歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(ウバリ尊者③ 器に沿った求道)

2011年04月30日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(ウバリ尊者③ 器に沿った求道)

ウバリ尊者は釈尊のお屋敷で
真面目に戒律を護り、
修行をしていた。

しかし、同じ時に仏門に
入った阿難や阿那律が
山奥深くで厳しい修行を
している。

自分だけがお屋敷で
楽な修行をしているが
心苦しくなったウバリは
自分もそんな修行を
させてほしいと釈尊に
願いでた。

ところが釈尊は
許されなかったのである。

その理由を尋ねると
お釈迦様はこのように諭された。

「ウサギが森の中に入ってゆくと
 大きな湖があった。
 その湖で大きな象が
 気持ちよさそうに
 水浴びをしていた。
 ウサギも象のように
 水浴びがしたいと
 その湖に飛び込んだら
 どうなるだろう。
 あまりの深さに
 溺れ死んでしまう。

 丁度、阿難と阿那律は
 象であり、
 ウバリ、そなたは
 ウサギのようなものである。

 その人の力量、器によって、
 すべき修行も違う」

釈尊の適切なご教導によって、
ウバリは釈尊のお屋敷で
今から仏道を励む仏弟子に
自らが戒律を実行し、
後輩に教えていったのある。

彼は十大弟子の中で
持律第一と呼ばれ、
経典結集の際は
経、律の中で律を担当した。




人間の実相を語る歴史人(ウバリ尊者② ウバリ裁定)

2011年04月29日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(ウバリ尊者② ウバリ裁定)

教団内では、
しばしば揉め事が起こり、
言い争いや、ちょっとした
トラブルなどがあった。

そうしたとき、どちらが
どのように悪いのかを判断するのに、
戒律に照らし合わせて協議した。

そうしたとき、真っ先に
呼ばれたのがウバリだった。

彼が、すべての戒律を
覚えていたことと、
その解釈の仕方が
正当であったからである。

特に有名なウパリ裁きは、
ある尼僧に関してのこと。

その女性は、ある長者の家に
嫁いでいたが、
もともと出家したいという
願いを持っていた。

やがて主人を
説得して出家した。
ところが、その尼僧は
妊娠していたのだ。

尼僧教団の戒律では、
妊娠している女性は
出家は許されない。
出家を許したのは提婆だった。

このころの提婆は、
まだ真面目に
修行していたのである。

普通は、女性が出家したいと
願い出たときは、
妊娠の有無を確かめてから、
許すことろを怠った。

提婆は、困り、その尼僧を
追放しようとしたのだ。

これには、他の尼僧たちが反発し、
お釈迦様に訴え出た。

お釈迦様は、ウパリに
問題の決着をつけるよう、
命じられたのである。

ウパリは、問題の尼僧と
提婆を呼び
他の尼僧や多くの弟子たちの前で、
裁定をした。

「この尼僧の妊娠は出家前です。
 しかも、彼女は、
 自分が妊娠していることを
 知りませんでした。
 したがって、尼僧の規律を
 犯してはいません。
 一方、提婆は、
 女性の妊娠の有無を
 確認することを怠りました。
 これには、罪があります」

この裁定にお釈迦様も満足し、
妊娠している尼僧に庵を設け、
他の尼僧たちで面倒を
見ることを命じられたのある。

やがて、その尼僧は男の子を産み、
その子は、ある王家へと引き取られ、
やがて出家し、
お釈迦様の弟子となったのである。

ウパリは、こうした揉め事を
戒律に乗っ取って裁定を下す
という役目を負っていた。

彼の裁定は、誰もが
納得するものだった。






人間の実相を語る歴史人(ウバリ尊者① 仏道を求めるのに身分は関係ない)

2011年04月28日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(ウバリ尊者① 仏道を求めるのに身分は関係ない)

