歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

日々好日(2月15日 釈尊の入滅)

2012年02月15日 | 日々好日
日々好日(2月15日 釈尊の入滅)

大聖釈迦牟尼世尊は80歳2月15日
涅槃の雲に隠れられた。

釈尊の侍者として25年、お仕えしていた阿難尊者も
ご入滅にも立ち合った。
仏の入滅の前後には人事不省におちいり、
悲嘆慟哭したので、
阿那律から制止されたほどである。

釈迦如来が涅槃の雲に隠れられた時、
仏の慈悲はあらゆる動物たちにも
かけられていた為、多くの動物達が集まった。
ただ、その中に猫だけはいなかったといわれる。
猫が恩知らずといわれるのは、このあたりから
くるのだろう。
そういえば釈迦の臨終を描いた涅槃図には
猫は書かれていない。

ちょうどその頃、迦葉尊者は、遠くの土地で托鉢をして、
五百人の修行僧と歩んでいた。
そこで釈尊の入滅を知りことになる。

どの弟子達も悲歎にくれた。
ところが悲報を聞いた中に一人、スバッダという修行僧が

「釈尊入滅によって我々は解放されたのだ。
 これからは欲望のおもむくままにしよう」

と、暴言を吐いた。

これには迦葉も驚き、心を痛め、
正しい教法と戒律を定める必要を感じたのである。

そして、経典結集を決意したのである。
迦葉が中心となり,500人の優れた仏弟子を王舎城に集め,
戒律については優波離尊者が,
経法については阿難尊者が伝えたものを
全員が検討して,これを成文化して承認した。

これが有名な第1回結集だ。
もし、迦葉が経典結集を決意しなかったなら、
今日、残る七千余巻の経門はなかったのである。
迦葉尊者、最大の功績ではなかろうか。




日々好日(2月11日 ダーウィンが誕生)

2012年02月12日 | 日々好日
日々好日(2月11日 ダーウィンが誕生)

「種の起源」で進化論を提唱したチャールズ・ダーウィンは
1809年2月12日にイギリス生まれた。

全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、
彼が自然選択と呼んだプロセスを通して
進化したことを明らかにした。

進化の事実は存命中に科学界と一般大衆に受け入れられた一方で、
自然選択の理論が進化の主要な原動力と
見なされるようになったのは1930年代であり、
自然選択説は現在でも進化生物学の基盤の一つである。

また彼の科学的な発見は修正を施されながら生物多様性に
一貫した理論的説明を与え、現代生物学の基盤をなしている。

進化論の提唱はキリスト教をはじめ、全世界の宗教界から
非難の的となった。

「生物は進化する」は現在では学会で
科学的仮説として受け入れられているが、
信仰的、社会的に受け入れられているとは限らない。

アメリカには進化論裁判の例がある。
アメリカ合衆国の南部などいくつかの州では、
プロテスタントの一部に根強い聖書主義の立場から
進化論が否定されている。

ケンタッキー州には、進化論を否定する
創造博物館が建てられている。

カトリック教会ではローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、

「進化論は仮説以上のもので、
 肉体の進化論は認めるが、
 人間の魂は神に創造されたもの」

と述べた。つまり、人間の精神活動の源泉たる魂の出現は、
進化論的過程とは関係ないとする限定つきで、
進化論をキリスト教と矛盾しないものと認めた。

1958年に刊行されたフランシスコ会訳『創世記』の解説では、
進化論が誤りであることが明らかになった、
という記述がなされている。

近年アメリカ合衆国のいくつかの州において、
創造論が明確に学校教育に持ち込まれようとしている。
1980年代には裁判で創造論の理科教育への
持ち込みを禁ずる判決が出された。

真実の教え、仏教から当然のことが
人間の作り上げたキリスト教などの迷信からは
どんなに科学的に証明されても
受け入れることができなのだろう。

これが迷信の恐ろしいところなのだ。

日々好日(2月9日 顕如が誕生)

