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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

最悪の政治家⑬(極悪最下の人とは誰のこと)

2009年12月10日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑬(極悪最下の人とは誰のこと)

人間の歴史を紐解けば、
こんなの恐ろしいことを
よくやれたものだと
感心するくらいだ。

フランスの政治家クレマンソーが、
「あなたの知っている最悪の政治家は」
と聞かれて、

「さよう、最悪の政治家を極めるのは
 実に難しい。
 これこそ、最悪の奴と思ったとたん、
 もっと悪い奴が、必ず出てくる」
といった通りである。

ところが親鸞聖人は
どう見ておられるであろうか。

阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
知らされた真実の相を
親鸞聖人は
「凡愚底下の罪人」とか
「極悪最下」と
仰言っている。

「最低の人の下」が親鸞聖人の
本当の相であったということだが、
「最低の人よりも下の人」
とはどんな姿であろうか。

お伽噺の浦島太郎は、
日本では有名である。
漁師であった彼が浜へ行くと、
亀が子供たちに虐待されている。
再三再四、動物愛護を説くが、通じない。
そこで彼は亀を買い取り、沖の方へと放してやる。
後日、舟を浮かべて漁をしている
ところへ助けた亀があらわれて、
龍宮城の乙姫さまに紹介され、
山海の珍味でもてなされ、
思わぬ楽しみを味わったという話である。

子供のころ浦島太郎のような、
やさしい人になるようにと、
教えられ育ったものだ。

だが、幼かったのだろう、
彼の肩にかつがれていた魚釣竿には気づかなかった。
釣竿は今からも、多くの魚の生命を
うばう道具にちがいない。
話の中では、亀も魚も同じに扱われているのだから、
まこと浦島太郎が生き物愛護の善人ならば、
まずその竿を折っていなければならないことになる。

一方で何千何万の殺生を平気でやりながら、
たまたま一つの生命を助けたからといって、
いかにも慈悲深い善人に見せかけるのは、
あまりにも見え透いた偽善と
いわなければならないだろう。

しかし、魚釣竿には彼の生活がかかっている。
それを折ることは、自殺を意味する。
ここに、善人たらんとする浦島太郎の限界を見るようだ。
一つの生命を助けることはできても、
幾万の生命をうばわずしては生きてゆけない、
人間・浦島太郎のギリギリの姿が浮かび上がってくる。
それはまた、私たちの実相ではなかろうか。

敗戦が迫る南太平洋戦線では、
「オイ喰われるなよ」
が戦友を見送る言葉だったという。
餓死寸前に追い込まれた日本軍は、
同僚相食む鬼畜と変わったのである。
はじめは、病死体や戦死体の大腿部の肉を
はぎ取る程度だったが、
ついには生きている戦友を殺して
食べるようになったといわれる。
若くて脂肪太りの者がとくにねらわれた。
丸太に縛りつけ十五、六人が車座になって、
焼けたところから食べたというのである。

聞けば背筋の凍る思いがするが、
同じ立場にいたらどうだろう。
はたして彼らを責め得るか。
自己に厳しく問いたださずにおれない。

有名人のスキャンダルや、
かつてない犯罪がおきると、
テレビのワイドショーもマスコミも特集を組み、

“考えられないこと”
“人間のやることか”

と大合唱の非難となる。
被害者の心情に立ってのことだろうが、
そんな可能性ゼロの無謬人間が存在するのだろうか、
と危うく思われる。

心理学者ユングは、
「疑いもなく、
 つねに人間の中に棲んでいる悪は、
 量り知れない巨魁なのだ」
と言っている。

「さるべき業縁の催せば、
 如何なる振舞もすべし」
  (歎異鈔)

「あのようなことだけは絶対にしないと、
 言い切れない親鸞である」
 
聖人の告白通り、
いかなる振る舞いもする、
巨悪をひそませる潜在的残虐者が、
私といえよう。



悪の政治家⑫-10(東条英機の辞世の句③)

2009年12月09日 | 最悪の政治家
悪の政治家⑫-10(東条英機の辞世の句③)

