歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人(孤独の死を遂げたノーベル)

2010年12月21日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(孤独の死を遂げたノーベル)

巨万の富を築いたノーベル。
これほどの富と名声を
持っていながらも、
家族や肉身にみとられることもなく、
冷え冷えとした孤独のうちに
生涯を終えた。

ヨーロッパの各地に
邸宅をもっていたが、
死んだのはイタリアの
港町サンレモにある
別荘だった。

地中海の青い海を見下ろす
広いオレンジ林にかこまれた家で、
研究所も付属している。

死ぬ2週間前から、
彼はここに滞在していた。

社交ぎらいな性格だったので、
多忙な実務から逃れては、
研究所にこもるのが
好きだったのだ。

うつ病の気があって、
気がめいると
奇妙な著作にふけった。

へたくそな詩や戯曲、
あるいは苦渋をなめた
特許裁判のパロディ小説などを書いた。

ノーベル賞に文学部門があるのは、
おそらく、この文学愛好癖のせいだろう。

狭心症の持病があって、
皮肉にもダイナマイトの原料である
ニトログリセリンを
治療薬に服用していたが、
直接の死因は脳溢血だった。

5ヶ国語を自由に話す
国際人だったノーベルなのに、
脳の発作におそわれると、
母国語の外は忘れてしまい、
死でつぶやく言葉が
フランス人の召使には分らなかった。

かろうじて「電報」という単語が
聞き取れたので
ただちにノーベルの甥たちへ
電報を打ったが、すでに手遅れで、
1896年12月10日の午前2時ごろ、
この一人ぼっちに富豪は
異国の地で死んだのである。

彼が残した巨万の財産は、一体
誰が相続するのか。
世間は注目したが、
翌年、銀行に保管してあった
遺書が公開されると
その意外な内容に人々は驚いた。

換金できる全財産を
安全な有価証券に投資して、
毎年、その利子を
5つの賞に分配すること、
つまり、ノーベル賞を
設定した遺言であった。

死ぬ一年前に書いたものでだが、
法律家に相談しないで作成したため、
不満な点があったので、
遺産をあてにしていた親類から
無効の訴えがでたり、
また平和賞の選定を
他国のノルウェーに
まかせたのは非愛国的だと
非難された。

だが、それよりも、
もっと意外だったのは、
個人に23歳も年下の
若い愛人がいたことが
暴露されたのである。

彼女は名前をゾフィーといって、
ユダヤ系の小柄な美人だった。
ノーベルが43歳の時、
ウィーン郊外の温泉町の
花屋で知り合って、
彼女の不幸な身上に同情して、
一目ぼれしたのである。

パリの別邸にかこって、
贅沢な暮しをさせながら、
自分の社会的な地位に
ふさわしい教育を身に
つけさせようとして努力したが、
彼女はそんな気難しい
忠告などには耳をかさず、
おしゃれと遊びに夢中になった。
チャーミングだが、気まぐれで
遊び好きな女だったのである。




人間の実相を語る歴史人(ノーベルの発明したダイナマイト)

2010年12月20日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(ノーベルの発明したダイナマイト)