2012年02月09日 | 日々好日
日々好日(2月9日 顕如が誕生)

1543年2月9日、顕如が
本願寺第10世証如の長子として誕生した。

本願寺が東西に分裂した原因を明らかにするには、
この顕如の時代に起きた石山戦争までさかのぼらねばならない。
 
石山戦争とは、永禄三年の桶狭間の奇襲によって、
戦えば勝ち、攻めれば落ち、朝に一城、夕に一国と領土を拡げ、
群雄草の如くなびかせ、五畿内の猛将を馬前の塵に蹴った織田信長と、
そのゆく手に大きく立ちはだかった
石山本願寺(今の大阪城のある所)との戦いである。

たかが土民や浪人や長袖の町民の集合所である
本願寺ぐらいと軽く考えていた信長も、

「進めば極楽、退けば地獄」

と書いたムシロ旗をかゝげて一死報恩の覚悟で戦った
「南無六字の城」の為に、実に前後十数年の持久戦を
続けざるを得なかったのですから、誰人も驚かざるを得なかった。
 
頼山陽も

「豈はからんや、右府千軍の力、抜き難し、南無六字の城」

と驚嘆している程である。
信長が天下統一のチャンスを失ったのは、
実にこの無用な戦の為であった。
 
最後は正親町天皇を仲裁にたてゝ和議を求めて来たのだが、
この時開城するか抗戦するかで本願寺内の議論は真二つに別れたのが、
東西本願寺分裂の遠因となった。
 
時の11代宗主、顕如上人と次男の准如とは
和解の勧めに従おうとしたのに対し、
長男の教如は籠城して徹底的抗戦を主張してゆずらず、
きびしく両派は対立することになった。

一朝の思いつきで叡岳三千坊を焼き払い、
高僧から美女小童に至るまで数千人を火中に投げ込んだ織田信長。
またすでに和解したにもかゝわらず残虐非道な大量殺りくが
行われた長島一揆などを知っていた教如は、
信長のやり方がどんなものであるか骨身に沁みていたに違いない。
 
そこで顕如上人は己に順わない教如を義絶し、
弟の准如をたてゝ御真影と共に和歌山の鷺の森別院へ移ったのだ。
 
ところが果して、姦雄信長の軍勢は、
その後間もなく雑賀騒動を機として、
浄土真宗殲滅を期して追撃してきた。
その時の総軍師が明智光秀だった。
 
天正十年6月、暁の風を切って粛々と進む光秀の大群が
大江山にさしかゝるや、右すれば備中に走る道を馬首一転、
敵は鷺の森の本願寺に非ず、本能寺にありで、
鬢髪をふり乱した美少年の森蘭丸に護られた信長が
四十九才の生涯を火中に葬るという一大悲劇があったが為に、
危く本願寺は救われた。
だから三日天下の光秀は浄土真宗にとっては
大恩人ということになる。
 
後日かゝる事変を知った顕如上人は教如の義絶は解いたが、
親子の溝は深まるばかりで、やがて教如をおいて弟の准如へ
本願寺12代目の宗主の職をゆずることになった。
これが今日の西本願寺となった。
 
その後、戦乱は治って利巧な秀吉は、
さわらぬ本願寺にたゝりなしの態度で一生終わったが、
徳川家康は天海僧正の謀略を用いて、
この不遇の身をかこっていた教如に目をつけ、
本願寺勢力の分割を謀って、
寺地を寄進して東本願寺を別立させることに成功した。
 
かくて、これより浄土真宗の勢力は真二つに分断され、
東西両本願寺は冷戦を続けるようになったのである。

西が御影堂を南に置けば、東は北に建てる。
片方が『御文章』と言えば一方は『お文さま』という。
一方が『領解文』といえば片方は『改悔文』とする。
西が報恩講を正月に勤めると、東は十一月に変える。

