歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

日々好日(12月31日 大晦日の除夜の鐘)

2011年12月31日 | 日々好日
日々好日(12月31日 大晦日の除夜の鐘)

除夜の鐘は、大晦日の午後一二時頃から元旦にかけて、
仏教寺院で打ち鳴らす鐘のことである。

百八煩悩(ぼんのう)を除く意味をこめて
108回つき鳴らす百八の鐘ということで、
108の煩悩を除く目的で撞くのである。

除夜の鐘は108回撞かれる。
この「108」という数の由来については
次のような複数の説がある。

1:煩悩の数を表す
  眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の
  六根のそれぞれに
  気持ちが好い・気持ちが悪い・どうでもよいがあって18類、
  この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、
  この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、
  人間の煩悩の数を表す。

2:一年間を表す月の数の12、
  二十四節気の数の24、
  七十二候の数の72を足した数が108となり、
  1年間を表す。

3:四苦八苦を表す 四苦八苦を取り払うということで、
  4×9+8×9=108をかけたとも言われている。

鐘を撞く回数は108回のうち107回は大晦日に
残りの1回を新年に撞く。

「無益の歳末の礼かな、
 歳末の礼には信心をとりて礼にせよ」
   (御一代記聞書)

蓮如上人は、歳末の礼に来た人たちに、

「人並みな歳末の礼は聞きたくない。
 それよりも早く信心決定の身になることが、
 蓮如の最もうれしいことなのだ」

と仰言っている。

今日も昨日も一昨日も、食て寝て起きて、の繰り返し。

「年金が心配」
「銀行破綻」
「株はどうなる」

と世間事に狂い回っているうち、たちまち命は終わるのだ。

「このまま一生終わっていいか。
 こんなことのために生まれてきたのか」

今の流転は永久の流転と驚き立ち、大菩提心をおこさねばならぬ。

大晦日。除夜の鐘、あと何回聞けるだろう。

「存命の中に皆々信心決定あれかし」

と念じ続けてくださる善知識の洪恩に報いる道は、
選択の願海への転入以外ない。

今年一年、煩わされ悩まされてきた煩悩が
消えるようにとの願いが込められている。
その108ある煩悩の中で特に恐ろしい
貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみ)、を三毒といい、
それに疑、慢、悪見を加えて六大煩悩という。
疑とは人や物を疑う心。
慢とはうぬぼれ心。
悪見はよこしまな考えをいう。

人間は「煩悩具足の凡夫」(煩悩のかたまり)であると
仏教で教えられるから、
よく欲や怒りの心は鐘を突いたくらいではなくならない。
煩悩で悪を造り続けている私たちを救ってくださる方は、

「大宇宙広しといえども阿弥陀如来だけなんだよ」

と釈尊は、おおせなのだ。


日々好日(12月30日 間宮林蔵が、幕府の命令で蝦夷地へ向け測量に出発)

2011年12月30日 | 日々好日
日々好日(12月30日 間宮林蔵が、幕府の命令で蝦夷地へ向け測量に出発)

若い間宮林蔵は、19歳になった年、
はじめて北海道に行く。

寛政11年12月30日、
先生の村上島之允の家来として
北海道に行くのである。
それから文政5年(1822年)
松前奉行が廃止されるまで、林蔵は、
ずっと北海道で、主に測量の仕事を続ける。

19歳の年にはじめて北海道に渡ってから林蔵は、
43才までの23年もの間、北海道を中心として活躍した。

林蔵は、間宮海峡を発見した後、
北海道測量という大事業を行う。
カラフト探検はあまりに有名であるが、
北海道全土を測量し、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図の
北海道部分を完成させていることも大きな業績である。

その成果はさらに、今の北海道地図の基本となる
『蝦夷図』の完成となって行く。

林蔵の『蝦夷図』には、主だった集落の名が、
とても細かく書かれている。

林蔵が北海道を測量した歳月は、何と12年間にも及ぶ。
詳しく記された地名は、林蔵が長い歳月をかけて、
それらの土地土地を訪れていたのだということを
意味している。
北海道の、すべての町や村を歩いてまわる。
それも正確に測量をしながら。
林蔵は12年間、北海道を歩き続けた。