毎年12月10日には、
スウェーデンの首都で
ノーベル賞の授与式が行われる。
この日はアルフレッド・ノーベルの
命日だからである。

彼は生まれつき病弱で、
文学の好きな内気な青年だったが、
発明狂の父が機雷の製造に
熱中していたので、
父の仕事を手伝っているうちに
火薬に興味を持った。

当時、火薬といえば
昔から使われていた
黒色火薬しかなかったが、
彼は爆発力の強いニトログリセリンに
目をつけた。

だが、これはわずかな震動でも
爆発する危険な液体である。
輸送中に、たびたび爆発をおこして、
その事故で彼の弟も死んでいる。

そこで、彼は苦心の研究の末、
これを多孔性の珪藻土にしみこませて、
安全で強力な新火薬を発明した。
これがダイナマイトである。

それ以前にも、彼は起爆用の雷管を
発明している。
ダイナマイトより、むしろ雷管の方が
火薬技術面では大きな功績だと
いわれている。

この二大発明によって、地球の表面が
変化するほどの大規模な土木工事が
可能になり、それと同時に
戦争の破壊力も増大したのである。

事業家としても、
優れた才能をあらわして、
世界各国にダイナマイト工場をつくり、
国際トラストと組織して、
40歳で早くも世界的な富豪になった。

科学史に残る発明家の中で、
彼ほど自分の発明品の
企業化に成功して、
巨万の富を築いた者はいない。

ダイナマイトと雷管の成功で
巨万の富を築いたノーベル。
これほどの富と名声を持っていながら、
なぜか彼は一度も結婚はしなかった。

「金で雇った召使いに
 取り囲まれるだけで、
 誰一人、やさしい手で私の目を
 閉じてくれる者がいないまま」

と晩年、彼はしばしば
手紙に書いている。





人間の実相を語る歴史人(マリリン・モンローの不可解な孤独死)

2010年12月19日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(マリリン・モンローの不可解な孤独死)

映画界や音楽界とマフィアの関係は、
一般に知られている以上に
深いものがある。

マリリンとマフィアのつながりも、
間違いなく存在した。

マフィアを使って
のし上がっていったのが
フランク・シナトラである。

マリリンとフランク・シナトラは
一時愛人関係にあった。

一流の役者とはけっして
言えないB級俳優のフランク・シナトラには、
ひとつだけ大きな取り柄があった。
それは、彼がアメリカ大統領
ジョン・F・ケネディーの妹と
結婚していたことである。

シナトラは役者としての知名度を活かして、
女優たちとケネディー大統領の
乱交パーティーを企画した。

そこには当時司法長官として
マフィアと対決姿勢を
とっていた
弟のロバートも参加していた。

マリリンはこうして
ケネディー家と関わりを
もつようになった。

初めは兄のジョンと
付き合っていた彼女は、
その後お下がりとして
回されるように
弟のロバートとの恋に
おちたと言われている。

すでに結婚していたロバート。
法務長官という立場にいる人間に
マリリンはじゃまな存在に
なっていった。

それどころか、
ケネディー兄弟の存在によって
危険な立場に
追い込まれつつあった何者かが
マリリンとケネディー兄弟の
関係を知り、
その証拠をつかむことで
二人の追い落としを企んだ。

1962年8月5日、
マリリンは自宅の寝室で全裸で
死んでいるのが発見された。
没年36歳だった。

死の直後、マスコミでは

「死因は睡眠薬の大量服用に
 よる急性バルビツール中毒で、
 自殺の模様」

と大々的に報道され、
世界に多大な衝撃・悲嘆が
駆け巡った。

しかし、彼女がベットに
倒れ死んでいたのを
発見されたというのは、
でっちあげらしいと
いうことが後に
明らかになった。

彼女は倒れる寸前まで
誰かと電話で話していて、
危険な状態にあることを
知った誰かが彼女のもとに
駆けつけ救急車で
搬送していたことも
明らかになったのだ。

そして、その救急車には
ロバート・ケネディーが
乗っていた。
 
このことがもし公になれば
当然大スキャンダル事件に
発展することは明らか。

こうして、彼女の死は
謎に包まれたまま
事故死と言うことで
処理されることになった。
 
あまりに悲惨なマリリンの死。

生まれてから死ぬまで
独生独死・独去独来
一人ぼっち。

彼女の心を分かってくれた人は
結局一人もいなかった。


人間の実相を語る歴史人(マリリン自殺未遂)

2010年12月18日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(マリリン自殺未遂)