その他、僧侶の位階、学階、仏前の荘厳、
正信偈の読みぐせまで一々変えて、
互いに敵愾心をそゝり、いがみ合うようになった。
まことに愚にもつかぬ意地を張っているわけだが、
情けないかぎりといわねばならない。
 
かゝる真相を知った者から、
手をとり合って親鸞聖人のみ教えのもとに団結して、
正法弘宣に邁進させて頂かねばならない。


日々好日(2月8日 悉達多太子が入山学道)

2012年02月08日 | 日々好日
日々好日(2月8日 悉達多太子が入山学道)

一日の疲れを休めようと、悉達多太子は、
宮殿の椅子に、ゆったりと寄りかかられた。

多くの美しい舞姫たちは、太子を慰めるために、
調べにあわせて舞ったが、いつしか、
うとうとと眠りに陥ってしまわれた。

彼女たちはこれを見て、
舞い、歌う張り合いがなくなり、
楽器を横たえ、同じように眠ってしまった。

後は、香油を燃やした灯火だけが静かに瞬いて、
室内がシーンと静まりかえった。

太子は、ふと眠りからさめて、あたりを見回された。

「ああ、これは一体……、なんということか!」

静かな夜、美しい宮殿、香ゆかしい灯火はそのままに、
けれども舞姫たちの、目を覆いたくなるような
浅ましい姿がそこにはあったのである。

口からよだれを流し、歯をかみ、うわ言を言う。
すべて女のたしなみを忘れ、衣装を乱し、
体を崩して、眠りを貪っているさまは、
華やかな王宮を墓場のような光景に変じていた。

この舞姫たちの姿こそ真の人間の姿だと
気づかれた太子は、直ちに城を出ようと決心され、
御者の車匿に、

「すぐ出家するから、馬の準備をせよ」

と命じられた。

最後に、ヤショダラ妃の寝室へ行かれ、
静かに扉を開いて見られると、
やや暗い灯火の光を受けて、妃は、
その腕にラゴラを抱いて、安らかに寝ておられた。

「この子を抱いて別れを惜しんだら、
 きっと、妃が目を覚まし、
 私の出家を妨げるに違いない。
 それより、さとりを得た後に、
 この子を見た方がよい」

と肯かれ、悲痛断腸の思いで愛馬にまたがり、
夜半密かに城の大門を出られたのである。

時に太子、29歳の2月8日のことであった。

白馬に跨り、密かに王宮を出られた。

「太子さま、どうしても
 出家なさるおつもりなのですね。
 ならばこの私もぜひ、お供させてください」
 
御者の車匿は泣いて、ともに出家を願ったが、
ついに許されなかった。

前人未踏の道を、ただ一人歩まんとする、
悉達多太子の決意は固かった。
愛馬までが、前足を折って別離を
悲しんだと伝えられている。

車匿を城へ帰すと、太子は大地に腰を下ろし、
持参の刀を手に取られた。
修行に身を沈めんとする者は、
すべからく世俗との縁を断ち切らねばならぬ。
刀を振りかざし、太子は一思いに髪を切り落とされた。

「これは終わりではない。すべての始まりなのだ」

かくして悉達多太子の六年にも及ぶ、
長く辛い苦行の日々が、開始されたのである。

太子の出城を知ったカピラ城内外の騒ぎは、
実に、たとえようのない有り様であった。

父王の驚きはもとより、
ヤショダラ妃の悲しみにいたっては、
まことに気も狂わんばかりであった。

「分からぬ。わしには太子の考えていることが
 到底分からぬ。何が不満でこのようなことに……。
 とにかく、ヤショダラのためにも、
 いやこの国の未来のためにも、
 一刻も早く太子を連れ戻さねば」
 
