歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者24 阿弥陀経 煩悩濁)

2011年03月31日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者24 阿弥陀経 煩悩濁)

③煩悩濁(ぼんのうじょく)
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)等の
煩悩が盛んになること。

昔の楽しみといっても、
のんびりと和歌をたしなむ。
釣りに一日興ずるなどであろう。

ところが現代はどうなっている。
テレビをつければ、

「これはお安いですよ。
 今から1時間以内なら
 特別料金、すぐお電話ください」

と、これでもかこれでもかと
欲をかき立てる。
新聞と共に束となった
チラシが舞い込む。
凄まじい宣伝合戦だ。

欲をかきたてられた者達は
踊らされて買いあさる。
その為にローン地獄に陥り、
犯罪へと手を染めてゆく。

また女性が着飾り、魅力を振りまく
男性がその魔力の虜となり、
彼女の為には、会社の金を誤魔化しても
貢ぎ物を贈る。
そんな記事が新聞紙上を埋め尽くす。

正に煩悩逆巻く地獄絵図に
なってきている。

人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者23 阿弥陀経 見濁、外道が百鬼夜行)

2011年03月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者23 阿弥陀経 見濁、外道が百鬼夜行)

②見濁(けんじょく)
見とは思想・考えのことだから
見濁とは思想の乱れをいう。
邪悪な思想、見解がはびこることである。

お釈迦様時代にはインドに、はびこっていた
外道・邪教と呼ばれるものは95だった。
これを

「九十五種世を汚す、唯仏一道清くます」

と言われている。

ところが現代はどうだ。
日本だけでも、
18万2千の宗教団体が登録されている。

釈迦時代のインドの2000倍である。
まさに宗教のオンパレード。
いや、百鬼夜行といったほうが正確だ。
 
解脱したといいながら、
サリンを撒いて無差別殺人を計画し、
死刑判決を受けた輩。

題目を唱えるとどんな借金苦からも
逃れられるといいながら
借金踏み倒して夜逃げの
一番多い宗教団体。

手かざしで病気が治ると病院に行かずに
盲腸で死んだ者が


初詣に交通安全の神社へ行き、
帰り道、交通事故で死亡する連中。
多数いる団体。

お前に取り付いている悪霊を
追い払ってやると
祈祷の末、窒息死させられた者。

その邪教、異安心が跋扈する
現代にあって、
親鸞聖人の教えによって
真実を開顕してゆかねば
ならない浄土真宗の者の中で

「親鸞聖人の教えに
 善の勧めはない」

と公言し、多くの門徒を
迷わしている
浄土真宗の獅子身中の虫。

これでは
「更に親鸞、珍しき法をも弘めず
 如来の教法を我も信じ、
 人にも教え聞かしむるばかりなり」

と、釈迦如来の教え一つを
まことと信じ、教えてゆかれた
親鸞聖人の教えを
どう聞いているのかと
憤慨せずにはおれない。

親鸞聖人の教えに
善の勧めがないなどと
よく言えたものだ。

親鸞聖人の教えを伝えるべき
真宗の者の中にこんな輩が
いるのだから情けない。

しかし、お釈迦様は
このような多種多様な宗教が乱立し、
世間を騒がしている。
これを見濁といわれたのだ。





人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者22 阿弥陀経 劫濁 天変地異)

2011年03月29日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者22 阿弥陀経 劫濁 天変地異)