江戸に戻ってからの林蔵は、
今度は全国をくまなく歩き、
外国の船が日本に来たという報告の
調査の仕事をするのである。

江戸時代も後半になると鎖国をしていた日本にも、
たくさんの外国の船が近づいてくるように
なっていたからである。

ヨーロッパの人々がさかんに、
「日本はどんな国なのだろう」
と調査に来ていたのだ。

シーボルトというオランダの医者が、
日本にヨーロッパのすぐれた考え方や技術を紹介した。

それといっしょにシーボルトは、
日本のことをとても詳しく調べていたのである。

日本の、江戸幕府の持っていた
伊能忠敬や間宮林蔵によって作られた
大切な地図ををシーボルトはヨーロッパへ
もって帰ろうとしていた。

地図は当時、とても大切な情報である。
そのためシーボルトは、日本を追い出されてしまう。
シーボルト事件である。

シーボルト事件で幕府は、
外国の人々、特にヨーロッパの人々に、
私たちの国「日本」をきちんと
認めさせなければならないという大切なことを
考えるようになったのである。

シーボルト事件の後林蔵は、告げ口をした人間として、
さびしく死んでいったと思われている。

でも、本当はそうではなかった。

それは、シーボルトや林蔵、
シーボルト事件に関係のあった人物たちを
詳しく調べていくうちにわかってきた。

シーボルト事件が起こった後も林蔵は、
日本に近づいてくる外国の船があると
調査に出かけていった。

晩年の林蔵は、水戸家の殿様にも
林蔵の知っている樺太(サハリン)や外国のことを
教えたりしている。

そして、林蔵の調査、知識が、
江戸幕府の外国との交渉に活かされる。
特にロシアと日本が1854年に結んだ
条約「日露和親条約」の中には、
林蔵の樺太(サハリン)から大陸にかけての
地図が参考にされた。

日本が樺太から大陸の調査をしており、
ロシアの動きを知っていたことは、
日本にとって条約を結ぶのにとても
有利だったのである。

林蔵は、幕府の役人として
天保(てんぽう)15年2月26日
江戸の自宅でなくなる。
65歳の波乱に満ちた生涯であった。



日々好日(12月29日 ポンパドゥール夫人の墓碑)

2011年12月29日 | 日々好日
日々好日(12月29日 ポンパドゥール夫人の墓碑)

1764年12月29日、
フランスでルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人が
死去した。

宮廷画家として栄達したブーシェは、
ルイ15世の愛妾で政治的にも権勢を
ほしいままにしていたポンパドゥール夫人の
素描や版画の指南役にもなっていた。

その美貌によって国王に寵愛された
ポンパドゥール夫人だから、
数多くの肖像画が残っている。

ブーシェの手になる肖像画の中でも
もっとも有名なポンパドゥール夫人像。

落ち着いた濃緑の絹のドレスに身を
つけてゆったりとした風情の夫人像である。

ドレスの飾りは繊細で夫人の端整な顔と肌の色とあいまって、
まさにロココ的な洗練を感じさせるものだ。

右手には知性と教養をあらわす書物が、
床には美の象徴のバラの花が、
そして忠誠をあらわす犬が配置されていて
画家の周到な配慮がうかがわれる。

ポンパドゥール夫人が死去した折には、
その墓碑をデザインした。

その墓碑には

「十五年と乙女として、
 二十年を娼婦として、
 さらに八年を女衒(せげん)として
 過ごしたる女、ここに眠る」

と書かれてある。
ほとんど世界中に類をみない墓碑銘である。

1721年にパリの銀行家の娘として生まれる。
平民という身分ながら成績は非常に優秀であった。

1741年に徴税請負人と結婚。
超一流サロンに出入りするようになり、

1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まった。
彼女はポンパドゥール侯爵夫人の
称号を与えられて夫と別居し、
11745年正式に公妾として認められた。

フランス国王の公式の愛妾となった夫人は、
湯水のようにお金を使って、
あちこちに邸宅を建てさせ、
やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって
権勢を振るうようになる。

30歳を越えたころからルイ15世と
寝室をともにすることはなくなったが、
代わりに自分の息のかかった女性を紹介した。

ルイ15世はポンパドゥール夫人が
42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。

鹿の園を建ててルイ15世好みの女性を
住まわせたといわれる。

女性しか持っていない能力を
かくまで有効に用いた女性はおるまい。





日々好日(12月28日 宗教法人令」を公布・施行) 

2011年12月28日 | 日々好日
日々好日(12月28日 宗教法人令」を公布・施行) 

