芥川龍之介⑲(二つの往生)
本来は、浄土へ“往”き、仏に“生”まれることを「往生」という。
仏教から出た言葉だが、
今日では「こまった」とか「死んだ」ことに誤用される。
「車の故障で、往生した」とか、
「大渋滞にひっかかって往生したよ」
「隣りのお婆さん、今朝、往生したそうだ」など、その例だ。
「往」は“往く”であり
「生」は“生まれる”とか“生きる”という意味だから、
文字からいっても「こまる」とか「死ぬ」という
マイナス思考は見当たらない。世間の使い方は逆立ちしている。
浄土へ往って仏になれるのは、弥陀に救い摂られた人だけである。
救われたかどうかは、平生にハッキリするから、
往生の可否もそのとき明らかに知らされる。
救い摂られて無明の闇が晴れれば、
“必ず往生できる”と心が一つに定まるので、
「往生一定」
と蓮如上人は言われている。
往生の本決まりである。
合格発表までの受験生は大丈夫だろうか、
ダメだろうかと心は千々に乱れて定まらないが、
合格発表を見た瞬間、「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものと思えばよかろう。
だから往生は、誰でも彼でもできることではない。
足元の小川が渡れぬ者に、先の大河が渡れるはずはない
親鸞聖人の著述でとくに目立つのは、
二度の弥陀の救済と、今の救いの強調だ。
原因なくして結果なし。
平生の救い(因)に遇わずして、
死後の救い(果)は望めない。
足元の小川が渡れぬ者に、その先の大河がどうして渡れよう。
今生救われた者だけが浄土往生できるのである。
現在の苦悩を救い摂り(不体失往生)、
未来永遠、幸福に生かし切る(体失往生)、
二つの往生を誓われた弥陀の真意を明らかにされた。
永遠の浮沈は、平生に決するのである。
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本来は、浄土へ“往”き、仏に“生”まれることを「往生」という。
仏教から出た言葉だが、
今日では「こまった」とか「死んだ」ことに誤用される。
「車の故障で、往生した」とか、
「大渋滞にひっかかって往生したよ」
「隣りのお婆さん、今朝、往生したそうだ」など、その例だ。
「往」は“往く”であり
「生」は“生まれる”とか“生きる”という意味だから、
文字からいっても「こまる」とか「死ぬ」という
マイナス思考は見当たらない。世間の使い方は逆立ちしている。
浄土へ往って仏になれるのは、弥陀に救い摂られた人だけである。
救われたかどうかは、平生にハッキリするから、
往生の可否もそのとき明らかに知らされる。
救い摂られて無明の闇が晴れれば、
“必ず往生できる”と心が一つに定まるので、
「往生一定」
と蓮如上人は言われている。
往生の本決まりである。
合格発表までの受験生は大丈夫だろうか、
ダメだろうかと心は千々に乱れて定まらないが、
合格発表を見た瞬間、「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものと思えばよかろう。
だから往生は、誰でも彼でもできることではない。
足元の小川が渡れぬ者に、先の大河が渡れるはずはない
親鸞聖人の著述でとくに目立つのは、
二度の弥陀の救済と、今の救いの強調だ。
原因なくして結果なし。
平生の救い(因)に遇わずして、
死後の救い(果)は望めない。
足元の小川が渡れぬ者に、その先の大河がどうして渡れよう。
今生救われた者だけが浄土往生できるのである。
現在の苦悩を救い摂り(不体失往生)、
未来永遠、幸福に生かし切る(体失往生)、
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