歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉と千利休)

2010年12月31日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(豊臣秀吉と千利休)

千利休は言わずとも知れた茶道の開祖。

利休との名は堺の南宗寺の
大林宗套から与えられた居士号で、
正親町(おおぎまち)天皇より
下賜されたもの、

「利心、休せよ」

の意で、才能におぼれずに
「老古錐」の境地を目指せ、
との意味合いがあるという。

利休は堺に生まれ、
姓を田中、名は与四郎といった。

「千」は祖父が千阿弥と称して、
八代将軍の足利義政に仕える
同朋衆だった人物に由来し、
そこから田中の姓を千に改めた。

時は戦国時代、堺で茶人として名を
上げていた利休は織田信長の茶頭と
して召し出されることになる。

その信長が本能寺の変で敗れてからは
豊臣秀吉に仕えることになる。

そして、秀吉の関白就任御礼の禁裏茶会、
北野天満宮における
北野大茶湯などを成功におさめ、
「天下一の茶匠」の名を不動の
ものとすると共に、茶の範疇を越えて
秀吉の側近と云った側面も見て取れる
ようになるのである。

利休は秀吉の依頼で
黄金の茶室を造っている。
これは解体して持ち
運びできるように造られていた。

黄金の茶室は秀吉の俗悪趣味として
批判されることが多いが、
草庵の法に従って三畳の小間であり、
それなり洗練されたものも持っている。
黄金の茶室も利休の茶の一面を
示しているという見方もある。

秀吉は天下一の茶匠を抱えていることを
誇示した。

しかし、天正十九年(1591)、利休は
秀吉の怒りにふれ、突然に堺へ蟄居を
命ぜられる。 
その後、京都へ呼び戻された利休は秀吉
より切腹を命じられることになる。

切腹の理由は定かではなく諸説あり
ますが、まず、大徳寺山門である
金毛閣の階上に勝手に雪駄を履いた
利休像を設置したこと、また、茶器の
鑑定に不正を働いたことなどが、その
理由ではないかと言われている。

派手好みで、黄金の茶室を造ったりの
秀吉に対して、利休は侘び茶を好み
目指した。

利休は高額で売買される
茶器、茶道具などに媚びる
茶の世界に批判的だった。

このような反発が秀吉の行動とも
重なり反目する態度が秀吉には気に
くわなかった。

大徳寺山門の利休像はくぐる者を
踏みつける意図があるとかの噂、
これも秀吉にしてみれば、自分への
挑戦的な仕業に映ったのだろう。

天正19年2月28日、
利休は葭屋(よしや)町の屋敷で切腹した。
享年70歳。

大徳寺山門の利休像も降ろされ、
その木像は一条戻り橋において
磔(はりつけ)にされ、
利休も同じく一条戻り橋に晒された。

秀吉と利休は互いに利用しようと
目論んだけれど、やはり根本的なところ
で背反する側面があり、利休は権力者の
秀吉には抗しきれなかった。