親鸞聖人時代を生きた人々(98)(蓮生房物語 吉水解散)
(とどろき17年12月号)
直実は、吉水の法然上人のお弟子となり、
阿弥陀仏の本願に救い摂られた。
時機相応の浄土の法門を
説き切られる法然上人に、
仏教各派からの非難攻撃が高まっていった。
「蓮生房よ、そなた今から関東へ行き、
故郷の人々に真実を伝えるのじゃ」
思いもかけぬ師のお言葉に、
蓮生房は絶句した。
"何があっても、
お師匠さまのおそばを離れぬぞ。
今、誓ったばかりではないか"
先刻から反芻したあふれる思いが口を衝いて出た。
「お師匠さま、私は今、
関東から帰ったばかりです。
これから何があろうと、
お師匠さまのおそばを
離れたくはございません」
「蓮生房よ、気持ちは分かる。
だが聞きなさい。
一人でも多くの人に弥陀の本願を
お伝えすることは、最高の御恩報謝なのだ。
もし私たちが、このたびの弾圧によって、
皆、捕らえられたらどうする。
だれが法灯を護り抜くのか。
真実の仏法を知らされた者の使命を思えば、
別れの悲しみは乗り越えねばならぬ。
蓮生房よ、これは命令じゃ。関東へ行きなさい」
師命は重い。
先ほどからの言い知れぬ不安は、
この別離の予感だったのか。
命の限り、お師匠さまのそばで
ご教導を賜りたいと思ったが、
それもかなわぬ夢となる。
ああ、今、お別れすれば、
今生でもう二度とお会いする
ことはないだろう。
こらえてもこらえても、
止めどなく流れる涙に蓮生房は、
ついに意を決して申し上げた。
「仰せのとおりに……、いたします」
静かに、法然上人もうなずかれた。
旅装も解かずに蓮生房は、
再び関東へと旅立ったのである。
彼の帰郷と相前後するように、
吉水への非難攻撃は激しさを増す。
大原の大法論で、
法然上人に完膚なきまで敗れ、
苦杯をなめた聖道諸宗の者たちは、
表面上は屈したかに見えたが、
それもその場限り。
怒り、怨みは沈潜し、
噴火口を求める溶岩のように
地下に充満していた。
口火を切ったのは北嶺・比叡山だった。
いきりたつ僧徒にけしかけられた座主が、
法然上人に、
"念仏布教をやめよ"
と抗議文を送りつけてきた。
御自ら上人は、なだめる書状を送られたが、
彼らの不満は少しも治まらなかった。
「生ぬるい」
と、続いて南都が動いた。
興福寺の解脱貞慶が首謀となり、
諸宗連名で朝廷に、
念仏停止を直訴したのだ。
法論ではかなわぬ相手と見て取り、
政治権力を動かして
吉水を解散させようとした。
なりふり構わぬ暴挙へと各派は結託したのだ。
訴状は九項目にわたり、
いわれなき非難が縷々述べられている。
「このような悪魔の集団を解散させ、
法然とその弟子たちに処罰を!」
悪名高き「興福寺奏状」は、
こう締めくくられた。
朝廷内には九条兼実公をはじめ、
法然上人を擁護し、
手を尽くす方々もあったが、
それとて押し寄せる氾濫に決壊寸前、
かろうじて持ちこたえる堤防の
ような有り様だった。
そんな中、起きたのが、
「鹿ヶ谷事件」である。
後鳥羽上皇の気に入りの
女房・松虫と鈴虫が、上皇の留守中、
法然上人のお弟子の住蓮房・安楽房の
鹿ヶ谷の草庵へ行き、
一晩、帰らなかったという。
密通とうわさになり、
激高した上皇が、
よく調べもせずに法然門下に
弾圧を加えたのだ。
住蓮・安楽は死罪、吉水は解散となり、
法然上人は土佐へ、
親鸞聖人も死刑の判決を受けられたが、
兼実公の働きかけで越後へ、流刑となった。
一連の弾圧は、蓮生房の耳にも届いた。
師や法友の惨禍は、彼の心を深くえぐった。
「こうしちゃおれん。すぐに駆けつけねば」
焦る蓮生であったが、寄る年波に勝てず、
京まで行くことはできなかった。
「お師匠さまのおわしまさぬ京などへは、
行っても詮ないこと……」
思い直して師の仰せに従い、
最後まで真の仏法者として布教に力尽くした。
その関東の地に真実が大きく花開くのは、
蓮生房が往生して、