「日も月も 蛍の光さながらに
 行く手に弥陀の光輝く」

今から後生へと旅立ってゆこうと
している人で
暗黒の後生に恐れおののく人ばかり。

ところが東条英機の歌には
「行く手に弥陀の光輝く」
と後生の一大事に対する
恐れは微尽もない。

それどころか
「日も月も蛍の光さながらに」
と書き残している。

これは、「超日月光」という
阿弥陀仏のお力から出た歌と言われている。

「超日月光」とは「日月を超えた光」ということで、
阿弥陀仏の光明(お力)は、
昼間いちばん明るい太陽の光も、
夜最も明るい月の光も、
はるかに超越していることを
讃嘆されているお言葉だ。

だから上の歌は

「あの明るい太陽や月が、
 まるで、螢の光にしか
 感じられないように、
 行く手に阿弥陀仏の浄土が、
 無限の光明に輝いて自分を待っている」

という意味となる。


親鸞聖人は、
阿弥陀仏の浄土を「無量光明土」と
仰有っている。

光明かぎりない、明るい世界が弥陀の浄土。
弥陀に救われた人は、
必ず、無限に明るい弥陀の浄土に
往生するから、臨終になっても、
心中に後生暗い心は微塵もなく、
大安心大満足、
「心は浄土に遊ぶなり」
の心境になるのです。

しかし、ただ今、弥陀に救われていない人は、
いよいよ臨終になると、
「無明の闇」「三塗の黒闇(さんずのこくあん)」
といわれる、真っ暗な心に苦しむことになる。

ドイツの大詩人ゲーテが死に際に
「光がほしい、光がほしい」
と言ったのは有名な話だが、
誰しも、暗黒の心を持っている。
持ちながら気づかない。
それが、臨終に必ず出てくるのだ。

その「無明の闇」「三塗の黒闇」は
平生に弥陀の本願に救われたならば、
一念に破られてしまうのである。


最悪の政治家⑫-9(東条英機の辞世の句②)

2009年12月08日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑫-9(東条英機の辞世の句②)

「明日よりは 誰にはばかるところなく
 弥陀のみもとで のびのびと寝む」

この歌を聞いた人は
東条英機は巣鴨刑務所の中で
寝ている他、仕事がなかっただろうに、
「ノビノビと寝ることができる」
とは、どういうことだ。
と不思議に感ずるだろう。

しかし、これには理由がある。
東条の自殺未遂で
連合軍側は軍事裁判にかけ、
絞首刑にするまでは
絶対に東条を死なせる訳には
いかなかった。
その為に、24時間体制で
監視をした。

特に判決があってから最後の日まで、
約四十日の間、昼も夜も、
三畳敷き位の独房に、
百燭の大きな電灯がともっていた。
そこで明るいからと毛布を被って寝ていると、
すぐに鉄扉の錠がはずされて毛布がはがされた。
当時20分以内なら救命処置ができた
ということで20分毎に起こされたのだから
堪ったものでない。

東条はこの時のことを
「百燭光を昼も夜もつけているので、
 よくまあ神経衰弱にならなかったものと思う、
 信仰のあったお陰です。」
と述懐している。

そこで
『明日よりは、誰にはばかるところなく
 弥陀のみもとで のびのびと寝む』
になったのも頷ける。

これだけの歌を聞くと、
東条自身は、そういった心境に
達したのはよいが、
残された我々をどうしてくれんだ、
息子を戦死させられたり、
父親を亡くしたり、
大事な主人を失ったりした気の毒な人たち、
ことに二千六百年、 栄えてきた日本を
こんなにしてしまってと考える人も、
勿論、少なくない。

ところが、東条は、右の和歌のすぐあとに、

「われ往くもまたこの土地に還りこむ
 国に報ゆることの足らねば」
の一首に残し、

「これは仏さまとなってから
 帰って来るつもりです。
 還相廻向ですよ」
と付け加えた。

自分の命令で戦争となり、
そして汚した此の国を、
どうかして早く再建しなければならぬと、
日本と世界を巻き込んだ
悪夢から醒めた彼は、大罪を犯したが、
多生にも億劫にもあい難い、
弥陀の本願を聞けた法悦に
満ちているではないか。

最悪の政治家⑫-8(東条英機の辞世の句①)

2009年12月07日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑫-8(東条英機の辞世の句①)

