最悪の政治家⑬(極悪最下の人とは誰のこと)
人間の歴史を紐解けば、
こんなの恐ろしいことを
よくやれたものだと
感心するくらいだ。
フランスの政治家クレマンソーが、
「あなたの知っている最悪の政治家は」
と聞かれて、
「さよう、最悪の政治家を極めるのは
実に難しい。
これこそ、最悪の奴と思ったとたん、
もっと悪い奴が、必ず出てくる」
といった通りである。
ところが親鸞聖人は
どう見ておられるであろうか。
阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
知らされた真実の相を
親鸞聖人は
「凡愚底下の罪人」とか
「極悪最下」と
仰言っている。
「最低の人の下」が親鸞聖人の
本当の相であったということだが、
「最低の人よりも下の人」
とはどんな姿であろうか。
お伽噺の浦島太郎は、
日本では有名である。
漁師であった彼が浜へ行くと、
亀が子供たちに虐待されている。
再三再四、動物愛護を説くが、通じない。
そこで彼は亀を買い取り、沖の方へと放してやる。
後日、舟を浮かべて漁をしている
ところへ助けた亀があらわれて、
龍宮城の乙姫さまに紹介され、
山海の珍味でもてなされ、
思わぬ楽しみを味わったという話である。
子供のころ浦島太郎のような、
やさしい人になるようにと、
教えられ育ったものだ。
だが、幼かったのだろう、
彼の肩にかつがれていた魚釣竿には気づかなかった。
釣竿は今からも、多くの魚の生命を
うばう道具にちがいない。
話の中では、亀も魚も同じに扱われているのだから、
まこと浦島太郎が生き物愛護の善人ならば、
まずその竿を折っていなければならないことになる。
一方で何千何万の殺生を平気でやりながら、
たまたま一つの生命を助けたからといって、
いかにも慈悲深い善人に見せかけるのは、
あまりにも見え透いた偽善と
いわなければならないだろう。
しかし、魚釣竿には彼の生活がかかっている。
それを折ることは、自殺を意味する。
ここに、善人たらんとする浦島太郎の限界を見るようだ。
一つの生命を助けることはできても、
幾万の生命をうばわずしては生きてゆけない、
人間・浦島太郎のギリギリの姿が浮かび上がってくる。
それはまた、私たちの実相ではなかろうか。
敗戦が迫る南太平洋戦線では、
「オイ喰われるなよ」
が戦友を見送る言葉だったという。
餓死寸前に追い込まれた日本軍は、
同僚相食む鬼畜と変わったのである。
はじめは、病死体や戦死体の大腿部の肉を
はぎ取る程度だったが、
ついには生きている戦友を殺して
食べるようになったといわれる。
若くて脂肪太りの者がとくにねらわれた。
丸太に縛りつけ十五、六人が車座になって、
焼けたところから食べたというのである。
聞けば背筋の凍る思いがするが、
同じ立場にいたらどうだろう。
はたして彼らを責め得るか。
自己に厳しく問いたださずにおれない。
有名人のスキャンダルや、
かつてない犯罪がおきると、
テレビのワイドショーもマスコミも特集を組み、
“考えられないこと”
“人間のやることか”
と大合唱の非難となる。
被害者の心情に立ってのことだろうが、
そんな可能性ゼロの無謬人間が存在するのだろうか、
と危うく思われる。
心理学者ユングは、
「疑いもなく、
つねに人間の中に棲んでいる悪は、
量り知れない巨魁なのだ」
と言っている。
「さるべき業縁の催せば、
如何なる振舞もすべし」
(歎異鈔)
「あのようなことだけは絶対にしないと、
言い切れない親鸞である」
聖人の告白通り、
いかなる振る舞いもする、
巨悪をひそませる潜在的残虐者が、
私といえよう。
人間の歴史を紐解けば、
こんなの恐ろしいことを
よくやれたものだと
感心するくらいだ。
フランスの政治家クレマンソーが、
「あなたの知っている最悪の政治家は」
と聞かれて、
「さよう、最悪の政治家を極めるのは
実に難しい。
これこそ、最悪の奴と思ったとたん、
もっと悪い奴が、必ず出てくる」
といった通りである。
ところが親鸞聖人は
どう見ておられるであろうか。
阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
知らされた真実の相を
親鸞聖人は
「凡愚底下の罪人」とか
「極悪最下」と
仰言っている。
「最低の人の下」が親鸞聖人の
本当の相であったということだが、
「最低の人よりも下の人」
とはどんな姿であろうか。
お伽噺の浦島太郎は、
日本では有名である。
漁師であった彼が浜へ行くと、
亀が子供たちに虐待されている。
再三再四、動物愛護を説くが、通じない。
そこで彼は亀を買い取り、沖の方へと放してやる。
後日、舟を浮かべて漁をしている
ところへ助けた亀があらわれて、
龍宮城の乙姫さまに紹介され、
山海の珍味でもてなされ、
思わぬ楽しみを味わったという話である。
子供のころ浦島太郎のような、
やさしい人になるようにと、
教えられ育ったものだ。
だが、幼かったのだろう、
彼の肩にかつがれていた魚釣竿には気づかなかった。
釣竿は今からも、多くの魚の生命を
うばう道具にちがいない。
話の中では、亀も魚も同じに扱われているのだから、
まこと浦島太郎が生き物愛護の善人ならば、
まずその竿を折っていなければならないことになる。
一方で何千何万の殺生を平気でやりながら、
たまたま一つの生命を助けたからといって、
いかにも慈悲深い善人に見せかけるのは、
あまりにも見え透いた偽善と
いわなければならないだろう。
しかし、魚釣竿には彼の生活がかかっている。
それを折ることは、自殺を意味する。
ここに、善人たらんとする浦島太郎の限界を見るようだ。
一つの生命を助けることはできても、
幾万の生命をうばわずしては生きてゆけない、
人間・浦島太郎のギリギリの姿が浮かび上がってくる。
それはまた、私たちの実相ではなかろうか。
敗戦が迫る南太平洋戦線では、
「オイ喰われるなよ」
が戦友を見送る言葉だったという。
餓死寸前に追い込まれた日本軍は、
同僚相食む鬼畜と変わったのである。
はじめは、病死体や戦死体の大腿部の肉を
はぎ取る程度だったが、
ついには生きている戦友を殺して
食べるようになったといわれる。
若くて脂肪太りの者がとくにねらわれた。
丸太に縛りつけ十五、六人が車座になって、
焼けたところから食べたというのである。
聞けば背筋の凍る思いがするが、
同じ立場にいたらどうだろう。
はたして彼らを責め得るか。
自己に厳しく問いたださずにおれない。
有名人のスキャンダルや、
かつてない犯罪がおきると、
テレビのワイドショーもマスコミも特集を組み、
“考えられないこと”
“人間のやることか”
と大合唱の非難となる。
被害者の心情に立ってのことだろうが、
そんな可能性ゼロの無謬人間が存在するのだろうか、
と危うく思われる。
心理学者ユングは、
「疑いもなく、
つねに人間の中に棲んでいる悪は、
量り知れない巨魁なのだ」
と言っている。
「さるべき業縁の催せば、
如何なる振舞もすべし」
(歎異鈔)
「あのようなことだけは絶対にしないと、
言い切れない親鸞である」
聖人の告白通り、
いかなる振る舞いもする、
巨悪をひそませる潜在的残虐者が、
私といえよう。