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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

芥川龍之介⑲(二つの往生)

2009年05月13日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑲(二つの往生)

本来は、浄土へ“往”き、仏に“生”まれることを「往生」という。

仏教から出た言葉だが、
今日では「こまった」とか「死んだ」ことに誤用される。
「車の故障で、往生した」とか、
「大渋滞にひっかかって往生したよ」
「隣りのお婆さん、今朝、往生したそうだ」など、その例だ。

「往」は“往く”であり
「生」は“生まれる”とか“生きる”という意味だから、
文字からいっても「こまる」とか「死ぬ」という
マイナス思考は見当たらない。世間の使い方は逆立ちしている。

浄土へ往って仏になれるのは、弥陀に救い摂られた人だけである。
救われたかどうかは、平生にハッキリするから、
往生の可否もそのとき明らかに知らされる。
救い摂られて無明の闇が晴れれば、
“必ず往生できる”と心が一つに定まるので、
「往生一定」
と蓮如上人は言われている。
往生の本決まりである。

合格発表までの受験生は大丈夫だろうか、
ダメだろうかと心は千々に乱れて定まらないが、
合格発表を見た瞬間、「やった」と心が一つに定まり、
安心するようなものと思えばよかろう。

だから往生は、誰でも彼でもできることではない。

足元の小川が渡れぬ者に、先の大河が渡れるはずはない

親鸞聖人の著述でとくに目立つのは、
二度の弥陀の救済と、今の救いの強調だ。
原因なくして結果なし。
平生の救い(因)に遇わずして、
死後の救い(果)は望めない。

足元の小川が渡れぬ者に、その先の大河がどうして渡れよう。
今生救われた者だけが浄土往生できるのである。

現在の苦悩を救い摂り(不体失往生)、
未来永遠、幸福に生かし切る(体失往生)、
二つの往生を誓われた弥陀の真意を明らかにされた。

永遠の浮沈は、平生に決するのである。

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芥川龍之介⑱(智慧の太陽に無明の闇が照破される)

2009年05月12日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑱(智慧の太陽に無明の闇が照破される)

未来明るい智者になるには、智慧の太陽に照破されるしかない
阿弥陀仏を、一切の諸仏や菩薩たちが
「智慧光仏」と絶讃するのは、
後生暗い無明の闇(=苦悩の根元)を破るからである、
とつぎのように言われている。

「無明の闇を破するゆえ
 智慧光仏となづけたり
 一切諸仏三乗衆
 ともに嘆誉したまえり」
  (浄土和讃)

“無明の闇を破り、後世をハッキリさせる”
弥陀の光明(智慧)を、「智慧の太陽」といわれている。

「天に二日なし」。
無明の闇を破る「太陽」もまた唯一と、
弥陀の救いが賞讃されるゆえんであろう。

「必ず浄土へ往ける」と、未来明るい智者になるには、
智慧の太陽に照破されるしかない、と知らされる。



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芥川龍之介⑰(賢者と愚者)

2009年05月11日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑰(賢者と愚者)

人生の智恵者とは、どんな人をいうのであろうか。
蓮如上人に聞いてみよう。よく親しまれているお文だ。

「八万の法蔵を知るというとも、
 後世を知らざる人を愚者とす。
 たとい、一文不知の尼入道なりというとも、
 後世を知るを智者とす、といえり」
   (御文章)

百科事典を丸暗記している物知りでも、
後世(死後、後生)を知らなければ愚者だと言われる。
なぜだろう。
死は必然の未来だから、死後を知らないのは、
着陸地を知らずに飛んでいるパイロットと同じだ。

生まれたときが飛び立ったとき。
行く先がわからねば、どんな結末に終わるか、

トップセールスマンだった奥城良治氏の言葉を借りよう。

「さてどこにいこうかな。
 あれ、行き先の飛行場がわからないぞ。
 地図も羅針盤もない。
 まあいいや、燃料も満タンだし、機体もしっかりしているし、
 気楽にいこうぜ。
 その日その日が楽しければいいんだ、
 先のことなど心配することはないよ」

