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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

文殊菩薩と普賢菩薩⑤(佛の字の謂れ)

2009年04月24日 | 釈迦十大弟子
文殊菩薩と普賢菩薩⑤(佛の字の謂れ)

今ではホトケは略され仏と書いているが、
一昔までは佛と書いていた。

これは「人に非ず」から佛となったのである。

「弗」は「非ず」という意味で使われる。
氵(さんずい)の横に弗と書くと、
沸騰の沸の字になる。
水が沸くとどうなるか。水蒸気と変身する。
液体が気体に大変わりする。
もとの水ではないのだ。

釈尊も元は人間である。
だから食事も取られるし、眠りもされる。
トイレにも行かれる。
当たり前である。

仏と聞くと食事もしない、トイレもいかない
そんなイメージを持っている人が多い。
とんでもない話だ。仏違いもいいところ。

お釈迦様時代にも仏弟子たちにこんな騒動があった。
釈尊が仏の覚りを開かれてより、大変やさしくなられたので
女性になったのではないかと思う者が少なからずいた。

弟子たちの中で
「釈尊は男に決まっている」
「いや、あんなやさしい男があるか。女性になられたのだ」
と喧嘩が始まったのである。

この収拾は釈尊は男性か女性かの証拠を見るしかない。
選ばれたのが釈尊の身の周りのお世話をしている阿難である。
阿難は釈尊には申し訳ないが、弟子の喧嘩を収めるのに
仕方がないとお昼寝しておられた釈尊の寝室に忍び込んだ。

そして、着物のすそをあげ、あるものがあるか確かめた。
すると男の証拠があったので喜んだ。

その時、釈尊が目を覚まされ、
「阿難、何をしておるか」と厳しく叱られたと
いう話が残っている。

こんなことが問題になるほど、仏の覚りを開かれた
釈尊は変わられたのである。
それは男が女に変わられたような肉体のことではない。

人間は持つことのできない仏徳を兼ね備えられたのである。
その仏徳とは智慧と慈悲なのである。
その二つの偉大な御徳により、すべての人を
本当の幸せに導いてゆかれたのが
この地球上では釈尊であり、
本当の幸福に救って下される仏こそ、
諸仏の本師本仏である阿弥陀仏しかないのである。

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文殊菩薩と普賢菩薩④(仏の智慧)

2009年04月23日 | 釈迦十大弟子
文殊菩薩と普賢菩薩④(仏の智慧)

あるとき、邪教徒の若い男が釈尊の所にきて、
さんざん、悪口雑言ののしった。
黙ってきておられた釈尊は、彼が言い終わると静かにたずねられた。

「おまえは、祝日に、肉身や親戚の人たちを、
招待し、歓待することがあるか」

「そりゃ、あるさ」

「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうするか」

「食わなければ、残るだけさ」

「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、
その罵詈雑言は、だれのものになるのか」

「いや、いくら受けとらなくても、与えた以上は与えたのだ」

「いや、そういうのは与えたとは言えない」

「それなら、どういうのを受けとったといい、
 どういうのを受けとらないというのか」

「ののしられたとき、ののしり返し、
 怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。
 闘いを挑めば闘い返す。
 それらは与えたものを受けとったというのだ。
 しかし、その反対に、なんとも思わないのは、
与えたといっても受けとったのではないのだ」

「それじゃあなたはいくらののしられても、腹は立たないのか」

釈尊は、おごそかに、偈で答えられた。
「智恵ある者に怒りなし。
 よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。
 怒りに怒りをもって報いるは、
 げにおろかもののしわざなり」

「私はばか者でありました。どうぞお許しください」
外道の若者は、落涙平伏し帰順したという。


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文殊菩薩と普賢菩薩③(仏の慈悲)

2009年04月22日 | 釈迦十大弟子
文殊菩薩と普賢菩薩③(仏の慈悲)

仏心とは如何なる内容のものをいい、
どんな、はたらきを持っているのだろう。

『観無量寿経』の中に
「佛心とは大慈悲これなり」という有名な金言が示すように、
仏心とは大慈悲心に外ならない。

大きな慈悲をもたれた方が仏様である。

では慈悲といわれるものは如何なるものか
どんな力を持つものであろうか。

中国の名僧曇鸞大師は
「苦を抜くを慈といい、楽を与うるを悲という。
 慈に依るが故に一切衆生の苦をぬき、
悲に依るが故に無安衆生心を遠離せり」
と教えられている。

