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歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(鼠小僧次郎吉)

2011年01月26日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(鼠小僧次郎吉)

石川五右衛門が辞世で

『石川や浜の真砂は絶ゆるとも、
 世に盗人の種はつきまじ』

と歌ったように、
200年の後、江戸の町を
騒がせた大泥棒が登場する。
鼠小僧次郎吉だ。

鼠小僧(1797年~1832年9月13日)は、
化政期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。
本名は次郎吉(じろきち)。
鼠小僧次郎吉として知られる。
本業は鳶職であったといわれ、
義賊の伝承で有名な人物だ。

鼠小僧について

「金に困った貧しい者に、
 汚職大名や悪徳商家から
 盗んだ金銭を分け与える」

と伝説がある。

実はこの噂は彼が捕縛される
9年も前から流れていた。

事実、彼が捕縛された後、
役人による家宅捜索が行われたが、
盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。

傍目から見ると、
彼の生活が分をわきまえた慎ましやかな
ものであることから、
盗んだ金の行方について噂になり、
このような伝説が生まれたものと考えられる。

しかし現実の鼠小僧の記録を見ると、
このような事実はどこにも記されておらず、

現在の研究家の間では

「盗んだ金のほとんどどは博打と
 女と飲酒に浪費した」

という説が定着している。

鼠小僧は武士階級が絶対で
あった江戸時代に於いて、
大名屋敷を専門に徒党を組むことなく
一人で盗みに入ったことから、
江戸時代における反権力の具現者の
ように扱われたり、
そういったものの題材して使われることが多い。

彼が大名屋敷を専門に狙った理由については、
敷地面積が非常に広く、
一旦中に入れば警備が手薄であったことや、
男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥が
はっきりと区別されており、
金がある奥で発見されても
女性ばかりで逃亡しやすい、という、
盗みに入りやすかったという理由が
挙げられている。

また、町人長屋に大金は無く、
商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた
大名屋敷は参勤交代等に代表される
江戸幕府の経済的な締め付けや、
謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれが
あるという理由で、
警備を厳重に出来なかったものと考えられ、
また面子と体面を守るために
被害が発覚しても公にしにくいという
事情もあった。

盗んだ金銭の総額については3000両以上と
鼠小僧は供述したが、
本人が記憶していない部分もあり、
諸書によっても違うので正確な金額は
未だに不明である。

武家屋敷99箇所、120回にわたって忍び込み、
ついに1832年5月5日、
日本橋浜町の松平宮内少輔屋敷で捕縛される。

市中引き回しの上での獄門の判決が下される。
この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に
適用される刑であり、
この判決は武士階級の面子を潰された
恨みの産物という見方もできる。

なお、市中引き回し時の鼠小僧は
美しい着物を身に付け、
薄化粧をして口紅まで注していたという。

処刑は小塚原刑場にて行われた。享年36。
石川五右衛門と同じ年齢で死んだのも
何か、通じるものがある。

どんなに法律で処罰を厳しくしても
犯罪のなくなったためしはない。
石川五右衛門の名言通りであろう。




人間の実相を語る歴史人(石川五右衛門の辞世の句)

2011年01月25日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(石川五右衛門の辞世の句)

人間は万物の霊長と
地球上で智恵の
あることを誇っているが、
社会から殺人、
強盗、暴行、傷害は
増えることはあっても
絶えることはない。

それは火の粉が飛ぶを知って
火の元の大事を
知らないからである。
所詮は身や口に
あらわれる火の粉しか
取り締まることの出来ない
悲しき人間の限界なのだ。

『石川や浜の真砂は絶ゆるとも、
 世に盗人の種はつきまじ』

さすが稀代の怪盗の辞世ではある。

今、三十代以上の皆さんなら、
かつてのTV人気バラエティ番組に
出演していたザ・ドリフターズの加藤茶が、
ぼうぼうに伸びた
大きな鬘(百日かづら)を被り、
派手な色柄のドテラを身にまとい、
大人の腕ほどもある
太い煙管(きせる)を持って
見栄を切るシーンがあったことを
覚えているだろう。
あれがよく歌舞伎で演じられていた
石川五右衛門である。