「さらばなり有為の奥山 今日越えて
 弥陀のみもとに 往くぞうれしき」

今から絞首刑にあう人は
どんな気丈夫な男でも
2人の看守に抱えられ、
やっとやっと13階段を上ってゆく。

ところが今、死に臨んでの東条の歌は
誰もが耳を疑いたくなる。

「娑婆(有為の奥山)の皆さん、さようなら。
 東条は、いよいよ今晩、死んでゆくが、
 いよいよ阿弥陀仏の極楽浄土へ参らせて頂ける。
 なんと幸せ者か。

 私のような極重の悪人、
 自分の号令一つで、300万人以上の国民を
 戦争に追いやったこの東条は、
 その罪の重さからいえば、
 この体を微塵にきざまれて
 地獄にたたきおとされても
 文句が言えないのに、 
 何の間違いで救われたのだろうか。

 「どんな人をも、必ず絶対の幸福に助ける」と、
 命をかけて誓われている
 阿弥陀仏の本願あったればこそ、
 弥陀の本願、本当じゃった!
 まことだった。」


いろは歌にも
「有為の奥山、今日越えて」
と歌われているように、
仏教で我々の住むこの世界を
有為の奥山と言われる。

「人生は苦なり」と釈尊が喝破されたように、
科学や医学や文明は長足の進歩を遂げたが、
人間の苦悩は少しも減ってはいない。
「有れば有ることで苦しみ、
 無ければないことに苦しむ」
と釈迦の仰言る通り、
物や金の有無に関係なく、
人々は苦しんでいる。
それは各自の造った業によるのだと
教えられたのが仏教である。

その業を絶ち切らないかぎり
絶対に人間は幸福になれない。

その我々をしばって苦しめている業を
断ち切ることの出来るのは阿弥陀仏の本願しかない。
阿弥陀仏の本願力のみが私達の業をたち切り、
我々を絶対の幸福にして下される力なのだ。

これを親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」と
『歎異鈔』で叫ばれた。
この世で、きわもない大功徳大利益を頂いて、
幸せ一杯、満足一杯で生活させて貰えるように
なるのだと教えておられる。
(これを現世の利益、現益という)

この大功徳大利益を頂いて、
只今絶対の幸福にいかされている人は、
娑婆の縁つきた暁は、報土往生ができ、
阿弥陀仏と同体の仏に成ることができる。

報土往生とは弥陀の浄土のド真中へ生れるということ、
弥陀同体とは阿弥陀仏と同じく
無量寿、無量光の仏に成るという。
そして、思う存分、自由自在に衆生済度に
活動出来るということだ。
これが死んだ後で頂く利益である。
(これを当来の利益、当益という)

これはあくまで、
現在ただ今、大安心大満足の身に
救いとられた人でなければ
極楽往生はできない。

今日の浄土真宗の道俗のように、
「この世はどうにもなれない。
 死んだらお助け、死んだら極楽」
などと言っている者は、
絶対この世も未来も助かないから現当無益だ。

現当二益の尊い教えだといゝながら、
この世はどうにもなれないといっているのは
情けない限り。

真宗を破滅せしむる者は他に非ず、
現益を獲得することを忘れて、
当益を夢みている真宗の道俗なのだ。




最悪の政治家⑫-7(東条英機と三種の辞世の句)

2009年12月06日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑫-7(東条英機と三種の辞世の句)

昭和23年12月22日深夜。
東条英機は、廊下で立ったまま、
教戒師と最後の勤行をした。

仏前からお下げしたブドウ酒を
紙コップで飲み干した東条は、
「ああ、うまかった」
と満足げに言い、刑場に入るまで、
「南無阿弥陀仏、
 南無阿弥陀仏」
と声高に称えていた。

そして、絞首刑の7分前に
最期の筆をとっている。
そこには喜びをつづった歌を
3首残していた。

「さらばなり有為の奥山 今日越えて
 弥陀のみもとに 往くぞうれしき」

「明日よりは 誰にはばかるところなく
 弥陀のみもとで のびのびと寝む」

「日も月も 蛍の光さながらに
 行く手に弥陀の光輝く」

この歌を残し、13階段を駆け足で上がり、
目隠しをせずに絞首刑に臨んだ。
23日午前零時1分であった。

日本を不敗の神国と信じ、
世界を相手に宣戦した
大立て役者が東条英機であったが、
獄中で次のように述べている。

「私は宗教としては仏教だ。
 仏教の信仰というのは、
 人生の根本問題に触れることであって、
 人生の根本問題が決定してから後、
 社会のいろいろの上っ面なことが
 解決されてくるのです。
 自分は神道は宗教とは思わない。
 私は今、『正信偈』と一緒に
 『三部経』を読んでいますが、
 今の政治家のごときは、これを読んで、
 政治の更正をはからねばならぬ、
 人生の根本が説いてあるのですからね」




