歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

曇鸞大師⑧(自他力廃立)

2009年06月30日 | 七高僧
曇鸞大師⑧(自他力廃立)

浄土真宗の教義は、
親鸞聖人によって大成され、
三代目、覚如上人によって要約され、
八代目蓮如上人が普及なされた
極善最勝の妙法である。
これら三善知識に一貫する法脈は、
徹底した廃立法門だ。

廃というは捨てもの
立てるもの、拾いものということである。
その廃立すべきものに
内外廃立・聖浄廃立・真仮廃立と三種あるから
三重廃立といい、
これをしなければ絶対に助かることがないから
親鸞聖人の『教行信証』には
きびしくそれが説かれている。

覚如上人は、聖人の意を『改邪鈔』に
「真宗の門に於ては幾度も廃立を先とせり」
と申され、

蓮如上人は
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて
 後生助け給えと弥陀たのめ」
と御教示になった。

釈尊を初め、七高僧は廃立の教えで
貫かれている。

阿弥陀仏=選択本願を立てられ、四十七願を捨てられた
釈迦如来=内外廃立
    =一切の仏教以外の宗教を捨てて仏教を信じよ。
龍樹菩薩=難易廃立
    =難行道を捨てて、易行道を信じよ。
曇鸞大師=自他力廃立
    =自力を捨てて、他力に入れ。
道綽禅師=聖浄廃立
    =聖道門を捨てて浄土門に入れ。
親鸞聖人=真仮廃立
    =浄土他流を捨てて、真宗に入れ。

内外廃立・聖浄廃立・真仮廃立の
三重廃立の教えこそ、
釈迦・諸仏・菩薩の出世本懐である。
「一向専念無量寿仏」を鮮明に徹底させ、
濁流とうとう流れる現代人を救う最高の指針。

これこそ親鸞聖人の精神であり、
源流遠く、大聖釈尊の真意を伝えるものである。

曇鸞大師の自他力廃立は
親鸞聖人に与えた影響は甚大であった。

覚如上人は改邪鈔に
「知識伝持の仏語に帰属するをこそ、
 『自力をすてて他力に帰する』ともなづく」
と知識の重大な使命は
自他力廃立の徹底であることを
明示されている。

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曇鸞大師⑦-2(他力≠自然・他人の力)

2009年06月29日 | 七高僧
曇鸞大師⑦-2(他力≠自然・他人の力)

世間一般では他力を常識的に解釈して、
自分の力以外を総て他力と思って、
太陽の働きや、雨や風や空気、その他自然の働きや、
自分以外の人間の力など総てを他力だと心得ている。
とんでもない他力間違いである。

なぜなら、もし太陽やその他の自然現象を
総て他力とすると、
阿弥陀仏が時によっては干ばつで人間を
苦しませることになる。
地震によって我々の生命を奪ったり、
台風で人命をおびやかしたり、
財産を失わせたりする呪うべき、
ニクムべき、悪魔になることがあると
いうことになってしまう。

これらのことを総て他力、阿弥陀仏のお力とすることは、
とんでもない大慈大悲の阿弥陀仏に対する濡衣であり、
大変な冒涜といわねばならない。

これらは自然の力であり、人間の力と言うべきもので、
絶対に他力といってはならないのである。

勿論、これら自然の力や人々の協力の恵みに対して
感謝の気持をもつことは結構なことではあるが、
これを阿弥陀仏のお力と思ってはならない。
他力とは、あくまで我々を大安心、大満足の心、
絶対の幸福にさせて下されるお力のみをいうのだ
ということを、よくよく心得なければならない。
 
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曇鸞大師⑦(他力=阿弥陀仏の本願力のみをいう)

2009年06月29日 | 七高僧
曇鸞大師⑦(他力=阿弥陀仏の本願力のみをいう)

他力を誤解している人は非常に多い。
みんな他力というと
「他人のふんどしで相撲をとる」
「他人の提灯で明りを求める」
のことのように思っている。
力のない人間が力のある人間に助けを求める
依存心だと思っているのだろう。
新聞などにも堂々と
「他力本願ではいけない、自力更生でなければならぬ」
と書きたてているのがその証拠だ。

では、他力とは一体どんな意味なのか。
親鸞聖人が、『教行信証』に明示されているように、
阿弥陀仏の本願力のみを他力というのである。
他力の語源は曇鸞大師の浄土論註にある。
他力の他は阿弥陀仏のことに限るのです。

それでは阿弥陀仏の本願力とは、どんなお力なのか。
これについても親鸞聖人は『和讃』に
「無明長夜の闇を破し、衆生の志願を満てたまう」力であると
鮮明に教えていられる。