浄飯王は、自ら太子を呼び戻しに行くと決心し、
車匿に案内を命じられた。
周囲の群臣は大いに驚き、

「私たちが、誓って太子をお連れします」

と、慌てて王を引き止めた。
その時、橋陳如という家来が座より立ち、
太子の探索を願い出た。

浄飯王は喜んで、早速、橋陳如に四人の供をつけ、
太子を捜し、思い直させ、
城へ戻るよう説得することを命じられた。

ただちに、太子の跡を追った一行は、
鬱蒼とした路傍の大樹の下で瞑想に
ふけっておられる太子を発見した。
太子の前にひざまずき、
カピラ城内の愁嘆の模様を詳しく語り、
帰城を懇願したのである。

「太子さまが城を出られて以来、
 王様やお妃様をはじめ、
 大臣、国民も皆、毎晩、
 眠れないほど心配しています。
 まさに地獄の日々です。
 どうか、城へお戻りください」

「私自身、よくよく承知してのことである」

「太子さま、世に出家の動機に
 四通りあると聞いています。
 長い病苦で歓楽を満たすことができないとか、
 年老いて身体の自由と未来の希望を喪失したとか、
 財産を失い生活に困窮しているとか、
 あるいは家族に死別して世を儚むからだ
 と聞いています。
 太子さまにはこの四つのどれも
 当てはまらないではありませんか。
 なぜ若き楽しみを一切捨てられ、
 一衣一鉢の乞食同然の姿になってまで、
 遠いさとりを求められるのですか。
 私たちには、一向に分かりません」
 
橋陳如らは、涙ながらに太子の心変わりを願い、
帰城を求めるのであった。
しかし、太子の決意は大地のごとく不動であった。

「お前たちには分からないのか。
 あの無常の嵐が、まだ分からないのか。
 ものはみな常住しないのだ。
 いずれの日にか衰え、いずれの日にか亡ぶのだ」
 
百雷を思わせる太子の魂の叫びが、
森の静寂を破った。

橋陳如らは勢いをそがれ、
沈黙せざるをえなかった。
道端にたたずむ鹿や、
枝の小鳥までもが耳を傾けていた。

心に響く言葉が、なおも太子の口から
あふれ出てのであった。

「快楽のかげにも無常の響きがこもっているのだ。
 美女の奏ずる絃歌は欲をもって
 人を惑わすのみだ。
 三界は悩みのみ、猛き火のごとく
 浮かべる雲のごとく、幻や水泡のごとし。
 若きを愛すれど、
 やがて老と病と死のために壊れ去るのだ」
 
火の玉のような太子の菩提心に、
橋陳如らも感ずるところがあったのだろう。
心変わりを求める当初の意気込みは
既に喪失してはいたが、浄飯王や、
とりわけヤショダラ妃の悲しみを
思い出すにつけ、最後の気力を
振り絞って太子に懇願を試みた。

「太子さま、お気持ちは分かりました。
 しかし、そのために、多くの人たちを悲しませ、
 犠牲にしてもいいのでしょうか。
 あまりにも自分勝手と言えないでしょうか」
 
情に訴える彼の言葉にも、
悉達多太子は、毅然として述べられた。

「確かに、申し訳のないことである。
 しかし、私は、全人類の苦悩の根源を絶ち、
 真実の幸福に救われる道を求めて
 修行せずにはおれないのだ。
 それが、真に家族や国民を救うことになるのだ」
 
慈愛あふれる父、浄飯王や養母の面影、
そして優しい笑みをたたえたヤショダラ妃の寝顔が
悉達多太子の脳裏を過ぎった。
かぶりを振りながら、太子は言い放たれた。

「お前たちは、早く立ち返って、
 父母をはじめ、皆の者に私の心を伝え、
 目的を成就した後、再会できる日を
 待っていてくださるよう、
 よく慰めてあげてくれ」
 
牢固とした決心に、橋陳如たちは、
これ以上どうすることもできなかったのである。
涙をのんで一旦帰城し、
太子の修行にかけられる決意を父王に伝えた。

「そうか。悉達多はそこまで……。
 分かった。もう、止めはしまい」
 
浄飯王は深く首をうなだれ、
悲しみを押し殺された。
しかし、子を憶う親心は如何ともしがたい。
連れ戻すことが無理ならば、
せめて無事に修行が成就するようにと、
橋陳如ら五人に、太子のもとで修行しながら、
太子の世話をするよう命じられたのである。