石川五右衛門(1568年~1594年)といえば
安土桃山時代の盗賊の頭目。
確かな経歴は不明だが、
実在したことは間違いない。

出身地も定かではなく、
盗賊であったことと、
1594年に親子党類ともに
京都三条河原で
釜ゆでの極刑に処された、
ということくらいだ。

最近、健康ブームと関係があるのか、
「五右衛門風呂」が人気商品になっている。
名前の由来は、石川五右衛門からきている。

同時代の公家・権中納言山科言経が
残した日記『言経卿記』
文禄三年(1594)
八月二十四日の項に

「盗人、スリ十人、
 又一人は釜にて煎らる。
 同類十九人は磔。
 三条橋間の川原にて成敗なり。」

と記されているのが
五右衛門の最期らしく、
この「同類十九人」には実の子供と
彼の母親も含まれていた。

この時代でも珍しい極刑の執行を
一目見ようと、都の「貴賎」が
川原に群がり集まったと
言経は伝えている。

この時、五右衛門は子供と共に
釜茹でになっているが、

・五右衛門が息絶えるまで、
 我が子を両手で抱え上げていた
 とするものがある一方、

・五右衛門はあまりの熱さに
 自分の子供を
 踏み台にしたともある。

・また、子供が苦しまないように即死させた。

と正反対の風聞も伝わっている。

ではどんな大泥棒だったのか?

石川五右衛門の幼名は五郎吉。
幼い頃から非行を繰り返し、
14歳か15歳の頃に父母を亡くす。

19歳の頃からについては
幾つかの説があり、

「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、
 京を出て盗賊になった」とか

「奉公した男性の妻と駆け落ちした」

などがある。

百地三太夫について
伊賀流忍術を学んだが、
三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して
逃亡したとの伝承が知られている。

その後手下や仲間を集めて、
頭となり悪事を繰り返す。
相手は権力者のみの義賊だったため、
当時は豊臣政権が圧政や朝鮮出兵の失敗で
嫌われていた事もあり、
庶民のヒーロー的存在になっていた。

秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から
秀吉暗殺を依頼されるが
秀吉の寝室に忍び込んだ際、
香炉が鳴って捕えられる。
その後、捕えられた配下の一人に
悪事や部下などをすべて暴かれてしまう。

そして、有名な釜茹で死亡するのである。

石川五右衛門が辞世で

『石川や浜の真砂は絶ゆるとも、
 世に盗人の種はつきまじ』

と歌った。

石川を川の名前として、
歌っているのだが、

たとえ、石川の浜の砂が
全部無くなったとしても
つまり、石川五右衛門の盗人一味を
根絶やしにしても
全ての人間の心に盗人心があるのだから、
人間が存在するところ、必ず、誰かが
盗みを働くだろうということだ。

人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 命の長さ)

2011年01月24日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 命の長さ)

最近老人医学が発達し、
人生の終着駅を
いくらかでも向こうへ
のばす事が研究され、

又事実、ある程度の効果を
あげているようだが、
人間の肉体上における老衰は
不可避の宿命である。
 
不老長寿などということは
単に形容上の言葉にすぎない。

現に老人医学によると
人間二十才になると
早や老衰現象が
はじまるといわれる。

更に三十才になると、
大中動脈、大腸、小腸、
皮膚が一斉に後退をはじめ、
三十五才では胃、筋肉、骨、
四十才では毛髪、
四十五才では肺動脈が衰え、
五十才になると動脈硬化症を
起こして終着駅のシグナルが
あがるという。