マリリンはどんどん有名に
なっていった。

しかし、自分の実力に対する疑問は
逆に増していった。

彼女は演技の勉強だけでなく、
肉体の鍛錬にも
気をつかうようになる。

そんな努力だけでは
不安感をぬぐい去ることはできず、
彼女はしだいに精神的な
安らぎを求めるために
アルコールやクスリに走り始める。

それまで以上に不眠症がひどくなり、
夜中に電話をかけまくったり、
パーティーで出会った男性と
簡単に一時の恋におちるなど、
生活はどんどん荒れていった。

この頃、彼女に惚れ込み、
死ぬまで彼女を愛し続けることに
なる男が現れる。

マリリン・モンローの二人目の夫、
ジョー・ディマジオ。
 
ジョー・ディマジオと言えば、
アメリカの野球界のヒーローとして
ベーブ・ルースに匹敵する存在である。

56試合連続安打という記録は
特に有名である。

1952年、すでに引退していた
ディマジオは、まだ38歳で
おまけに独身でした。
彼はある日、野球場でポーズをとる
マリリンの写真を雑誌で見て、
彼女をディナーに誘います。
すると、二人は
すぐに親しくなり
肉体関係をもつにいたった。

しかし、サンフランシスコ近郊の
漁師の家に生まれ、
野球しか知らずに育った彼に、
彼女が求めていた「知性」を
求めることは無理でした。
そのうえ、彼は異常なまでに
嫉妬深い正確で、
彼女に対して暴力を
振るうこともたびたびあった。

それでも彼の正直さ、真面目さ、
そしてしつこいまでの
プロポーズに根負けしたのか、
マリリンもついに結婚を承諾。

1954年、二人はついに結婚式を挙げ、
新婚旅行として日本を訪れた。
しかし、この旅行中すでに二人の関係は
終わりを向かえようとしており、
次なる恋のお相手、
アーサー・ミラーとの
出会いが訪れようとしていた。

ジョー・ディマジオが
マリリンを肉体的に
満足させたと言われるのに対し、
アーサー・ミラーは
彼女が求めていた
「優しい父性」
の持ち主であり、
「優れた知性」
の持ち主だった。

映画監督カザンを通して
彼女はアーサー・ミラーと
出会った。

1956年に彼女はディマジオと
正式に離婚し、ミラーと結婚した。

1957年、彼女は念願だった
愛する人の子をお腹にやどすが、
結局流産してしまう。

そのショックもあり
大量に睡眠薬を飲み
昏睡状態に陥るのだった。

こうした、自殺未遂はその後、
何度も繰り返されることになる。

1989年、彼女は
フランスを代表する男優兼歌手の
イブ・モンタンと
映画「恋をしましょう」で
共演する。

夫との仲がすでに
修復不能になっていたこともあり、
マリリンは彼との恋におちる。
しかし、妻がいたイブ・モンタンは
不倫関係に終止符を打つことになる。



人間の実相を語る歴史人(マリリン・モンローの大女優の道)

2010年12月17日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(マリリン・モンローの大女優の道)

