歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

蓮如上人物語(32)(赤尾の道宗 48本の割り木)

2010年10月31日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(32)(赤尾の道宗 48本の割り木)

阿弥陀如来に救われ、
周囲に強い影響を与えた人を
妙好人という。

このような人達は
信心の智恵に生かされた
言動をしている。

蓮如上人を無二の善知識として、
ひたすら敬慕し、
信順したお弟子があった。
後に

「蓮如上人に、道宗あり」

といわれた妙好人・赤尾の道宗である。

越中(富山県)の集落・赤尾に生まれた道宗は、
もと平家の落人の末裔、
角渕刑部左衛門の子で、俗称を弥七といい、
四才にして母に死別し、
十三才のとき父に別れ、
その後叔父の浄徳のもとで
養育された。

ある日小鳥が巣をつくり
雛を育てているのを見て
小鳥でさえ親鳥にまもられているのに、
自分にはなぜ親がいないのであろうかと悲しみ、
子ども心にも親を慕う切ない思いに
明け暮れた。

そこで叔父は大分県の耶馬溪にある五百羅漢の話を
弥七に語った。

「五百羅漢を順々に拝んで歩いていると
 微笑んで下さる羅漢さまが
 親の顔そっくりだ」

と。彼は是非参ろうと
決心して旅立った。

越前の麻生津まで来たとき
日が暮れて、道端に腰をおろし
仮寝していた。
すると夢うつつとなく、
一人の旅の僧があらわれ、

「筑紫へ参って親の似顔の仏に
 逢うても喜びもつかのま、
 また別れの悲しみが深まるだろう。
 それより京都の蓮如上人に
 逢えば別れることのない親に
 逢えるだろう」

と告げられた。
あなたは誰ですかと念の為にたづねると
信州更科の僧、蓮如と近づきだといって
夢がさめた。

弥七は、筑紫参詣を変更して
京の蓮如上人を訪ねた。
三日三夜座をかえず
上人の教えを聴聞した。

その真剣な態度が上人の御目にとまり、
両親なきことを上人が聞かれて、
お傍におかれ、深く仏法に
帰依するようになったのである。

彼の言行を伝える数々の逸話は、
真摯な仏法者の規範たる道宗の人柄を、
如実に物語っている。

道宗の体には、あちこちに生傷が
絶えなかったという。

一人の男が、傷痕の訳を道宗に聞いた。
しかし、彼は何とも答えない。
不審に思った男は、
ある日、道宗の住居を訪ね、
中をぐるりと眺めてみた。

すると、道宗の寝場所とおぼしき部屋に、
何十本もの割り木が山と積んである。
布団を置いてあるのならまだしも、
割り木を積んでいるというのは、何とも奇怪だ。

「一体何に使うのか、あんな物を」

男はその晩、道宗の寝床を、
物陰からこっそりうかがった。
あの割り木を、どうするのだろう。

息を殺して道宗の様子に
目を配っていると、
彼は、四十八の本願文を誦しながら、
床に割り木を並べ始めた。
一本、二本……全部で四十八本。

そして並べ終わると、
道宗はそのゴツゴツした割り木の上に、
横になって寝かかった。

敷き布団の代わりに割り木とは、
実に異様である。
なかなか眠れないのであろうか、
何度も寝返りを打っては、
念仏を称えている。

一部始終を見ていた男は、
あまりのことにあきれて、
翌日、道宗に尋ねた。

「あなたは、阿弥陀如来の本願は
 信ずる一念で救いたもうと、
 いつも話してくれているが、
 それは表向きのことで、
 実は昨日のような、
 えらい修行をせねばならんのですねえ」
 
昨晩の出来事をつぶさに話した男に、道宗は、

「とんでもない。私のようなあさましい人間は、
 布団の上に寝ておっては、
 阿弥陀仏の洪恩を忘れて楽々と寝てしまう。
 割り木で身を痛めて、
 せめて寝覚めの間だけでも、
 四十八願を建立なされた阿弥陀仏の御心を
 しのばせていただかねば、
 と思ってのことなのだよ」