①劫濁(こうじょく)
劫とは非常に長い時代ということ。
劫濁とは時代の汚れということである。
 
時代が流れるにつれ、
人間が自ら自然を破壊し、
天変地異が頻繁におきるようになる。
地震、大雪、水害、日照りというような
人災、天災が増大することである。

2011年3月11日に起きた
東日本大震災は
自然の脅威をまざまざと
教えてくれた。

巨大地震の震源域は
岩手県沖から茨城県沖に
かけて長さ約500キロ、
幅約200キロに及んでおり、
広範囲で断層が連続的に
破壊されたことが判明。

地震のエネルギーの規模は
マグニチュード(M)9.0
阪神大震災の約1000倍に
達することが分かった。

マグニチュード9の巨大地震の
破壊力は凄まじいものだった。

20メートル近くの津波が
港町を襲い、家を破壊し、
1万人を超える人を飲み込んだ。

安全管理は万全といわれた
原子力発電所も機能を失い、
放射能漏れで多くの人が
避難生活を余儀なくされた。

2011年3月21日、
世界銀行と国連は
共同で発表した自然災害などに
関するレポートで、
自然災害が毎年、
世界に深刻な経済損失を
与えていると報告した。

レポートのタイトルは

「自然災害、非自然災害:
効果的な予防に関する経済学」

レポートは、気候変動の
影響がなくても2100年までに
自然災害がもたらす
毎年の損失額は
現在の2倍にあたる
1850億ドルに上ると予測している。

世界銀行は東日本大震災の
影響について、
日本の実質GDP(国内総生産)
成長率は減速するが
一時的なものに過ぎず、
今年後半には復興作業の
進展に伴い上昇に
転じるとの見方を示した。

大地震と津波による損失は
日本のGDPの2.5~4%にあたる
1200億~2300億ドルに達する
との試算を示している。

今回の東日本の地震は
大自然のなせる猛威であるが、

ロシア西部の森林・泥炭火災や
パキスタン、中欧での豪雨・洪水、
アルゼンチンなど南米での
記録的な大寒波など、
世界中で異常気象による
災害が多発している。

その因果関係について、
人類による環境破壊が原因と
見られる災害が増加しており、
国連の専門家が
「自業自得だ」
と指摘している。


天災・人災の頻発する現代、
正に劫濁である。



人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者21 阿弥陀経 五濁悪世 終末時計)

2011年03月28日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者21 阿弥陀経 五濁悪世 終末時計)

末法になると世の中が濁りに濁ると
多くの経典に説かれている。

これを末法濁世といい、
末世(まつせ)といわれる。
避けがたい五種の汚れのことを
末法五濁というのだ。

その五つの濁りとは
阿弥陀経に

・劫濁
・見濁
・煩悩濁
・衆生濁
・命濁」

と説かれている。

平成21年6月、
岡山でひったくりの事件があり、
75歳の女性のかばんを取った男を
高校生2人が捕まえた。
犯人を捕まえてビックリ。
警察官ではないか。
それも窃盗などを捕まえる
盗犯係の巡査部長。
笑うに笑えない話だ。

捕まえたのは男子高校生2人の
言った感想が印象に残った。
一人の男子学生が

「捕まえる側の警察官が
 捕まるなんて信じられない」

とあきれて言うと、
もう一人の高校生曰く

「世も末だと思った」

若者でも現代は末法濁乱を
感じとっているようだ。

今、世界終末時計というのが
世間で盛んに使われている。

これは原爆投下から2年後の
1947年にアメリカの科学誌
「原子力科学者会報」の表紙に
初めて掲載された。

実物はシカゴ大学にあり、
同誌によって管理されている。

最近は1950年代のころの
冷戦時と異なり、
必ずしも核からの脅威のみで
時計の針の動きが
決められているわけではなく、
世界の様々な紛争状況、
さらに環境破壊による人類滅亡をも
考慮して針が決定されている。

この「終末時計」というのは、
核戦争によっておこりえる
地球破滅の危険度を

「12時までの残り時間」

であらわしている時計のこと。

我々の生活は科学の発達によって、
すごく便利になっているい一方、
科学によって作られた
さまざまな危険にさらされている。

この時計の針が動かされるたびに、
世界中のマスコミが大きく報道する。

1990年には、時刻の決定基準に
地球の環境も取り入れられ、
10分前からのスタートになった。
今の地球の状態を考えると、
核兵器よりもオゾンホールや温暖化と
言った環境の危険度の方が怖い。

平成22年は6分前。
人類に危機がまじかに迫っている。


人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑳ 阿弥陀経 六方諸仏の証誠)

2011年03月27日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑳ 阿弥陀経 六方諸仏の証誠)