四十二章経には、
釈尊が修行者たちに、
命の長さについて
たずねておられる。

修行者の一人は

「命の長さは五、六日間
 でございます」

次の一人は

「命の長さは五、六日
 なんてありません。
 まあー食事をいたす間位の
 ものでございます」

次の一人は

「いやいや命の長さは
 一息つく間しかありません、
 吸うた息がでなかったら
 それでおしまいです」

釈尊は最後の答を大いに称讃なされ

「そうだ、そなたのいう通り、
 命の長さは、吸うた息が
 出るのを待たぬほどの
 長さでしかないのだ。
 命の短さが段々に
 身にしみて感じられるようになるほど、
 人間は人間らしい生活を
 営むようになるのだ」

と申されたと記されている。

考えてみれば人生ほど
危ういものはない。
名誉を求めて走っている。
財産を得ようと争っている。
愛慾に溺れて喜んでいる。
酒に飲まれて騒いでいる。
夢のようなものを信頼して喜んでいる。

あたかも地質学者が山に登って
此の山は火山質か否かの
議論に没頭している間に
山それ自体が轟然と爆発して
如実に火山であることを
知った時はもうおそいのだ。

危険千万ではないか、なぜ足下に起こる
この一大事に気がつかないのか
なぜ忠実に自己の立場を凝視しないのか、
この一大事の自覚が
人生の目的を果たす出発点なのだ。









人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 結婚式で泣いた亀子の理由)

2011年01月23日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 結婚式で泣いた亀子の理由)

日本で目出度い時の
定番は鶴と亀。

「鶴は千年、亀は万年」

と長寿を喜んでいる。
しかし、ただ長寿だけで
幸せになれるのだろうか。

新郎の鶴雄と新婦の亀子という、
目出度い婚礼が行われた。

親戚も

「鶴は千年、亀は万年。
 こんなめでたいことはない」

と大変に喜んだ。

勿論、鶴雄も亀子も
その喜びはひとしおだった。

結婚式もたけなわとなった時、
急に亀子が泣き出した。

「こんなお目出度い席で、
 なぜ涙を流すのだ」

と新婦の両親が尋ねると、

「鶴雄さんと結婚できたことは
 嬉しいのですが、
 鶴雄さんは千年しか、
 生きられないのでしょう。
 私は万年行きます。
 残り9千年、一人ぼっちで
 暮さなければなりません。
 それを思うと悲しくて、淋しくて」

長く生きておれば幸せなのだろうか。
長く生きても一人ぼっち。

孤独地獄で長く生きてゆくのは
なお辛いものに違いない。





人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 ガリバー旅行記 不死の国

2011年01月22日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 ガリバー旅行記 不死の国)

「ガリバー旅行記」の著者で
有名なジョナサン・スウィフトは
生まれてすぐ、伯父に引き取られ,
養育された。

27才に生活のために
イギリス国教会の
聖職者の道を歩み始る。
 
29才で執筆活動を始める。

英語で小説が書かれ始めた
時期に作家となり、
先駆者の一人として知られる
ダニエル・フォーが
『ロビンソン・クルーソー』を
出版して好評を得たことを
きっかけに、54才でスウィフトは
『ガリヴァー旅行記』
を書き始める。

ダニエル・フォーは
パンフレット作成
及び政治的な活動に
より捕らえられ、
1703年7月31日にさらし台に
あげられた。

スウィフトはデフォーを
軽蔑していた。
デフォーの成功に対抗心を
燃やした。

59才,ロンドンの出版社から
匿名で『ガリヴァー旅行記』が
出版された。

ガリヴァー旅行記は、
風刺小説である。

原版の内容が大衆の怒りを
買うことを恐れた出版社により、
大きな改変を加えられた初版が
1726年に出版され、
1735年に完全な版が出版された。

「ガリバ-旅行記」において、
スウイフトは、ガリバーを
小人の国、巨人の国、学者の国、
不死の国、馬の国へと
現実にありもしない国々に漂流させ、
人間を様々な角度から
観察、風刺している。

