歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(喜劇王チャップリン国外追放と最期)

2010年12月28日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(喜劇王チャップリン国外追放と最期)

喜劇王チャップリンに
第二次世界大戦前の
1936年に製作された
『モダン・タイムス』のあたりから、
鋭進的な右左両派からの
突き上げが激しくなった。

既に1933年の日本訪問中に
偶々発生した国粋主義的な士官による
クーデター未遂事件(五・一五事件)では
「日本に退廃文化を流した元凶」として
首謀者の間で彼の暗殺が検討されていた。

更に大戦前後の戦争あるいは
ファシズムを批判する
チャップリンの作風が、
第二次世界大戦が終結し、
ソビエト連邦をはじめとする
東側諸国との冷戦が始まった
アメリカで「容共的である」とされ、
非難の的とされた。

特に1947年の『殺人狂時代』以降には
非難が最高潮に達し、
ジョセフ・マッカーシー上院議員の指揮の下、
「赤狩り」を進める
上院政府活動委員会常設調査小委員会から
何度も召喚命令を受けた。

その後、1952年に『ライムライト』の
ロンドンでのプレミアのために
イギリスに向かう最中、
事実上の国外追放命令を受け、
その結果、彼自身の意には
そぐわなかったが、
スイスのローザンヌの
アメリカ領事館で再入国許可証を
返還しアメリカと決別する。

アメリカを去ったチャップリンは、
映画への出番もめっきり
少なくなる一方で
名士として尊敬され、
また自身の作品の再編集や
作曲に没頭した。

なお、彼が再びアメリカの地を踏むのは、
アメリカを去って20年後の1972年に、
アメリカ映画界からの事実上の謝罪を
意味するアカデミー賞特別賞を
手にしたときであった。

1975年には、それまでの活動を評価され、
ナイトに叙され

「サー・チャールズ」

となった。

1977年のクリスマスの朝に
ヴェヴェイの自宅で没した。

喜劇王チャップリンの死後、
金銭目的で墓から遺体が
持ち出される事件があったが、
遺体は墓の近くの農地で発見された。