と答えたという。

「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」

「恩徳讃」そのままに、
仏恩の広大深重なることに感泣しつつ道宗は、
感謝の日々を送っていたのである。



蓮如上人物語(31)(白骨の章)

2010年10月30日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(31)(白骨の章)

蓮如上人の御文章の中で、
最も広く知られているのが
「白骨の章」であろう。

お盆や葬儀、法事には、
必ずといっていいほど拝読される。

「白骨の章」は、蓮如上人七十五歳の時に
書かれたものである。

当時、山科本願寺の近くの安祥寺村に
青木民部という下級武士がいた。
十七歳の娘と、身分の高い武家との間に
縁談が調ったので、民部は、
喜んで先祖伝来の武具を売り払い、
嫁入り道具をそろえた。

ところが、いよいよ挙式という日に、
娘が急病で亡くなったのである。

火葬して、白骨を納めて帰った民部は、

「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」

と悲嘆に暮れ、五十一歳で急逝してしまう。
度重なる無常の衝撃に、
民部の妻も、翌日、三十七歳で愁い死した。 

蓮如上人は、かねてより民部の一家を
よく知っておられたので、
大変哀れに感じられ、
御文章に表そうと思われた。

さらに二日後、山科本願寺の聖地を
財施した海老名五郎左衛門の
十七歳になる娘もまた、
急病で亡くなった。

葬儀の後、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、
蓮如上人に、無常について
ご勧化をお願いした。
 
この時、書き与えられた御文が、

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
 凡そはかなきものは、この世の始中終、
 幻の如くなる一期なり」

で始まる白骨の章である。
激しい無常観が漂い、

「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、
 誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
 阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
 念仏申すべきものなり」

と結ばれている。

蓮如上人が、「早く心にかけよ」と
訴えておられる「後生の一大事」とは何か。

「後生」とは一息切れた後、

「一大事」とは、取り返しのつかない大事をいう。
 
死んだらどうなるかハッキリしない心を、
仏法では「無明の闇」、「後生暗い心」という。

この「無明の闇」が、全人類の苦悩の根元であると、
釈尊は喝破された。
しかも、現在の私たちを苦しめるだけでなく、
未来(死後)にも大変な苦しみをもたらす。
釈尊は『大無量寿経』に、こう仰有っている。

「苦より苦に入り、
 冥より冥に入る」

現在の苦しみが未来の苦しみを生み出し、
現在の心の闇から死後の暗黒の世界に入ってゆく。
これを、後生の一大事というのである。

しかも、この後生の一大事の解決は、
阿弥陀仏の本願によらなければ
絶対にできないのだと、
釈尊は教えられている。

仏教は、後生の一大事に始まり、
その解決で終わる。
この一大事を知らなければ、
仏教は金輪際分かるものではない。






蓮如上人物語(30)(蓮如上人と一休 南無阿弥陀仏の教えに帰さなければ)

2010年10月29日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(30)(蓮如上人と一休 南無阿弥陀仏の教えに帰さなければ)

一休は蓮如上人と、
宗派の違いや年の差を超えて
深く親交を結んでいた。
互いの思想に敬意を払い、
教えを学び合い、
一休はこんな歌を残している。

「分け登る
  ふもとの道は多けれど
   同じ高嶺の月をこそ見れ」

(真理の山に向かう道は違うけれど、
 同じ月を我らは見ているのう)