こうやっているうちに、燃料がなくなってくる。
いわゆる“人生の晩年”である。

「これはたいへんだ、これ以上飛ぶことはできないぞ。
 その日さえ楽しければいいと思ってやってきたけど、
 これはたいへんなことになってしまった。
 下は山だらけ。飛行場らしいものは全然見当たらない。
 どうしよう!どうしよう!」

と、真っ青になってうろたえているうちに、
とうとう山腹に激突し、悲惨な人生の末路となるのである。
   (奥城良治『強豪セールスの秘密』)

確実な未来を考えなければ、愚者といわれて当然だろう。


多くのことを知るよりも、
もっとも大事なことを知る人こそが智者である。
たとえ字のタテヨコわからなくても、
いつ死んでも浄土往生間違いなしと、
行く先の明るい人が本当の智者といえよう。
智者と愚者は、「後世を知るか、否か」で分かれる、
と蓮如上人は言われているのだ。


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芥川龍之介⑯(眼前に、人生の目的が、突きつけられる)

2009年05月10日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑯(眼前に、人生の目的が、突きつけられる)

人は、生まれたときが母艦を
飛び立った飛行機とすれば、
悪戦苦闘の生きざまは、乱気流や暴風雨との闘いであり、
敵機との交戦である。
激闘のすえ帰還すると、母艦の影も形も見当たらぬ。
見わたすかぎりの大海原。
燃料計はゼロ、としたらどうだろう。
長い死闘はなんだったのか。
バカだった、バカだった……。

「大命、将に終らんとして悔懼こもごも至る」
   (大無量寿経)

「臨終に、後悔と恐れが、代わる代わるおこってくる」
と説かれるのは、海面に激突する心境にちがいない。

飛行機に墜落以上の大事はないように、
人生に死ぬ以上の大事はない。
生死の一大事とも、後生の一大事ともいわれるゆえんである。

ムダな日々をすごしてきた。
求めるものが間違っていた。
才能、財産、権力があれば他人はうらやむが、
わが身にはよろこびも満足もない。
なぜ心の底から満足できる幸せを求めなかったのか。
後悔のため息ばかりであると
セネカ(二千年前のローマの思想家)は言っている。
「こんなはずではなかった」と、
真っ暗な後生(無明の闇)に驚く、
後悔にちがいなかろう。


「この身は、今は歳きわまりて候えば、
 定めて先立ちて、往生し候わんずれば、
 浄土にて必ず、必ず待ちまいらせ候べし」
    (末灯鈔)

「親鸞、いよいよ今生の終わりに近づいた。
 必ず浄土へ往って待っていようぞ。
 間違いなく来なさいよ」

明日のことさえわからぬのに、
どうして、こんなことが言えるのだろうか、聞いてみよう。

「無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」
     (教行信証)

「弥陀の光明は、無明の闇を破り、
 後生明るくする、智慧の太陽だからである」
 
智恵とは先を知るはたらきといってもよい。
碁や将棋、五連珠の世界でも強い人は
二十手も三十手も先が見えるという。
弱い人は一手先が分からない。
その道の智恵がないからであろう。

この先どうなるか、誰でも知りたい。
未来を読む智恵を持って、
安心して生きたいと願っている。
占いなどに走るのも明日が暗くて不安だからにちがいない。

碁や将棋の智慧者は、その道の勝負にすぐれているが、
人生の智恵者とは、どんな人をいうのであろうか。



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芥川龍之介⑮(死には無条件降伏か)

2009年05月09日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑮(死には無条件降伏か)

「老後のことは老後になってみにゃわからん。
つまらんこと」
とは、誰も言わないようだ。
火災や老後のことは真剣なのに、確実な未来を問題にもしない
自己矛盾には、まだ気がつかないでいる。

