歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

死の名場面(29)-5(プレスリー 映画に進出)

2010年05月31日 | 死の名場面
死の名場面(29)-5(プレスリー 映画に進出)

プレスリーは、軍隊に入隊することで、
保守層もとりこんで国民的なスターになれた。
これは、パーカー大佐というやり手マネージャーの仕掛けだ。

大佐を自称するトム・パーカーは、
芸能マネージャーをやっていた。
そのパーカーがメンフィスの人気者の若者に目を付けた。

その若者がプレスリーだ。
大佐トム・パーカーは、最初は10%をとる契約をしたが、
やがて、なんと50%もの手数料をとっていた。
つまり1000万円のギャラで契約すると、
マネージャーのトム・パーカーは、
500万円をぬいてからプレスリーに支払うわけだ。

しかし、トム・パーカーの手腕なくして
プレスリーの世界的な成功はない。
サン・レコードにいたままなら、
メンフィスの田舎の人気者で終わったろう。
エルビスが50%ものマネージメント料を
支払う価値はじゅうぶんにある。

メジャー・レーベルRCAビクターとの契約をとり、
ハリウッド映画の契約をとった。
みんなトム・パーカーの力だ。
軍に入隊したことを最大限の利用する戦略も、
パーカー大佐の知恵だ。

歌手として有名になっていくにつれて
映画配給会社数社から
出演の依頼が彼のもとに届いた。

エルヴィスは大変喜んで、劇場に通いつめ、
演技を独学で勉強した。

エルヴィスはシリアスな演技派を目指していた為、
映画内での歌には興味がないと公言していたが、
結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になり
タイトルも Love Me Tender に変更されて公開された。

エルヴィスは当時のガールフレンドに
「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。
 せっかくのいいストーリーが
 台無しになっちゃったよ」
と不満を漏らしている。

陸軍入隊前までの1958年までに
4作の映画が製作されたが
いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、
おまけに映画挿入歌を収めた
アルバムが好評だったため、
当時のショウビジネスの世界に
新たなビジネスの形態を作り出した。

結局、1956年から1969年まで
計31本の映画が公開された中で、
エルヴィスが望んだ歌なしの映画は
1969年公開の Charro!(殺し屋の烙印)のみであった。

エルヴィスは脚本を叩きつけ、
「ふざけるな! ボートにバイクに車の選手、 
 全部同じストーリーだ」
と激怒し、撮影現場に行かなかったこともあった。

エルヴィスの仕事への不満は募っていき、
それが歌手としてコンサート活動を
再開するきっかけになった。




死の名場面(29)-4(プレスリー メンフィス・マフィア)

2010年05月30日 | 死の名場面
死の名場面(29)-4(プレスリー メンフィス・マフィア)

エルヴィスはツアーなどに行くとき、
バンドのメンバーとは他に友人たちを連れていった。
彼のさみしがり屋な性格からきたものだ。

最初に彼とツアーを共にしたのは、
高校時代からの友人であるレッド・ウエストだった。
レッドは、高校時代エルヴィスを
いじめっ子たちから救った恩で、
取り巻きとして迎え入れられた。

レッドではじまった“取り巻き”は
その後、従兄弟のジーン・スミスやビリー・スミスと
どんどん増えて行き、
その数は10人を越えるまで膨れ上がり、
いつしか彼らは記者たちから
“メンフィス・マフィア”と
呼ばれるようになっていた。

エルヴィスが陸軍時代に知り合った
チャーリー・ホッジやジョー・エスポジートの他は、
メンバーのほとんどがエルヴィスと
同じ南部の出身者だった。

各自がそれぞれの役割を分担し、
エルヴィスの服の係、クルマの係、
オートバイの係、髪の毛の係、移動の係、
ボディ・ガードなどなど、
ありとあらゆる雑役をこなし、
四六時中エルヴィスと行動を共にする男たちだった。