数年後。親鸞聖人が赴かれてからのことである。
(とどろき17年12月号)
直実は、吉水の法然上人のお弟子となり、
阿弥陀仏の本願に救い摂られた。
時機相応の浄土の法門を
説き切られる法然上人に、
仏教各派からの非難攻撃が高まっていった。
「蓮生房よ、そなた今から関東へ行き、
故郷の人々に真実を伝えるのじゃ」
思いもかけぬ師のお言葉に、
蓮生房は絶句した。
"何があっても、
お師匠さまのおそばを離れぬぞ。
今、誓ったばかりではないか"
先刻から反芻したあふれる思いが口を衝いて出た。
「お師匠さま、私は今、
関東から帰ったばかりです。
これから何があろうと、
お師匠さまのおそばを
離れたくはございません」
「蓮生房よ、気持ちは分かる。
だが聞きなさい。
一人でも多くの人に弥陀の本願を
お伝えすることは、最高の御恩報謝なのだ。
もし私たちが、このたびの弾圧によって、
皆、捕らえられたらどうする。
だれが法灯を護り抜くのか。
真実の仏法を知らされた者の使命を思えば、
別れの悲しみは乗り越えねばならぬ。
蓮生房よ、これは命令じゃ。関東へ行きなさい」
師命は重い。
先ほどからの言い知れぬ不安は、
この別離の予感だったのか。
命の限り、お師匠さまのそばで
ご教導を賜りたいと思ったが、
それもかなわぬ夢となる。
ああ、今、お別れすれば、
今生でもう二度とお会いする
ことはないだろう。
こらえてもこらえても、
止めどなく流れる涙に蓮生房は、
ついに意を決して申し上げた。
「仰せのとおりに……、いたします」
静かに、法然上人もうなずかれた。
旅装も解かずに蓮生房は、
再び関東へと旅立ったのである。
彼の帰郷と相前後するように、
吉水への非難攻撃は激しさを増す。
大原の大法論で、
法然上人に完膚なきまで敗れ、
苦杯をなめた聖道諸宗の者たちは、
表面上は屈したかに見えたが、
それもその場限り。
怒り、怨みは沈潜し、
噴火口を求める溶岩のように
地下に充満していた。
口火を切ったのは北嶺・比叡山だった。
いきりたつ僧徒にけしかけられた座主が、
法然上人に、
"念仏布教をやめよ"
と抗議文を送りつけてきた。
御自ら上人は、なだめる書状を送られたが、
彼らの不満は少しも治まらなかった。
「生ぬるい」
と、続いて南都が動いた。
興福寺の解脱貞慶が首謀となり、
諸宗連名で朝廷に、
念仏停止を直訴したのだ。
法論ではかなわぬ相手と見て取り、
政治権力を動かして
吉水を解散させようとした。
なりふり構わぬ暴挙へと各派は結託したのだ。
訴状は九項目にわたり、
いわれなき非難が縷々述べられている。
「このような悪魔の集団を解散させ、
法然とその弟子たちに処罰を!」
悪名高き「興福寺奏状」は、
こう締めくくられた。
朝廷内には九条兼実公をはじめ、
法然上人を擁護し、
手を尽くす方々もあったが、
それとて押し寄せる氾濫に決壊寸前、
かろうじて持ちこたえる堤防の
ような有り様だった。
そんな中、起きたのが、
「鹿ヶ谷事件」である。
後鳥羽上皇の気に入りの
女房・松虫と鈴虫が、上皇の留守中、
法然上人のお弟子の住蓮房・安楽房の
鹿ヶ谷の草庵へ行き、
一晩、帰らなかったという。
密通とうわさになり、
激高した上皇が、
よく調べもせずに法然門下に
弾圧を加えたのだ。
住蓮・安楽は死罪、吉水は解散となり、
法然上人は土佐へ、
親鸞聖人も死刑の判決を受けられたが、
兼実公の働きかけで越後へ、流刑となった。
一連の弾圧は、蓮生房の耳にも届いた。
師や法友の惨禍は、彼の心を深くえぐった。
「こうしちゃおれん。すぐに駆けつけねば」
焦る蓮生であったが、寄る年波に勝てず、
京まで行くことはできなかった。
「お師匠さまのおわしまさぬ京などへは、
行っても詮ないこと……」
思い直して師の仰せに従い、
最後まで真の仏法者として布教に力尽くした。
その関東の地に真実が大きく花開くのは、
蓮生房が往生して、
数年後。親鸞聖人が赴かれてからのことである。