しかし、他力の世界は
自力仏教しか知らなかった一休には
知るよしもなかった。
自力では同じ高嶺の月を見ることは
できないのだ。

一休は幾度となく
蓮如上人の法話を聞き、
次のような考えを持つに至る。

「自分が求めているのは
 禅の道である。
 しかし、最後には
 南無阿弥陀仏の教えに
 帰さなければいけない」

一休は自分のところへ仏法を
聞きにきた者に

「真実の仏法を聞きたければ
 本願寺の蓮如の
 ところへ行け」

と蓮如上人のご法話に
参詣することを勧めた。

一休は87歳にして
なくなるのである。

一休が亡くなる際、
弟子にある遺言を残す。

それは、四十九日の法要を
蓮如上人にしてほしい、というもの。

その遺言どおりに、一休の弟子は
蓮如上人に四十九日の法要を頼むと、
その頼みを断る蓮如上人。

いわく、法は現身に説くもので
死んでからでは意味がない、という。

親鸞聖人のみ教えでは
「平生業成」と説かれている。

阿弥陀仏の救いは平生に定まるもの。
死んでからでは手遅れと
いうことを一休の弟子に
蓮如上人は教えられたのである。






蓮如上人物語(29)(蓮如上人と一休 教学と信心 馬じゃげな)

2010年10月28日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(29)(蓮如上人と一休 教学と信心 馬じゃげな)

浄土真宗の人々の多くは、
一文不知の尼入道にドン座り、
一向に教学を教えようともしないし、
また、勉強しようともしない。

それどころか、教学と信心とは全然別で、
教学すると信心がおろそかになったり、
聞法求信の邪魔になるようにさえ
考えている者がいるが、
とんでもない誤りである。

このような不心得者が多いから、
聞法しても忘れるのを手柄のように吹聴したり、
覚えている者を、間違い者のようにさえ
言う者がいる現状である。

これは、学問や教学の価値を過小評価し、
「一文不知」をことさらに強調して、
惰眠をむさぼってきた結果である。

もちろん、学問のための学問や、
名聞利養のための教学は、
信心決定のためにならないし、
求信の妨げにもなるから、
厳に警戒しなければならない。

だからといって、教学そのものまで
悪いとはいわれない。
それを行ずる者の心がけこそ大切なのである。

学問や教学で魂の解決はできない。

「それ、八万の法蔵を知るというとも
 後世を知らざる人を愚者とす、
 たとい一文不知の尼入道なりというとも
 後世を知るを智者とすと言えり」

「いかに物を知りたりというとも、
 一念の信心の謂を知らざる人は徒事なり」
   (御文章5帖目2通)

で明らかである。

蓮如上人と一休にこんな話が残っている。

金持ちで、午年生れの馬好きが、
京都で一番の画家に素晴しい馬を描かせた。

それに偉い誰かに賛を頼もうと、
禅僧一休に依頼すると、

「馬じゃげな」

と書いてきた。

「こんな立派に描いてある名馬を、
 誰れがブタやタヌキと見るものか」

と、高価な絵を台なしにされた富豪は大憤慨。

そこで今度は

「見事な名馬に見事な賛を」

と、蓮如上人に泣きついた。
快く引き受けられた上人は、
一休の賛の後に、

「そうじゃげな」

とつけ加えられたという。

富豪は飛び上って驚ろいたが、
いくら立派に描かれていても、
描いたものは描いたもの、
本物ではない。

「馬じゃげな、
 そうじゃげな」

と言うわけである。

しかし、だからといって、
八万の法蔵を知ること自体が
悪いのではない。

後世を知らないということこそが、
愚かなことなのである。
故に、後世を知るための学問や教学ならば、
大いに結構といわねばならぬ。

念仏の元祖、法然上人は
智恵第一の法然房と謳われた。
わが親鸞聖人も、八万四千の法門を
幾度も読破せられた大学者であった。
そうでなければ、あの大著『教行信証』が
書けるはずがない。

