ございますが、
 私は、諸仏の王である阿弥陀仏の浄土へ
 生まれとうございます。
 それには、どうすればよろしいのか。
 仰せのとおりにいたします」
 
韋提希は、目を輝かせて教えを請うた。

"弥陀の浄土へ生まれたい"これ一つを
願わせたいのか目的だった釈尊は、
待望していた韋提希夫人の言葉に、
はじめて会心の笑みをもらされる。

かくして説かれたのが『観無量寿経』の説法である。

釈尊一代四十五年間の説法は
我身知らずの我々に
曽無一善、一生造悪、必墮無間の実機を知らせ、
その悪機を救う弥陀の本願を信知させんが為のものであった。
それが観無量寿経の説法なのである。

法華経が出世本懐経と言っている者達は
釈尊の真意が判らず自分は善根功徳の積める善人だと
思って雑行を励んでいるのだから
釈迦一代の一切経を反古にしているのだ。
真実教に背反して助かる筈がないのである。

法華経と浄土三部経(法華経などでは助からぬと、なぜ親鸞聖人は断言されたのか)

2009年08月10日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(法華経などでは助からぬと、なぜ親鸞聖人は断言されたのか)

私達は、法華経などの教えでは絶対に助からぬと、
親鸞聖人は断言なされた。

親鸞聖人は『和讃』に、
「大集経に説き給う、この世は第五の五百年、
 闘諍堅固なる故に、白法隠滞したまへり」

「釈迦の教法ましませど、修すべき有情の無き故に、
 さとり得る者末法に、一人もあらじと説きたまう」

と、法華経などの教法(白法)では一人も助からぬことを
明らかに教えておられる。

釈迦の教法というのは聖道門と言われる仏教で
天台、真言、禅、法華などの諸仏教をいう。

しかもこのことは、すでに釈迦が説かれていることだから、
疑う余地のないことだと聖人は断言なされている。

過日、新聞に比叡山に於いて、千日回峯行なる荒行を
為した僧の記事が出ていた。
比叡山というのは、法華経に説かれていることを
如実に修行せんとする、天台宗の山であり、
かって親鸞聖人も九才から二十年間、
大曼の難行までなされたところだ。
今でも厳しいしきたりがある。

まず、十二年間は結界の中で修行し、
山から降りない不文律がある。
千日回峯行というのは、真夜中の二時に起きて
山上山下の行者道を三十キロ歩く。
この間、塔堂ガランや山王七社、霊石、霊水など
三百五カ処で所定の修行をする。
無論、雨、風、雪、病気になっても止めることは
できない。若し途中で挫折したら持参の短刀で自害するのが
山の掟になっている。
徳川時代には多くの修行僧が自害しているのだ。

始めの六年間は毎年百日、
後の二年間は二百日連続で修行しなければならず、
とりわけ八百一日目から百日間は「大回り」をやる。
山を降りて京都の修学院から一乗寺、平安神宮、祇園と
一日八十キロを十七、八時間で回る
生死関頭の苦行だ。
開山以来千百年間、この難行を完遂した者は三百人に満たず、
幕末から今日まで七人しかいないと言う、
文字通りの命がけの修行なのだ。

しかもなお、仏覚には程遠い初歩なのだから聖人は、

「自力聖道の菩提心、心も言葉も及ばれず、
 常没流転の凡愚は、如何でか発起せしむべき」

「末法五濁の衆生は、聖道の修行せしむとも、
 一人も証を得じとこそ、教主世尊は説きたまへ」

と、私達のこの道の絶えて久しきことを教え、

「像末五濁の世となりて、釈迦の遺教かくれしむ、
 弥陀の悲願ひろまりて、念仏往生さかりなり」

「極悪深重の衆生は、他の方便さらになし、
 偏に弥陀を称してぞ、浄土にむまると述べたまう」

と、仰せられている。

阿弥陀仏の本願のみが釈迦出世の本懐であり、
私達の救われる唯一無上の教法なることは、
いよいよ明らかではないか。


法華経と浄土三部経(出世本願の中の本懐は大無量寿経)