その中でガリバーは
不死の国を訪れる。
最初は自分が不死人間であったなら、
いかに輝かしい人生を
送れるであろうかと夢想する。

しかし、不死人間は
不死ではあるが不老ではないため
老衰から逃れることはできず、
80歳で法的に死者とされてしまう。

以後どこまでも老いさらばえたまま
世間から厄介者扱いされている
悲惨な境涯を知らされ、
むしろ死とは人間に与えられた
救済なのだと考えるようになる。

「ほどほどに死を覚悟なさい」

という結論であろうが、
樹木のように何百年を
隆々と生き続ける生物もある。、

命の永遠や長寿の楽しさを
描いてもよかろうと
思わないでもないが、
そこはスイフトのこと。

長生き=人生の目的
長寿=幸せ

このように錯覚している
人間の迷妄を風刺しているに
違いない。





人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 不老不死の薬と始皇帝)

2011年01月21日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 不老不死の薬と始皇帝)

かぐや姫の話の結末はまた興味深い。

かぐや姫が帝に置いていった不老不死の薬。
それを日本一の山で燃やした帝。
日本一の山が不死の山(富士山)。

全人類が望んでやまないものの
問いかけに他ならない。

この不老不死と聞くと
歴史上一番有名なのが、
始皇帝の焚書坑儒であろう。


始皇帝(しこうてい)
(紀元前259年- 紀元前210年)
始皇帝はもともと秦の王であり、
紀元前246年 - 紀元前210年の間
在位して初めて中国を統一し、
紀元前221年から
中国史上はじめて皇帝と称した。
50歳で亡くなった。

中国統一の偉業を成し遂げた
始皇帝であったが、
最後の望みは不老不死の
願いだった。

絶大な権力、それを手にした者が
最後、望むもの、
それは不老不死の生命である。

秦の始皇帝も例外ではなかった。
そこに現れたのが

「東方に霊薬あり」

という方士“徐福”である。
始皇帝は徐福に莫大な資金を与え、
その「霊薬」を採りに行かせた。

9年後、徐福は始皇帝の前に再び、現れ、

「大鮫に邪魔されて、
 辿り着けなかった」

という。
さらに

「海神が「礼が薄い」
 といって薬を採るのを許さない」

といって、
良家の童男童女3000人と
さまざまな技術者、
五穀の種などを
始皇帝から貰い受け、
旅立っていった。

海を隔てた東方に
「平原広沢」の地を得て王となり、
二度と秦に戻らなかったと
『史記』に伝えられている。

始皇帝は生まれつきあまり体が丈夫ではなく、
徐福にせよ他の方士にせよ、
最初から不老不死などできるとは
思っていなかった.

かつて人材を見極めることに
驚異的な鋭さを見せた始皇帝も
晩年にはこのような人物に、
よいように騙されていった。

この不老不死の話しには、
もっと悲惨な歴史があった。

始皇帝は法による統治を説いた
法家の李斯の進言により、
紀元前213年に、
周王朝の再興を願い、
秦王朝を批判する
儒者達の書物を焼き払わせた。
ただし医療や農業などの
実用書は許した。
これが「焚書」である。

翌年に不老不死の仙薬作りを
命じていた侯生と盧生が、
仙薬ができないことで
恐れて逃亡した。

怒った始皇帝は学者たちを取り調べて、
460人を穴埋めにした。
これが「坑儒」である。

元より体が強くなかった始皇帝は、
方士が飲ませた薬
でさらに体を悪くしたと思われる。

紀元前210年に5度目の巡遊を行い、
みずから海へ出て
大魚を射殺したが、
その直後に発病。
咸陽へ帰れないまま、
巡遊の途中で死去した。

始皇帝が死んだ翌年には
陳勝・呉広の乱が起き、
秦は滅亡へと転がり落ちていく。

不老不死の薬を求めた、その結末は
多くの学者の惨殺事件と、
国の滅亡への道。

そして、自らの命も風前の灯であった。
哀れなものである。




人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 日本最古の物語)