映画女優としてのマリリン。
きっかけは、モデルに
なったことだった。

1952年、20世紀フォックスを
首になり無一文だった時に
撮った彼女のヌード写真が
カレンダーとして世に出、
一躍大きな話題と
なっていったのである。

ところが、このスキャンダルは、
マリリン自身が
自ら仕掛けたとも言われている。

実際彼女は見事大衆のアイドルとなり、
知名度は全米規模に広がった。

マリリンは端役ながら
映画出演のチャンスをつかむ。

この頃、既にマリリンは
忘れられない印象を
残していた。

52年の「ノックは無用」で
イカれたベビー・シッターを好演、
二十世紀フォックスは
大々的な宣伝で彼女を
セックス・シンボルに
仕立てたのである。

そして、53年「ナイアガラ」での
お尻を振って歩く
モンロー・ウォークで人気爆発。

お尻を揺らす
彼女独特のあの歩き方にも、
しっかりとした計算があった。

彼女は片方の靴のヒールを
4分の1インチ短くし、
わざとバランスを崩していたのだ。

彼女のセクシーさの影には、
したたか計算があった。

マリリンはハリウッドの
スーパースターになった。

セックス・シンボルとして、
マリリンの人気は
とどまるところを知らなかった。
 
しかし、それはマリリンが
本当に臨望んでいたことでは
なかった。

野心・向上心に溢れ、
勉強熱心でもあるマリリンはやがて
ハリウッドでスターダムへと
のしあがってゆく。

映画界での華やかな成功とは
裏腹にマリリンは体制と
戦っていた。

映画界やマスコミはマリリンを
映画の役そのままに、

「官能的な肉体を持つ頭の弱い女」

に位置づけようとしていた。

そんな中、インタビューで

「寝ている時は何を着ているのか」

という質問を受けて
着る=wearとかけて

「シャネルの5番よ」

という返答をしたのである。

これが有名な

「マリリンは寝る時に
 シャネルの5番をまとっている」

という逸話となったのである。

演技派女優として、
シリアスなドラマを演じることを
目指していたマリリンは、
スターの座を捨てて
ニューヨークに行き、
演技の基本から勉強しなおす。

しかし、大衆が彼女に望んだのは、
あくまでもセックス・シンボル
としてのマリリン・モンローだった。

マリリンは、決して演技者
としての正当な評価を
得ることはなかった。

それは、女優マリリン・モンロー
にとって大きな悲劇であった。



人間の実相を語る歴史人(セックス・シンボル マリリン・モンロー)

2010年12月16日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(セックス・シンボル マリリン・モンロー)

映画「七年目の浮気」で
スカートがふわりと舞い上がる、
あの有名なシーン。

20世紀を代表する
セックス・シンボルとなったのが
マリリン・モンローである。

マリリン・モンロー、
本名ノーマ・ジーン・ベイカーは
1926年6月1日、
ロサンゼルスに私生児として
生まれた。

母の名はグラディス。
父の顔をマリリンは知らない。

「お父さんよ」

と母が見せてくれたのは、
クラーク・ゲーブルの写真。

だからマリリンにとって
クラーク・ゲーブルは
憧れの男性だった。

幼い頃のマリリンは、
とても不幸だった。

母グラディスは、精神に異常をきたし、
マリリンは親戚の間を
たらいまわしにされた。

そんな生活の中、
彼女は10歳を前にして
暴力によって性体験を
させられる。

15歳の時には妊娠、
出産を経験し、
肉親の愛情を知らずに
育った。

マリリンの最初の結婚は
16歳の時である。

彼女は里親の都合によって、
無理やり近所の若者と
結婚させられる。
 
1944年、18歳の時、
夫が海軍に入隊して
不在だったこともあり、
彼女はバーバンクの
兵器工場で働き始める。

しかし、そんな油まみれの
工場内で働く人々の中で、
彼女は一際光り輝き、
回りの男たちの視線を
釘付けにしていた。

たまたま工場を取材に
来ていた軍の写真班の
ひとりが彼女に声をかけ、
それをきっかけに彼女は
モデルとしての活動を
スタートさせることになる。

1945年、彼女は
有名なカメラマンのモデルとなり、
彼と恋におちる。

軍隊から戻った夫は、
すぐに彼女と離婚。

彼女はスターを夢みて、
ハリウッドへと旅立った。

そして、翌年20世紀フォックスとの
契約にこぎ着ける。

ここにマリリン・モンローと
いう名の女優が誕生した。

まさに、ここまでは
シンデレラ物語と言えるかも
しれなかった。

しかし、両親のいない孤独な
幼少時代を送った彼女は
生涯父親の代わりとなる
男性を求め続け、
失われた家庭を取り戻すために
子供を産もうと必死になる。

彼女がまだ無名だった
1947年頃、
彼女は俳優志望の
同じ年の男と
同棲していたことがある。

この時、彼女は
妊娠してしまい女優を
目指すために
中絶手術を受けた。

彼女はこうした手術を
この後少なくとも13回以上も
受けることになり、
若くして子供を
産めない身体になってしまう。

そして、このことが後に
彼女を精神的に苦しめる
ことになる。

この時の相手こそ、
あの有名なチャーリー・チャップリンの
息子だった。
無名のまま、42歳の若さで
この世を去ったダメ男だったが、
彼女は本当に愛していた。





人間の実相を語る歴史人19(宮本武蔵 五輪書)