取り巻きを身の回りに置くスターは
たくさんいたが、
一緒に邸宅に“住み込む”スタイルを
取っていたのはエルヴィスだけだった。

メンフィス・マフィアのひとり、レッド・ウエストは、
その後エルヴィスは勿論、
リッキー・ネルソンやパット・ブーンにも
曲を提供するソング・ライターとなった。
が、しかしエルヴィスが亡くなる寸前の
1977年夏にエルヴィスの私生活を
暴露した本を同じ取り巻きのメンバーだった
彼の従兄弟らと出版し、
結果的にエルヴィスを裏切る行動に出て
ファンたちから顰蹙を買った。
彼は多くのエルヴィス映画に出演し、
エルヴィスの死後もハリウッドで
俳優としても活躍した。

エルヴィスの身の回りの世話をするということで、
エルヴィスが結婚したとき、
彼の妻とこの取り巻きとの間では
小さないざこざが絶えなかったという。
彼の妻が妻として出る幕がなかった、
というのがその原因だった。



死の名場面(29)-3(プレスリー 結婚と離婚)

2010年05月29日 | 死の名場面
死の名場面(29)-3(プレスリー 結婚と離婚)

1958年に、エルヴィスはアメリカ陸軍への
徴兵通知を受けた。
当時のアメリカ合衆国は徴兵制を施行しており、
陸軍の徴兵期間は2年間である。
彼は特例措置を受けることなく、
通常の兵士として西ドイツで勤務し、
1960年に満期除隊した。

1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルで
プリシラ・アン・ボーリューと結婚。
プレスリーは32歳であった。

プリシラはエルヴィスのドイツでの
所属部隊長の継子であった。
8年後に結婚し、
1968年には娘リサが生まれる。

その4年後、結婚前から続いている
エルヴィスの生活習慣
昼と夜が逆転した生活、
メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)と
いつも一緒の生活、
さらに年間何ヶ月にも及ぶコンサートツアーによる
別居生活などのさまざまな理由から、
彼女は空手教師のもとに走り、
二人の結婚生活は破綻してしまう。
プリシラはリサマリーを引き取り、
ロサンジェルスに住居を移す。
1973年10月9日に正式離婚。

離婚後もエルヴィスとプリシラは友人関係にあり、
以前よりも密に連絡を取り合うようになった。

エルヴィスがツアーでロサンジェルスにいるときは、
彼女の家を訪れたり、なにか事あるごとにプリシラを
グレイスランドに呼び寄せたりして
精神的にプリシラを頼りにしていた。

二人は、リサ・マリーがまだ幼かったこともあって、
二人が離婚したことでリサが
不幸にならないようにと願っていた。
リサとエルヴィスは頻繁に会っていたようだ。

彼が死んだその日もリサはグレイスランドにいた。


死の名場面(29)-2(プレスリー 音楽界の記録を塗り替える)

2010年05月28日 | 死の名場面
死の名場面(29)-2(プレスリー 音楽界の記録を塗り替える)

エルヴィスはミシシッピ州テュペロの小さな家で、
1935年1月8日に生まれた。
エルヴィスは11歳からギターを始め、
ロウダーデール・コートの地下洗濯部屋で練習をした。
彼はそこに住むミュージシャン達と演奏を行った。

1950年代のアメリカでは音楽も
人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っており、
当時のロックンロールのヒットソングも
黒人の曲を白人がカバーし、
そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、
チャートに掲載され、
またラジオなどで流れる傾向にあった。
例え同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、
黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、
白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタン
に分類されることが常識だった。
エルヴィスは、このような状況にあって
黒人のように歌うことができる
白人歌手として発掘された。

エルヴィスは1955年11月21日に
RCAレコードと契約した。
1956年1月28日に
「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」
にてTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。
そこで彼は白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、
これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。
しかし、その激しい非難にもかかわらず、
それを見た若者たちは、エルヴィスのファンになっていった。


1957年1956年1月27日に第6弾シングル
“Heartbreak Hotel / I Was the One”
がリリースされた。
これは1956年4月にチャートの1位に達した。
Heartbreak Hotel はその後数多く登場した
ミュージシャンに多大な影響を与えた。