2009年08月09日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(出世本願の中の本懐は大無量寿経)

親鸞聖人は『教行信証』の中に
「それ真実の教をあらわさば、大無量寿経これなり」
と、明言なされている。

これは、釈尊の説かれた経典は八万四千とか、
七千余巻とか言われる程たくさんあるが、
釈尊の本心を説かれた、
いわゆる出世本懐中の本懐経は
『大無量寿経』ただ一つだと仰言った。

そして、この『大無量寿経』以外の経典は、
みな方便の経だと断定なされている。

では聖人は何を根拠として
このように断定なされたのか。

先ず『大無量寿経』の巻頭に、
釈尊自らが明言なされているからだ。即ち、

「如来、無蓋の大悲を以って三界を矜哀す。
 世に出興する所以は道教を光闡し、
 群萠を拯い、恵むに真実の利を
 以ってせんと欲してなり」
と、宣言なされています。

これは、私がこの世に生まれ出た目的は、
一切の人々を絶対の幸福に導く、
この経を説く為であったのだ、ということだ。

この巻頭のお言葉だけでも、
すでに真実の経であることは明らかだが、
なお、この経の終りには次のように仰言っておられる。

「当来の世に経道滅尽せんに、
 我慈悲を以って哀愍し、 
 特にこの経を留めて止住すること百歳せん、
 それ衆生あって、この経に値うものは
 意の所願に随って、みな得度すべし」

と、出世の本懐経であることのとゞめをさしておられる。

これはやがて、『法華経』など一切の経典が滅尽する、
末法法滅の時機が到来するが、その時代になっても、
この『大無量寿経』だけは永遠に残り、
増々、総ての人々を絶対の幸福に導くことであろう、
と仰言ったものである。

このようなことが説かれているのは一切経多しと雖も、
この『大無量寿経』のみである。

釈尊は『大集経』その他の経典に、
私の死後千五百年たつと末法という時機がくるが、
この時代になると、一人も私の教えで助かる者が
いなくなるであろう、と予言なされている。

これを親鸞聖人は、
「釈迦の教法ましませど、修すべき有情のなき故に、
 さとりうる者末法に、一人もあらじと説きたまう」
   (正像末和讃)
と仰言っている。

しかも、その末法一万年の後には法滅の時機といって、
一切の経典が滅する時機がやってくるであろうとも
予言なされている。

ところが『大無量寿経』には、かゝる法滅の時代がきても、
この経だけは永遠に残るであろうと明言なされたことは、
永遠不滅の真実経は『大無量寿経』のみであることを
釈尊自ら告白なされたのと同じだ。

だからこそ、この『大無量寿経』を説き終られた時、
釈尊は、
「これで如来として為すべきことは、みなこれを為せり」
と慶喜なされたのは当然だろう。

法華経と浄土三部経(出世本懐の中の本懐)

2009年08月08日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(出世本懐の中の本懐)

釈迦如来の45年間に説かれた教えは
一切経七千余巻におさまっている。

その出世本懐の経典は。
法華経と大無量寿経である。

法華経  =自力の出世本懐経
大無量寿経=他力の出世本懐経

ではどちらが釈迦如来が一番説かれたかったのか。
その出世本懐の中の本懐は何かが
最も大事な問いである。

この出世本懐経について、
『法華経』か『大無量寿経』か。
この主張の違いが根本原因となり、
今までに命をかけた法論がなされてきた。

仏教は趣味や娯楽ではない!
なぜこのくい違いがこれほど問題になるのか
『大無量寿経』を信じるか
『法華経』を信じるかということは、
未来永遠にわたって、全人類が浮かぶか沈むかの
大問題となってくるからである。

全人類の未来永遠の浮沈をかけて
真剣に仏教を求めているのである。
ゆえに出世本懐経はどちらかということは、
どうしても決着をつけねばならない問題なのである。

法華経と大無量寿経、どちらが
出世本願の中の本懐なのか。

一切経を読まれた方は何人もいる。
天台も親鸞聖人も幾度も
経典を読破されたに違いない。

しかし、釈迦の真意を知らされたか
どうかは別である。

法華経と浄土三部経(二つの深法)