先達は一人として学問教学を
無用排斥せられた方はない。
真実の教学は、信前の者には、
求信の指針となり、
破邪顕正の宿善となる。

信後は、信味を深め、
報謝の大活動の源泉となる。
言葉をかえれば、学問教学をすればするほど、
ますます真実の尊さが知らされ、
信心に命がかかってくるのである。

また、そのような教学でなければ、
真の教学とはいわれない。
また、仏教の学問は単なる机上の学問で
あってはならず、日常生活を通して、
仏教の真実性を確かめてゆく、
実践教学、いわゆる、
行学でなければならぬ。

いずれにしても、信心決定という
大目的を忘れた教学こそ、
排斥さるべき愚行だけれども、
真実の教学は、親鸞聖人や蓮如上人のご説法を、
親しく聴聞するのと同じことなのであるから、
大いに学び深めなければならぬ。


蓮如上人物語(28)(蓮如上人と一休 無条件の救い)

2010年10月27日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(28)(蓮如上人と一休 無条件の救い)

一休は自分のところに仏法を聞きにきた者に

「真実の仏法を聞きたければ
 蓮如のところへ行け」

と勧めている。

そんな一休にこんな話が残っている。
ある時、一休のところに
檀家の者が尋ねてきた。

「一休お和尚さん、無条件で助かりますか」

「誰がそんな馬鹿なことを言ったかい」

「蓮如さんです」

「そうじゃろうな、そんなこと言う者は。
 じゃがなあ、念仏は尊いものじゃから称えよな」

「へい、念仏はそんなに尊いものですか。
 一体、一日に何べん位称えれば助かりますか」

「そうじゃなあ、お前は三日坊主だからの。
 毎日一万遍といっても続かんじゃろう」

「そりゃ、一日でも無理ですわ」

「そこで毎朝仏壇の前で三べんでどうじゃ」

「たったの三べんで助かるんですか」

「そうじゃ、毎朝三べん続ければよろしい。
 その代わり続けることが大事じゃぞ」

「そうか。こうハッキリ決めて貰うと、
 きまりがついて有難い。
 どうも有難うございました」
と喜こんで男は帰っていった。

それから毎朝、その男は仏壇の前に坐って三べん、
真面目に念仏称え終ると、

「これで今日の分は済んだ」

と、安心して仕事にでかけた。

ところが、ある朝夜明けに隣から火が出た。
火事騒ぎで家の中は大騒ぎ。

とび起きて消火やら焚き出しやら、
後始末やらしていて家に落ち着いたのが
午前の十一時。もう昼になってしまった。

「しまった、三べん忘れてしもうた」

男は驚いて早速、一休の処へ駆けつけた。

「どうじゃ、毎日朝三べん
 欠かさずに続けているかな」

と一休に聞かれて、

「はい、それが昨日までは続けていたのですが
 今朝火事がありまして」

と仔細を述べると一休は、こう言ったという。

「それじゃ、火事で忘れるようなら
 地震でも、病気でも忘れる。
 それならばこうしたらどうじゃ」
 地震のときや病気の時は
 称えられなくてもよいと
 いう条件をつけたら」

「それは有難いことです。
 そうさせて頂きます」

と帰ろうとする男に

「オイオイ、お前の娘さんは
 もう年頃で婚礼を控えているようじゃが、
 婚礼の前後は忙しくて念仏を称えることが
 できるのか。
 婚礼の前後は称えなくてもよいと
 条件をつけなくてよいのか」

「そりゃ、婚礼は忙しくて、
 難しいかもしれません。
 そうして頂ければ有難いです」

一休は田植えの時は、稲刈りの時は
できるかと話をしてゆくうちに
念仏を称える日がなくなって
しまった。

「それじゃ、称えるよりも
 忘れる方が多いではないか。
 そんなお粗末な奴は
 無条件の蓮如の処へ行け」

散乱粗動・放逸無慚の我々に
一つの条件でも付けたなら
とても助かるものではない。

そんな極重の悪人の十方衆生は

「極重の悪人のそなたを
 そのまま救う」

と無条件で救うと誓われた
本師本仏の阿弥陀仏の本願によってしか
助けて頂くことはできないことを
蓮如上人と一休は教えておられるのだ。




蓮如上人物語(27)(蓮如上人と一休 曲がった松じゃな)