1945年12」月28日、
旧宗教団体法を廃止し、
勅令「宗教法人令」が公布・施行された。

宗教団体の数は平成20年度に
登録されているだけでも

神道系    85,312
仏教系    77,540
キリスト教系  4,346
諸教     15,106
合計    182,304

18万以上あるのだ。

また、日本における宗教の信者数は、
文部科学省の宗教統計調査によると、

神道系   約1億700万人、
仏教系    約9800万人、
キリスト教系が 約300万人、
その他    約1000万人、
合計     2億900万人

となり、日本の総人口の2倍弱の信者数になる。
神道系と仏教系だけで2億人にせまる。

お釈迦様時代にはインドに、はびこっていた
外道・邪教と呼ばれるものは95だった。
これを

「九十五種世を汚す、唯仏一道清くます」

と言われている。

ところが現代はどうだ。
日本だけでも、
18万2千の宗教団体が登録されている。

釈迦時代のインドの2000倍である。
まさに宗教のオンパレード。
いや、百鬼夜行といったほうが正確だ。
 
解脱したといいながら、
サリンを撒いて無差別殺人を計画し、
死刑判決を受けた輩。

題目を唱えるとどんな借金苦からも
逃れられるといいながら
借金踏み倒して夜逃げの
一番多い宗教団体。

手かざしで病気が治ると病院に行かずに
盲腸で死んだ者が


初詣に交通安全の神社へ行き、
帰り道、交通事故で死亡する連中。
多数いる団体。

お前に取り付いている悪霊を
追い払ってやると
祈祷の末、窒息死させられた者。

その邪教、異安心が跋扈する
現代にあって、
親鸞聖人の教えによって
真実を開顕してゆかねば
ならない浄土真宗の者の中で

「親鸞聖人の教えに
 善の勧めはない」

と公言し、多くの門徒を
迷わしている
浄土真宗の獅子身中の虫。

これでは
「更に親鸞、珍しき法をも弘めず
 如来の教法を我も信じ、
 人にも教え聞かしむるばかりなり」

と、釈迦如来の教え一つを
まことと信じ、教えてゆかれた
親鸞聖人の教えを
どう聞いているのかと
憤慨せずにはおれない。

親鸞聖人の教えに
善の勧めがないなどと
よく言えたものだ。

親鸞聖人の教えを伝えるべき
真宗の者の中にこんな輩が
いるのだから情けない。

しかし、お釈迦様は
このような多種多様な宗教が乱立し、
世間を騒がしている。
これを見濁といわれたのだ。


日々好日(12月27日 大谷光瑞 大谷探検隊)

2011年12月27日 | 日々好日
日々好日(12月27日 大谷光瑞 大谷探検隊)

大谷光瑞(おおたに こうずい)は
1876年(明治9年)12月27日に
浄土真宗本願寺派の跡継ぎとして生まれる。
浄土真宗本願寺派第22世法主。
大正天皇の従兄弟にあたる。

1902年8月、
教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、
仏蹟の発掘調査に当たった。

1903年1月14日朝、
ビハール州ラージギル郊外で
長らく謎の地の山であった旭日に照らされた
釈迦ゆかりの霊鷲山を発見している。

これがいわゆる大谷探検隊(第1次)である。
法主継職後も探検を続行させ、
1914年まで計3回にわたる発掘調査等が実施された。

しかし探検隊の活動は短く。
大谷家の不良債権問題、
分かりやすく言うと探検隊に
金をつぎ込みすぎて大谷家が破産、

しかも寺の運営資金まで使い込んでしまったという。
大谷光瑞は職を退いて隠居、伯爵位も返上。

探検隊の後始末はほとんど成されないまま、
多くの業績が四散。
探検隊の業績は、京都の龍谷大学、
大谷が隠居した中国や韓国に散り散りになってしまう。
破産による財務処理で海外に
売り飛ばされてしまった発見物もあったのだろう。

750年前にお亡くなりになられた
親鸞聖人にこの現状をご覧になられたら

「なぜ、弥陀の本願を徹底することに
 身命をかけないのか」

と激怒なされるに違いない。


日々好日(12月26日 スマトラ島沖地震)

2011年12月26日 | 日々好日
日々好日(12月26日 スマトラ島沖地震)

スマトラ島沖地震は、2004年12月26日、
インドネシア西部時間午前7時58分50秒に
インドネシア西部、スマトラ島北西沖の
インド洋で発生したマグニチュード9.1の地震である。

このマグニチュード9.1は、
1900年以降でチリ地震に次いで2番目に大きい規模である。
これは2011年3月11日の
東北地方太平洋沖地震 (Mw9.0) の
約1.412倍に相当するエネルギーである。