2009年08月07日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(二つの深法)

また『法華経』には
『大無量寿経』が出世本懐経である
と示している御文があるのだ。

一切経の中で深法と説かれてあるのは
法華経と大無量寿経しかない。
無上甚深の教えであるということだ。

ところが『法華経』には
この法華経を信じ得ない者のためには
如来の余の深法を教えよとあり、
その言葉を釈尊は受けて、
『大無量寿経』のみを深法と呼び
出世本懐経として開顕していられる。

『法華経』の
「信受せざらん者には、
 当に如来の余の深法の中に於て示教利喜すべし」
の御文の意味は
法華経を如実に実践できない者には、
余の深法によって救いを得べきである
ということである。

『大無量寿経』にはそれを受けて
「一向に意をもつぱらにして、乃至十念、
 無量寿仏を念じたてまつりて、
 その国に生れんと願ずべし。
 もし深法を聞きて歓喜信楽し、
 疑惑を生ぜず」

一向専念無量寿仏の身になり、
弥陀の本願(深法)をまことと
聞きぬいた時、
大安心・大満足の絶対の幸福の身に
なれると説かれているのだ。

これによって、法華経では助からないことを
知らせて大無量寿経に送り込む法華方便の
明らかな文証となるのである。


法華経と浄土三部経(大無量寿経=特留此経)

2009年08月07日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(大無量寿経=特留此経)

大無量寿経は末法、法滅の時機でも
「特にこの経を留めて止住する
 こと百歳せん。」
と特に大無量寿経だけは留めおくと
仰言っておられるから、
『特留此経』と呼ばれている。

仏教をあまり勉強していない人で
「百歳せんと百年しか残らないではないか」
と言うのを聞く。

仏教では百歳とは万数のことで
「永遠に」ということである。
大無量寿経の意訳「無量寿如来会」には
「是の法をして久しく住して滅せざらしむべし」
とあり、

サンスクリットの原典には
「この教法が滅びないように、
 偉大な贈り物をするのだ。」
となっている。


だからこそ、この『大無量寿経』を
説き終られた釈尊は
「これで如来として為すべきことは、
 みなこれを為せり」
と大満足の意を表せられたのも当然であろう。




法華経と浄土三部経(真実の教えは三世十方を貫く真理)

2009年08月06日 | 法華経と浄土三部経
法華経と浄土三部経(真実の教えは三世十方を貫く真理)

凡そ、真実といわれるものは
三世十方を貫くものでなければならぬ。
仏教では

三世(何時でも)
十方(何処でも)

変わらぬものであってこそ、
唯一、絶対、真実の法といわれる。

かゝる意味から考えても
正法、像法、末法の時機によって
変遷し、隠滞し、果ては滅尽すると
説かれた聖道自力の仏教は、
明らかに方便仮門の教であり、
真実の仏法でないことは明白である。


それどころか、『大無量寿経』に
説かれている阿弥陀仏の本願は、
正法、像法、末法、法滅の時代になっても、
始終変わらず一切の人々を摂化する
と説かれている

正に時代を超え差別を
超えた真実の仏法であることを
証明している。

『大無量寿経』巻末には
「当来の世に経道滅尽せんに、
 我れ慈悲を以って哀愍し、
 特にこの経を留めて止住する
 こと百歳せん。
 それ衆生ありて、この教に値うものは
 意の所願に随ってみな得度すべし」
と出世の本懐を述べていられる。
 
これは、やがて『法華経』等の
一切の経典が滅尽する末法法滅の時機が
到来するであろうが、その時代になっても
この『大無量寿経』のみは残り、いよいよ、
衆生救済の光輝を放つであろうと
仰有ったものであるから、
永遠不滅の真実の仏法は、
阿弥陀仏の本願のみであることを
釈尊自ら明言なされたものである。

されば、釈尊、出生の本懐の中の本懐は、
この『大無量寿経』にあることは
明らかである。