「考えたって、どうなるもんじゃないよ」
「その時はその時さ」
「そんなこと考え
ていたら、生きていけないよ」

頑固に目を背けさせる死には、無条件降伏か玉砕か、
大なるアキラメしかないのであろうか。

芥川はその戦いに玉砕した。
わが子にあてた遺書に

「人生は死に至る戦いなることを忘るべからず。
 もしこの人生の戦いに破れし時には
 汝らの父の如く自殺せよ。
 ただし汝らの父の如く 
 他に不幸を及ぼすを避けよ」

と書かずにおれなかったのだ。

元気なときは、
「死は休息だ」
「永眠だ」
「恐ろしくない」
と気楽に考えているが、"いざ鎌倉"となると、
先はおづなっているかだけが大問題となる。

死後は有るのか、無いのか、
どうなっているのやら、さっぱりわかっていない、
お先真っ暗な状態なのだ。
この「死んだらどうなるか分からない心」を、
「無明の闇」といい、また、
「後生暗い心」ともいわれる。
「後生」とは死後のこと。
「暗い」とはわからないこと。
死後ハッキリしない心を
「後生暗い心」とか
「無明の闇」といわれるのである。

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芥川龍之介⑭(無明の闇とは死後に暗い心)

2009年05月08日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑭(無明の闇とは死後に暗い心)

無明の闇とは、
「死んだらどうなるか分からない、死後に暗い心」をいう。

とかく、死を口にすると「エンギが悪い」といわれる。
「死ぬ話をするとお前もすぐ死ぬぞ、やめておけ」と、
たしなめているのだろう。
それなら、金の話をするとたちまち金が儲かり、
ノーベル賞の話をすると受賞し、マイホームの話をすると
家が建つことになる。おかしなタブーがまかり通っている。
「四」と聞くと「死」を連想するからか、
病院には四号室がなかったり、
エレベーターに四階が抜けていたりするが、
それだけ避けられぬ人生の終着駅を、
気にしているともいえよう。

「門松は 冥土の旅の 一里塚 
      めでたくもあり めでたくもなし」

一休は人間を「冥土への旅人」と言っている。
「冥土」とは「死後の世界」である。
人生は冥土の旅にちがいない。
一日生きれば一日死に近づいている。
世界の時計を止めても、それは止まらない。
万人共通の厳粛な事実である。
百パーセント墜ちるとハッキリしている飛行機に
乗る者はいないだろうが、
生まれたときから私たちはそんな飛行機に乗っているのだ。



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芥川龍之介⑬(苦悩の根元は無明の闇)

2009年05月07日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑬(苦悩の根元は無明の闇)

人生を苦に染める元凶は何か。
親鸞聖人が明解に答えておられる。。

「決するに、疑情をもって所止となす」
「無明の闇を破る」
          (教行信証)

「疑情ひとつ」と決断される。
「決するに」「所止となす」の断言には迷いがない。
苦悩の解決ひとつを説く聖人だから、
こんな明言が極めて多い。

「苦悩の根元は、これひとつ」と断定される「疑情」とは、
死後どうなるか分からない「無明の闇」のことである。

苦悩の根元を「無明の闇」といわれて、
「なるほど」とうなずく人は、いないと
いってもよかろう。
「えっ!? それ、なに!?」と驚く人、
「聞いたことも、読んだこともないよ」と、
みんなソッポを向くにちがいない。

では、苦しみの古諺と断定される
「無明の闇」とは、どんなものなのであろうか。

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芥川龍之介⑫(妻のかけた言葉)

2009年05月06日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑫(妻のかけた言葉)

自殺した夫、芥川龍之介に妻はこう語りかけた。

「主人がなくなりました時、
 私はとうとうその時が来たのだと、
 自分に言いきかせました。
 私は、主人の安らぎさえある顔
 (私には本当にそう思えました)をみて、
 「お父さん、よかったね」
 という言葉が出て来ました。
 
 私の言葉を聞かれた方は、
 冷たい女だと思われたことでしょうが、
 私は、主人の生きてゆく苦しみが、
 こんな形でしか解決出来ないところまで
 来ていたのかもしれないと、思ったからです」


