歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

苦にするな金は世界に預け置く

2009年01月27日 | 歴史上の有名人
苦にするな金は世界に預け置く
ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)
1月17日に生まれたアメリカの政治家。
合衆国独立の立役者。
印刷業者であり、科学者でものあり、
多彩な活動をした。
たこをあげて、雷が電気であうことを立証した。

「立てる農夫は座る紳士よりも高し」

このごろの風潮か、サンKの職業が大変嫌われる傾向にある。
汗だくに作業着で頑張る若者と、ブランドの洋服で身を固めている色男。
女性の君はどちらを選ぶかな。
もちろん。とイケメンを愛を語ることを夢みるのだろう。

ある紳士がいった。
「自ら働いて生活するは真の紳士なり、
 自らを怠って人を働かすは盗賊なり」

働くとは「端を楽にする」こと。
周りの人を幸せにと心がける人が本当の働き者である。

儲かるとは「信用ある者にお金が入ってくる」と
いう意味。
不景気が世の中、最後は誠心誠意、信用が勝敗を決める。

ではその信用はどうしてつくの。
信は「人の言葉」を信ずる。
人と約束をし、その約束を果たすために努力する。
それが信用となってゆく。
その信頼を築けば、多くの人を幸せにし、
その為に動くのだ。それが本当の働くの意味。


「苦にするな金は世界に預け置く
  入用ならば働いて取れ」

堪忍袋、値千金

2009年01月26日 | 歴史上の有名人
堪忍袋、値千金
アショカ王
インドのマウリヤ朝の第3代の王である。
漢訳では阿育王と書かれている。生没年は不明。
王権に在位していた時期は紀元前268年-232年とされていて、
インド亜大陸をほぼ統一した。

古代インドにあって仏教を守護した大王として知られている。
伝説では、アショーカ王の通った所は、すべて焼き払われ
草木が一本も生えていない、といわれるほどの暴君だった。
あまりにも無残な戦争(カリンガ王国征服)を反省し、
仏教に深く帰依したとされている。
学問的にはアショーカ王が暴君だったという歴史的資料は
見つかっておらず、暴君伝説は、後の世の創作と考えられている。


昔、インドにアショカ王(阿育王)という名君がいた。
王様は金に恵まれ、財産、地位や名誉、家族にも
不自由はしていなかった。
ところが心が恵まれていなかったのだ。
ある日、王は家来に命じた。
「この世の中で最も必要な宝を天下に求めよ」
すると、一人の家来が「私に」と喜んで命を受けた。
彼は新婚まもなく、この宝を見つけ、出世して
新妻を喜ばせようと考えたのである。

宝探しの旅にでかけたが、王様を満足させるような
至宝を見つけることは困難を極めた.
何しろ、金や宝石は充分に所持している王だ。
国中探しても見つからず、年月が過ぎ去ってゆく。
家に残した最愛の妻のことが気にかかる。

そんなある日。
ある町の骨董屋の前を通り過ぎようとすると、
気になる看板が目に入った。

「堪忍の袋、値千金」

どんな値のある物かと、店に入り、店主にたずねた。
「堪忍の袋、値千金とあるが、そんなに価値のあるものか」
すると主人、
「ハイハイございますとも、使い方によれば千金にも万金にも
値します」
「それならば買い求めよう」
と大枚千金を投じて、堪忍袋を買うことに決めた.

しばらくして店の主人が持ってきたのは、首からかける袋で
中には紙切れが入れてある。
読んでみると、
「長く慮(おもんばか)りて、諦(あきらか)に思惟せよ。
 まさににわかに怒りを行うべからず。
 今日用いずといえども
 たまたま、まさに用ゆる時もあるべし」
と記されていた。

簡単にいうと、こうなるだろう。

怒りの心が起きた時、
そのまま行動するのではなく、
数を数えて、時間をとって、
怒りがおさまるまで動くな。
そして、少し心が落ち着いたら、
怒りの出所を考えよう。
それから行動しても遅くはないぞ。
堪忍の袋、値千金

といったところだろう。

家来は宝物を早く王様に献上しようと
帰りを急いだ。
城に赴く前に愛妻にあっておきたいし、
身支度を整えてからと思い、家に帰ってみた。

ところが昼なのにカギがかかり、家の中からは
妻と誰かの話し声が聞こえる。
「俺がこんなに苦労している時に、あいつは浮気を
していたのか」
妻の裏切りに激怒した家来は刀を抜き、家の中に
暴れこもうとした。その時だった。
刀を抜こうとしていた手にポンと当たるものがあった。
あの首にかけていた堪忍袋だ。