後に十大弟子の一人に
あげられるようになった
ウバリだが、
実は出家しようと
釈尊の元にきたのではない。

彼は低い身分の出身で、
理髪師を生業としていた。

ある日、釈尊の従兄弟である
阿難、阿那律が出家を決意し、
釈尊のもとへいくことにした

王族の彼らは
いつも身の周りのことは
誰かにしてもらっていたので、
従者を探したのである。

そこで二人が選んだのが、
王舎城の中でも真面目な
理髪師ウバリだった。

ウバリは阿難、阿那律に従い、
釈尊の元にいった。

感謝した二人はウバリに
身につけていたものを
与え、帰るように言った。

しかし、ウバリは考えた。

「このまま城に帰っても、
 王様から、どうして
 二人の出家を止めなかったのかと
 叱られるだけだ。
 もう城には戻れない。
 それならば私も釈尊のお弟子に
 なるしかない」

ウバリは阿難、阿那律に頼み、
釈尊に願い出て、
釈迦族の王族とともに
出家が許された。

この時、アナリツより

「世尊よ、願わくば
 理髪師ウバリを
 本日授戒の最初として下さい」

との申し出があったので、
釈尊はウバリを
最初の授戒者とされた。

そして釈尊は

「出家以前においては
 身分の違い、
 地位の高低など種々あるが、
 出家後はすべて
 その差別などはない」

と述べられ、
ウバリを敬うよう諭された。

ウバリはたいへん
律儀な性格の持ち主であった。
戒律に精通し、
よく守ったことから、
阿羅漢果(悟り)を得て、
持律第一の尊者と
称されるようになった。

経典編纂会議第一回結集において、
律についてのリーダーを務め、
六度万行、持戒の理解と実行の
第一人者であった。





人間の実相を語る歴史人(フルナ尊者② 燃えるが如き決死の信念)

2011年04月27日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(フルナ尊者② 燃えるが如き決死の信念)

そのフルナが、邪教がはびこり、
ガラの悪さには定評のある、
某国への布教許可を求めた時、
心配なされた釈尊は、

「フルナよ、もし、
 その国の大衆が、お前を罵り、
 辱しめるようなことが
 あったら、どうするか」

と、尋ねられた。

フルナは、即座に答えた。

「あり得ることと
 覚悟しております。
 しかし、石をもって打つこと
 まではしないと思います」

釈尊、重ねて、

「もし、石をもって
 打つことがあれば、
 どうするか」

「はい、しかし刀杖までは
 用いないと思います」

「もし、刀杖を用いたら
 どうするか」

「たとえ、暴行されても、
 命まで奪うことはないと
 思います」

「もし、殺されたらどうする」

釈尊の弟子を憶う慈愛は、
暖かく徹底していた。
その時、フルナは、
さわやかに答えた。

「死の縁無量でございます。
 病死する者、水死する者、
 焼死する者、事故死する者、
 人間一度は死なねばなりません。
 私の死によって、
 一人でも真実の仏法を知り、
 真実の幸福に救われるならば、
 これにすぎたる本望はございません」

釈尊は、初めて微笑なされて、
彼の願いを許されたという。
燃えるが如き、
かゝる決死の信念がなければ、
真実の仏法は伝え切れないからである。

真実の仏法は、常に、

「世の中のことみなもって、
 そらごと、たわごと、
 まことあることなし」

と、真向から世間を打ち破る。

世間まことと確信している輩は、
この真実を開顕する者を白眼視し、
狂人とし、やがて迫害し、追放する。

親鸞聖人の御一生を見れば、
それは余りにも明らかな、
悲しい事実である。






人間の実相を語る歴史人(フルナ尊者① 説法第一)

2011年04月26日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(フルナ尊者① 説法第一)

釈尊十大弟子の中、
説法第一と謳われたフルナ尊者は、
真実に燃える大雄弁家であった。

観無量寿経は有名な
王舎城の悲劇が説かれてある。

釈迦がご在世の頃、
インドで一番栄えていたマガダ国、
その城主のビンバシャラ王と
后韋提希夫人が
わが子アジャセ太子によって
牢獄に幽閉されてしまい、
この世の地獄を味わっていた。