五人は喜んで王命を受け、
再度太子の許にゆき五比丘(僧)となった。

ヤショダラ妃は夫の身を案じて、
衣類や食品を使者に託して送ったが、
後日それらは、そのまま封も切らずに
送り返されてきたのであった。


日々好日(2月7日 聖徳太子がご誕生)

2012年02月07日 | 日々好日
日々好日(2月7日 聖徳太子がご誕生)

聖徳太子は敏達天皇3年1月1日
574年2月7日に誕生された。

戦後の日本の紙幣に
登場した人物といえば、
聖徳太子であろう。

期間が長かっただけでなく、
もっとも多い時には、
一万円札、五千円札、千円札の
3つに同時に登場していた。

聖徳太子ほど日本国民に
慕われ尊敬を受けた人は
いないのではなかろうか。

中でも親鸞聖人は大変な尊敬をしておられる。

親鸞聖人19才の時に見られた
磯長の夢告は特に有名である。

親鸞聖人のお母様は
夢に如意輪観音が現れて、五葉の松を授けられ
親鸞聖人の出生を予告したという。

お母様から聞かされていた話を聖人は思い出され、
観音の垂述である聖徳太子のお導きによって、
魂の解決を求めて太子ゆかりの磯長のご廟へ参詣なされた。


親鸞聖人作『正像末和讃』の中の「皇太子聖徳奉讃」に、

「救世観音大菩薩
 聖徳皇と示現して
 多多(父のこと)のごとくすてずして
 阿摩(母のこと)のごとくにそいたまう」

「和国の教主聖徳皇
 広大恩徳謝しがたし
 一心に帰命したてまつり
 奉讃不退ならしめよ」

という和讃がある。

親鸞聖人は29歳のとき
(1201年)
それまでおられた比叡山を降りられ、
京都の六角堂に

「後世を祈らせ給いける」
(恵信尼消息3通目)

極楽往生を祈るために篭られた。

そのとき夢告を六角堂の本尊から賜るのだ。

六角堂は聖徳太子創建のお寺といわれているが、
当時聖徳太子が救世観音菩薩として
この世に現れたと考えられていた。

さらに聖徳太子を日本の教主と仰言っている。

教主とは通常釈尊のことを指すが、
日本の仏教は聖徳太子に始まるといってもいいため、
聖徳太子のことを日本の釈尊と仰言っているのである。



日々好日(2月6日 ブログの日)

2012年02月06日 | 日々好日
日々好日(2月6日 ブログの日)

日本では2月6日をブログの日と制定した。
「ブ(2)ログ(6)」の語呂合わせ。

そもそもブログとは何か。

「ウェブログ(Weblog)」という言葉の省略である。

この言葉を最初に使ったのは
Jorn Barger(1953-)というネットワーカーで、
アメリカ国内で有名なRobot Wisdomというサイトの管理者である。

彼は同サイトで1997年12月17日に、
リンクとそのコメントを書いていくコーナーを作り、
これをWeb上でlogを積み重ねていくという意味で
「Weblog」と呼んだ。

やがてこの言葉が広がり
、Peter Merholzが1999年の春頃から省略した
ブログ(Blog)という言葉を使用しはじめて
現在に至っている。

ログ(log)というのは元々「航海日誌」という意味で、
転じてコンピュータの動作記録を取ったものののことも
ログと呼んでいる。

バーガーはWeb(WWW)上で人が何らかの記録を書き連ねていくことを
ウェブログと呼んだ訳である。

ウェブログ的なものは、
インターネットの黎明期からあったとも言われている。

日本では1995年頃から一部の人たちが
日記サイトを作っており、
またリンク集やランキングサイトの新着情報なども、
ある意味ではブログの源流のひとつだ。

そして2003年12月2日、
ニフティが突然「ココログ」を開始し、
真鍋かおりという、絶好のブロガーを偶然にも得て、
大きなインパクトを与えた。
現在日本国内には大量に無料・有料のブログサービスがあるが、
その多くが2004年にスタートしたものである。