平均で高さ10mに達する津波が数回、
インド洋沿岸に押し寄せた。
34mに達した場所もあった。

アンダマン・ニコバル諸島近海から
スマトラ島北西部近海にかけての
およそ1,500kmの帯状の地域の、
およそ海底4,000mの場所で津波が発生、
津波発生時には2~3mほど海底が持ち上がり、
ジェット機並みのスピード(約700km/h)で
津波が押し寄せたと見られる。

前述の速さで波が押し寄せたスリランカ、インド、
モルディブ、アフリカ諸国などに対して、
震源の東側となったタイ、マレーシア、インドネシア、
ミャンマーなどでは、比較的遅いスピードで津波が押し寄せた。

特に、タイのプーケットに津波が到達したのは、
地震発生から2時間30分後だった。
これは、津波が通過したアンダマン海が、
広い大陸棚が広がる浅い海で、
津波が進むスピードが遅かったためである。

津波はアフリカ大陸東岸のソマリア、ケニア、タンザニアにも到達し、
ソマリアで100人以上の死者が発生。

ケニアのモンバサでは避難命令が出された。
また南極大陸の昭和基地でも半日後に73cmの津波を観測した。
また、アメリカ合衆国の西海岸、
南アメリカ大陸でも数十cmの津波を記録した。

インド洋の各国では太津波早期警報システムが無く、
2時間後に到達する地域においても
避難勧告を出すことができなかった。
この為、多くの死者を出す一因となった。

津波による被害としては、226,566人が死亡したとされる。






日々好日(12月25日 植木等「スーダラ節」)

2011年12月25日 | 日々好日
日々好日(12月25日 植木等「スーダラ節」)

1926年12月25日に
植木等は浄土真宗の寺の息子として生まれた。

クレージーキャッツのメンバーとして、
一世を風靡した。

植木等の「スーダラ節」は
よく真理をついている。

「チョイト一杯の 
 つもりで飲んで
 いつの間にやら 
 ハシゴ酒
 気がつきゃ 
 ホームのベンチでゴロ寝
 これじゃ身体(からだ)に 
 いいわきゃないよ
 分かっちゃいるけど 
 やめられねえ

 ねらった大穴 
 見事にはずれ
 頭かっときて 
 最終レース
 気がつきゃボーナスァ
 すっからかんのカラカラ
 馬で金もうけした奴ぁないよ
 分かっちゃいるけど 
 やめられねえ

 一目見た娘(こ)に 
 たちまちホレて
 よせばいいのに 
 すぐ手を出して
 ダマしたつもりが 
 チョイとだまされた
 俺がそんなに 
 もてる訳ゃないよ
 分かっちゃいるけど 
 やめられねえ」

何もかも、合点承知の上で、やっているのだ。
しかし、止められなかったからといっても、
因果の道理は曲げられない。

作曲者の萩原はステージでの植木の
キャラクターにあった曲作りのために、
まず植木の口癖でもあった

「スイスイスーダララッタ~」

のフレーズをメロディーにして、
植木の承諾を取りつつ、残りの部分を作った。

しかし、非常に生真面目な性格の植木は
青島が書いた歌詞を見て、
歌うことを躊躇したそうだが、
浄土真宗の僧侶である父の植木徹誠から

「『わかっちゃいるけどやめられない』は
 親鸞聖人の教えに通じる」「必ずヒットするぞ」

と励まされた。

父の言う通り、発売されるや否や
『スーダラ節』は大ヒットを記録した。

しかし植木自身は

「こんな歌がヒットするようでは悲しいなぁ」
「冗談じゃない」
「こんなのがヒットするってことは 、
 俺が考えてる日本と本物の日本は違うものなのか」

と思い悩んでいたと言う。







日々好日(12月24日 チャップリン死去)

2011年12月24日 | 日々好日
日々好日(12月24日 チャップリン死去)

チャールズ・スペンサー・チャップリン。
ハリウッド映画初期の俳優、
脚本家、そして映画監督である。

映画の黎明期に数々の作品を作り上げ、
「喜劇王」の異名をもつ。

各種メディアを通じ、
現在においても彼の姿や作品に
ふれることは容易である。

また、バスター・キートンと
ハロルド・ロイドと並び、
「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。