その苦しみの中から
ビンバシャラ王は
釈尊に救いを求めた。

釈尊はビンバシャラ王の
元へ行かせたのが、
説法第一のフルナ尊者であり、
神通力第一の目蓮尊者であった。

フルナは、お釈迦様の
故郷であるカピラ城に
近い小さな村の
バラモンの子として生まれた。
幼少より頭がよく、
すぐれたバラモンに成長した。

もともと大変弁の立つフルナだから、
頭の回転も速かった。
大変真面目で熱心な弟子で、
お釈迦様が説かれる難しい教えも、
様々なたとえ話でわかりやすく説明をし、
皆に説きまわったのである。

その教えの説き方は、
智慧第一の舎利弗ですら
感心したといわれている。

また、フルナの周りには、
説法上手な仲間が沢山おり、
お釈迦様の教えを
様々なたとえ話によって
わかりやすく説くことを
話し合っていた。

難しいことを難しく説くことは
誰にでもできる。
また、教えられたことを
そのまま伝えることもできる。

フルナは、そうではなく、
難しいことや教えられたことを
自分の言葉に直し、
わかりやすく説いて廻った。




人間の実相を語る歴史人(阿那律尊者③ 誰か善を求めようと思う人は)

2011年04月25日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(阿那律尊者③ 誰か善を求めようと思う人は)

阿那律尊者がある時、
衣のほころびを繕おうとして、
針に糸を通そうとするが
かなわない。

そこで彼は周囲に呼びかけた。

「誰か、善を求めるようと思う人は、
 この針に糸を通してくだされ」

その時、

「ぜひ、私にさせてもらいたい」

と申し出られたのは。
他ならぬ釈尊だった。

阿那律は、その声に驚いて、

「世尊は、すべての善と徳を
 成就なされた方では
 ありませんか」

畏れて言うと、釈尊は、

「仏の覚りを開けばとて、
 小善をおそろかにしてよい
 道理がない。
 世の中で、善を求めること
 私にすぐる者はない」

と答えられたという。





人間の実相を語る歴史人(阿那律尊者② 天眼第一)

2011年04月24日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(阿那律尊者② 天眼第一)

阿那律は目が見えない。
しかし、初めからではない。
失明したと同時に心眼が開け、

「天眼第一」

といわれるようになったのである。

阿那律がなぜ失明したのか。

こともあろうに釈尊の説法中、
阿那律が居眠りを始めた。
説法後、呼ばれて釈尊は
静かに言われる。

「何が目的で、
 仏道を求めているのか」

「はい、生死の一大事の解決の
 ためでございます」

「そなたは両家の出身ながら
 道心堅固、
 どうして、居眠りなどしたのか」

釈尊の慈言に決然と、
阿那律は誓った。

「今後、目がただれようとも
 眠りはいたしません。
 どうか、お許しください」

その日から、彼の熱心な修行は
暁に及んでも、
決して眠ることはなかった。

続いた不眠で、目を患った彼に、

「琴の糸のように
 張るべき時は張り、
 緩むべき時は
 緩めねばならぬ。
 精進も過ぎると後悔する。
 怠けると煩悩がおきる。
 中道を選らぶが良い」

の釈尊のお諭しや、

「もう少し、眠らば治る」

の侍医の強い勧めもあったが、
彼は釈尊との誓いを貫き徹し、
ついに両眼を失明した。

同時にしかし、深遠な心眼が開け、
釈迦十大弟子の一人、
阿那律尊者となっている。
まことに不惜身命である。




人間の実相を語る歴史人(阿那律尊者① 福徳の子)

2011年04月23日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(阿那律尊者① 福徳の子)