「我今阿弥陀仏の
 不可思議功徳を
 讃歎するが如く、
 東方にも亦、
 阿しゅくび仏、須弥相仏、
 大須弥仏、須弥光仏、妙音仏、
 是の如き等の恒河沙数の
 諸仏有して、
 各其の国に於て、
 広長の舌相を出して
 偏く三千大千世界に覆いて、
 誠実の言を説きたまう、
 汝等衆生、当に是の
 称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経
 を信ずべしと」
  (阿弥陀経)

弥陀の本願一つ説かれたのは、
地球の釈尊だけではない。

大宇宙のあらゆる仏方が、

「われらが本師本仏・弥陀の本願は
真実だ。間違いない。
 我々が保証するから
早く信じなさいよ」

と、弥陀の本願まことを、
叫んでおられることが
『阿弥陀経』に説かれているのだ。

「舎利弗よ、この釈迦が今、
 阿弥陀弘の本願の不可思議な
 素晴らしさを説いているように、
 東の方にもまた、
 阿しゅくび仏・須弥相仏・大須弥仏
 ・須弥光仏・妙音仏、
 このようなガンジス河の
 砂の数ほどの無数の仏方が、
 各々その国において、
 大雄弁をもって、
 三千大千世界の至るところで、
 「すべての人々よ、
  まさにこの不可思議な
  阿弥陀仏の本願を信ずる以外に
  救われる道はないのだ」
 と、真実の説法をしておられるのだ"
 
東の方のみならず、
東西南北上下の六方の仏方が同様に、
弥陀の本願まことを
保証しておられることが、
続いて説かれており、
これを「六方諸仏の証誠」といわれる。

これは「仏々相念」とか「唯仏与仏の知見」といわれ、
さとりの働きにより、仏さま同士、
互いに通じておられるから、
釈尊は、このようなことが分かられたのだ。

親鸞聖人も一念多念証文の中で
諸仏の使命を明らかにされている。

「『阿弥陀経』に、
 「一日、乃至七日、名号をとなうべし」
 と釈迦如来ときおきたまえる御のりなり。
 この経は「無問自説経」ともうす。
 この経をときたまいしに、
 如来にといたてまつる人もなし。
 これすなわち、釈尊出世の本懐を
 あらわさんとおぼしめすゆえに、
 無問自説ともうすなり。
 弥陀選択の本願、
 十方諸仏の証誠、
 諸仏出世の素懐、
 恒沙如来の護念は、
 諸仏咨嗟の御ちかいをあらわさんとなり。
 諸仏称名の誓願、
 『大経』にのたまわく、
 「設我得仏 十方世界無量諸仏
  不悉咨嗟称我名者 不取正覚」
 と願じたまえり。
 この悲願のこころは、
 たといわれ仏をえたらんに、
 十方世界無量の諸仏、
 ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、
 仏にならじと、ちかいたまえるなり。
 「咨嗟」ともうすは、
 よろずの仏にほめられ
 たてまつるともうす御ことなり」
   (一念多念証文)

釈尊は大宇宙のあらゆる仏方を
保証人に立てられ、

「われらが本師本仏・弥陀の本願は
 真実だ。間違いない。
 我々が保証するから早く信じなさいよ」

と、弥陀の本願まことを、
叫んでおられることが
『阿弥陀経』に説かれている。

すべての仏が保証人に立たれるのは
阿弥陀仏が本師本仏だからであり、
他には考えられない。

十方諸仏を保証人に立てなければ
我々、十方衆生は弥陀の本願を
信ずることができない。

不実なものを疑いなく信ずるのに
真実の救いはもう信ずることができない、
これが本当の十方衆生の相なのだ。

「仏々相念」の覚りの働きにより、
仏さま同士は互いに通じておられる。

釈尊は、また驚くべきを仰言った。

「我いま諸仏の
 不可思議の功徳を
 称讃するごとく、
 かの諸仏等も、
 また、我が
 不可思議の功徳を
 称説して、
 この言を作さく、
 「釈迦牟尼仏、
 能く甚難希有の事を
 為して、
 能く娑婆国土の
 五濁悪世、
 劫濁・見濁・煩悩濁
 ・衆生濁・命濁の中に、
 阿耨多羅三藐三菩提を得て、
 もろもろの衆生のために、
 この一切世間難信の法を
 説きたまう」と」
 (阿弥陀経)

