歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

最悪の政治家⑫(東条英機と戦陣訓)

2009年11月30日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑫(東条英機と戦陣訓)

1941年1月8日に当時の陸軍大臣・東條英機が
示達した訓令が『戦陣訓』である。
軍人としてとるべき行動規範を示した文書だ。

特に本訓其の二第八「名を惜しむ」の

「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、
 死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」

の一節が、戦後に製作された太平洋戦争を
題材とした小説や映画・ドラマなどで
旧日本軍の人命軽視の行動を否定する際に
引用されることも多い。

戦時中は例えば戦国時代に
「生きて虜囚の辱を受けず」を実践した人物を
モデルとして映画法による
国策映画『鳥居強右衛門』(日活1942年)が作られ、
この一節は推奨されていた。

今日では太平洋戦争中で発生した
日本軍の玉砕や全滅、
民間人の自決を推奨し、
降伏を禁止させる原因である
と理解されている。

東条英機は1884(明治17)年12月30日、
陸軍中将東條英教の子として
東京に生まれた。

陸軍大学校卒業義、
陸軍の中堅・若手エリートたちとともに、
陸軍改革のためのグループとして
一夕(いっせき)会を結成。
リーダー格としての中堅将校として
満州事変の頃から頭角を現した。

日本の傀儡国家である「満州国」創設後の
1935(昭和10)年関東憲兵司令官となり、
1938(昭和13)年、板垣征四郎陸軍大臣の
もとで陸軍次官となり、
1940(昭和15)年7月、
第2次近衛内閣の陸相に就任したのだ。


この時、東条が作ったのが「戦陣訓」である。

松岡洋右外相とともに
日独伊三国同盟の締結に推し進める一方、
日本軍のフランス領インドシナ侵略を容認、
さらに対英・米開戦を主張したのであった。

最悪の政治家⑪-5(植民地支配に利用されたエニグマ)

2009年11月29日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑪-5(植民地支配に利用されたエニグマ)

エニグマ暗号が解読可能なことも、
長く秘密にされた。

大戦後イギリスは、ドイツから大量に
押収したエニグマ暗号機を、
中南米やアフリカ諸国に
「高いコンピューターを使わずに
解読不可能な暗号を作る機械」
と言って、売却している。

エニグマを買った国は大喜びで、
外交文書をエニグマで暗号化し、
大使館や情報機関とやり取りした。
もちろん、この情報は
イギリスには筒抜けであった。

アメリカ、イギリスは
この情報を使い、
中南米やアフリカ諸国に
不穏な動きがあれば、
すぐに秘密裏のうちに
解決をしていった。

これらの国はアメリカ、イギリスの
植民地支配にエニグマ暗号機が
利用されていることは
夢にも思っていなかった。

自国の平和の為に、
他国の独立運動を事前に
押さえ込み、自由を奪い、
犠牲にしてゆく。
こんなことが大国だけ、
許されていいのだろうか。
今、その反動が全世界のゲリラ活動と
なって現れているのもうなずける。

最悪の政治家⑪-4(情報を無視したチャーチル)

2009年11月28日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑪-4(情報を無視したチャーチル)

運命の日、1940年11月14日
ドイツの空爆が始まった。
ところが、チャーチルはこの情報を無視。
コベントリーは無防備のまま空襲を受け、
街は壊滅的な被害を受けた。

ウィンストン・チャーチルは
コベントリーを失うことよりも、
イギリスの暗号解読能力を
知られることを恐れたのだ。

この後も、ドイツはエニグマより
格段に解読が難しい新型暗号機を
開発するが、
イギリスも真空管を使った
世界初の電子計算機「コロッサス」を
1943年12月に完成させ、
この暗号を解読させている。

これらはすべて最重要機密として扱われ、
その存在が明らかになったのは、
戦後30年たってからである。

イギリスは国家機密を守るために
多くの自国の市民を犠牲にしたが、
これは正しい判断であったとされた。
チャーチルは英雄となり、
1953年には『第2次世界大戦回顧録』で、
ノーベル文学賞を受賞している。

「1人殺せば悪人だが、
100万人殺せば英雄だ」
と言ったのはチャールズ・チャップリンである。
法律や道徳・倫理では、
善悪の境を分けることはできないのだ。

コベントリーの町の中心広場には、
第2次世界大戦時に爆撃を受けた建物が、
今でも当時のまま残されている。
市民はいつまでも、この空襲を忘れずにいる。


最悪の政治家⑪-3(暗号機エニグマ)

2009年11月27日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑪-3(暗号機エニグマ)

特にロンドンヘの空襲は、
9月から10月はじめまで続いた。
大きな打撃を受けていたイギリスにとって、
ドイツ軍の情報入手が最重要課題だったが、
ドイツ軍は「エニグマ」という
優秀な暗号作成機を使って通信していた。