最悪の政治家⑫-6(東条英機と浄土真宗との出会い)

2009年12月05日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑫-6(東条英機と浄土真宗との出会い)

自殺未遂で一命を取り留めた東条英機は
極東国際軍事裁判でA級戦犯 として起訴され、
1948(昭和23)年12月23日に、
絞首刑に処せられることになる。

ところが東条英機の晩年は、
浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や
巣鴨拘置所の教誨師の影響で
浄土真宗に帰依し
親鸞聖人の教えに魅了され、
生まれ変わった生活を送っている。

東京裁判で死刑囚となった東条英機は
巣鴨拘置所に入った。
死刑囚の九割が仏教徒だったことから、
浄土真宗の教誨師が法話をすることになった。

死刑囚となった東条英機の聞法は、
巣鴨拘置所で始まったのだ。

東条は、終わりまで緊張して、
身動き一つせず、もっとも熱心に
聴いていた。

拘置所は夏ともなれば、猛暑となる。
顔からは汗がダラダラと流れ落ちるのが、
東条英機は扇子もつかわず、
ハンケチでぬぐおうともしなかった。
人生一大事の「死」の前には、
そんなことは問題でなくなっていたのである。

真実を知らされた喜びは、
相手の仏縁を念じる心となった。
その心は、面会に来る家族にはもちろん、
アメリカ人へも及んでいった。
ある時、米軍将校の左手と
手錠でつながった自分の右手を見ながら、
教戒師に語っている。

「初めは、手錠が嫌だったんですね。
 今では、これもいいと思ったんですね。
 私がこうして、手を合わして仏を拝むと、
 隣の米軍将校も手を挙げて拝んでくれる。
 今、アメリカに仏法はないと思うが、
 これが因縁となって、この人の国にも
 仏法が伝わってゆくかと思うと、
 これもまた有難いことと思うようになった」



最悪の政治家⑫-5(東条英機の自殺未遂の真相)

2009年12月04日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑫-5(東条英機の自殺未遂の真相)

東条英機の自殺未遂に対しては
多くの人が疑念を抱いた。

この東条の自殺を、
日本国民は実に冷やかに受け止めた

・敗戦から1カ月近くたった今も生きている。

・しかもGHQによって逮捕命令が出され、
 逮捕寸前にアメリカ官憲の前で

・それもピストルでの自殺未遂。

自ら起草した『戦陣訓』には

「生きて虜囚(りょしゅう)の
 辱(はずかしめ)を受けず、
 死して罪禍(ざいか)の
 汚名を残すこと勿(なか)れ」

と書いてあるではないか。
それを一番実践しなければならないのが
東条本人ではないのか。

この言葉でどれだけ多くの日本男児が
敵の捕虜になることを恥として、
日本刀で割腹自殺をしているのか。

日本国民の誰もがそう思ったに違いない。

なぜ確実に死ねる頭を
狙わなかったのか?

自殺未遂を茶番と噂するきらいもあるが、
このとき東條邸は外国人記者に
取り囲まれており、
悲惨な死顔をさらしたく
なかったからだろう。

東條が自決に失敗したのは、
左利きであるにもかかわらず
右手でピストルの引き金を
引いたためという説と、

次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の
古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、
使い慣れておらず手元が
狂ってしまったという説がある。

しかし、日頃から心臓の真上に
インクで印をつけ、敗戦を期に
自決を覚悟していた東条も、
いざ自分が死に臨んだ時、
死の恐怖で手が震え、
心臓を打つ抜くことができなかった
というのが一番の真相だろう。



最悪の政治家⑫-4(東条英機の自殺未遂)

2009年12月03日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑫-4(東条英機の自殺未遂)

敗戦後の9月11日、東条英機は
GHQによって逮捕される寸前に
ピストルで自殺、未遂に終わった。

東条英機は11日午後4時、
東京都世田谷区玉川用賀町の自宅へ
同大将連行のため来邸した
連合軍側官憲GHQが窓越しに
東条大将を連行にきた旨を述べていた。

東条は笑つて
「只今行きますから暫く待つて下さい」
と通訳を通して挨拶をし、
窓に鍵を下したが、
その時、ピストルの響が内部に聞えた。

米官憲は外から鍵の下りた戸を叩き破り
「窓をこわして入れ」などと怒鳴り
威赫的に銃を撃ちつつ室内に入った。

東条は覚悟の自決を図っていたのである。
椅子にもたれたまま、白の開襟ワイシヤツを
着た上から左腹部に拳銃を撃ち込み、
すでに息も絶え絶えであつた。
午後4時15分であつた。