2010年12月15日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人19(宮本武蔵 五輪書)

宮本武蔵の自戒の書に「独行道」がある。
この書は、、正保2年(1645年)5月12日、
武蔵が死ぬ、わずか7日前に
書きあげられたものだ。その中に、

「世々の道に背くことなし
 自他ともに恨みかこつことなし
 神仏を尊み 神仏を頼まず」
  (独行道)
 
そこには、剣で勝つことのみに
とらわれたかつての面影はない。
書画に親しみ、
山の洞窟の中で座禅の日々を送る。
謎めいた晩年を送る武蔵が、
その謎に応えるように筆を執ったのが
『五輪書』であった。

「五輪書」は、武蔵が晩年に至って、
終生の思いをうち込んで
書き残したものである。

すなわち武蔵の創始にかかる二天一流の
中核的理論を示したものだ。

しかしながら「五輪書」は、
他流の武芸書に見られるような
形式にとらわれた秘伝、奥書の類ではない。
それは五十余年を剣ひとすじに生き,
兵法の研究に過ごした武蔵の心である。

仏典、儒学、天文、諸芸諸道に参研して、
身体ひとつを犠牲にして体得した
精密な哲学書といえよう。

「五輪書」は、仏説の地水火風空の
五大にとって五巻きに著わしたものである。

第一の「地の巻」においては、
兵法の総論、二天一流の基盤を説いている。

第二の「水の巻」においては、
二天一流の太刀筋を述べている。
すなわち身なりのこと、身のつけ方、
太刀の持ち方、足つかいなど,
この流儀を具体的に詳細に説いている。

第三の「火の巻」においては、
勝負のことを具体的に述べている。
すなわち場所の取り方、先手のこと、
景気を知ることなど、
太刀そのものの用法のほかに
智力を用いて戦う平常心の保持を
心理的に、力学的に
理解しやすいように説いている。

第四の「風の巻」においては、
他流の兵法について述べている。
すなわち他流の特徴を比較し、
学び、自己の修養に資し、
二天一流の本質をくり返し語り、
自己の発展、完成をはかるべきである
と説いている。

第五の「空の巻」においては、
動中に静を、静中に動をさぐり、
人間本然の心に反発することなく、
渾然一体となり、
天と地とも人融合すべきである
と述べている。
すなわち自由自在、
とらわれることのない融通無碍にして
公明正大な心境に己の道は開ける
と説いている。

寛永20年(1643年)熊本市近郊の
金峰山にある岩戸の霊巌洞で
『五輪書』の執筆を始め、
そして、思いを書き上げた7日後、
武蔵は62歳で生涯を閉じた。

人間の実相を語る歴史人(宮本武蔵 巌流島の決闘とその後)

2010年12月14日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(宮本武蔵 巌流島の決闘とその後)

宮本武蔵と佐々木小次郎が
巌流島で決闘したのは
慶長17年(1612年)4月13日のこと。
約束の時から遅れること2時間、
武蔵は櫂の木刀をひっさげ素足で
船から降り立った。

小次郎は待ち疲れていた。
小次郎はいらだち,刀を抜き放ち、
鞘を海中に投げ捨てた。

武蔵が近づくとともに,
刀を真っ向に振り立て,
眉間めがけて打ちおろした。
同時に武蔵も櫂の木刀を打った。
その木刀が小次郎の額にあたり,
たちどころに倒れた。

小次郎の打った刀は,
その切先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ,
鉢巻は二つになって落ちた。