日々好日(2月5日 笑顔の日)

2012年02月05日 | 日々好日
日々好日(2月5日 笑顔の日)

2月5日は、2と5の語呂合わせで、
いつもニコニコと笑顔の日。

「呼べば呼ぶ 呼ばねば呼ばぬ 山彦ぞ
 まず笑顔せよ みな笑顔する」

ある大学教授の、しみじみ語ったことである。

私に五歳になる男の子がいる。
半年ぐらい前までは、
誰が呼んでも元気よく
〝ハイ〟と返事をした。

ところがどうしたことか。
この頃とんとしなくなったのである。
よく考えてみると原因が、
どうも私自身にあったらしい。

仕事に忙殺されて妻が呼んでも、
つい黙って仕事を続けることが度々あった。
それを見習って子供は、
返事をしなくなったようである。

そこで私は、なんとかこれを
矯正せねばならぬといろいろ試みたが、
さっぱり効果が現れない。

最後にそして気がついた。
私自身がまず、誰かから呼ばれた時、
はっきり返事をするのが一番と。

するとどうだろう。
いつとはなしに子供は
〝ハイ〟と快活に答えるように
なったではないか。

再びこうして、家の中に明るさを
取りもどすことができたのである。

何十年も前に大学を卒業し、
せっせと働いてきた父親が、
いまだにキュウキュウいっている。

それなのに、なぜ、

「勉強しなさい勉強しなさい。
 ぜひ、大学に合格して頂戴。
 それが両親の唯一の望みなんですからお願い。
 勉強してね。ベンキョオー」

などと、キチガイみたいに言うのだろうか。
子供には、さっぱり分からない。

父で実験済みのはずなのに、
そのたよりない大学へ、
苦しい思いをしてまで入学し、
やっと卒業できたとしても、

〝働きづめに働いている父親以上の働きが、
 自分にできるとは思えない。
 生きてゆく能力が、
 自分にはないのではなかろうか〟
 
親の姿に自信喪失し、
不安と心配からビクビクソワソワ、
ノイローゼになり、自殺したりもするのである。
姿にかけてこそ真の教育。

「主婦の笑顔は家庭の光」

昔、大阪に共稼ぎで貧困を克服、
大商人となった夫婦がいた。

現在の富と繁栄を築きあげるに
乗り越えてきた艱難辛苦は、はかり知れない。

窮乏時代を忘れ奢侈に流れるのが、
俄成金の常である。
彼らはしかし、そうではなかった。

今までの心得を乱さず、
相変わらず夫は店先に立って家業に精励する。

妻の心がけも見あげたもの。
とかく女性が夢中になる衣服や装飾には
目もくれず家内を切り廻す。

ますます繁昌したのも当然だった。

夫は内助の功に感激し、
少しは衣服装飾を新たにしてはとすすめるが、

「昔を思えば、ぜいたくは言っておれません」

と笑って応える妻がいじらしかった。
愛妻家の彼は折にふれて持ちだすと、

「やはり私とて女、ほしいものはほしいのです。
 実は貴方にこっそりとこしらえて
 タンスの中にしまっています」

「ヤレヤレ、そうだったのか」

少々落たん気味の夫に、
ぜひ新調した衣服を見てほしいと妻は言う。

早速タンスを見るが新調の衣類などは
何処にも見あたらぬ。
ただ見なれぬ文字が書きつけてある白紙があるだけ。

不審顔の夫に妻の笑顔は、こう言った。

「今朝も門前を通る女性の衣服が美しく、
 気に入ったので早速、
 二つ三つこしらえました。
 けれども苦難の過去を思うととても着られず、
 またタンスにしまっておきました。
 私は心に衣服を着るのです。
 白紙に名さえ書いておけば現物があるのも同然です」
 