急いで袋の中をのぞいた。
「怒りの心が起きた時、」 
今がその時だ。

「怒りのままに行動するのではなく」
このまま行動すれば、家の中に入って、妻も浮気相手も
惨殺することは間違いない。

「数を数えよ」
家来は怒りながらも数を数えはじめた。
「イチ、畜生、俺がこんなに苦労して帰ってきたのに」
「ニイ、あいつ、誰と浮気をしているのか」
「サン、シイ」
と数えている内に大分、心が落ち着いてきた。

「怒りの出所を考えよ」とある。
そこで思惟した。

「あいつが浮気したからだ。」
「でもまだ浮気したかどうか確証はないぞ」

「しかし昼にカギをかけ、ひそひそ話はおかしいでは
 ないか」
「でも誰と話をしているか、分からないじゃか」

そうだ、刀を抜くのは相手を確かめてからでも遅くないと、
家来は抜きかけた刀を鞘にもどした。

そして、平常心を取り戻し、家の中に入ってみて、驚いた。
夫を待ちわびて妻が大病にかかり、実家の母がその看病に来て、
娘をなぐさめていたではないか。

家来はつくづく思った。
怒りのままで行動していたら、大変なことになっていた。
最愛の妻を殺していただろう。殺さなくても二人の間に
取り返しのつかない亀裂が生じたに違いない。
この堪忍の袋、私にとって千金どころか万金、億金に値した。

貴重な体験を堪忍の袋と共に王に献上したのである。
するとアショカ王。
「よくぞ、素晴らしい宝を見つけてきた。
 この堪忍の袋、お前には千金か、万金かもしれぬが、
 私には大変な宝だ。
 王が怒れば、隣の国と戦争になり、何千、何万の若者が
 戦死し、その家族も泣くであろう。
 それもたった一時の怒りからだ。
 この堪忍袋、億金、兆金に値する」
と大変喜ばれ、これが釈迦の金言を知るや。
厚い仏法の外護者となり、仏典の結集(けつじゅう)の
立役者ともなったのである。

「堪忍のなる堪忍は誰もする
       ならぬ堪忍、するが堪忍」


明日ありと

2009年01月26日 | 仏教
明日ありと
親鸞聖人(1173~1262)
平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した浄土真宗の開祖。僧侶の身でありながら
肉食妻帯を断行。『平生業成』を叫ばれ、全ての人々が生きている間に人生の
一大事業を完成できることを力説。11月28日に死す。

8才にして両親を亡くされた親鸞聖人は、二人の死により、強く無常を知らさ
れた。
そして、9才の時、天台宗の座主慈鎮をたよられ、比叡山で修行に取り組まれる
ことになる。
だが、出家得度を願い出られた日、慈鎮和尚は用事を理由に「明日にしてくれ」と断った。
すると親鸞聖人、一首の歌を慈鎮に手渡された。

『明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは』

慈鎮は驚いた。「明日なき人生だから、今を一生懸命生きよ」と
教えなければならない自分が、幼き子から教えられたのだ。

誰も皆、明日どころか、百年先まで生きることができると考え、
呑気に生きている。
だが、現実はどうか、明日どころか、今晩の命の保証もないのが
我々の姿である。
また、明日がないから、今一瞬を大事に生きようとするのだ。

親鸞聖人は29才の時、比叡山にみきりをつけ下山された。
そして、人生の師、法然上人に巡りあわれ、無碍の一道の身に
なられ人生の大事業を達成されたのである。
世間の批判を承知の上で肉食妻帯を断行されるなど、そのたくましい
親鸞聖人の生き方に人生の師と仰ぐ人も多い。
平生業成は親鸞聖人の教えの一枚看板である。

危険な逆説

2009年01月26日 | 歴史上の有名人
危険な逆説
ウィリアム・ジェームズ(1842~1910)
1月11日にアメリカの心理学者。哲学者。プラグマチズムの提唱者(実用主義)
アメリカ人の思想・心理生活に与えてた影響は著しい。

「悲しいから泣くんじゃない。泣くから悲しくなるんだ」
さすがは心理学者。味なことをおっしゃる。涙を流すということの最初の動機は、
確かに悲しみなのだが、それを持続させ、一層激しくするのは“泣く”と
いう行動が原因となっている、というのだ。

これは危険な逆説ではあるが、世の中には同様の論法は他でもよく使われる。
たとえば、“労働が苦しいから辛いのではなく、辛いと思うから労働が
苦しいのだ。”

“好きだから恋人にするのではなく、恋人にしたから好きになってしまうのだ”

エトセトラ。

しかし、“人生は苦なり”の現実は、いくら“苦しくない”と暗示をかけて
みたところで変わらない。
苦しくないと言い聞かせる努力よりも、苦しみの原因を見つけ出すことが
急務なのでは?