第2次世界大戦においてドイツの「エニグマ」、
日本の「パープル」は、
解読が困難な暗号として有名である。
エニグマは3つの歯車と電気プラグで
暗号を組み替えるもので、
その組合わせの数は10京(兆の10万倍)。
しかも、ドイツ軍は毎日、暗号の組み合わせを
変えてくるため、暗号の解読は不可能とされていた。

イギリスは、ドイツ軍の暗号を解読するため、
外務省暗号研究所に約1万人の人材を投入する。

その中、数学者のアラン・チューリングを
中心とするチームが、
電磁石を使った電気式計算機「ボンベ」を開発し、
1940年11月、見事にエニグマ暗号の
解読に成功したのだ。

さっそく傍受したドイツ軍の暗号を解読した結果、
ドイツは攻撃目標をロンドンから
別の都市へ変更。
最初の標的はロンドンの北西にある
コベントリーという町で、
攻撃の日は、11月14日と判明した。

情報はチャーチルのもとに伝えられ、
暗号研究所のメンバーは、
イギリス軍がドイツ軍を返り討ちする
ニュースを心待ちにしていた。

最悪の政治家⑪-2(大戦中に首相となる)

2009年11月26日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑪-2(大戦中に首相となる)

1939年9月1日、ナチス・ドイツが
ポーランドに侵攻。
ただちにイギリス、フランスはドイツに宣戦布告し、
第2次世界大戦が勃発した。

チャーチルは内閣に招かれて再び海相に就任した。
1940年にはネヴィル・チェンバレン首相の
後任として首相に任命され、
みずから国防相を兼任して陸海空の幕僚長を
直接指揮する形をとり、
挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。

チャーチルはラジオや議会での演説を通じて
国民に戦争協力を呼びかけ、
総力戦を組織化していき、
強力な指導力を見せることになる。

しかし、太平洋戦争開戦に伴い日本と
対決したマレー沖海戦では、
日本海軍の攻撃により英東洋艦隊の戦艦2隻を失い、
第二次世界大戦中もっとも衝撃を受けた。

1940年6月、フランスがドイツに降伏し、
フランス軍はドーバー海峡を渡って
イギリスに逃れる。
ヨーロッパ西部をほぽ制圧したドイツは、
イギリスに降伏を迫った、
イギリスは断固拒否。

同年7月、ドイツはイギリス本土へ
本格的な空襲を開始した。



最悪の政治家⑪(英雄チャーチル)

2009年11月25日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑪(英雄チャーチル)

ウィンストン・チャーチル(1874年~1965年)は、
イギリスの政治家。
1940年から1945年にかけて
イギリス戦時内閣の首相として
イギリス国民を指導し、
第二次世界大戦を勝利に導く。
大戦終結後に再び首相となる。

また彼の文才とユーモアとウィットのセンスは、
広く認められたものであった。
第二次世界大戦を描いた一連の大作は有名であり、
それらの筆業は彼にノーベル文学賞をもたらした。
日常ではジョークの名手かつ毒舌家であり、
ある女性議員から
「私があなたの妻だったら
 あなたの飲む紅茶に
 毒を入れるでしょう」
と皮肉られたところ、

「私があなたの夫だったら
 喜んでその紅茶を飲むでしょう」
と平然と言い返したという。
貴女と顔を会わせなくても良くなるなら、
毒入りの紅茶を飲む方が良いと切り返して、
女性議員を悔しがらせたと伝えられる。

なお、彼が優秀な政治家の条件と
して挙げたのは
「将来何が起こるかを予言する能力」と
「予言が当たらなかったとき、
 それを弁解する能力」である。

最悪の政治家⑩-10(スターリンの孤独な死)

2009年11月24日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩-10(スターリンの孤独な死)

1953年3月1日、フルシチョフ等幹部との
徹夜の夕食の後、
スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れた。

暗殺を恐れていたスターリンは、
同じ形の寝室を複数作り、
どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。
寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、
扉は内側から施錠すると、
外から開けるには警備責任者が持つ
ただ1本の鍵を用いるしかなかった。

翌朝、予定時間を過ぎても
スターリンの指示がないことに
警備責任者は不審を覚えたが、
眠りを妨げられたスターリンの怒りを
買うことを恐れて、
午後になるまで何もしなかった。

このために発見が遅れ、
容態を重篤にした。

臆病な独裁者のあまりにも
孤独な死に様ではないか。

最悪の政治家⑩-9(臆病なる独裁者)

2009年11月23日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩-9(臆病なる独裁者)

権力の絶頂期の頃のスターリンは、
部下に対して常に粛清をちらつかせながら
接するようになった。

スターリンの質問に「ノー」の返事をすると粛清であり、
曖昧な返事でも粛清であり、
返事を即答できなければ粛清であった。

スターリンがいた神学校に、
ドミトリー・ハフタシヴィリという教師がいた。
生徒たちは座って、前の机の上に両手を
置いたまま身動きをしてはならず、
教師の目をまっすぐに見ていなければならなかった。
誰かが体を動かして目をそらすと、
すぐに定規で指を叩かれた。
この教師は
「目が動くのは、よくないことを考えている証拠だ」
という言葉を繰り返した。