即ち、阿弥陀仏の本願力とは、
我々の暗い心(苦悩のたえない心)を打ち破って
日本晴れの大安心にするお力であり、
我々の一切の志願を満たして大満足心で
生きぬけるようにして下されるお力であり、
それをまた、他力というのである。

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曇鸞大師⑥(三蔵流支より浄教を授かる)

2009年06月28日 | 七高僧
曇鸞大師⑥(三蔵流支より浄教を授かる)

菩提流支に出会った曇鸞は得意満面で
陶隠居から授かった仙経十巻を取り出し、

「これこそ、中国に伝わる長生不死の仙術を記したものである」
と誇らしげに言った。

それを聞いた菩提流支、パッと大地に唾を吐き捨けて、
「何たる情けなきこと」
と軽蔑に満ちた表情で言った。
「なぜ、そのように言われるのか」
と、曇鸞が不審を問うた時、菩提流支は
「この諸行無常の世界に、どこに長生不死の法がありましょうか。
 多少の長寿を誇れたとしても、やがては死ぬ時が来る。
 死ねば必ず無間地獄に堕在し、
 八万劫中大苦悩を受けなければならないのです。
 この後生の一大事を忘れて仙人の法に迷うなど笑止の限りです」
と言った。曇鸞は憤然として、
「ならば仏教の中に、仙人の法に勝る長生不死の法があるとでも
言うのですか」
と尋ねると
「ありますとも」
と言いながら菩提流支の差し出した経典は、
『観無量寿経』であった。

「これをご覧なさい。
これこそ無量寿を観る法であり、
ここにこそ、まさしく長生不死の神方が説かれているのです」

それを聞いた曇鸞、初めて迷いの夢覚めた思いで菩提流支の
手元にある『観無量寿経』に注目するのであった。

そして、翻然として心に悟るところがあり、
菩提流支の面前で、苦心の末に手に入れた
仙経十巻をことごとく焚焼してしまわれた。

以後、曇鸞大師は、浄土門に帰依して、
『大無量寿経』の真精神を体得され、
弥陀の本願を宣布することに
生涯を賭けられるのである。

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曇鸞大師⑤-4(玄奘三蔵)

2009年06月28日 | 七高僧
曇鸞大師⑤-4(玄奘三蔵)

●玄奘三蔵(げんじょう さんぞう)
(602~664)

唐代の中国の訳経僧
13歳で出家。

26歳で国禁を破り、インドへ旅立つ。
その時の苦難の多かった旅に後に『西遊記』
のモデルとなったことは有名である。

17年ぶりに中国に戻ると、王の厚い援助を得て、
経典翻訳に努めた。

玄奘が翻訳した経典の総数は1335巻に達した。
翻訳に着手してから終了まで17年半で
単純に平均しても一年に75巻以上もの計算になる。

このような速さにもかかわらず、
玄奘訳で統一のとれた訳文を保持しえたのは、
玄奘の翻訳所に列した人々のレベルの高さであろう。

経典には、翻訳者の名前がハッキリ記されている。
彼らの業績は、釈尊のお名前とともに
永遠に輝き続けるだろう。


曇鸞大師⑤-3(菩提流支三蔵)

2009年06月27日 | 七高僧
曇鸞大師⑤-3(菩提流支三蔵)

●菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)
(?~527)

北インド出身の僧。
中国に渡って皇帝の援助により、
北魏の都、洛陽で訳経に従事。
七百の僧を指揮して経典の翻訳事業に
力を尽くしていた人物である。

二十八年の間に、『金剛般若経』『入楞伽経』
『十地経論』『浄土論』などの
大乗の経論を127巻翻訳した。

名は道希とも訳す。
また菩提流支とも音写する。
曇鸞大師に浄土経典を授けた。

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曇鸞大師⑤-2(鳩摩羅什)

2009年06月26日 | 七高僧
曇鸞大師⑤-2(鳩摩羅什)

●鳩摩羅什(くまらじゅう)
(350~409)

中国六朝時代の訳経僧である。
玄奘と共に二大訳聖と言われる。

インド北部の亀茲(きじ)国の生まれで
9歳で母と出家し、最後は大乗仏教に回心した。

中国軍に捕らえれた中、
16年で中国語をマスター。

国王の命により、
『阿弥陀経』『法華経』『般若経』など
294巻の翻訳を完成させたのである。

その翻訳の正確さは。もはやひとつに芸術性すら
伴って比類なき名訳とされた。

日本に伝わった鳩摩羅什の訳本によって、
聖徳太子の三経義疏(さんぎょうぎしょ)が生まれ、
十七条憲法も生まれたのだ。

また『阿弥陀経』が描く、阿弥陀仏国の理想世界を
「極楽」国土と表現し、浄土仏教に与えた影響は
大きい。


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曇鸞大師⑤(三蔵法師)