20分後、東条が何か言おうとするので
朝日新聞の記者は東条の傍により
「何か言うことがありますか」と問うと、
苦しい息の下から遺言を洩らしたのである。

遺言が終ってから米官憲は
付近の友原医院より医師を招き、手当を施した。
生命は取り止めることができた。

 

最悪の政治家⑫-3(東条英機と太平洋戦争の敗戦)

2009年12月02日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑫-3(東条英機と太平洋戦争の敗戦)

東条英機は昭和17年(1942年)に
外務大臣(~9月17日)、
同18年(1943年)には文部大臣(~4月23日)
商工大臣・軍需大臣(以上内閣総辞職まで)を兼任。
同年には大東亜会議を主催するなど、
戦争の遂行とともに日本の影響下の
アジア諸国の団結を図った。

1944(昭和19)年2月21日には、
国務と統帥の一致・強化を唱え、
陸海統帥部総長の更迭を断行し、
自らは参謀総長に就任するが、
戦況の悪化に伴い連合国軍により
日本本土が空襲を受ける可能性が出てきた。

1945(昭和20)年1月,アメリカ空軍による
日本本土への無差別爆撃が始まった。

その結果、日本の主要な都市が空襲に遭い、
特に主要な都市は大規模空襲に遭った。

中でも3月10日の東京大空襲は
一夜にして死者10万人という
未曾有の被害を出したのである。

この時、B29爆撃機から
大量に撒かれたビラには

「日本良い国 紙(神)の国、
 七月八月 灰の国
 九月 他所の国」

と書かれてあったが、
実際にその通りになった。

確かに、神国日本と自負してきたが
神の国ならぬ紙で作られた日本家屋は
B29による焼夷弾で灰の国となり、
9月には連合国に統治されることとなる。

サイパン島の陥落直後の1944(昭和19)年
7月18日、東条は総理辞職のやむなきに至った。

8月、広島・長崎に落された原子爆弾。

8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもって
ポツダム宣言の受諾を表明し、
全ての戦闘行為は停止された。
日本の降伏である。

最悪の政治家⑫-2(東条英機と太平洋戦争)

2009年12月01日 | 最悪の政治家
最悪の政治家⑫-2(東条英機と太平洋戦争)

1941年10月18日、木戸幸一内大臣らの
推挙で昭和天皇の信任と大衆の人気を背景に
現役の陸軍大将として首相に就任、
同時に内相、陸相を兼任する等、
絶対的権限を把握した。

12月8日、パールハ-バ-を奇襲攻撃。
ここに米・英と開戦(太平洋戦争)の先端を開いた。

真珠湾攻撃の2日後に行われたマレー沖海戦において、
当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍は、
日本海軍航空機(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)
の巧みな攻撃により、
当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと
巡洋戦艦レパルスを一挙に失った。

これは史上初の航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈であり、
この成功はその後の世界各国の戦争戦術に
大きな影響を与えることとなった。

当時のイギリス首相チャーチルは、
「このことが第二次世界大戦中に
 イギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」
と語った。

この後日本軍は、連合軍の拠点であるマレー半島、
フィリピン、ボルネオ島、ジャワ島とスマトラ島などにおいて
イギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍などの
連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、
日本陸軍も瞬く間にイギリス領であった
シンガポールやマレー半島全域、
同じくイギリス領の香港、
アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの
重要拠点を奪取した。

真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、
日本がアメリカやイギリス、オランダなどの
連合国との間に開戦したことを受けて
12月11日に日本の同盟国のドイツとイタリアが
アメリカに宣戦布告し、
これにより名実ともに世界大戦となった。

東条英機は国内においては(大政)翼賛選挙の実施と
統制強化により憲兵政治が強権を振るった。

東条独裁とよばれる独裁体制(ファシズム)を構築、
「大東亜共栄圏」建設を宣伝し、
1943(昭和18)年1月に大東亜会議を開催、
大東亜宣言を行った。

その後連合国軍に対して勝利を重ね、
アジア太平洋圏内のみならず、
インド洋やアメリカ本土、
オーストラリアまでその作戦区域を拡大し、
影響圏を拡大させた。