スターリンはこれを忠実に覚えており、
スターリンとの会話の際、
目を逸らした者は粛清の対象となった。

このため、共産党員や軍将校がスターリンと会話するときは
必死に彼の目を見たという。

しかし、逆に部下と話すときは
恐怖に怯えた顔で会話をしていたという。
会議中に停電が起こり、電気がつくと、
スターリンの姿が見えず、
探してみると机の下で小便を流しながら
ブルブル震えていたという臆病さを表す
逸話もあるなど、臆病な一面もあった。

この性向は晩年に近づくほど酷くなり、
「自分の周りにいる人間は全て敵である」
という妄想に悩まされていた。
あまりの恐怖に人前にでることはほとんどなくなり、
部屋から出ることは稀になっていった。
スターリンの部屋は複数に分かれており、
どこに泊まるのか誰にも知らされず、
スターリンしか持っていない鍵を、
部屋に何重にも施していた。


最悪の政治家⑩-8(スターリングラードの攻防)

2009年11月22日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩-8(スターリングラードの攻防)

1939年に勃発した第二次世界大戦に
ドイツと独ソ不可侵条約を結んでいたソ連は
ポーランドを東西に分離、
ドイツとソ連が支配した。

しかし1941年6月22日、
ヒトラーは協定を破棄してソ連に侵入。

ソ連は戦争に耐えうる状況ではなかった。
スターリン自身が行った赤軍将校の大量粛清は
ソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。

モスクワに迫るドイツ機動部隊。
スターリングラード攻防戦は
1942年6月28日から1943年2月2日に
渡って続いた。
スターリングラード(現在のボルゴグラード)を巡り、
スターリンの戦略家としての欠点が、
ソ連の敗北と多くの市民の死につながった。

1942年7月27日のスターリンによる
有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、
彼が軍隊の規律を保持するために
発揮した無情さを例証している。

同指令によると、命令なしで自らの位置を
離れたものは銃撃され、
敵に降伏した兵士の家族は逮捕され、
前線では兵士を後退させないため
後ろに督戦隊の機関銃が設置された。

スターリングラード防衛戦では
1万4000人余りの兵士が
自軍によって銃殺された。
実に一個師団分の兵士が
丸々味方によって殺されたことになる。

また、当時市内には約60万人の市民が
住んでいた。
スターリンは「兵士の士気を上げる」と
いう名目で市民の疎開を禁じたため、
ドイツ軍の空襲により最初の一週間だけで
4万人の市民が死亡した。

史上最大の市街戦に発展した
スターリングラードの住民は
終結後わずか9796名に激減していた。

スターリンは自分を守る為には
兵士どころか国民も平気で
犠牲にしたのである。




最悪の政治家⑩-7(4000万を越す大虐殺)

2009年11月21日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑩-7(4000万を越す大虐殺)

「古い細胞を除去し、党は一新されねばならない」
スターリンは、大虐殺をこのように
弁明し粛清の論理を正当化した。

彼は密告を奨励した。
自分の陰口をたたく者、不満を持つ者、
体制に批判的な者を密告によって嗅ぎ分け、
ことごとく粛清するのである。

身に覚えのない密告が盛んに行われ、
数えきれない人間が深夜に連行され銃殺された。

いたいげな子供が親を密告したケースも少なくない。
まだ善悪の判断すらつかぬ子供が、
多くの人々の前で表彰を受け無邪気に
喜ぶ場面もあった。
一方、実の子に密告された親は、
強制収容所に送られ悲惨な死を遂げたのである。

もう、誰も信用出来なかった。
人々は疑心暗鬼に脅え、
毎夜、恐怖に震えおののいた。
死刑執行人、すなわち、秘密警察が現れるのは、
決まって深夜か早朝だったからである。

この年だけで何百万人も連行され、
約半数が処刑されたと言われている。
大戦前の5年間だけでも、2千万人近い人間が逮捕され、
銃殺もしくは強制収容所送りにされているのである。

大粛清は党や軍などあらゆる分野に及んだ。
軍に至っては、将校の8割が処刑された。

ついには粛清を執行した本人たちにも
矛先が向けられていった。

スターリン政権下30年間で換算すると、
ロシアだけで実に4000万人を下らない人間が
連行され有罪判決を受けたことになる。

ソ連全土ともなると、
その数はもっと膨らみ、もはや推定する以外にはない。
当局によって有罪判決を受けた者たちは、
その半数以上が虫けらのように処刑されるか
流刑先で悲惨な死を迎えたのである。
しかし、悲劇はこれが、すべてではない。
4年間に渡る独ソ戦の死傷者2500万人が
その上に加わるからである