2009年06月25日 | 七高僧
曇鸞大師⑤(三蔵法師)

曇鸞大師は意気揚揚と本国へ帰る途中、帝都洛陽において、
当代随一の訳経家たる菩提流支三蔵と出会った。

では三蔵法師とはどういう人であろう。
テレビで『西遊記』の影響で
三蔵法師が白馬・玉龍に乗って
孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、
さまざまな苦難を乗り越えて天竺(インド)へ
経典を取りに行く物語をみて、
三蔵法師の名を記憶しているが多いに違いない。
しかし、三蔵法師というのは、
経蔵と律蔵と論蔵の三蔵を深く学び、
それについて指導する僧のことであり、
一人の名前ではない。

「蔵」は「集めたもの」という意味、
経蔵=お経を集めたもの、
律蔵=戒律についての文章を集めたもの、
論蔵=インドで作られたお経の註釈を集めたもの。

2600年の時を経て、今、我々が仏法を聞けるのは
サンスクリット語で書かれた一切経を東へ伝え、
中国語翻訳に命を賭けた多くの三蔵法師が
あったればこそである。
その中でも有名なのが、
鳩摩羅什・菩提流支・玄奘である。

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曇鸞大師④(病気で仏道を中断、仙人の弟子となる)

2009年06月24日 | 七高僧
曇鸞大師④(病気で仏道を中断、仙人の弟子となる)

『大集経』に取り組み始めた曇鸞であったが、
途中で病気になり仕事を中断しなければならなくなる。
その時、曇鸞はすでに五十歳を越えていた。

曇鸞は療養中に、人間の寿命のはかなきを嘆かずにおれなかった。

「一生とは何と短いことか。
 丸々生きて五十年、たちまちに過ぎ去ってしまうではないか。
 それも天寿を全うできてのこと、いつ病気やら不慮の事故で
 死なぬとも限らない。
 そうなれば、仏法の極意を極めることなどとてもできぬ。
 『大集経』一部でさえ、病気のため、中断し読めないようでは
 膨大な大乗経典を学び尽くせる筈がない。
 仏道修行するためには、まず長生きをしなければならぬ。
 それの単なる長生きではせいぜい百年だ・
 それでも七千余巻の経典の前では短過ぎる。
 いっそ、仙人の間に伝えられると聞く長生不死の仙術を
 先に学ぶべきではないか。」


不死の仙術を学ぼうと思い立った曇鸞は、
そのころ道教の仙人として名声の高かった
江南の陶隠居(とういんきょ)をはるばる訪ねて行った。

陶隠居のもとには、多くの弟子が仙術の修行をしていたが、
曇鸞もそれらの人々に加わって長寿の法を学び続けた。

やがて、曇鸞の熱心な修学は、陶隠居の認めるところとなり、
密かに自らの後継者として期待せしむるほどであった。
陶隠居は、傑出した人材と感じた曇鸞に
仙術の秘奥を記した仙術十巻を授けて、
教義の流布を命じたのである。
曇鸞は非常に喜んで陶隠居の許を辞し、
神仙の法を伝えんとの気概に燃えて、
仙経十巻と共に帰路についたのである。

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曇鸞大師③(初めは四論宗で学ぶ)

2009年06月23日 | 七高僧
曇鸞大師③(初めは四論宗で学ぶ)

幼いころから、この仏教の霊地を彼方から仰ぎながら
成長した曇鸞はまだ十五歳にもならぬうちに、
この霊山に登り、その神秘的な感興に
生涯に仏法に捧げる決意をした。

そして、四論宗の学問を中心に広く内外の経典に
取り組んでいったのである。
曇鸞の学んだ四論宗とは
八宗の祖師と謳われた龍樹菩薩の著された
『中論』『十二門論』『大智度論』などを宗とするが、
これらはいずれも鳩摩羅什の手によって
漢文に翻訳されたものである。

四論宗は当時の仏教界の主流であったところから
曇鸞も、この四論の学問に励み、
やがて修学は他の経典にも及んでいった。
研鑚を重ねてゆくうちに『大集経』を読むこととなった。

曇鸞は『大集経』に極めて意義深いものを感じた。
そこには、釈尊が時代の推移を予言しておられたのである。
「私の死後五百年間を正法の時機という。
 この時機には、教えもあり、修行する者もおり、
 証る者もいるであろう。
 教・行・証のそろった時代だ。
 ところが、その次に像法の時機が一千年続く。
 そこには教・行のみありて、もはや証はないであろう。
 さらに末法の時機が一万年続くが、この時機には
 教のみあって、行も証もない。
 証りを得る者は一人もいなくなってしまうであろう。」

大変なことが説かれているのだ。
曇鸞は、その重大性を感じ、『大集経』の真意を
解明したいと取り組んだ。

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