「大宇宙の全ての仏方も
 私たちが本師本仏の阿弥陀仏の
 不可思議な救いを勧めているように
 地球のいう世界に
 釈迦牟尼如来という仏が現れて、
 穢れきった世界で
 阿弥陀仏の本願を開顕しておられる。
 この世で一番難しいがなさねばならぬ
 本懐を成し遂げているのだ」

と、十方諸仏が各々の世界で
お釈迦様を保証人に立てられて、
弥陀の本願を勧めておられると
仰言っておられる。

考えてみれば当然のことだが、
仏の世界の凄さを感ぜずにおれない。



人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑲ 阿弥陀経 若一日~若七日一心不乱)

2011年03月26日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑲ 阿弥陀経 若一日~若七日一心不乱)

「もし善男子・善女人ありて、
 阿弥陀仏を説くを聞きて、
 名号を執持すること、
 もしは一日、もしは二日、
 もしは三日、もしは四日、
 もしは五日、もしは六日、
 もしは七日、
 一心不乱ならん。
 その人、命終る時に臨みて、
 阿弥陀仏、もろもろの聖衆と共に
 その前に現在したまう。
 この人終る時、
 心顛倒せず、
 すなはち阿弥陀仏の
 極楽国土に
 往生することを得」
  (阿弥陀経)

『阿弥陀経』は、二十願の意を
開説された釈尊の説法である。

『阿弥陀経』の

「執持名号 一心不乱」
の信心というのは、

諸善万行のおさまっている
念仏を称えれば
必ず往生は出来るのだと
念仏の大功徳を信じて、
一心不乱に称名念仏している人の
信心をいうのである。

このような信心は
念仏の称えられる時は
助かるように思えるが、
雑縁によって
称えられない時は、
忽ち信心は動乱する。

念仏を称え切れる
相続出来る、
一心不乱になれると
自力を信じているのだから、
とんでもない見当違いである。 
定心で念仏出来れば、
その念仏は功徳が
あるように思い、
心が散り乱れている時、
称える念仏は功徳が
少ないように思うて、
信心は常に動揺する。

この二十願『阿弥陀経』の
真門の教えを
あやまって真実と
思い込んだものが
でてきた。

この人達は阿弥陀経を読んで
阿弥陀如来に救われるに
3つの条件を説くようになった。

・一日7万遍~8万遍の念仏行

・正念往生

・臨終来迎

阿弥陀仏のいわれをきゝ
勝易の二徳の根機に相応することを喜び、
執持して一日乃至七日一心不乱に
念仏を策励して助かろうとしたのが
浄土宗となった。

命終の時に来迎を受けねば助からぬと
心の顛倒せぬように努力するのが
時宗となったのである。

ところがこの3つの条件を揃えることが
できる人がこの世におるだろうか。

生涯、念仏を称え続けていった僧に
福田行誡(1809~1888)がいる。
彼は明治初期の浄土宗管長と
なったのだ。

彼の、念仏行は凄かった。
一日7万遍~8万遍の念仏を
称えていた。

その彼に臨終が近づいていた。

弟子の一つが行誡に尋ねた。

「お師匠様、これだけお念仏を
 称えているのですから
 死んだら、極楽浄土は
 間違いないでしょうね」

すると福田行誡は

「臨終に阿弥陀如来の
 お迎えが来るまでは
 分からん。
 化土にでも生まれることが
 できればいいがな」

と答えたという。

念仏三昧の生活を送っておった彼でさえ、
極楽へ往けるか、どうかは
死んで見なければ、
分からないのである。

浄土真宗の特色の一つが、
不来迎の教えだ。

親鸞聖人が不来迎だと仰言ったのは、
平生の時、信楽開発の一念に
久遠の弥陀と名乗りを上げ、
昿劫流転の魂の解決を
ハッキリさせていただき、
苦悩渦巻く人生を光明の広海と
転じさせていただき、

