死の名場面(29)-5(プレスリー 映画に進出)
プレスリーは、軍隊に入隊することで、
保守層もとりこんで国民的なスターになれた。
これは、パーカー大佐というやり手マネージャーの仕掛けだ。
大佐を自称するトム・パーカーは、
芸能マネージャーをやっていた。
そのパーカーがメンフィスの人気者の若者に目を付けた。
その若者がプレスリーだ。
大佐トム・パーカーは、最初は10%をとる契約をしたが、
やがて、なんと50%もの手数料をとっていた。
つまり1000万円のギャラで契約すると、
マネージャーのトム・パーカーは、
500万円をぬいてからプレスリーに支払うわけだ。
しかし、トム・パーカーの手腕なくして
プレスリーの世界的な成功はない。
サン・レコードにいたままなら、
メンフィスの田舎の人気者で終わったろう。
エルビスが50%ものマネージメント料を
支払う価値はじゅうぶんにある。
メジャー・レーベルRCAビクターとの契約をとり、
ハリウッド映画の契約をとった。
みんなトム・パーカーの力だ。
軍に入隊したことを最大限の利用する戦略も、
パーカー大佐の知恵だ。
歌手として有名になっていくにつれて
映画配給会社数社から
出演の依頼が彼のもとに届いた。
エルヴィスは大変喜んで、劇場に通いつめ、
演技を独学で勉強した。
エルヴィスはシリアスな演技派を目指していた為、
映画内での歌には興味がないと公言していたが、
結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になり
タイトルも Love Me Tender に変更されて公開された。
エルヴィスは当時のガールフレンドに
「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。
せっかくのいいストーリーが
台無しになっちゃったよ」
と不満を漏らしている。
陸軍入隊前までの1958年までに
4作の映画が製作されたが
いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、
おまけに映画挿入歌を収めた
アルバムが好評だったため、
当時のショウビジネスの世界に
新たなビジネスの形態を作り出した。
結局、1956年から1969年まで
計31本の映画が公開された中で、
エルヴィスが望んだ歌なしの映画は
1969年公開の Charro!(殺し屋の烙印)のみであった。
エルヴィスは脚本を叩きつけ、
「ふざけるな! ボートにバイクに車の選手、
全部同じストーリーだ」
と激怒し、撮影現場に行かなかったこともあった。
エルヴィスの仕事への不満は募っていき、
それが歌手としてコンサート活動を
再開するきっかけになった。
プレスリーは、軍隊に入隊することで、
保守層もとりこんで国民的なスターになれた。
これは、パーカー大佐というやり手マネージャーの仕掛けだ。
大佐を自称するトム・パーカーは、
芸能マネージャーをやっていた。
そのパーカーがメンフィスの人気者の若者に目を付けた。
その若者がプレスリーだ。
大佐トム・パーカーは、最初は10%をとる契約をしたが、
やがて、なんと50%もの手数料をとっていた。
つまり1000万円のギャラで契約すると、
マネージャーのトム・パーカーは、
500万円をぬいてからプレスリーに支払うわけだ。
しかし、トム・パーカーの手腕なくして
プレスリーの世界的な成功はない。
サン・レコードにいたままなら、
メンフィスの田舎の人気者で終わったろう。
エルビスが50%ものマネージメント料を
支払う価値はじゅうぶんにある。
メジャー・レーベルRCAビクターとの契約をとり、
ハリウッド映画の契約をとった。
みんなトム・パーカーの力だ。
軍に入隊したことを最大限の利用する戦略も、
パーカー大佐の知恵だ。
歌手として有名になっていくにつれて
映画配給会社数社から
出演の依頼が彼のもとに届いた。
エルヴィスは大変喜んで、劇場に通いつめ、
演技を独学で勉強した。
エルヴィスはシリアスな演技派を目指していた為、
映画内での歌には興味がないと公言していたが、
結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になり
タイトルも Love Me Tender に変更されて公開された。
エルヴィスは当時のガールフレンドに
「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。
せっかくのいいストーリーが
台無しになっちゃったよ」
と不満を漏らしている。
陸軍入隊前までの1958年までに
4作の映画が製作されたが
いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、
おまけに映画挿入歌を収めた
アルバムが好評だったため、
当時のショウビジネスの世界に
新たなビジネスの形態を作り出した。
結局、1956年から1969年まで
計31本の映画が公開された中で、
エルヴィスが望んだ歌なしの映画は
1969年公開の Charro!(殺し屋の烙印)のみであった。
エルヴィスは脚本を叩きつけ、
「ふざけるな! ボートにバイクに車の選手、
全部同じストーリーだ」
と激怒し、撮影現場に行かなかったこともあった。
エルヴィスの仕事への不満は募っていき、
それが歌手としてコンサート活動を
再開するきっかけになった。