日々好日(12月31日 大晦日の除夜の鐘)
除夜の鐘は、大晦日の午後一二時頃から元旦にかけて、
仏教寺院で打ち鳴らす鐘のことである。
百八煩悩(ぼんのう)を除く意味をこめて
108回つき鳴らす百八の鐘ということで、
108の煩悩を除く目的で撞くのである。
除夜の鐘は108回撞かれる。
この「108」という数の由来については
次のような複数の説がある。
1:煩悩の数を表す
眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の
六根のそれぞれに
気持ちが好い・気持ちが悪い・どうでもよいがあって18類、
この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、
この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、
人間の煩悩の数を表す。
2:一年間を表す月の数の12、
二十四節気の数の24、
七十二候の数の72を足した数が108となり、
1年間を表す。
3:四苦八苦を表す 四苦八苦を取り払うということで、
4×9+8×9=108をかけたとも言われている。
鐘を撞く回数は108回のうち107回は大晦日に
残りの1回を新年に撞く。
「無益の歳末の礼かな、
歳末の礼には信心をとりて礼にせよ」
(御一代記聞書)
蓮如上人は、歳末の礼に来た人たちに、
「人並みな歳末の礼は聞きたくない。
それよりも早く信心決定の身になることが、
蓮如の最もうれしいことなのだ」
と仰言っている。
今日も昨日も一昨日も、食て寝て起きて、の繰り返し。
「年金が心配」
「銀行破綻」
「株はどうなる」
と世間事に狂い回っているうち、たちまち命は終わるのだ。
「このまま一生終わっていいか。
こんなことのために生まれてきたのか」
今の流転は永久の流転と驚き立ち、大菩提心をおこさねばならぬ。
大晦日。除夜の鐘、あと何回聞けるだろう。
「存命の中に皆々信心決定あれかし」
と念じ続けてくださる善知識の洪恩に報いる道は、
選択の願海への転入以外ない。
今年一年、煩わされ悩まされてきた煩悩が
消えるようにとの願いが込められている。
その108ある煩悩の中で特に恐ろしい
貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみ)、を三毒といい、
それに疑、慢、悪見を加えて六大煩悩という。
疑とは人や物を疑う心。
慢とはうぬぼれ心。
悪見はよこしまな考えをいう。
人間は「煩悩具足の凡夫」(煩悩のかたまり)であると
仏教で教えられるから、
よく欲や怒りの心は鐘を突いたくらいではなくならない。
煩悩で悪を造り続けている私たちを救ってくださる方は、
「大宇宙広しといえども阿弥陀如来だけなんだよ」
と釈尊は、おおせなのだ。
除夜の鐘は、大晦日の午後一二時頃から元旦にかけて、
仏教寺院で打ち鳴らす鐘のことである。
百八煩悩(ぼんのう)を除く意味をこめて
108回つき鳴らす百八の鐘ということで、
108の煩悩を除く目的で撞くのである。
除夜の鐘は108回撞かれる。
この「108」という数の由来については
次のような複数の説がある。
1:煩悩の数を表す
眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の
六根のそれぞれに
気持ちが好い・気持ちが悪い・どうでもよいがあって18類、
この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、
この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、
人間の煩悩の数を表す。
2:一年間を表す月の数の12、
二十四節気の数の24、
七十二候の数の72を足した数が108となり、
1年間を表す。
3:四苦八苦を表す 四苦八苦を取り払うということで、
4×9+8×9=108をかけたとも言われている。
鐘を撞く回数は108回のうち107回は大晦日に
残りの1回を新年に撞く。
「無益の歳末の礼かな、
歳末の礼には信心をとりて礼にせよ」
(御一代記聞書)
蓮如上人は、歳末の礼に来た人たちに、
「人並みな歳末の礼は聞きたくない。
それよりも早く信心決定の身になることが、
蓮如の最もうれしいことなのだ」
と仰言っている。
今日も昨日も一昨日も、食て寝て起きて、の繰り返し。
「年金が心配」
「銀行破綻」
「株はどうなる」
と世間事に狂い回っているうち、たちまち命は終わるのだ。
「このまま一生終わっていいか。
こんなことのために生まれてきたのか」
今の流転は永久の流転と驚き立ち、大菩提心をおこさねばならぬ。
大晦日。除夜の鐘、あと何回聞けるだろう。
「存命の中に皆々信心決定あれかし」
と念じ続けてくださる善知識の洪恩に報いる道は、
選択の願海への転入以外ない。
今年一年、煩わされ悩まされてきた煩悩が
消えるようにとの願いが込められている。
その108ある煩悩の中で特に恐ろしい
貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみ)、を三毒といい、
それに疑、慢、悪見を加えて六大煩悩という。
疑とは人や物を疑う心。
慢とはうぬぼれ心。
悪見はよこしまな考えをいう。
人間は「煩悩具足の凡夫」(煩悩のかたまり)であると
仏教で教えられるから、
よく欲や怒りの心は鐘を突いたくらいではなくならない。
煩悩で悪を造り続けている私たちを救ってくださる方は、
「大宇宙広しといえども阿弥陀如来だけなんだよ」
と釈尊は、おおせなのだ。