「念仏者は無碍の一道なり」

「有漏の穢身はかわらねど、
 こころは浄土にあそぶなり」

と何者にも恐れず屈せず、
何事にもうろたえぬ
たくましい正定聚不退転の身に救われて、
死んでよし生きてよし、
動くままが南無阿弥陀仏の
大満足だもの臨終来迎など
さらさら用事はないから、
不来迎とおっしゃったのだ。

親鸞聖人は、来迎を平生の一念に
明らかに体験なされたから、
臨終の来迎など問題に
なさらなかったのである。

浄土真宗の教えは救われた
信の一念から仏凡一体だから
常来迎であり、不来迎なのだ。

「されば親鸞聖人の仰には、
 『来迎は諸行往生にあり。
  真実信心の行人は、
  摂取不捨の故に正定聚に住す、
  正定聚に住するが故に必ず滅度に至る、
  故に臨終まつことなし、
  来迎たのむことなし』
 といえり」
  (御文章一帖四通)

と蓮如上人の仰せのとおりである。

名号を如実に聞いた時、

・仏凡一体、
・機法一体、
・名号と一体

になるから、その時が「名号執持」である。

命が延ぶれば、若しは一日若しは七日、
雑行雑修に心が向かないから「一心不乱」。

「その人、命終わる時に臨みて」とは、
自力心が死んだと同時に
摂取不捨の利益に預かり、
即得往生したのだから、
もう肉体の臨終の来迎は用事がなくなる。

親鸞聖人でなければ、
とても開顕できぬ平生業成、
現生不退の仏の正意であった。



人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑱ 阿弥陀経 執持名号)

2011年03月25日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑱ 阿弥陀経 執持名号)

「もし善男子・善女人ありて、
 阿弥陀仏を説くを聞きて、
 名号を執持する」
 (阿弥陀経)

『阿弥陀経』は、二十願の意を
開説された釈尊の説法である。

故に『阿弥陀経』には
執持名号の行(称名念仏)を
一日乃至七日、一心不乱に行ずれば
その人の臨終に阿弥陀仏が
諸々の聖衆と共にその前に現われると
来迎の利益が説かれている。

諸の徳本の名号を顕揚する二十願は
確に第十九願よりは
真実のようではあるが、
法は植諸徳本の他力でも、
機は至心廻向の自力の執着が
離れ切らないから
第十八願真実と比較して
真実の実をとって
真門というのである。

これも阿弥陀仏の願力を認めながら
尚自力を捨て切れないものを救う為に
誓われたものであるから
方便仮門の教えに間違いない。

速に廃捨されねば
真実十八願へ入ることは
できないのである。
されば我々は真仮廃立を
きびしく御教誡になった聖人の
深意を感佩しなければならない。

しかし、親鸞聖人は
その名号を執持するとは
どういう意味かを教行信証に
教えられている。

「この『経』(阿弥陀経)に
 また顕彰隠密の義あるべし。
 顕といふは、経家は一切諸行を
 嫌貶善本・徳本の真門を開示し、
 自利の一心を励まして
 難思の往生を勧む。
 ここをもって阿弥陀経には
 「多善根・多功徳・多福徳因縁」
 と説き-乃至-
 これはこの『経』の顕の義を示すなり。
 これすなはち真門のなかの方便なり。
 彰といふは、真実難信の法を彰す。
 これすなはち不可思議の願海を光闡して、
 無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。
 まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、
 信もまた恒沙の信なり。
 ゆえに甚難といへるなり。
 これはこれ穏彰の義を開くなり。
 『経』(小経)に「執持」とのたまへり。
 また「一心」とのたまへり。
 「執」の言は心堅牢にして
 移転せざることを彰すなり。
 「持」の言は不散不失に名づくるなり。
 「一」の言は無二に名づくるの言なり。
 「心」の言は真実に名づくるなり。
 この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの
 無問自説経なり。
 しかれば如来、世に興出したまふゆえは、
 恒沙の諸仏の証護の正意、
 ただこれにあるなり」
   (教行信証)