感嘆した夫は、幸せに溢れた。
夫婦の幸福は、案外近くにあるものだ。




日々好日(2月4日 平清盛の最期)

2012年02月04日 | 日々好日
日々好日(2月4日 平清盛の最期)

今年は大河ドラマで平清盛がブームに
なろうとしている。しかし、

「平家にあらずんば人にあらず」

と放言したとされる
平時忠らに代表される、
一部の平氏一門のおごりがあった。

全盛を極めたはずの清盛も
治承5年閏2月4日(1181年3月20日)
に最期を迎えることになる。

1180年,平家打倒の反乱の動きは東国に留まらず
九州や畿内近国においても発生するようになる。

そのような中、頼朝により平維盛らの軍が
富士川の戦いにおいて、屈辱的な大敗を
喫することになった。

全国の情勢は平氏にとって
一段と悪化し、都を平安京に戻すことになる。
その間にも反乱の火の手は広がりを続け、
清盛は還都と反乱対策に
忙殺されることになった。

反乱は近江にまで及ぶことになり
清盛は平知盛 (とものり・清盛の四男)
・平資盛 (すけもり・重盛の次男) らを
大将軍とし、精鋭部隊を組織して
近江の反乱を鎮圧していく。

園城寺、ついで南都を壊滅させた清盛は、
1181年の 2月までには
近江・美濃を平定し、
1183年7月に木曽義仲が北陸から
進撃してくるまでは
畿内は一応の安定を見ることになる。

しかし,
1181年1月14日、高倉院が 21才で崩御。

そして 2月22日、清盛は頭痛を発症する。
病気になってから水さえのどを通らず
体は灼熱の如く熱くなり
余りの熱さで清盛に
近ずけないほどであった。

そのため水をためた石の浴槽に
清盛を入れ筧の水をひいて
注ぎかけても焼けた鉄に
水を掛けるように
あっという間に水蒸気になって
飛び散ってしまった。

まるで死を待たずして
閻魔大王が現れて
灼熱地獄に赴かせるようであった。

清盛は最期に仏間の
阿弥陀仏の小指と清盛の小指を
糸で結ばせて極楽浄土へ
最後の悪あがきをしているようだった。

「この入道、仏事供養など要らぬ
 只頼朝の首を墓前に供えよ」

という罪深い遺言を残し清盛は
もがき苦しみ生への執着が解けず
遂に悶絶の末そのまま息を
引き取ってしまったのである。  

一説によれば流行り病の
マラリアにかかり
亡くなったようである。

稀代の英傑は64才で
没することになるのだ。。

清盛という強大な指導者を失った平氏一門は
堅い団結でこの後 4年持ちこたえるが、
しかし 1185年、一門の多くは
安徳天皇と共に壇ノ浦に消えることとなる。








日々好日(2月3日 節分の鬼退治)

2012年02月03日 | 日々好日
日々好日(2月3日 節分の鬼退治)

2月3日は「節分)」。
節分とは本来、「季節を分ける」
つまり季節が移り変わる節日を指し、
立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日に、
1年に4回あったものだった。