2011年01月20日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(かぐや姫 日本最古の物語)

竹取物語(たけとりものがたり)は、
日本最古とされる物語である。
竹取物語は通称であり
かぐや姫とも呼ばれた。

成立年、作者ともに不詳。
仮名によって書かれた
最初期の物語の一つでもある。

(原文)
むかしむかし、
竹を取ってくらしている、
おじいさんがいました。

ある日、おじいさんが
竹やぶに行くと、
根元が光っている
不思議な竹を見つけました。

「ほほう、これはめずらしい。
 どれ、切ってみようか」

「えい! うん? これは!」

おじいさんがその竹を切ってみると、
なんと中に、
小さな女の子がいたのです。

子どものいないおじいさんとおばあさんは、
とても喜びました。
そして、その子を

「かぐや姫」

と名付けて、大切に育てたのです。

かぐや姫は大きくなるに従って、
たいそう美しくなりました。
そして年頃になると、

「どうか、かぐや姫をお嫁さんにください」

という、若者が沢山やってきました。
中でも特に熱心な若者が五人いました。
みんな、立派な若者です。

でも、かぐや姫はお嫁に
行くつもりはありません。
そこでかぐや姫は、困ってしまい、

「では、私が言う品物を
 持ってきて下さった方のところへ、
 お嫁に行きましょう」
 
と言って、世にも珍しいと
言われる品物を一人一人に頼みました。

五人の若者はそれぞれに
大冒険をしましたが、
かぐや姫の望んだ品物を
手に入れたものは、
一人もいませんでした。

なんとか五人の若者を
追い返したかぐや姫ですが、
かぐや姫の噂は、
とうとう帝(みかど)の
耳にも入りました。

「ぜひ、かぐや姫を后(きさき)に欲しい」

帝はそう願いました。
おじいさんとおばあさんは、

「素晴らしい婿さんじゃ。
 これ以上の婿さんはない」

と、大喜びです。
かぐや姫は、何とか
断わろうと思いましたが、
帝に逆らえば、
殺されてしまうかもしれません。

それ以来、かぐや姫は毎晩毎晩、
悲しそうに月を
見上げては泣いていました。

おじいさんとおばあさんが
心配してわけを尋ねると、
かぐや姫は泣きながら言いました。

「実は、私は月の世界のものです。
 今まで育てて頂きましたが、
 今度の満月の夜には、
 月へ帰らなくてはなりません」

それを知った帝は、
満月の夜、何千人もの兵士を送って、
かぐや姫の家の周りを守らせました。

何とかして、かぐや姫を
引きとめようとしたのです。
けれど、真夜中になって
月が高くのぼると、
兵士たちは突然、
眠ってしまいました。

かぐや姫はその間に、
月の使いの車にのって、
月に帰ってしまいました。

おじいさんもおばあさんも帝も、
たいそう悲しんだと言うことです。

別れの時、かぐや姫は帝に
不死の薬と天の羽衣、
帝を慕う心を
つづった文を贈りました。

しかし帝は

「かぐや姫のいないこの世で
 不老不死を得ても意味が無い」

と、それを日本で一番高い山で
焼くように命じました。

それからその山は

「不死の山」(後の富士山)

と呼ばれ、
また、その山からは
常に煙が上がるように
なったということです。






人間の実相を語る歴史人(一炊の夢)

2011年01月19日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(一炊の夢)