と、阿弥陀経の執持名号には
穏顕の二つの意味があると
御教示くだされたのである。

親鸞聖人は
その名号を執持するとは
どういう意味と
教えられているのだろうか。

釈尊は観無量寿経に定善を勧められた後、

「しかし、観念の出来ない人は
 善根を励みなさい」

と仰有って九品の往生を教えられたのが
散善の説法である。

そして九品の中、
上六品は根機に応じて諸善を説き、
下三品に来て始めて念仏を教え、

「汝、よくこの語をたもて
 この語をたもてとは、
 即ちこれ無量寿仏の御名を
 とたもてなり」
 (観無量寿経)

最後に廃観立称して、
これを阿難尊者に付属して
真門に送られたのである。
 
真門というのは
第二十願のことであるが、
真実といわずに真門というのは、
これから先に不可思議の
絶対の境地があるのだから、
そこまで遅滞させず、
果遂させんが為に
門の字を使用するのである。

「少善根の福徳の
 因縁をもっては
 彼の国に生ることを得ず」
 (阿弥陀経)

と諸善万行を廃して
念仏の大功徳を
明示されて、
若一日乃至若七日と
自力念仏を策励し、
来迎を誓われるのである。

これが阿弥陀経の面に表された
穏顕の「顕」の義である。

しかし、親鸞聖人は
「執持名号」
の意味を、早く18願に救われ
信心決定をして
お礼の念仏を称える身になれよと
教えてゆかれたのである。

これが穏顕の「穏」の義と
なるのである。

「本師龍樹菩薩の
 教えを伝え、きかん人
 本願心に、かけしめて
 常に弥陀を、称すべし

 不退の位、すみやかに
 得んと思はん、人はみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号、称ずべし

 極悪深重の衆生は
 他の方便、更になし
 ひとえに弥陀を、称じてぞ
 浄土に生まると、のべたまふ」
 (高僧和讃)

最初の和讃の

「本願心にかけしめて」

という事は、
心にかけるということで
龍樹菩薩の『易行品』の
憶念ということである。

憶念ということは
『唯信鈔文意』の中に親鸞聖人が、

「憶念というは信心まことなる人は
 本願を常におもい出づる心の
 たえず常なるなり」

と明らかに仰せになっている様に
信心決定の事である。

早く信心決定して
仏恩報謝の念仏を常に称すべし
という意味である。

次の御和讃の恭敬の心とは、
『十住論』に

「恭敬とはその功徳を念じ
 その人を尊重するに名く」

とあるから他力信心のすがたである。

又、執持とは『略文類』の中に

「執持とは即ち一心なり。
 一心は即ち信心なり」

と親鸞聖人は仰有っておられる。

他力信心の事である。

最後の御和讃も
「ひとえに弥陀を称じてぞ」という事は
一心一向に本願を信じて
念仏を称える事であって、
信前の人に本願を信ずる事を
すヽめられたものである。

親鸞聖人は早く信心決定をして
お礼の念仏を称える身になれよと
教えてゆかれたのである。

これ執持名号の穏顕の
「穏」の義となるのである。



人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑰ 阿弥陀経 聞説阿弥陀仏)

2011年03月24日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑰ 阿弥陀経 聞説阿弥陀仏)

「もし善男子・善女人ありて、
 阿弥陀仏を説くを聞きて、
 名号を執持する」
 (阿弥陀経)

五劫の思惟と
兆載永劫の
法蔵菩薩の
御修行によって
我々を救済する能力を
有する名号六字が
成就したのである。

名号とは
南無阿弥陀仏の六字
のことである。

このことを親鸞聖人は

「一切の羣生海、
 無始より已来、
 乃至、今日今時に
 至るまで
 穢悪汗染にして
 清淨の心なく
 虚仮諂偽にして
 真実の心無し、
 是を以って如来、
 一切苦悩の衆生海を
 悲憫して
 不可思議兆載永劫に於て
 菩薩の行を行じたまいし時、
 三業の所修、
 一念一刹那も
 清浄ならざる無く、
 真心ならざる無し、
 如来清浄の
 真心を以って
 円融、無碍、
 不可思議、不可称、
 不可説の至徳を
 成就したまえり」
  (教行信証信巻)