2010年10月26日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(27)(蓮如上人と一休 曲がった松じゃな)

ある大路にどこから見ても
グネグネに曲がった松があった。

そこに一休が立て札を立てた。

「この松をまっすぐに見た者には
 金1貫文やる。一休」

この道を通る村人や旅人が
立ち止り、金ほしさに
どこから見たら、真っ直ぐに
松が見れるのか、
下から覗き込んだり、
梯子をもってきて、
上から覗いたりしたが、
どこから見ても真っ直ぐには
見ることができなかった。

そこに蓮如上人がお通りになった。
この立て札を見られるなり、

「一休も面白いことをしておる。
 ワシはもう真っ直ぐに見たから、
 1貫文を貰ってくるか」

と一休の元へ行かれた。

「オイ、わしじゃ、蓮如じゃ」
と一休の寺に行かれ、
蓮如上人が一休を呼ばれると

「蓮如か、何をしにきたのじゃ」

「その松、真っ直ぐに見てきたから、
 1貫文、よこせ」
と言われると、一休、

「ああ、お前にゃやらん」

「なぜ俺にはくれないのか」

「まあいいから、あの立て札の後ろを
 見てこい」

蓮如上人も立て札の後ろまでは
見てはこられなかった。

そこで戻られ、裏を見られると
そこには

「本願寺の蓮如だけは除く」

と書かれてあった。

「智者は智者と知る」と言われるように
一休は自分でさえ、真っ直ぐに
見れるのだから、当然
蓮如上人なら見れるはずと
蓮如上人は除かれていたのある。

しかし、許さなかったのは
そこに集まっていた聴衆である。

「やはり、真っ直ぐに
 見れなかったのでしょう」
と、皆が言うと、蓮如上人、

「いや、一休がどうしうても
 許してくれというので
 許してやったのじゃ」

「じゃ、どうやって見られたのですか」

「ワシはただ、
 曲がった松じゃなと
 真っ直ぐに正しく見ただけじゃ」
と仰言ったのである。

曲がった松を真っ直ぐな松と
見ることほど、曲がった見方はない。

曲がったものは曲がったものと
そのまんま見るということが
真っ直ぐな見方。
これを仏教では正見という。

日頃から、私たちは
曲がった根性をしているのに、
自分以上に素直な者はいない、
立派な者はおらんだろう
と曲がった見方をしている。

そんな見方しかしていないから、
正しく松を見ることはできないのだ。

一休も蓮如上人もその正しい心の
見方を教えられたのである。


蓮如上人物語(26)(蓮如上人と一休 蓋ある水に)

2010年10月25日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(26)(蓮如上人と一休 蓋ある水に)

蓮如上人が布教中に
よく滞在されていた聞光寺がある。

また、その近くには小林寺があり、
そこには一休がよく滞在していた。

聞光寺は、蓮如上人と一休の
交流の場であった。

一休は蓮如上人よりも21歳も年上だが、
お互いに尊敬しあっていた。

しかし、常にトンチで敗れていた一休は
蓮如上人に何としてでも
一矢を報いたい。

そこで一休は蓮如上人の書かれた
御文章を何度も読んで、
蓮如上人の教えの中に
矛盾を見つけ、
今度こそはと弟子に一首の歌を
蓮如上人に届けた。

その歌とはこのような内容だった。

「阿弥陀には
  まことの慈悲はなかりけり
   たのむ衆生をのみぞ助すくる」

「阿弥陀仏は、
 あらゆる衆生を浄土に救う
 といいながら、
 まことの慈悲なんてないじゃないか。
 たのむ衆生は救うが、
 たのまない衆生は助けないではないか、
 これでは不平等であり、
 本当の慈悲がある仏とは
 思えない」
というわけだ。