エルヴィスが1977年に死去するまでの21年間に、
146曲が100位以内に、
112曲が40位以内に、
72曲が20位以内に、
38曲が10位以内に
チャートインした。

アメリカにおいて1位を獲得した
シングルの数は18作〈計80週間〉で、
ビートルズの20作〈計59週間〉に
次ぐ2位の記録となっている。




死の名場面(26)-2(ブルース・リー 白人社会という厚い壁)

2010年05月27日 | 死の名場面
死の名場面(26)-2(ブルース・リー 白人社会という厚い壁)
 
「自分たちを支配してきた
 白人社会で一旗揚げてやる」 

アメリカに渡ったブルースは、
レストランの皿洗いをしながら、
高校の卒業資格を取るために学校へ進学。
英語力を磨く一方、
成功への唯一の資本とも言える
肉体の鍛練に励んだ。
 
「カンフーなら誰にも負けない。
 ゆくゆくはアメリカ中に
 カンフーのチェーン店を。」
 
自分のカンフーをアメリカ人に
注目させるには
“学歴や強烈な主張が必要”
と渡米4年後の1962年、
名門ワシントン大学の哲学科へ入学。

そこで出会ったのが、
日本の剣豪・宮本武蔵の『五輪書』であった。
「強さ」を追い求めた彼が、
それ以降、微妙な変化を遂げていくことになる。

そして、1963年、
自分のカンフーをジークンドーと
名づけ小さなカンフー道場を開いたブルース。
しかし、彼は「強さ」ではなく、
違う何かを見つけた。
 
「ジークンドーはスタイルではない。
 私にできるのは、自己探求の手助け、
 それだけだ」
 
さらに、ブルースに思いがけない幸運が
舞い込んできた。

白人社会でも東洋武道の関心が高まり
カリフォルニアで初めて国際空手選手権が開催。
模範演技をしたブルースの姿が
ハリウッド映画のプロデューサーの
目に止まったのだ。
 
こうしてブルースはテレビの
アクションドラマ「グリーン・ホーネット」に出演。
一躍脚光を浴びることになる…。
 
だが、そこに思いもよらぬ敵が潜んでいた。
白人社会という厚い壁だった。

テレビ界でも中国人の活躍を快く思わない空気が
広がりドラマは1年で打ち切りに。 
 
「君は白人の支配している世界に
 いる中国人なのだ」




死の名場面(29)(プレスリー キング・オブ・ロックンロール)

2010年05月26日 | 死の名場面
死の名場面(29)(プレスリー キング・オブ・ロックンロール)

エルヴィス・プレスリー は、
キング・オブ・ロックンロール
またはキングと称され、
ギネス・ワールド・レコーズでは
「最も成功したソロ・アーティスト」
として認定されている。

彼は黒人のリズム・アンド・ブルースと
白人のカントリー&ウェスタンを
融合することによって、
今までにない新しい音〈ロック〉を誕生させ、
広めた人物として知られる。

初期はアメリカ、そして世界中の若者に
ロックンロールによって人気を博し、
後期になるとラスベガスの舞台で
カントリーやゴスペル、バラードなどを歌い、
万人に愛される人物となった。

エルヴィスは最初、
「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」と
いう名前で歌手活動を始め、
その後すぐに歌いながらヒップを
揺らすその歌唱スタイルから
「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」
の愛称で呼ばれるが、
アメリカのバラエティー番組
『エド・サリヴァン・ショー』の
3度目の出演の際には、
保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が
意図的にエルヴィスの上半身だけを
放送したというエピソードが伝えられている。

その際にサリヴァンが
「このエルヴィス・プレスリーは
 すばらしい青年です」

と紹介したことから
サリヴァンにも罵声が飛んだ。

しかしこのおかげでエルヴィスへの
批判は少なくなった。

また、フロリダの演奏では下半身を
動かすなとPTAやYMCAに言われ、
小指を動かして歌った。

この時には警官がショーを撮影し、
下半身を動かすと
逮捕されることになっていた。

KWKラジオではエルヴィスのレコードを叩き割り、
「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。

ロックンロールが青少年の
非行の原因だと中傷され、
PTAはテレビ放送の禁止を要求など、
様々な中傷の標的になった。

エルヴィスの記録は多数あり、
例えば、最も成功した音楽アーティスト、
最多ヒットシングル記録(151回)、
1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、
等がギネスによって認定されている。