慈悲には抜苦与楽の活動がある。
慈には他の苦しみを見ていることが出来ないで
共に泣き悲しみ、何んとか苦痛をなくしてやろうと
発動する心であり、
悲は与えて共に喜びたいの心である。

子供が病で苦しむ時、
親は「医者じゃ、病院じゃ」と騒ぐのは、
「一刻も早く苦を取り除いてやりたい」の親の慈の心であり、

財布のあり金はたいても買い求めて来る洋服も、
娘を喜ばせてやりたいの親の悲の心がなかったら
出来ることではない。

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文殊菩薩と普賢菩薩②(二人の過去世)

2009年04月21日 | 釈迦十大弟子
文殊菩薩と普賢菩薩②(二人の過去世)

二人の過去世の話を釈尊が教えられた。
ある日普賢が文殊の家を訪れ、約束の時間に
彼の部屋に入ると、
文殊が椅子にもたれかかって死んでいた。
驚いて近づいてみると、それは彫刻での
悪戯だった。

文殊はさぞかし普賢はたまげているだろうと
部屋をあけると、今度は普賢が首をつって
死んでいるではないか。
「済まなかった、オレがあんな悪ふざけをしたために」
と言って近づくと、それは普賢が書いた絵であった。
それ程、二人とも絵が上手く仲も良かった。

そんな二人に国の王様が新築した廊下に
同時に始め、同時に終了し、同じ絵を
書いてもらいたいと命じた。
二人は相談することなく、
普賢はひたすら絵を描きはじめた。
文殊はしばらく考えたあげく
廊下を壁を一生懸命に磨き始めた。
そして、普賢が書き上げたのと、
文殊が磨き終えたのが同時であった。

王様が来てみると、寸分違わぬ絵が
できていたのでおどろいた。
よく見ると文殊の方の壁は鏡のようになって、
普賢の絵を映し出していたのである。

この話は二人の特色を上手く伝えられている。
普賢-こつこつと地道に活動をしてゆく。
文殊-どんな難題もその智慧で切り開いてゆく。
この二人の特徴を備えておれば鬼に金棒である。

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文殊菩薩と普賢菩薩①(仏の智慧と慈悲)

2009年04月20日 | 釈迦十大弟子
文殊菩薩と普賢菩薩①(仏の智慧と慈悲)

文殊菩薩と普賢菩薩は共に釈迦如来の脇侍となり、
釈迦三尊を構成する。

仏の覚りとは智慧と慈悲の覚体である。
智慧と慈悲の2つの徳が備わらなければ、
仏の覚りとはいえない。
なぜなら、仏の智慧(仏智)と慈悲によって、
衆生を済度できるからである。

その特徴を表す為に
阿弥陀如来の両脇には智慧を表す勢至菩薩と
慈悲を表す観音菩薩が置かれてある。
釈尊の脇侍として文殊と普賢が置かれている。

文殊菩薩は「三人寄れば文殊の智慧」といわれるように
仏の智慧を表わす菩薩である。

普賢菩薩は
普は遍く一切の意。
賢は最妙善の義で身口意の三業を消滅する。
慈悲の徳を表わす菩薩である。

文殊が智・慧を代表するため獅子にのり、
普賢が定・行を代表するため白象にのっている。

智慧をなぜ獅子と例えたのか。
百獣の王ライオンには誰も恐れるものはない。
ジャングルを堂々と歩める。
智慧あるものに恐れなし。

慈悲は表すのが象であるが、
象は胴体が大きいが、気はやさしい。
その大きさに誰も立ち向かえるものがいない。
ジャングルの中を一歩一歩確実に
歩んでゆく。

釈尊の二大の徳を象徴した文殊と普賢には、
この世だけの友達ではなく、
過去世からの友達であった。

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ウバリ尊者③(器に沿った求道)

2009年04月19日 | 釈迦十大弟子
ウバリ尊者③(器に沿った求道)