死んで良かった。
生きる意味も分からず、苦しむだけに
生きる芥川を見ていた奥さんも
たまらなく辛かった。

しかし、これでいい筈がない。
芥川の残した「ぼんやりした不安」を
徹底的に顕彰し、その解決の道が
仏教の教えにあることを
知らなければならない。

絶望の底から
永遠の幸福の道を見つけよう。

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芥川龍之介⑪(ついにその時がきた)

2009年05月05日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑪(ついにその時がきた)

芥川最後の年となった昭和2年は、
慌ただしく幕を開ける。

1月4日、龍之介の姉・ヒサの家で
ボヤ騒ぎがあった。
ヒサの夫・西川豊は、火災保険を
狙った放火の嫌疑をかけられ、
6日に鉄道自殺をする。

事件の処理に追われた芥川には、
8人の扶養家族があったが、
そこに西川の遺族が加わり、
12人となった。

また、西川が抱えていた高利の借金が
重くのしかかる。

病気も忘れて東奔西走する中、
芥川は猛烈な勢いで筆を走らせた。

「僕は多忙中ムヤミに書いている。
 婦人公論12枚、改造60枚、
 文藝春秋3枚、演劇新潮5枚、
 我ながら窮すれば通ずと思っている。」
     (知人への手紙)


その上、青年時代の罪が尾を引いた。
分かれた筈の秀しげ子が、妻子と静養中の芥川を、
突然見舞いに来た。
「私の子、あなたに似ていない?」
彼女の言葉は龍之介の胸を引き裂いた。

遺稿『歯車』には悲痛な告白をしている。

「僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた1人に違いなかった。」

今や芥川は、気力と睡眠薬とで、
辛うじて生を保っているに過ぎなかった.
最後の力を振り絞る。
だが、何のために?

「死にたがっているよりも生きることに
 飽きているのです。
 彼は彼の一生を思い、
 涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。
 彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。」
         (或阿呆の一生)

「僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。
 こう云う気もちの中に生きているのは
 何とも言われない苦痛である。
 誰か僕の眠っているうちにそっと
 絞め殺してくれるものはないか?」
         (歯車)

これらの言葉を遺稿に残し、
芥川龍之介は、36年の生涯を
薬物自殺で閉じた。


「人生は地獄よりも地獄的である」
       (侏儒の言葉)

意味も目的も分からず、
「生きるために生きる」以上の悲劇はない。


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芥川龍之介⑩(龍之介と「いろは歌」)

2009年05月04日 | 芥川龍之介
芥川龍之介⑩(龍之介と「いろは歌」)

芥川の『侏儒の言葉』の中に、
次のような一節がある。

「われわれの生活に欠くべからざる思想は
 あるいは「いろは」短歌に
 尽きているかもしれない。」


われわれの生活に欠くべからざる思想とは
何か。

「アイウエオ」では味気ない。
ところが『いろは歌』になると、趣が変わる。
深い意味がこめられ、
今でも日本人の心の支柱になっている。


・色は匂へど散りぬるを
(どんなに満開の桜の花も、一晩の嵐で散ってゆく)

・我が世、誰ぞ常ならむ
(この世で常のあるものがあるだろうか?
 全て、無常であり、
 その無常なものを信じている為、
 苦しみ続けるのだ)

・有為の奥山今日越えて
(しかし、苦しみ悩みの世界を、
 現在ただ今、乗り越えることができる)

・浅き夢見じ酔ひもせず
(それも浅い夢を見ているような、
 ほろ酔い気分のような儚いものでもなく。
 ハッキリした本当の幸せになれるのだ)

経典の
『諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽』
を『いろは歌』で歌ったものだが、
世の真理を表したものとして有名だ。

諸行無常…この世のものは、全て常がない。
是生滅法…これは大宇宙の不変の真理である。
生滅滅已…しかし、生きている間になれるのだ。
寂滅為楽…大安心・大満足の絶対の幸福に。

彼は無常の世にあって、本当の幸せとは何か。
追求していた。
人生に「もし」という字はないが、
もし、親鸞聖人の本当の教えに出会えていたら
大きく変わっていたに違いない。

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