時節到来!

2009年01月24日 | 仏教
時節到来!
一休(1394~1481)
京都大徳寺46世住職。詩・狂歌に巧みで、書画をよくし、諸国を漫遊。
奇行が多かった。
いわゆる『一休とんちばなし』の主人公である。11月21に死んだ。

ある日の大徳寺、和尚のいない間に、一休の兄弟子が、
足利義満将軍が寺にあずけおきし名器ジャコバンの茶碗を壊してしまった。
和尚からどんなお叱りを受けるか判らない。ただ、泣くだけ。
そこで一休がこの罪を引き受けた。

和尚が帰ってくるや、一休いきなり「そもさん」
禅問答の初めの合図で、さぁどうじゃ。
和尚、受けて「説破(せっぱ)」
これまた型どおり、さぁ答えん。
一休続けて「人の生死、これいかん?」
和尚「必ず死す」
一休「物の生滅、これいかん?」
和尚「滅す。この時必ず来る。それを時節到来という」
一休「それを悟った者は?」
和尚「少しも動ぜじ」
これを聞いた一休はよい師匠を持って幸せと、和尚を誉め上げる。
和尚「そんなにほめられても出すものはないぞ」というと、
一休、壊れた茶碗を差し出し、
「そちらになくとも、こちらにございます。
このとおり『時節到来』にございます」

親思う心にまさる親心

2009年01月24日 | 歴史上の有名人
親思う心にまさる親心
吉田松陰(1830~1859)
10月27日に刑死した江戸末期の教育家。革命家。海外渡航をくわだてたが、失敗。
彼の私塾『松下村塾』からは高杉晋作・伊藤博文・前原一誠らを輩出した。

松陰は日本の将来を念じつつ処刑の身となった。
獄中にいる間、彼の心配は故郷にいる親のことである。
ところが年老いた父が病床の中から松陰の安否のみを気遣っていたのだ。
それを知った松陰、処刑の確定を聞く親の悲痛な心境を察し、
辞世の句で読まずにおれなかった。

『親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらん』

本当に親とは有難いもの。
どんなにできの悪い子供でも親だからこそ、高い学費を
出して、大学に通わせてくれる。
このことに気づき感謝する人がいない。
親が子にするのは当たり前になっているからであろう。

しかし、本当に親の恩を感じることができるのは、人生の目的をはたし、
生きている喜びを知った者でしかできない。
「お父さん、お母さん、こんな幸せな身になれたのも、
お二人のお陰です」と
言える日も近い。そこが決勝点。

親の字の由来(木の上に立って見る親心)

2009年01月23日 | 漢字
親の一字は、わが子の安否を気づかう、切ないまでの親心、そのものである。
次のような話が伝わっている。

昔、中国の揚子江の上流に、母と子の二人で暮らす親子がいた。
息子は成長するにつれ、
「都へ行って、学問に励み、出世したい」
と夢見るようになった。
しかし、家に、そんな余裕はない。母親は我が子の願いをかなえてやりたいと、
方々から借金をして学費を工面してくれた。
「この母を不幸にしてはならない」
彼は、固く誓ったことは言うまでもない。
いよいよ都へ旅立つ日、揚子江の岸辺は、激励に集まった人々であふれた。
片田舎から中央の大学へ若者を送り出すことは村の誉れであったのっだ。
彼が乗った船が岸を離れると、当然ながら、村人はさっさと帰ってしまう。
ただ一人、母親だけは、いつまでも見送っていた。
岸から船が見えなくなると、今度は近くの山へ登った。
頂上の木の株の上に立ち、船の姿が完全に消えるまで、
我が子の無事を念じ続けるのであった。
都に着いた息子は、一生懸命、勉学に励んだ。
彼は、親を安心させようと、日常の様子や大学の成績を手紙に書いて、
毎週、故郷へ送っていた。
母親からの返事は、いつも、
「体は大丈夫か。早く帰ってきておくれ」
と短く書かれているだけだった。
親の苦労を知っている彼は、人一倍、努力した。
その結果、大学を主席で卒業。役所へ入っても、異例の早さで出世を果たした。
そして、ついに故郷の長官に就任し、村へ帰れることになったのである。
母親の喜びは、例えようがない。息子の顔を早くみたい一心で、
船が到着する七日前から、揚子江の岸へ行き、指折り数えて待っていた。
いよいよ、その日が来た。
母親は夜明けとともに近くの山へ駆け登る。
頂上の木の株の上に立ち、我が子が乗った船が無事に到着することを念じながら、
じっと川下を見つめている。
昼過ぎになって、ようやく小さな船影が現れてきた。
母親は、山をくだり、岸辺へ急いだ。
村人たちも大勢集まってきている。
立派になった彼を迎えて、
「偉くなったのう。村一番の出世だ」
と、人々の大歓声がこだまする。
しかし、母親は、
「無事でよかった。元気でよかった」
と、ただ涙を流して喜ぶばかりであった。