ウバリ尊者は釈尊のお屋敷で真面目に戒律を護り、
修行をしていた。

しかし、同じ時に仏門に入った阿難や阿那律が
山奥深くで厳しい修行をしている。
自分だけがお屋敷で楽な修行をしているが
心苦しくなったウバリは
自分もそんな修行をさせてほしいと釈尊に
願いでた。

ところが釈尊は許されなかったのである。

その理由を尋ねると
お釈迦様はこのように諭された。

「ウサギが森の中に入ってゆくと
 そこには大きな湖があり、
 大きな象が気持ちよさそうに水浴びをしていた。

 ウサギも象のように水浴びがしたいと
 その湖に飛び込んだらどうなるだろう。
 あまりの深さに溺れ死んでしまう。

 丁度、阿難と阿那律は象であり、
 ウバリ、そなたはウサギのようなものである。

 その人の力量、器によって、すべき修行も違う。」

釈尊の適切なご教導によって、
ウバリは釈尊のお屋敷で今から仏道を励む仏弟子に
自らが戒律を実行し、後輩に教えていったのある。

彼は十大弟子の中で持律第一と呼ばれ、
経典結集の際は経、律の中で律を担当した。

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ウバリ尊者②(ウバリ裁定)

2009年04月18日 | 釈迦十大弟子
ウバリ尊者②(ウバリ裁定)

教団内では、しばしば揉め事が起こり、
言い争いや、ちょっとしたトラブルなどがあった。
そうしたとき、どちらがどのように悪いのかを判断するのに、
戒律に照らし合わせて協議した。
そうしたとき、真っ先に呼ばれたのがウバリだった。
彼が、すべての戒律を覚えていたことと、
その解釈の仕方が正当であったからである。

特に有名なウパリ裁きは、ある尼僧に関してのこと。
その女性は、ある長者の家に嫁いでいたが、
もともと出家したいという願いを持っていた。
やがて主人を説得して出家した。
ところが、その尼僧は妊娠していたのだ。
尼僧教団の戒律では、妊娠している女性は出家は許されない。
出家を許したのは提婆だった。

このころの提婆は、まだ真面目に修行していたのである。
普通は、女性が出家したいと願い出たときは、
妊娠の有無を確かめてから、許すことろを怠った。
提婆は、困り、その尼僧を追放しようとしたのだ。
これには、他の尼僧たちが反発し、お釈迦様に訴え出た。

お釈迦様は、ウパリに問題の決着をつけるよう、
命じられたのである。
ウパリは、問題の尼僧と提婆を呼び
他の尼僧や多くの弟子たちの前で、裁定をした。

「この尼僧の妊娠は出家前です。
 しかも、彼女は、自分が妊娠していることを知りませんでした。
 したがって、尼僧の規律を犯してはいません。
 一方、提婆は、女性の妊娠の有無を確認することを怠りました。
 これには、罪があります。」

この裁定にお釈迦様も満足し、
妊娠している尼僧に庵を設け、
他の尼僧たちで面倒を見ることを命じられたのある。

やがて、その尼僧は男の子を産み、
その子は、ある王家へと引き取られ、
やがて出家し、お釈迦様の弟子となったのです。

ウパリは、こうした揉め事を戒律に乗っ取って裁定を下す
という役目を負っていた。
彼の裁定は、誰もが納得するものだった。



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ウバリ尊者①(仏道を求めるのに身分は関係ない)

2009年04月17日 | 釈迦十大弟子
ウバリ尊者①(仏道を求めるのに身分は関係ない)

後に十大弟子の一人にあげられるようになったウバリだが、
実は出家しようと釈尊の元にきたのではない。

彼は低い身分の出身で、理髪師を生業としていた。

ある日、釈尊の従兄弟である阿難、阿那律が
出家を決意し、釈尊のもとへいくことにした
王族の彼らはいつも身の周りのことは
誰かにしてもらっていたので、従者を探したのである。
そこで二人が選んだのが、王舎城の中でも真面目な
理髪師ウバリだった。

ウバリは阿難、阿那律に従い、釈尊の元にいった。
感謝した二人はウバリに身につけていたものを
与え、帰るように言った。
しかし、ウバリは考えた。
「このまま城に帰っても、王様から、
 どうして二人の出家を止めなかったのかと
 叱られるだけだ。
 もう城には戻れない。
 それならば私も釈尊のお弟子に
なるしかない。」