と讃嘆なされている。

故にこの名号六字には
万善万行恒沙の功徳が
こもっているから
徳本とか
本願の嘉号とか
徳号とか、
無上宝珠とか
功徳の大宝海
とかいわれ、

御文章五帖十三通には

「それ南無阿弥陀仏と
 もうす文字は、その数、
 わずかに六字なれば、
 さのみ功能の
 あるべきとも
 おぼえざるに、
 この六字の
 名号のうちには
 無上甚深の功徳利益の
 広大なること
 更にそのきわまり
 なきものなり」

と説かれている。

無上宝珠、
功徳の大宝海といわれ、
どんな悪機をも
助ける力を有する
南無阿弥陀仏の名号は
阿弥陀仏の四十八願
の中の第十七番目に
約束せられてあるから、
その十七願成就して
出来上がったものである。

即ち十七願には

『設え、我れ佛を得むに、
 十方世界の無量の諸佛、
 悉く咨嗟して、
 我が名を称せずは、
 正覚を取らじ』

と誓われ
十七願成就文には、
この願の成就したことを、               

「十方恒沙の諸佛如来、
 皆共に無量寿仏の
 威神功徳の
 不可思議なるを
 讃嘆したまう』

と説かれている。

これによって
明らかな通り
法蔵菩薩は、
十方の世界の
恒沙無量の諸仏達が
等しく讃嘆せずに
おれない
威神功徳不可思議な、
力を持つ名号六字を、
成就して見せることを
確約し、遂に
その約束を果して
名号を成就せられたのだ。
 
威神功徳不可思議
というのは、
一切衆生を十八願に
約束した通りに、
大満足・大安心、
日本晴れの真実信心の身に
救済する力を
具えている名号で
あることを示している。
 
十方の諸仏が
名号六字の妙徳を
ほめたたえるということは
名号が単なる符ちょうではなく、
私達を本当に救う
力を持っていると
いうことに外ならない。

故に十七願を
名号成就の願と
いうのである。






人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑯ 阿弥陀経 少善根福徳の因縁)

2011年03月23日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑯ 阿弥陀経 少善根福徳の因縁)

「少善根福徳の因縁をもって、
 かの国に生まるることを
 得べからず」
 (阿弥陀経)

「少善根」とは
人間のやる善のこと。

私たちのやる善を、
釈尊は
「小さな善根」
と言われている。

なぜか、人間のやる善では
「彼の国に生まれることが
 できないからだ」
と言われているからだ。

「彼の国」とは、
無上仏である阿弥陀仏の
極楽浄土のことだから、

「我々の励む善では
 弥陀の浄土へは
 往けないよ」

ということである。

このことは親鸞聖人も

「頭燃を灸うが如くすれども、
 衆て「雑毒・雑修の善」と名く、
 この虚仮・雑毒の善を以て、
 無量光明土に生ぜんと欲す、
 これ必ず不可なり」
  (教行信証)

と断言されている。

これは、
「親鸞、頭についた火を
 もみ消す真剣さで
 善いことをやったけれども、
 まことの善はできなかった。
 人間のやる善では、
 無量光明土の
 弥陀の浄土へ
 生まれることは、
 絶対にできないのだ」

と言われているお言葉だ。

では人間の善を、
何に対して
「小さな」善根と、
けなされたのか。
 
私たちが浄土往生するには、
本師本仏の阿弥陀仏の
作られた
『南無阿弥陀仏』
の万善万行の御名号の
お力によるしかない、
と釈尊は教えておられる。

その『南無阿弥陀仏』
の大善根に対して、
私たちのやる善を
「少善根」と
言われている。
 
だから、我々のやる善を
けなされたのは、
飽くまで、
往生の一段についての
ことであって、
生活面のことでは
ないのある。

ここを聞き誤っては
ならない。
 
日常生活においては、
善を励まねばならぬのは
当然のことだ。

飽くまでも

「弥陀の浄土へ往く」

という

「往生の一段」

においては、

「我々のやる善では助からない」

と言われているのある。

「善をするな」と
いうことでは、
絶対にないことを、
よくよく知っていなければ
ない。




人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑮ 阿弥陀経 十劫成仏)