村人は、彼が出世したからこそ祝ってくれたのだ。
しかし、母親にとって、子供が出世しようが、夢破れて帰ってこようが関係ない。
元気でいてくれることが、一番の願いなのである。
たとえ、大学の成績が悪く、落第したとしても、同じように山頂の木の株に
立って、息子を待ちわびてくれるであろう。

(「親のこころ おむすびの味」より)

家書(家からの手紙)

2009年01月23日 | 歴史上の有名人
家書(家からの手紙)
袁凱(中国明朝)
明朝初期詩の第一人者。字は景文。袁白燕と称される。華亭(現・上海市松江)の人。洪武三年(1370年)に御史に任じられ、活躍する。

彼の詩の中で一番心に沁みるのが『家書』であろう。
親ごころが見事に詠われている。

家書(家よりの手紙)

江水三千里-江水、三千里
家書十五行-家書 十五行
行行無別語-行行 別語なし
只道早還-ただ、道う(いう)、早く郷にかえれと

・江水三千里:長江のはるか遠いところに故郷がある。
       長江とは中国最長の河・下流部は揚子江と言われる

・家書十五行:遙かなところからわざわざ来たのに手紙文は、たった十五行だけの       簡潔なものである。

・行行無別語:どの行(ぎょう)にも、外(ほか)のことは載っていない。

・只道早還:ただただ、早く故郷に還ってこいとのみ言っている。 

仏教に親の大恩十種が教えられているが、その9番目に遠行憶念の恩がある。遠くへ子供が行けば行く程、親の子に対する想い(心配)が強くなる。

これの歌にまつわる故事があるので次に紹介しておこう。
親という字が「木の上に立って見る親心」といわれる意味がしみじみと味わえる。

悪魔の辞典

2009年01月23日 | 歴史上の有名人
悪魔の辞典
アンブローズ・ピアス(1842~1914)
アメリカの小説家。毒舌のピアスをいうアダ名があった。その著書『悪魔の辞典』は鋭い皮肉の書で、芥川龍之介も影響を受けたと推察される。3月1日死す。

冷笑の書『悪魔の辞典』をのぞいてみよう。

・熱狂 ⇒ 少年がかかりやすい病気で経験という外用薬と、後悔という内服薬を
       少量ずつ服用すれば治る。

・一年 ⇒ 三百六十五日の失望からなる一期間。

・幸福 ⇒ 不幸な人を見て、喜ぶ快感

・友情 ⇒ 天気のよい時は二人乗りだが、天気の悪い時は一人しか乗せられない
      そんな程度の大きさの船。

皮肉屋という奴は世の中をひねくれてしか、見れないのだろうか?
それとも彼らの主張があまりにも真実を言い当てる為、世間の人が皮肉ったのだろうか?
どちらにしても人生の裏表、知っておく必要はあるようだ。

なせばなる

2009年01月22日 | 歴史上の有名人
なせばなる
武田信玄(1521~1573)
4月12日に死んだ戦国時代の武将。甲斐国(山梨県)の領主。
経世、兵法、文筆などに見るべきものがある。上杉謙信との川中島の戦いは有名。

『なせばなる、なさねばならぬ、なる業をならぬと捨てる人のはかなさ』
(武田信玄)
『なせばなる、なさねばならぬ何事も、成さぬは人のなさぬなりけり』
(東京オリンピック女子バレー金メダル監督:大松博文)

人生の成功者と敗北者。一体どれだけの差があるのだろう。
「私には才能がないから」
と最初からあきらめている人もいるが、一口に能力才能の差と言えないものがある。

性格一つにしてもオッチョコチョイの人は今やっていることをしかりやれば、
活発な人と賞賛される。

のんびりした人も次にすべき仕事を用意してやれば、
落ち着きのある人格者として評価される。

要するにどれだけ活かせるかにかかっている。できないのではない。できるところまで自分を活かしていないだけ。

それも経験は最良の教師だが、あまりにも高い授業料を払い過ぎている。
経験を活かしてくれる素晴らしい人との出会い、教えとの出会い、これを大切にし、一度限りの人生、悔いなく生きたいものだ。