人生の短さ、はかなさを
教えた話に、中国の
「一炊の夢」という故事がある。

街道沿いの茶店に、
呂翁という老人が休んでいた。

そこへ近くの村の、
盧生という青年がやってくる。
粗末な身なりで、
馬に乗って田んぼへ
行く途中であった。

盧生も茶店に入り、
先客の呂翁と打ち解けると、
大きなため息をついて言った。

「男として生まれながら、
 惨めなことです。
 これからの人生を思うと
 情けない限りです」

「一体、どうしたんだね」

「私は、立身出世を果たし、
 将軍や大臣となり、
 豪華な食事や
 美しい歌声を楽しみたい。
 一族は繁栄し、
 一家ますます富んでこそ
 幸福といえるのではないですか。
 私は出世を望んで
 学問を志しましたが、
 三十歳になっても
 野良仕事にあくせくしている」
 
言い終わったかと思うと、
ウトウトと眠くなってきた。

この時、茶店の主人は、
きびの飯を炊き始めたところ。

呂翁は、一つの枕を取り出して、
盧生に手渡す。

「おまえさん、
 この枕をしてごらん。
 望みをかなえて進ぜよう」
 
盧生は、横になって、
枕に頭をのせた。

数ヵ月後、盧生は、
名門の家から絶世の美人を
嫁にもらう。
生活は派手になっていった。

翌年、官僚の登用試験に合格。
その後は、順調に出世街道を
まっしぐらに進み、
要職を歴任し、
大いに業績を上げていく。

皇帝に見込まれて軍司令官と
なった盧生は、
異国の襲撃を退け、
領土を広げる。

軍功によって官位はうなぎ登り。

途中、地方左遷の
憂き目にも遭うが、
やがて宰相という、
官僚の最高位に就いたのである。

ところが、出世をねたむ
同僚の讒言により
謀反の疑いをかけられ、
流刑に遭う。

数年後、無実が証明されて
宰相に返り咲いた彼は、
皇帝の信任も大変厚く、
政界に長く君臨する。

五人の息子も順調に出世、
まさに栄耀栄華を極めた。

やがて心身も衰え、
惜しまれつつ盧生は一線を退く。
病に伏せた彼の元には、
勅命を受けた名医が来診した。
臨終の時、皇帝は
見舞いの勅使を派遣、
その夕方、盧生は世を去った。
 
「ああ、おれは死んだか……」
 
大きくあくびをし、
盧生は目を覚ました。

名家の娘との結婚から、
国家の元老として死ぬまで、
五十年間の夢を見ていたのだ。

五十年、気の遠くなるような
長い歳月のはず。
それなのに、どうであろうか。

茶店の主人が炊いていたきび飯は、
まだ、できていなかったのである。

「ああ、夢だったのか……」

呂翁は、笑いながら言った。

「人生の楽しみも、そんなもんだよ」

盧生は頭を下げ、

「栄耀栄華、立身出世とは
 どんなことか、
 よく分かりました」

と、礼を述べて、
茶店を出て行ったという。

人生五十年、その間どれだけ栄えようとも、
まさに一炊の夢の間の楽しみ。

若くしてその真実を知った盧生は、
まだ幸福であったかもしれない。

ところが、ほとんどの人は
夢の浮世を夢と知らず、
人生の大事を忘れ、
小事に追い立てられて
酔生夢死してはいないだろうか。



人間の実相を語る歴史人(夢の中で夢を見ていたお婆さん)

2011年01月18日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(夢の中で夢を見ていたお婆さん)