これに対し、蓮如上人は
「一休のような者でも
 阿弥陀仏の救いは
 分らんとみえる」

と返歌を作られ、一休に
届けた。

そこには、阿弥陀仏の本願の真髄が
見事に表現されていた

「阿弥陀には
  隔つる心はなけれども
   蓋(ふた)ある水に月は宿らじ」

「阿弥陀さまのお慈悲は、
 まるで月の光のように、
 誰の上にも分けへだてなく
 平等に注がれている。
 綺麗な水にも
 糞だめの水にも
 広い海の水にも、
 狭いオチョコの水にも
 静かな水にも
 激流の水にも
 隔てなく月の光を
 注いでくれる。
 ただ、問題は阿弥陀仏の側に
 あるのではなく、
 光を頂く衆生の側にある。
 必ず救う、我にまかせよ
 というお慈悲の光も、
 心に蓋をしていたのでは、
 映るものも映らない、
 宿るものも宿らない」

というわけだ。

阿弥陀仏の本願を疑う心の蓋を
親鸞聖人は疑いの蓋、疑情と
仰言っておられ、
蓮如上人は御文章に
「雑行・雑修・自力の心」と
仰言っておられる。

その心の蓋が阿弥陀仏のお力で
取って頂いた時、
無上の信心を得ることが
できるのである。

親鸞聖人は、このことを
「疑蓋無雑(ぎがいむぞう)」
と仰言っている。
疑いの蓋の雑ら無い心、
それが他力の信心である。

自力の信心しか知らない一休には
他力の信心の凄さはとても
理解することはできなかった。




蓮如上人物語(25)(真宗他派が続々と上人のもとへ)

2010年10月24日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(25)(真宗他派が続々と上人のもとへ)

仏光寺法主・経豪が、
本願寺へ転向したのは三十二歳の時だった。

仏光寺は、畿内はもちろん、
山陰、山陽、北陸、関東、奥州にまで
勢力を誇っていた。

それが、法主とともに、
ほとんどの門徒が蓮如上人の元へ
帰属したのだから、本願寺は、
急激に門徒が増大した。

仏光寺と同様な事態が、
木辺派錦織寺へも波及した。
七代目法主の孫・勝慧が蓮如上人を
敬慕して寺を飛び出した。

錦織寺は近江(滋賀)、
伊勢・伊賀(三重)、大和(奈良)に
地盤を持っていたが、
この時、末寺四十ヵ寺と
多くの門徒が勝慧に従い、
本願寺へ転向した。

勝慧、時に十九歳。若さゆえに、
真実に敏感であったのだろう。
蓮如上人のご法話を聴聞し、
親鸞聖人の正しい教えを知るや、
ただちに行動した。
錦織寺に残っていた門徒も、
次第に本願寺へ転向していった。


当時、北陸には、越前三門徒と
いわれる宗派が大きな勢力を
持っていた。

しかし、その教義たるや、
まったくの異安心で、
善鸞の流れをくむ秘事法門だった。

越前三門徒の誤りを正す活動は、
吉崎御坊の建立時から、
間断なく続けられていた。

『御文章』二帖目十四通にも、

「それ越前の国に弘まるところの
 秘事法門といえることは、
 更に仏法にてはなし。
 あさましき外道の法なり。
 これを信ずる者は、
 永く無間地獄に沈むべき業にて徒事なり」

と厳しく書かれている。

この結果、蓮如上人が吉崎に
滞在されたわずか四年半の間に、
三門徒の半数以上が本願寺へ
転向した。

そして、文明十四年(上人六十八歳)、
ついに、秘事法門の首領が、
蓮如上人の教えを聞くようになった。
彼の名は善鎮。本願寺へ転向した
元幹部に導かれ、山科を訪れた。