死の名場面(28)-7(ガロア 死後の栄光)

2010年05月25日 | 死の名場面
死の名場面(28)-7(ガロア 死後の栄光)

オーギュスト・シュヴァリエ宛の
ガロアの書簡ガロアの死後、
シュヴァリエは遺書に従って
1832年に「百科評論雑誌」に
「死者小伝」と題したガロアの論文等を掲載し、
彼の弟アルフレッドと共に
カール・フリードリヒ・ガウスや
カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビなどへ
論文の写しを送ったようだが、
当初は誰も理解できるものは
いなかったようである。

しかし、何らかのきっかけで
その写しがジョセフ・リューヴィユの手元に渡った。

リューヴィユはこの論文を理解しようと努め、
ついに1846年に自身が編集する
「純粋・応用数学雑誌」に掲載された。

その際、ガロアが生前認められなかった理由を、
簡潔にまとめようという意識が過剰であり、
明快さに欠けたためと分析している。

そして1870年にカミーユ・ジョルダンが
著した「置換論」によって、
ガロアの理論は確立された。

1848年には「マガザン・ピトレスク」に、
ガロアに関する匿名の短い伝記が、
弟アルフレッドが記憶をたどって
描いた肖像画と共に掲載されている。

1872年には、ガロアの母が
84歳で亡くなっている。

1897年には、エミール・ピカールの
序文付きでリューヴィユの編集した
「ガロア全集」が刊行されている。

死の名場面(28)-6(ガロア 決闘で死す)

2010年05月25日 | 死の名場面
死の名場面(28)-6(ガロア 決闘で死す)

療養所へ仮出所した後、
失恋を経験した

彼女の名はステファニー・デュモテルといい、
ガロアが最後に暮らした
フォートリエ療養所の医師で所長だった
ジャン・デュモテルの娘であった。

彼らは親子共に親切な人物で、
ガロアはステファニーの親切を
受けて恋愛感情を抱くようになって
求婚したらしく、
それに対する5月14日付での
ステファニーによる断りの手紙の文面が、
ガロア自身の筆跡で
シュヴァリエへの書簡の裏に転記されていた。

その内容は文面を見る限り
礼儀正しいものであり、
少なくとも残された文章を見た印象では
彼女が「つまらない色女」と
表現されるような人物などではなく、
そもそもガロアの遺書が真実を
記したものとは言い切れないことが
明らかになった。

5月25日には今後の予定を記しつつ、
絶望に打ちひしがれた心境を綴った手紙を
シュヴァリエに送っている。

そして29日夜から30日未明にかけて、
「つまらない色女」に引っかかって
2人の愛国者に決闘を申し込まれたために、
別れを告げる旨の共和主義者への2通の手紙、

・ポアソンから返却された論文の添削
・シュヴァリエへの数学的な発想
・ガロア理論の「原始的方程式」への応用
・楕円関数に関するモジュラー方程式の考察、
・リーマン面理論の超越関数理論への応用
を断片的に書いた手紙を、
「時間がない」と走り書きしつつ
大急ぎでしたためている。

そして30日早朝、
パリ近郊ジャンティーユ地区グラシエールの
沼の付近で決闘は行われた。

その結果ガロアは負傷し、その場で放置され、
午前9時になって近くの農夫によって
コシャン病院に運ばれた。

ガロアが牧師の立会いを拒否した後
しばらくして弟アルフレッドが
病院に駆けつけた。
弟の涙ぐむ姿をみて、ガロアはこう言ったという。

「泣かないでくれ。
 二十歳で死ぬのには、
 相当の勇気が要るのだから」

それが最後の言葉となり、
夕方には腹膜炎を起こし、
31日午前10時に息を引き取った。
彼の葬儀は6月2日にモンパルナスの
共同墓地で行われ、
2000~3000人の共和主義者が集まり、
「民衆の友の会」の2人の会員が
弔辞を読み上げた。