武蔵は倒れた小次郎を見つめ、
また木刀を振り上げて打とうとする瞬間、
小次郎が刀を横にはらった。
武蔵の袴の裾を三寸ばかり切り裂いた。
が、武蔵の打ちおろした木刀は、
小次郎の脇腹、横骨を打ち折った。
小次郎は気絶し,口鼻から血を流した。
武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい,
死活をうかがい,一礼して立ち去った。

小次郎の唇に、微かな笑みが浮かんだ。
そして、まだ見開いたままの小次郎の両目から,
急に,生きている光が失せていった。
ギラギラと光る海を,武蔵の小舟は,
東へ向かって流れを変えた潮に乗り、
下関のほうへ、ひた走るように
影を小さくしていった。

時に武蔵29歳。
相手は日本一の剣豪と称された佐々木小次郎、
勝負は一瞬にして決まったが、その勝利は、
日本一の剣豪になった武蔵にとっては、
新たな壁との闘いの始まりにしか過ぎなかった。
 
この時を境に、武蔵の消息も
歴史の表舞台から消えるのである。

確かなことは、武蔵が追う立場から
追われる身になったこと。
それは、無敵の強さがはからずも
もたらした思いがけない「心の地獄」であった。
 
「完全な強さとは何か…」
武蔵の20年に及ぶ旅で
立ち寄ったと言われる場所。
それは、多くの寺。
自分の手で命を奪った者を供養して回る。

寛永17年、既に50歳を過ぎた武蔵は、
熊本の名君・細川忠利の招きで
歴史の表舞台に戻ってきた。
しかし武蔵は、かつての荒々しさは微塵もなかった。

宮本武蔵は熊本の細川藩主・細川忠利公の客分として、
57歳の時に熊本にやってくるのある。
熊本城の東側に屋敷が与えられ、
そこで生活する。

宮本武蔵の仕事は、
兵法者として剣の指南をしたり、
細川忠利の相談役になったりすることだった。

余暇には、書画や工芸をたしなんでいた。
武人として名高い宮本武蔵だが、
意外なことに、茶や座禅をしたり、
書画の製作をしたりと、
芸能面にも長けていた。

剣禅一如の境地が見事に描かれた作品
文武両道の人だったことを伺える。

宮本武蔵は熊本にて、
二天一流(通称二刀流)を大成している。

宮本武蔵は、数え年13歳という若さで
最初の決闘に勝利して以来、
28~9歳まで、60回以上の決闘に負け知らずの
強者だった。

しかし、彼を変えたものは何だったのだろう。



人間の実相を語る歴史人(孤独な剣 宮本武蔵)

2010年12月13日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(孤独な剣 宮本武蔵)

剣の道を追い求め、
二刀流を編み出した宮本武蔵。

彼がその果てに見出した《道》とは、
どんなものだったのだろうか。
 
戦国末期、現在の岡山県で誕生した宮本武蔵。
生後すぐに母親に先立たれ、
彼は厳しい武術家だった父のもとで
荒々しい野生児のように育つことになる。

非情の乱世にあって喧嘩も遊びも
“人に勝つこと”だけに
少年武蔵のエネルギーは、
その一点に向けられていく。
 
10歳で父の元を飛び出した武蔵は、
16歳の時に関ヶ原の合戦へ…
天下分け目の決戦に出世を目論んだものの、
武蔵がつかえた西軍・石田三成が敗北。
出世の道を断たれた武蔵は、
一人、剣術の修行に
打ち込み続けることになった。
 
青年武蔵が求めたもの、
それはひたすら「完全な強さ」であった。

武蔵は生涯六十数回、
真剣勝負をしたが一度も
遅れをとったことがなかった。
 
頼るものは、己の肉体と剣のみ。
生死の狭間で闘志を剥き出しにする
野性の剣は誰に師事することもない
孤独な剣であった。

情もためらいも切り捨て、
妻を娶ることさえも捨てていく。
そして、誕生したのが二刀流だった。
 
がむしゃらに「勝利」を求めた
武蔵の剣は時に、向かってきた
少年さえも切り捨てる非情な
“修羅の剣”であった。

真剣勝負をしたが一度も
遅れをとったことがなかった。
その決闘で吉岡一門と
三度にわたる決闘は有名である。

宮本武蔵は京に上り
「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。

最初に吉岡の嗣である清十郎と
洛外蓮台野で戦った。
武蔵は木刀の一撃で清十郎を破った。

あらかじめ一撃で勝負を決する約束だったので
命は奪わなかった。
清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、
治療の後、清十郎は回復したが、
兵術をやめ出家してしまった。