2011年03月22日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(舎利弗尊者⑮ 阿弥陀経 十劫成仏)

「阿弥陀仏、
 成仏より已来、
 いまに十劫なり」
  (阿弥陀経)

大無量寿経に
本師本仏の阿弥陀仏が

四十八願を述べ
そのうちの十八願を根本の誓願として
自他の成仏を要期しつつ
限りなき長年月(永劫)に
亘る修行を続け、
漸く仏となることを得られた。

それが阿弥陀仏であって、
その住せられる世界を安楽国とか
極楽浄土という。

この土を去ること西方十万億の世界を
すぎた所にあり、
今もなお、その浄土に
ましまして説法していられる。

成道せられてから凡そ十劫を経ている。

その浄土は善美を尽し
憂悲苦悩のけがれなき
理想の国土である
と述べられている。

しかし、無始久遠に
実成された古仏である
阿弥陀如来がなぜ十劫の昔に
仏になられたのか。

蓮如上人は四つの角目を
開けと仰せられている。

1:阿弥陀仏の本願、
2:本願の名号のいわれ、
3:信心、
4:称名念仏、

これは非常に大きな問題である。

角目というのは要ということ。

譬えば、ある目的地に着くまでの途中、
十字路に差しかゝり、
右に行くか、左に行くか、
真直ぐ進むかによって、
目的地に着けるか否かが決定する。

私達が仏教を聞くのは、
あくまでも後生の一大事を解決し、
未来永遠、大満足の身になる為の事は
周知のことである。

この目的地に着くまでに、
四つの大切な角目がある。

一つは、阿弥陀仏の本願。
これは本師本仏の阿弥陀仏の
本当の願いで

「若不生者不取正覚」

をいゝ、三世諸仏も呆れ果てゝ逃げた私達を

「若し、現在、日本晴れの心に
 生れさせずば、
 私(弥陀)は、
 仏のさとり(命)を捨てる」

と誓って下されたものだ。

ところが、この「若不生者」の
生れるということを、
親鸞聖人が三大諍論をなされてまで、
これは現在只今、大満足の心に
生れさせる事だということを
明かに示して下された。


にもかゝわらず、今日の道俗は、
これは死んで金の仏に生れさせる事だと思い、
そのような説教をしている者が
非常に多い。

第一の角目では、
死んでから助けるという本願ではないぞ、
現在だぞ、と誤ったところへ
曲ってはならない
と教えていられる。

第二の角目は、この阿弥陀仏の本願と
兆載永劫の修行によって、
十劫の昔すでに出来上ったものが、
南無阿弥陀仏の六字の名号であり、
故にこの名号には、
一切の苦しみを除き、楽を与える
抜苦与楽、破闇満願の大功徳がある。

これを聖人は『和讃』に

「無碍光如来の名号と、
 かの光明智相とは、
 無明長夜の闇を破し、
 衆生の志願を満てたまう」

と仰言っている。

名号は、飲めばどんな病気でも
なおる妙薬だが、
この妙薬が十劫の昔に出来たことと、
病気のなおったこととを
感違いしている者があるが、
とんでもない誤りである。
こんな人を十劫安心というのだ。

第三の角目は信心。
信心とは大功徳の六字の妙薬を
飲んで病気がなおったことをいう。

病気をなおして頂いたら、
なおして下さった人に対して
当然出るのがお礼の言葉である。
そのお礼の言葉が称名念仏であり、
第四の角目なのである。

顔中に飯粒をつけていても
食べなければ腹はふくれず
餓死してしまう。

何万遍礼を言っても、
薬を飲まずしては、
病気はなおらない。

名号は私が頂いて信心となり、
その上は御恩報謝の念仏と
ならなければならない。

「その上の称名念仏は、
 如来わが往生を定めたまひし、
 御恩報尽の念仏と、
 心得べきなり」
 (御文章、五帖十通)

の通りである。