文殊菩薩と普賢菩薩⑤(佛の字の謂れ)
今ではホトケは略され仏と書いているが、
一昔までは佛と書いていた。
これは「人に非ず」から佛となったのである。
「弗」は「非ず」という意味で使われる。
氵(さんずい)の横に弗と書くと、
沸騰の沸の字になる。
水が沸くとどうなるか。水蒸気と変身する。
液体が気体に大変わりする。
もとの水ではないのだ。
釈尊も元は人間である。
だから食事も取られるし、眠りもされる。
トイレにも行かれる。
当たり前である。
仏と聞くと食事もしない、トイレもいかない
そんなイメージを持っている人が多い。
とんでもない話だ。仏違いもいいところ。
お釈迦様時代にも仏弟子たちにこんな騒動があった。
釈尊が仏の覚りを開かれてより、大変やさしくなられたので
女性になったのではないかと思う者が少なからずいた。
弟子たちの中で
「釈尊は男に決まっている」
「いや、あんなやさしい男があるか。女性になられたのだ」
と喧嘩が始まったのである。
この収拾は釈尊は男性か女性かの証拠を見るしかない。
選ばれたのが釈尊の身の周りのお世話をしている阿難である。
阿難は釈尊には申し訳ないが、弟子の喧嘩を収めるのに
仕方がないとお昼寝しておられた釈尊の寝室に忍び込んだ。
そして、着物のすそをあげ、あるものがあるか確かめた。
すると男の証拠があったので喜んだ。
その時、釈尊が目を覚まされ、
「阿難、何をしておるか」と厳しく叱られたと
いう話が残っている。
こんなことが問題になるほど、仏の覚りを開かれた
釈尊は変わられたのである。
それは男が女に変わられたような肉体のことではない。
人間は持つことのできない仏徳を兼ね備えられたのである。
その仏徳とは智慧と慈悲なのである。
その二つの偉大な御徳により、すべての人を
本当の幸せに導いてゆかれたのが
この地球上では釈尊であり、
本当の幸福に救って下される仏こそ、
諸仏の本師本仏である阿弥陀仏しかないのである。
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一昔までは佛と書いていた。
これは「人に非ず」から佛となったのである。
「弗」は「非ず」という意味で使われる。
氵(さんずい)の横に弗と書くと、
沸騰の沸の字になる。
水が沸くとどうなるか。水蒸気と変身する。
液体が気体に大変わりする。
もとの水ではないのだ。
釈尊も元は人間である。
だから食事も取られるし、眠りもされる。
トイレにも行かれる。
当たり前である。
仏と聞くと食事もしない、トイレもいかない
そんなイメージを持っている人が多い。
とんでもない話だ。仏違いもいいところ。
お釈迦様時代にも仏弟子たちにこんな騒動があった。
釈尊が仏の覚りを開かれてより、大変やさしくなられたので
女性になったのではないかと思う者が少なからずいた。
弟子たちの中で
「釈尊は男に決まっている」
「いや、あんなやさしい男があるか。女性になられたのだ」
と喧嘩が始まったのである。
この収拾は釈尊は男性か女性かの証拠を見るしかない。
選ばれたのが釈尊の身の周りのお世話をしている阿難である。
阿難は釈尊には申し訳ないが、弟子の喧嘩を収めるのに
仕方がないとお昼寝しておられた釈尊の寝室に忍び込んだ。
そして、着物のすそをあげ、あるものがあるか確かめた。
すると男の証拠があったので喜んだ。
その時、釈尊が目を覚まされ、
「阿難、何をしておるか」と厳しく叱られたと
いう話が残っている。
こんなことが問題になるほど、仏の覚りを開かれた
釈尊は変わられたのである。
それは男が女に変わられたような肉体のことではない。
人間は持つことのできない仏徳を兼ね備えられたのである。
その仏徳とは智慧と慈悲なのである。
その二つの偉大な御徳により、すべての人を
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