阿那律は、お釈迦様の従兄弟に当たる。
だから、王族の中でも大変裕福だった。

彼は幼少のころから

「福徳の子」

と称されていた。
そういう家庭で育った阿那律は
お米がどうやってできるか、
すら知らない。

お米は、ご飯になって
金の器から出てくるのだ、
と信じていたような子供だった。

そんな贅沢が身に染み付いた人が、
なぜ出家したのか。

ある日のこと、お釈迦様が
釈迦族の国カピラ城近くの
ある村に滞在していたときのこと。

大勢の釈迦族の若者が
お釈迦様の教えを聞き、出家した。
その話を聞いた阿那律の兄は、

「我が家からも出家者を
 出さないと恥ずかしい。
 俺かお前のどちらかが
 出家しよう」

と持ちかけた。
阿那律と兄はどちらが家を継ぎ、
どちらが出家するか話し合い、
阿那律が出家することと
なったのである。

阿那律尊者が出家した動機は
釈尊が出家なされたような
後生の一大事を解決
しなければというような
深刻なものではなかった。

それが為に今までは
すべて周りの者にさせていた
阿那律が仏道修行の厳しさに
耐えてゆくことは
至難の業であったに違いない。

しかし、阿那律は従兄弟で
共に出家した阿難と
厳しい修行に取り組み、
釈尊のご教導により、
大きく変わってゆくことになる。





人間の実相を語る歴史人(阿難尊者⑥ 多聞第一)

2011年04月22日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(阿難尊者⑥ 多聞第一)

阿難は多聞(たもん)第一といわれ、
釈尊の説法をもっとも沢山聞いており、
それを一言半句間違わずに覚えていた。

如何に真剣に釈尊のご説法を
聴聞していたか、
こんな話しが残っている。

阿難の背中に命に係る
腫れ物ができた。
あまりに痛がる阿難を、
釈尊はご覧になられ、
医者のギバに

「何とか助けてやってほしい」

と頼まれた。

ギバも何とかしたいとは
思ってみても、
今日のように麻酔が
あるわけでもない。

どうすればよいか
考えあえいでいた時、
激しい痛みも忘れ、
釈尊のご説法を、
真剣に聴聞している阿難を見た。

ギバは

「今しかない」

と、阿難に近づき、手術を始めた。

釈尊も阿難の手術が終わるまで、
説法を続けられた。
当の阿難は手術が
行われているなど気づいていない。
手術が終わると同時に
釈尊は説法を止められたのである。

ご法話が終わると、
先ほどまでの背中の痛みが
全くない。
驚く阿難に、ギバは

「お前があまりにも真剣に
 聴聞していたので、
 手術をさせてもらったよ」

と答えたという。

チョット足が痛いだけで
尻振りダンスをしている
聞法者とは真剣さが格段に違う。
阿難に学ぶべきところは
ここであろう。


人間の実相を語る歴史人(阿難尊者⑤ 女性の仏弟子誕生)

2011年04月21日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(阿難尊者⑤ 女性の仏弟子誕生)

女性の弟子が生まれたのも
阿難のお陰だ。

当時、出家者は男性のみに
限られていた。
お釈迦様は、女性の出家を
認めなかったのである。
それには理由があった。

一つは、修行者は野山や公園、
河原などを修行場所として
寝起きしていたので、
野獣や男性に襲われることもある。
女性には大変危険であった。

一つは、男性修行者の
修行の妨げになった。

女性がいれば、そこに恋愛感情が
生まれないとは言えない。

あるいは、欲望が抑えきれない
修行者も出てしまう。
そういう危険がある為である。

その他、女性には肉体的にも
精神的にも厳しい修行には
ついていけないだろうと
いうことで許されなかった。

他にも多々あるのだが、
阿難ははこれらの理由を承知の上
女性の出家を認めて欲しいと
願い出る。

それは、お釈迦様の元へ
出家を願い出てきた
釈迦族王族の女性たちの姿を
見たからであった。

彼女たちは、歩いて旅など
したことがないにもかかわらず、
遠方を歩いてやってきた。

その姿は、ボロ雑巾のよう。
そうまでして出家を願い出る
彼女たちの心は清らかであろう、
と阿難は感動し、
そして、彼女たちの願いをお釈迦様に
届ける役を買って出た。

阿難の優しさと情熱に、お釈迦様も

「確かにそうだ。
 悟りを得るだけの器があるのに、
 その機会がなければ
 それは不幸であろう。
 わかった、女性の出家を認めよう。
 ただし、条件がある」

と仰って、女性の出家を認められた。

その際、250戒であった戒律が
500戒に増えたのも、
この時であった。