現在その墓地は跡形も残っていない。


死の名場面(28)-5(ガロア 政治活動の激化)

2010年05月24日 | 死の名場面
死の名場面(28)-5(ガロア 政治活動の激化)

ガロアが執筆した論文が
不運によって2度も紛失したことに
同情した学士院のシメオン・ドニ・ポアソンが、
ガロアにもう一度学士院に論文を
提出するよう呼びかけ、
その誘いに応じて1831年1月17日に
再度11ページの論文
「方程式の冪根による可解条件について」を提出した。
この論文が後に「ガロア理論」として名を残す。

その頃のガロアは相当荒んでいた。

ガロアは数学の会合で悪態をつき、
さらに家庭でも態度は直らず
母は家を出ざるを得ない状況となり、
まるで狂ってしまった。

また、ガロアは家族の前で
「もし民衆を蜂起させるために
 誰かの死体が必要なら、
 僕がなってもいい」
と口にしていた。

レストランで開催された祝宴会において
ガロアはナイフの切先をグラスに突き出す形で
「ルイ・フィリップに乾杯」と叫んだ。
これが王の命を脅かすものとして、
ガロアは逮捕された。

6月15日に開かれた裁判では、
ガロアは自分が不利になる供述も
平然と行ったが、
弁護士の努力により無罪となった。

しかし、その後の革命にも参加したガロアは
禁固6ヶ月の刑を宣告された。

サント・ペラジー刑務所において、
かつてポアソンに送った論文が
「説明不十分で理解できないから、
 もっとわかりやすく書き直して欲しい」
というポアソンの返事と共に
ガロアに返却された。

加えて、刑務所内でガロアは
他の囚人からいじめられ、
飲酒を強要されることもあった。
ガロアはひどく不健康で
老け込んでいった。

ガロアは刑期を1ヶ月残して
1832年3月16日、監獄から数百メートル離れた
フォートリエ療養所へ仮出所した。

死の名場面(28)-4(ガロア 政治活動に参加)

2010年05月23日 | 死の名場面
死の名場面(28)-4(ガロア 政治活動に参加)

1829年10月25日、ガロアはもう1つの
有名な大学・教師予備校に受験し、
入学が認められた。

さらに12月には文科及び理科の
バカロレアにも合格した。
なお、理科の試験において、
数学では10点満点中8点を与えられ、
「才能に恵まれており、
 非常に注目すべき研究精神を持っている」
と賞賛されたが、物理では
「彼は全く何も知らず、
 とてもよい教師になれそうもない」
と酷評されている。

1830年2月20日には10年間公教育
のために働く宣誓書を提出している。

宣誓書提出の少し前に、
ガロアは以前コーシーが紛失した論文を
書き直した上で、改めてフランス学士院に提出した。

だが、その審査員で論文を預かっていた
ジョゼフ・フーリエが急死したため、
またしても論文は紛失してしまった。
こうして立て続けに起きた不運や挫折は、
ガロアの政治活動をますます活発にさせた。

教師予備校において、
ガロアはオーギュスト・シュヴァリエという
共和主義者と出会っている。

より過激なジャコバン派の人間とも
交友関係を持った。
シュヴァリエの影響で共和主義に
傾倒していったガロアは、
フランス7月革命が起きた時に
自分も参加しようと試みた。

しかし、日和見的な校長は
それを許さず生徒を校舎に閉じ込め、
革命収束後に発足した旧態依然の
臨時政府に従う旨を決定した。

武器を手にして革命に参加し、
戦火に身を投じた理工科学校との
あまりの対応の違いに、
ガロアは反発を強めていった。

8月6日、教師予備校は「師範学校」と改められ、
修業期間が2年から3年に延びたため、
早い卒業を望んでいたガロアを一層苛立たせた。

ガロアは急進共和派の秘密結社
「民衆の友の会」に加わり、
さらに度々校長の言動に反発したため、
目を付けられるようになった。

1831年1月3日に正式な放校処分が決定した。