あるお婆さん、朝早く起きてしまった。
今更、寝ることもできない。

そこで日頃行かない寺参りに
行くことにした。
正信偈と念珠を手提げ袋に入れ、
玄関を出てみた。

その日は寒い冬の朝、

「寒い、寒い」

と言いながらも
この欲深婆さん、
何か落ちてはしないかと
下を見ながら歩いていた。

すると道路の真ん中に
水溜りがあり、そこに、
お金が落ちているではないか。

「しめた。早起きは
 三文の得とは
 よく言ったものじゃ」

と、お金を拾おうとした瞬間、
夢から覚めた。
夢を見ておったのだ。

「なんじゃ、夢か」

とガッカリしたが、
そこは欲深婆さん、

「正夢ということも
 あるじゃろう」

と、再び寺へ出かけていった。

夢の中でお金を見つけたことも
あって、しっかりと下を
見ながら歩いていると、
夢と同じところに
水溜りがあるではないか。

「夢ではないだろうな」

とホッペを叩くが痛い。

「今度は夢ではない」

そこでお金を拾おうとしたが、
拾うことができなかった。

水溜りが凍っていて、
その氷を割らなければ、
下のお金を取ることはできない。

しかし、厚い氷はお婆さんの
力では割ることができない。

そこで考えた。

「氷にはお湯だ。
 しかし、周りにお湯がある訳はなく、
 家に帰ってお湯を沸かして
 戻ってきた頃には
 他の人が来て、拾ってしまうだろう。
 かといって、この近くには
 お湯はない」

と、思案していると
名案が浮かんだ。

「そうだ。ここに湯があるではないか。
 ここに」

と自分の下腹を見た。
一晩、温めてある湯が
あった。

お婆さん、周りを見回すが、
朝早く、誰も通る気配はなし。
着物、腰巻をまくし上げ、
水溜りをまたぎ、
オシッコを始めた。

期待通り氷は解け、
汚い水ではあるが、
お金には代えられない。

手を入れて、
お金を拾っていた。

「さあ、100円玉だろうか。
 五百円玉だろうか。
 大きさから見ると、
 十万円金貨かも
 しれないぞ」

と、思いながら、
見てみると、
それはなんと、
ビールの蓋ではないか。

と、知った瞬間、
夢から覚めた。

このお婆さん、
夢の中で夢を見ていたのだ。

あれだけ恥ずかしい
思いをしてまで
拾ったお金は
夢の中の夢であった。
何も残っていない。

ところが現実が一つあった。
夢の中でシャーとやった
あれだけは本当だった。

お婆さん、年甲斐もなく、
布団の中で、世界地図を
書いてしまい、

「どう嫁さんに言い訳
 したらいいのだろう」

と泣きべそをかいた。

これは我々の人生を
現している。

金や財産、地位や名誉を
必死で追い求めているが、
いよいよ死んでいかなければ
ならなくなった時、
何一つ、もっていけないではないか。
振り返ってみれば
夢のまた夢。

その中で唯一つ
夢でないものがある。
それはそれらを築き上げる為に
造ってきた悪業である。

これだけはしっかりと
後生へと持ってゆかねば
ならない。






人間の実相を語る歴史人(貴方が谷風でも私は無常の風じゃ)

2011年01月17日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(貴方が谷風でも私は無常の風じゃ)

徳川時代に有名な力士であった
谷風という関取があったが、
或る日のこと、所用があって
野原へさしかかると、
向こうから小さな小僧が
やって来て

「関取一番とろうか」

と途方もないことを申し出た。
 
「何じゃ、ワシを
日の下開山谷風と知ってのことか」

「知っていればこそ、
 是非一番取り組もうといったのだ」

「己れ生意気な、
 サァどこからなりと
 かかって来い」

と大声で怒鳴りながら取り組んだ。
ところがこの小僧仲々腕力がある。
満身の力を出したが
遂に谷風草むらの中に
投げられてしまった。

驚いたのは谷風である。

「ヤァー小僧暫く待った。
 此の谷風は天下無敵の日の下開山と
 我も他人も許したものじゃが
 お主はワシよりも一倍強い、
 一体全体、お主は何者じゃ、
 名前をきかせてくれないか」

「私は谷風よりも強い訳じゃ、
 貴方が谷風でも
 私は無常の風じゃもの」

といったそうであるが、
一場の笑話の中にも
不滅の真理が光っている。

成る程無常の風にかかっては
如何なる英雄豪傑や
日の下開山の谷風でも
かないっこはない訳である。

無常の虎の無敵さを
現していて妙ではないか。