初めて見る山科本願寺の威容は、善鎮を圧倒しました。

しかも、蓮如上人は、実に気安く、
親しみをもって接してくださった。

これも、善鎮には意外だった。
およそ、一宗一派の教祖や法主と
いわれる者たちは、生き仏のごとく
信者に拝ませ、一段高い所に
ふんぞりかえっているのが常だからだ。

蓮如上人は、一般の参詣者と
同じ平座に下りられ、身分の隔てなく、
法話をされた。

善鎮は、自らの非を悔い改め、
上人の門弟になった。
善鎮、この時、十八歳。
彼の一族、所縁の者も、
次々と本願寺へ転向していった。
ここに、北陸の異端も平定をみたのだった。

真宗統一の旋風は凄じいばかり。
トップクラスが蓮如上人に
帰依しなかったのは、
高田派専修寺(三重)ぐらいだった。

しかし、高田派も大きく揺らぎ、
三河(愛知)をはじめ、
各地の有力末寺が、次々に、
門徒ぐるみ、本願寺へ転向していった。





蓮如上人物語(24)(仏光寺派・経豪の転向)

2010年10月23日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(24)(仏光寺派・経豪の転向)

蓮如上人、ご幼少の頃の本願寺は、
京都東山に小庵を構えるにすぎなかった。

それに反し、仏光寺派、木辺派、
高田派などの真宗他派は、
数の上では、ずっと優勢だった。
中でも、最大勢力を
誇っていたのが仏光寺だった。

しかし、山科建立を境に、
真宗の流れは、大きく転換していった。

山科本願寺へは、全国各地から参詣者が集まった。

「その数幾千万ともしれず」

と、『御文章』に記されています。
山科の繁栄は、真宗他派の本山に、
衝撃を与えずにおかなかった。
なぜなら、門徒が次々に、
蓮如上人を慕って離脱していったからだ。

親鸞聖人の本当のみ教えを
知らされた人々が、
熱烈な伝道を展開した結果だろう。

仏光寺にしてみれば、門徒を奪い取ってゆく
本願寺が憎いに決まっている。
しかし、十四代法主・経豪は、自ら、
蓮如上人のご法話を聴聞するようになっていた。

最初は、

「なぜ、門徒が仏光寺から離れるのか」

と確かめるつもりであった。
しかし、聞法を重ねるにつれ、
蓮如上人の偉大さに心服していった。

「私だけでなく、門徒一人一人に
 後生の一大事がある。
 自分は今、法主として何をなすべきか」

経豪の心の中には、一大決心が
固まっていた。転向だ。
自分だけではなく、
一人でも多くの仏光寺門徒を連れて……。

当時、仏光寺には、
四十八人の幹部がいた。
それぞれが、多くの末寺、門徒を
統括しているブロック長である。
経豪は、彼らを集めて諄々と説いた。

「私は、法主の座を捨て、
 一聞法者として蓮如上人に教えを請う。
 後生の一大事の前に、
 見えや外聞など問題ではない」

この時、実に、四十八人中、
四十二人の幹部が経豪に
従ったという。
仏光寺門徒のほとんどが
蓮如上人の元へ帰属した。

真宗統一へのうねりは、ますます高まってゆく。





蓮如上人物語(23)(山科寺内町の生活)

2010年10月22日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(23)(山科寺内町の生活)

源右衛門・源兵衛父子の尊行により、
山科本願寺で盛大に報恩講が営まれた。
その後、諸堂、大門、堀などの
工事が着々と進められた。

かくて、五年の歳月をかけ、
威容堂々たる山科本願寺が落成した。
1483年(文明十五年)8月、
蓮如上人、69歳の御時であった。

「寺中は広大無辺、
 荘厳ただ仏国のごとし」

と、当時の人々を驚かせた。

1480年(文明十二年)、
各地の門徒の熱い懇志で、
山科に御影堂が落成する。

「誠によろこびは身上にあまれりて、
 祝着千万なり。(中略)
 その夜の暁き方までは、
 ついに目もあわざりき」
  (帖外御文)