ウバリは阿難、阿那律に頼み、
釈尊に願い出て、釈迦族の王族とともに出家が許された。

この時、アナリツより「世尊よ、願わくば理髪師ウバリを
本日授戒の最初として下さい」との申し出があったので、
釈尊はウバリを最初の授戒者とされた。
そして釈尊は「出家以前においては身分の違い、
地位の高低など種々あるが、出家後はすべてその差別などはない」と
述べられ、ウバリを敬うよう諭された。

ウバリはたいへん律儀な性格の持ち主であった。
戒律に精通し、よく守ったことから、
に阿羅漢果(悟り)を得て、
持律第一の尊者と称されるようになった。



経典編纂会議第一回結集において、
律についてのリーダーを務め、六度万行、持戒の理解と実行の
第一人者であった。


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フルナ尊者②(燃えるが如き決死の信念)

2009年04月16日 | 釈迦十大弟子
フルナ尊者②(燃えるが如き決死の信念)

そのフルナが、邪教がはびこり、ガラの悪さには定評のある、
某国への布教許可を求めた時、心配なされた釈尊は、
「フルナよ、もし、その国の大衆が、お前を罵り、
辱しめるようなことがあったら、どうするか」
と、尋ねられた。

フルナは、即座に答えた。
「あり得ることと覚悟しております。
しかし、石をもって打つことまではしないと思います」
釈尊、重ねて、
「もし、石をもって打つことがあれば、どうするか」
「はい、しかし刀杖までは用いないと思います」
「もし、刀杖を用いたらどうするか」
「たとえ、暴行されても、命まで奪うことはないと思います」
「もし、殺されたらどうする」

釈尊の弟子を憶う慈愛は、暖かく徹底していた。
その時、フルナは、さわやかに答えた。
「死の縁無量でございます。病死する者、水死する者、
焼死する者、事故死する者、人間一度は死なねばなりません。
私の死によって、一人でも真実の仏法を知り、
真実の幸福に救われるならば、これにすぎたる本望はございません」

釈尊は、初めて微笑なされて、彼の願いを許されたという。
燃えるが如き、かゝる決死の信念がなければ、
真実の仏法は伝え切れないからである。

真実の仏法は、常に、
「世の中のことみなもって、そらごと、たわごと、
まことあることなし」
と、真向から世間を打ち破る。

世間まことと確信している輩は、
この真実を開顕する者を白眼視し、
狂人とし、やがて迫害し、追放する。

親鸞聖人の御一生を見れば、
それは余りにも明らかな、悲しい事実である。

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フルナ尊者①(説法第一)

2009年04月15日 | 釈迦十大弟子
フルナ尊者①(説法第一)

釈尊十大弟子の中、説法第一と謳われた富楼那尊者は、
真実に燃える大雄弁家であった。

観無量寿経は有名な王舎城の悲劇が説かれてある。
釈迦がご在世の頃、インドで一番栄えていたマガダ国、
その城主のビンバシャラ王と后韋提希夫人が
わが子アジャセ太子によって牢獄に幽閉されてしまい、
この世の地獄を味わっていた。

その苦しみの中からビンバシャラ王は釈尊に救いを求めた。
釈尊はビンバシャラ王の元へ行かせたのが、
説法第一のフルナ尊者であり、
神通力第一の目蓮尊者であった。

フルナは、お釈迦様の故郷であるカピラ城に
近い小さな村のバラモンの子として生まれた。
幼少より頭がよく、すぐれたバラモンに成長した。

もともと大変弁の立つフルナですから、
頭の回転も速かった。
大変真面目で熱心な弟子で、お釈迦様が説かれる難しい教えも、
様々なたとえ話でわかりやすく説明をし、
皆に説きまわったのである。

その教えの説き方は、智慧第一の舎利弗ですら感心したといわれている。
また、フルナの周りには、説法上手な仲間が沢山おり、
お釈迦様の教えを様々なたとえ話によってわかりやすく
説くことを話し合っていた。

難しいことを難しく説くことは誰にでもできる。
また、教えられたことをそのまま伝えることもできる。

フルナは、そうではなく、難しいことや教えられたことを
自分の言葉に直し、わかりやすく説いて廻った。

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