ところが、日本では立春は1年のはじまりとして、
とくに尊ばれたため、次第に節分といえば
春の節分のみを指すようになっていった。

立春を1年のはじまりである新年と考えれば、
節分は大晦日にあたる。

平安時代の宮中では、大晦日に陰陽師らによって
旧年の厄や災難を祓い清める「追儺(ついな)」の
行事が行われていた。

室町時代以降は豆をまいて悪鬼を追い出す行事へと発展し、
民間にも定着していった。

節分には豆をまくが、
これは中国の習俗が伝わったものとされている。

豆は「魔滅(まめ)」に通じ、
無病息災を祈る意味がある。

しかし、鬼と聞くと虎の皮のフンドシをまき、口は耳元まで裂け、
頭には角が生え、金棒を持った
あの恐ろしい形相をした鬼の姿を想像するだろう。

しかし、元来、鬼とはそんなものをいうのではないのだ。
経典などには鬼は、仁に遠し(遠仁)と書かれてオニを読んでいる。

仁に遠い心をオニというのである。
仁とは人間の慈悲の心をいう。
親ならば、子供の苦しみは親の苦しみ、
子が病気にでもなれば、夜中でもタクシーを走らせ、
病院を探す。
病気が治ると、子供以上に安心するのである。
その親のやさしさ慈悲の中で、子供はスクスクと成長するのである。
もし、この慈悲の心がない、無慈悲な親に育てられた子は不幸である。
子供に保険金をかけ、金ほしさに殺害。
まともな人間のなせる業ではない。
無慈悲な人間のやさしさも持たない

、仁に遠いオニ(遠仁)である。

時代劇の水戸光門の定番がこれだ。
病気で伏せているお爺さんのところに、怖い顔したヤクザの
おにいさん達が乗り込んでくる。
借金の片(かた)に、可愛い孫娘を引っ張っていく。
するとお爺さんのいう決まりゼリフ。

「お前たちは人間のやさしさもないのか。この人で無し。鬼」

では、このオニは何処にいるのか。鬼ヶ島にいるのだ。
この鬼ヶ島は岡山県や、香川県の瀬戸内の島ではない。
私達の心に鬼が住んでいる。
鬼ヶ島とは、鬼が心、心が鬼なのである。
鬼のような恐ろしい心、無慈悲な心で、
自分だけではなく、他人までも傷つけ苦しんでいるのが、
本当の実態なのである。


日々好日(2月2日 横井庄一が日本へ帰国)

2012年02月02日 | 日々好日
日々好日(2月2日 横井庄一が日本へ帰国)

昭和47年(1972年)の2月2日。
横井庄一元陸軍伍長が日本に帰国した。

横井は愛知県海部(あま)郡富田村、
現在の名古屋市の出身である。

大正4年(1915年)3月31日に生まれ、
兵役後仕立屋を営んでいた。

昭和17年(1942年)ごろ、
満27歳前後で再び召集された。

横井は第29師団に配属され、
食料や弾薬を運搬する部隊にいた。

第29師団は昭和16年(1941年)に新設された師団らしい。
最初は関東軍に編入されていた。
昭和19年(1944年)に南方に移動して
島の防衛を担当した。

関東軍というのは中国からの租借地だった
遼東半島などの防衛のために創設された軍隊である。
その後、広く満州が守備範囲となった。
遼東半島は黄海の北東部分から
南西に向けて突き出している半島。
先端には大連市や旅順港がある。

横井の配属されたグアム島では、
昭和19年(1944年)6月から
アメリカ軍との死闘を繰り広げた。

同7月288日に師団長の高品彪中将が戦死。
8月11日には小畑軍司令官と田村参謀長が自決。
組織的な抵抗は終わった。

米軍は投降を呼びかけ、
残された部隊の指揮官となった佐藤少佐は
これを受け入れた。

ところが不運なことに横井の部隊は
佐藤少佐の直接の指揮下になかった。
投降命令が伝達されなかった。

横井は2人の部下と一緒に密林の奥に潜む。
最後は横井1人だけとなった。
終戦から26年と5ヶ月半ほど経過して、
昭和47年1月24日に食料調達のため
川でエビを採っていたところを現地の猟師に発見され、
同年2月2日に満57歳で日本に帰還した。

軍事教育を受け育った横井は
「生きて本土へは戻らぬ決意」
で出かけた記憶がしっかりとあったため、
帰国の際、羽田空港で発した第一声は

「恥ずかしいけれど、帰って参りました」

であった。この言葉をとらえた
「恥ずかしながら帰って参りました」が
その年の流行語となった。

同年2月2日14時から60分間にわたり
NHKで放送された報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、
41.2%の視聴率を記録した。
ようやく帰国した。