蓮如上人はお喜びから、
一睡もできなかったと記されている。

阿弥陀堂と合わせ、
これら主要施設(御本寺)を核に、
内寺内という僧侶たちの住坊、
さらにその周辺に外寺内と称する
町衆の居住区ができ、
諸国の参詣者や、職人たちが住まいした。
 
本寺・内寺内・外寺内の三郭は、
それぞれ高さ七メートルほどの
土居(土を盛り上げた堤)と堀で区画され、
環壕城塞都市と呼ばれる
大きな寺内町を形成する。

面積は約二十四万坪で、
大谷本願寺(最初の本願寺)の
三百坪と比べ、八百倍の広さがあった。

戦乱の世に、安全確保は急務であり、
城郭並みの防衛機能が欠かせなかった。

大名が驚くほどの堅牢な城塞だったのは、
幾たびも戦火をくぐり抜けられた経験と、
如来聖人からお預かりしたご門徒を、
何としても守る、上人の強いご信念からであろう。

中は平和が保たれ、都と比べ、
勝るとも劣らぬ繁栄だったと伝えられる。

ある貴族は、

「もっとも寺中広大無辺、
 荘厳ただ仏国のごとし、
 在家また洛中と異ならず、
 居住の者おのおの富貴にして、
 家々のたしなみずい分美麗なり」
   (二水記)

と評している。

富み栄えているだけなら、
珍しくはないが、山科寺内町は、
規律に基づいた信仰の生活が営まれていた。

『本願寺作法之次第』を見ると、
山科寺内町には時の太鼓が二カ所に置かれ、
朝七時、昼、日没八時の一日三回、
鳴らされた。

その音で、寺内町の朝は明け、
昼そして日没が告げられ、
生活時間が定められた。
風呂などの施設も置かれ、
毎月定期的に沸かしていたという。

音楽や生臭物を停止すべき日など、
細かい規定もあり、
門徒で係りを分担して規則を遵守し、
仏法者らしい日々を過ごしていたのである。

山科を訪れたキリスト教の宣教師ですら、

「夜に入りて坊主彼らにむかいて
 説教をなせば庶民多く涙を流す、
 朝にいたり鐘をならして合図をなし、
 皆堂にはいる」

と、当時の親鸞学徒の、
秩序ある生活に感動している。

蓮如上人は遠くから参詣した同行たちを、
殊のほか大切にされ、
食事面でもいろいろと気を配られた。

蓮如上人の五男実如上人は、

「蓮如上人の御時、
 申し付けた雑煮をふと取り寄せて、
 まずご自分で味を見たところ、
 ひどく塩辛く、味も悪くこしらえてあった。
 蓮如上人はだれがこの雑煮を
 作ったのかと問い、料理人を注意し、
 遠国からはるばる上洛してきた
 親鸞聖人のご門徒に、
 このようにまずい料理を出すとは
 けしからぬことだと叱られた」

と語っている。

蓮如上人が建立なされた
山科本願寺は24万坪。
法主就任なされた当時の大谷本願寺と比べ、
800倍の広さであった。

この広大な敷地の一角にある南殿には、大きな池、
それを挟むように造られた築山、
さらに持仏堂、山水亭などの建物が置かれ、
仏国の如しと讃えられる、
美麗な浄土庭園があった。

蓮如上人はまた、
能や狂言を行事に取り入れられた。
長い法話に退屈する人があれば、
「誓願寺」という能の謡曲を、
声のよい弟子に歌わせたり、
「鶯」という狂言を演じ、
仏法を求めるには、
我を忘れ一生懸命になる大切さを、
狂言の内容で示された。

当時の民衆に、
庭園や能の鑑賞など、
普通はありえないことだろう。

喜ばせ、元気づけ、
より真実に向かわせたいとの
ご配慮にほかなるまい。

すべては無上の信心を
発起させんがための、
如来の善巧方便なのである。