その後、吉岡伝七郎と洛外で戦った。
伝七郎の五尺の木刀を、
その場で武蔵が奪いそれで撃ち倒した。
伝七郎は亡くなった。

そこで、吉岡の門弟は秘かに図り、
兵術では武蔵に勝てないので、
吉岡亦七郎と洛外下松で勝負をする
ということにして、
門下生数十人に弓矢などを持たせ、
武蔵を殺害しようとした。

これが一乗寺下り松の戦いだ。
相手は清十郎の嫡子又七郎を
奉じた七十名余の門弟たちであった。

武蔵の戦法は凄かった。
若干十才であったが、
総大将の又七郎を一刀両断で
斬り捨てた。
不意をつかれ呆然自失となった
門弟達は武蔵の敵ではなかった。
阿修羅の如く振りかざす武蔵の剣の前に
門弟達は次々、斬り倒されていったのだ。

この戦いにより、吉岡兵法家は滅び絶えた。


人間の実相を語る歴史人(灯台もと暗し))

2010年12月12日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人(灯台もと暗し))
    
我々の眼は万物を見ることが出来るが
視力の届かぬ遠方のものは
見ることが出来ないと同時に、
余りに近すぎるものも
見ることが出来ない。

目、目を見ることあたわず、
刀、刀を切ることは出来ないのである。
皆も一生に一度なりとも
他人の顔を直接見るように
自分の顔を見たいと
思うことがないだろうか。

これは到底不可能なことであろう。
どんな利発な人間でも
自分の眼で自分の顔を
直接見ることは出来ない。

それは余りにも近すぎる存在だからである。

昔から

「灯台下暗し」

という諺がある。

千里の遠きを照らす灯台も、
その下は真っ暗なものであるように、
我々は他人の事になると善も悪も、
殊に悪いことについては目がつくが、
自分の事になると白痴同様なのは
自分が自分に近すぎるからである。

灯台下暗しということわざの意味だが、

「身近の事情はかえって
 分かりにくいものである。」

という意味のことわざである。

本来は「灯台」とは、
船の目印になる岬の「灯台」ではない。

「灯台下暗し」の「トウダイ」、

実は「灯明台(とうみょうだい)」
のことを指している。 

灯明台とは昔使われていた、
油やろうそくを燃やして明かりと
する室内照明具のこと。

「燭台(しょくだい)」

とほぼ同じ意味だ。

灯明台の芯に火をつけて
辺りを明るくしても、
台の足元は暗くなっている。

暗い部屋でろうそくをつけて見れば
このことがよく分かるだろう。
今なら懐中電灯で前を照らしても
肝心要の足元を照らすことはできない。
真っ暗のまま。

そこから一番分っていそうで
分っていないのが自分のことだから、
灯台下暗しといわれるように
なったのだ。

ところが、現在は灯明台など
使われてはいない。
海を照らす灯台がピッタリくる。

日本一高いところにある灯台は
日本海に面した
兵庫県の余部埼灯台である。

伊笹岬に立つ日本一標高の高い灯台で
光達距離も日本一である。

では、この灯台の光の
とどく距離はというと、
余部埼灯台のレンズは250ワットの
メタルハライドランプを使って
光は、約73キロメートルの
遠くまで届くそうだ。

ところが、その灯台の下は
真っ暗闇である。

何事に置いても、
意味さえ間違わなければ
ことわざも変化して
いっていいのでは。