人間の実相を語る歴史人(鼠小僧次郎吉)
石川五右衛門が辞世で
『石川や浜の真砂は絶ゆるとも、
世に盗人の種はつきまじ』
と歌ったように、
200年の後、江戸の町を
騒がせた大泥棒が登場する。
鼠小僧次郎吉だ。
鼠小僧(1797年~1832年9月13日)は、
化政期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。
本名は次郎吉(じろきち)。
鼠小僧次郎吉として知られる。
本業は鳶職であったといわれ、
義賊の伝承で有名な人物だ。
鼠小僧について
「金に困った貧しい者に、
汚職大名や悪徳商家から
盗んだ金銭を分け与える」
と伝説がある。
実はこの噂は彼が捕縛される
9年も前から流れていた。
事実、彼が捕縛された後、
役人による家宅捜索が行われたが、
盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。
傍目から見ると、
彼の生活が分をわきまえた慎ましやかな
ものであることから、
盗んだ金の行方について噂になり、
このような伝説が生まれたものと考えられる。
しかし現実の鼠小僧の記録を見ると、
このような事実はどこにも記されておらず、
現在の研究家の間では
「盗んだ金のほとんどどは博打と
女と飲酒に浪費した」
という説が定着している。
鼠小僧は武士階級が絶対で
あった江戸時代に於いて、
大名屋敷を専門に徒党を組むことなく
一人で盗みに入ったことから、
江戸時代における反権力の具現者の
ように扱われたり、
そういったものの題材して使われることが多い。
彼が大名屋敷を専門に狙った理由については、
敷地面積が非常に広く、
一旦中に入れば警備が手薄であったことや、
男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥が
はっきりと区別されており、
金がある奥で発見されても
女性ばかりで逃亡しやすい、という、
盗みに入りやすかったという理由が
挙げられている。
また、町人長屋に大金は無く、
商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた
大名屋敷は参勤交代等に代表される
江戸幕府の経済的な締め付けや、
謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれが
あるという理由で、
警備を厳重に出来なかったものと考えられ、
また面子と体面を守るために
被害が発覚しても公にしにくいという
事情もあった。
盗んだ金銭の総額については3000両以上と
鼠小僧は供述したが、
本人が記憶していない部分もあり、
諸書によっても違うので正確な金額は
未だに不明である。
武家屋敷99箇所、120回にわたって忍び込み、
ついに1832年5月5日、
日本橋浜町の松平宮内少輔屋敷で捕縛される。
市中引き回しの上での獄門の判決が下される。
この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に
適用される刑であり、
この判決は武士階級の面子を潰された
恨みの産物という見方もできる。
なお、市中引き回し時の鼠小僧は
美しい着物を身に付け、
薄化粧をして口紅まで注していたという。
処刑は小塚原刑場にて行われた。享年36。
石川五右衛門と同じ年齢で死んだのも
何か、通じるものがある。
どんなに法律で処罰を厳しくしても
犯罪のなくなったためしはない。
石川五右衛門の名言通りであろう。
石川五右衛門が辞世で
『石川や浜の真砂は絶ゆるとも、
世に盗人の種はつきまじ』
と歌ったように、
200年の後、江戸の町を
騒がせた大泥棒が登場する。
鼠小僧次郎吉だ。
鼠小僧(1797年~1832年9月13日)は、
化政期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。
本名は次郎吉(じろきち)。
鼠小僧次郎吉として知られる。
本業は鳶職であったといわれ、
義賊の伝承で有名な人物だ。
鼠小僧について
「金に困った貧しい者に、
汚職大名や悪徳商家から
盗んだ金銭を分け与える」
と伝説がある。
実はこの噂は彼が捕縛される
9年も前から流れていた。
事実、彼が捕縛された後、
役人による家宅捜索が行われたが、
盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。
傍目から見ると、
彼の生活が分をわきまえた慎ましやかな
ものであることから、
盗んだ金の行方について噂になり、
このような伝説が生まれたものと考えられる。
しかし現実の鼠小僧の記録を見ると、
このような事実はどこにも記されておらず、
現在の研究家の間では
「盗んだ金のほとんどどは博打と
女と飲酒に浪費した」
という説が定着している。
鼠小僧は武士階級が絶対で
あった江戸時代に於いて、
大名屋敷を専門に徒党を組むことなく
一人で盗みに入ったことから、
江戸時代における反権力の具現者の
ように扱われたり、
そういったものの題材して使われることが多い。
彼が大名屋敷を専門に狙った理由については、
敷地面積が非常に広く、
一旦中に入れば警備が手薄であったことや、
男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥が
はっきりと区別されており、
金がある奥で発見されても
女性ばかりで逃亡しやすい、という、
盗みに入りやすかったという理由が
挙げられている。
また、町人長屋に大金は無く、
商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた
大名屋敷は参勤交代等に代表される
江戸幕府の経済的な締め付けや、
謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれが
あるという理由で、
警備を厳重に出来なかったものと考えられ、
また面子と体面を守るために
被害が発覚しても公にしにくいという
事情もあった。
盗んだ金銭の総額については3000両以上と
鼠小僧は供述したが、
本人が記憶していない部分もあり、
諸書によっても違うので正確な金額は
未だに不明である。
武家屋敷99箇所、120回にわたって忍び込み、
ついに1832年5月5日、
日本橋浜町の松平宮内少輔屋敷で捕縛される。
市中引き回しの上での獄門の判決が下される。
この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に
適用される刑であり、
この判決は武士階級の面子を潰された
恨みの産物という見方もできる。
なお、市中引き回し時の鼠小僧は
美しい着物を身に付け、
薄化粧をして口紅まで注していたという。
処刑は小塚原刑場にて行われた。享年36。
石川五右衛門と同じ年齢で死んだのも
何か、通じるものがある。
どんなに法律で処罰を厳しくしても
犯罪のなくなったためしはない。
石川五右衛門の名言通りであろう。