彼は1889年に
イギリス・ロンドンで生まれ
1977年12月24日
88歳で亡くなった。

彼の最もよく知られている
役柄は放浪紳士である。

「窮屈な上着に、
 ぶかぶかのズボン
 大きすぎる靴(どた靴)
 山高帽に竹のステッキ」

といった、いでたちのちょび髭の人物で、
アヒルのように足を大きく広いて、
がにまたで歩く特徴をもつ。

浮浪者だが、優雅な物腰と
紳士としての威厳をもつ。

この役柄は1914年の2作目
『Kid Auto Races at Venice』で
初めて登場している。

チャップリンは無声映画時代で
最も創造的な人物の一人である。
俳優、監督、脚本家、ディレクター、
そして時には自らの映画のための
作曲家までもつとめた。

チャップリンの人生は
決して平坦なものではなかった。

『サーカス』撮影中の1927年、
当時の妻リタ・グレイに
離婚訴訟を起こされ、
自身の私生活を暴露される。

示談金62万5000ドルを
支払うことで終結するが、
この騒動は当時38歳の
チャップリンを心労で
白髪させるほどのものであった。

「金を失うことは小さく失うことである。
 名誉を失うことは大きく失うことである。
 しかし、勇気を失うことは
 すべてを失うことである。」

「死と同じように避けられないものがある。
 それは生きることだ」

「笑いのない一日は、
 無駄に過ごした一日だ」

これらの言葉からも
彼の人生の過酷さが忍ばれる。

喜漫画家手塚治虫は、

「どうすれば、人々の記憶に
 残る漫画が描けるのですか?」

という質問に対して
決まって次のように答えている。

「とにかくチャップリンの映画を観ろ。
 あれに全ての答えがある」

といっているほどである。

彼が自分の人生をこう述懐している。

「私は支配したくない。
 私は人の幸福を願いながら生きたい。
 貪欲が人類に憎悪をもたらし
 悲劇と流血をもたらした。
 思想だけがあって感情がなければ
 人間性は失われてしまう」

「人生はクローズアップで見れば悲劇。
 ロングショットで見れば喜劇」

「私は悲劇を愛する。
 悲劇の底にはなにかしら
 美しいものがあるからこそ
 悲劇を愛するのだ」

彼のつくたショート映画に
人生を考えさせられるのがあった。

銃殺が行われようとしていた。
銃殺は型どおりで行われる。

「気をつけ」
「銃をかまえ」
「ねらえ」
「撃て」

のリズムである。

ところが指揮官が最初の命令をかけた時、
死を待つ男が咳をした。

それが指揮官のリズムを狂わせた。
意志に逆らう反逆の血が
どこかで流れたようだ。

指揮官はそれでも、
とぎれとぎれに
第二、第三の号令を発した。

兵士は銃をかまえた。
その瞬間、助命の使いがやってきた。

指揮官は叫んだ。

「止め」

と。しかし、銃殺隊は
すでにリズムのとりこになっていた。

号令と同時に七つの銃は一斉に火をふいた。

人間はリズムに
乗りやすくできているらしい。
ロックのリズムにカラオケのリズム。
はたまた手拍子・足拍子。

しかし、奇妙なリズムは、
時には正しい判断をマヒさせるようだ。

「人生は食て、寝て、起きて、糞たれて、
 子は親となる、子は親となる」

人生は変なリズムに
取り付かれているのではなかろうか。



日々好日(12月23日 東条英機らA級戦犯7名、絞首刑執行(1948)

2011年12月23日 | 日々好日
日々好日(12月23日 東条英機らA級戦犯7名、絞首刑執行(1948)

「カミソリ東條」の異名の通り
近くは、日本を不敗の神国と狂信し、
世界を相手に宣戦した立て役者、東条英機も、
緒戦のカクカクたる戦果をあげていた時分は、
騎虎の勢いであったが、
一敗地にまみれ、A級戦犯の筆頭として、
板敷きの上にワラ布団をおき、五枚の毛布のほかは、
何も持ち込めない巣鴨の刑務所にぶちこまれ、
軍事法廷に立たされるや、
かつての、総理、陸相、参謀総長、内務、文部、軍需、外務の
各大臣を歴任した威厳は微塵もなく、
孤影悄然たる姿に、人間本来の相を見せつけられた思いを、
皆したはずである。

その東条が巣鴨拘置所で親鸞聖人のみ教えにあい、
仏縁に恵まれ大慈大悲の阿弥陀仏の本願に値うや、
大変わりをするのである。

「自分は神道は宗教とは思わない。
 私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、
 今の政治家の如きはこれを読んで、
 政治の更正を計らねばならぬ。
 人生の根本問題が書いてあるのですからね」

と、それまで信じていた国家神道をも否定、
政治家は親鸞聖人のみ教えを学ぶべきだと
まで主張したという。

また、戦争により多くの人を犠牲にした
自己をふりかえっては、

「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、
 罪人も罪人、ひどい罪人だ。
 私の如きは、最も極重悪人ですよ」

と深く懺悔している。

さらには、自分をA級戦犯とし、
死刑にした連合国の中心的存在の米国に対してまで、

「いま、アメリカは仏法がないと思うが、
 これが因縁となって、
 この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、
 これもまたありがたいことと思うようになった」

と、相手の仏縁を念じ、
1948年12月23日午前零時1分、
絞首台に勇んで立っていったと言われる。
その絞首刑7分前に辞世の句を

「さらばなり 有為の奥山 今日こえて 
       弥陀のみもとに ゆくぞ嬉しき」

「明日よりは 誰にはばかる ところなく 
       弥陀のみもとで のびのびと寝ん」

「日も月も 蛍の光 さながらに 
       行く手に弥陀の 光輝く」

と遺している。
 
人間のつけた、一切の虚飾を振るい落とされた、
そこにあるものは、
かよわき葦のような、罪悪にまみれた自己でしかない。
 
悪夢から覚めた彼は、大罪を犯したが、
多生にも億劫にもあい難い、
弥陀の救いに値えたこと一つが有り難かったと、
絞首台に勇み足で立ったといわれている。
 
財産は、地変に遭えば潰れる。
建物は、災禍に遭えば灰になってしまう。
名誉や地位の箔は、死の前には執着を増すばかり。
妻子は、輪廻の仲だちにしかならない。
 
すべてが、一朝の夢にしかすぎないことが分かれば、
永劫、生き抜く他力の信心を獲られた
親鸞聖人のたくましさも、
蓮如上人の無碍の活動も理解される。
 
人々の、他力本願の無知誤解を打ち破り、
真実の仏法を開顕することは、
親鸞学徒に与えられた無上の使命である。
大いに勝縁をとらえて光に向かいたい。




日々好日(12月22日 徳川家康 三方ヶ原の合戦)

2011年12月22日 | 日々好日
日々好日(12月22日 徳川家康 三方ヶ原の合戦)

生涯にただ一度の敗戦「三方ヶ原の合戦」が、
家康を天下人にしたと言えば意外かも知れぬ。

三方ヶ原は浜松市の北方に広がる、
東西八キロ、南北十二キロの台地である。

元亀3年12月22日。
家康(三十歳)の1万1千が武田軍2万5千と激突し惨敗した。
 
当代随一の名将・武田信玄の遠江侵攻に、どう対処すべきか。
 
籠城持久戦を主張した信長に対し
家康は積極作戦を考えた。
長期の今川氏からの解放感と、
浅井、朝倉を撃破した自信から

〝信玄恐るるに足らず〟

の思い上がりが家康にはあった。

一方、浜松城の堅塁を知っていた信玄は、
大胆な欺瞞作戦で家康を三方ヶ原へと誘いだし、
武田騎馬隊の勇名を欲しいままにした。

信玄が投げたエサに食いついた家康は、
若気の至りと言われても仕方がなかろう。
命からがら彼は浜松城へ逃げ帰っている。

「彼を知りて、己を知らば百戦して殆うからず。
 彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに殆うし」
 
孫子の言を三方ヶ原で、家康は証明させられた。
ただし家康の偉大さは、
敗因が慢心にあったことを深く反省し、
信玄を師と仰いで彼の戦術戦略を学びとったところにある。

浜松城に戻った家康は、苦渋の表情の肖像画を描かせ、
これが現在、徳川家康三方ヶ原戦役画像、
通称「顰像(しかみぞう)」として残っている。

これは一般に、血気にはやって武田軍の誘いに乗り、
多くの将兵を失った自分に対する戒めとして
描かせたとして知られ、
この後に熱くなった自分を抑えるために
絵を見て自重していたという。

三方ヶ原の敗戦から28年たった慶長5年。
石田三成と天下を争った時、
見事に彼はこの失敗の教訓を生かした。

まず石田三成ら反徳川勢に挙兵させるため、
自ら上杉討伐に出かけてスキをつくる。

決戦前日には

〝三成の本拠、佐和山城を衝く〟

との偽情報を流して、大垣城に拠る西軍を関ヶ原へ
誘い出すことに成功し殲滅している。

信玄が自分にとった戦法をそっくり真似たのだ。
失敗を成功の元にするのは、心構え一つである。