歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

人間の実相を語る歴史人12(旅人 松尾芭蕉)

2010年12月01日 | 人間の実相を語る歴史人
人間の実相を語る歴史人12(旅人 松尾芭蕉)

旅人とは我々一人一人のことだ。
我々のことを旅人に譬えられたのは
何処からやって来たのか
又、いずこへ行くのか知らないが
何処かへ向かって進んでいる。

丁度旅人が旅を続けるのに
似ているからであろう。

人生を旅に例えた人は多くいる。

その中でも俳聖といわれた松尾芭蕉は

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

の辞世の句を残し、この世を去った。
その人生もまさに旅であった。

江戸前期の俳人松尾芭蕉の姓名は
松尾宗房である。

1644年に
伊賀上野(現在の三重県上野市)の城東、
赤坂の農人町に生まれ、
元禄7年(1694)10月12日に
大阪で客死、遺言によって
近江の粟津義仲寺に葬られた。

十代の頃から俳諧に手をそめ、
最初の入集は1664年、
当時、藤堂藩伊賀付士大将家の嫡男
藤堂蝉吟の連衆として
季吟系の貞門俳諧に遊んだが、
蝉吟の死で、出仕の望みを失い、
俳諧師を志し、72年に江戸に下った。

以後、新進俳人として頭角をあらわした。

第一次行脚(1684~85)は、
名古屋連衆との出逢いで
『冬の日』の成果を生んだ。

「古池や蛙飛びこむ水の音」

はこの頃の作である。

『野ざらし紀行』は、
1684年秋の8月から翌年4月にかけて、
芭蕉が門人の千里とともに
出身地でもある伊賀上野への旅を
記した俳諧紀行文。
「野ざらし」は、
旅立ちに際して詠んだ一句

「野ざらしを心に風のしむ身かな」

に由来する。
芭蕉は前年に死去した母の墓参を目的に、
江戸から東海道を伊勢へ赴き、
伊賀上野を経て大和国から美濃国大垣、
名古屋などを巡り伊賀で越年し、
京都など上方を旅して熱田に一時滞在し、
甲斐国を経て江戸へ帰還している。

何かしら悲壮感が漂っている。

第二次行脚(1687~88)は、
歌枕行脚から『奥の細道』に
よって知られる奥羽加越の
行脚(1689)と続き、
その体験をとおして、
芭蕉は蕉風の思想と表現に開眼した。

「旅人と我が名呼ばれん初時雨」

『笈の小文』の旅の冒頭の句である。

旅人であることを誇りを持って
楽しむような風情の句である。
自分は旅人であることを
運命づけられた者であると
いうことを自覚し、
それを受け入れそれを
楽しんでいる風情の句である。

だからこの
「旅人と我が名呼ばれん」
というのは、
周囲の人々からでもあり、
またいわば歴史の流れの中でも
そう呼ばれたいという感じが
するのである。

自分の一生は旅人と自覚し受け入れ、
それに身を任せようとする者の
気持ちであろう。

『奥の細道』の冒頭はあまりにも有名だ。

「月日は百代の過客にして、
 行かふ年も又旅人也」

月日というのは、
永遠に旅を続ける旅人の
ようなものであり、
来ては去り、
去っては来る年も
また同じように旅人である。

最後の行脚に出たのは1694年、
前年50歳を迎えた芭蕉には
老いの自覚があった。
健康の衰えもあり、
桃印の死に以来、
心労も重なっていた。

そして、同門の不和を取り持つために
訪れた大坂で病に倒れた。
病中吟

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

を最後に、門人にみとられながら
51歳でその生涯を閉じた。

同日夜、芭蕉の遺言通り
義仲寺に葬るため、
去来ら十人の弟子が、
遺骸とともに淀川をさかのぼった。

松尾芭蕉は生涯旅を志した人だった。
中国の詩人李白や、杜甫、
わが国の西行、宗祇と同じく、
自分も旅をしていかに
自分の俳諧を自立させるかを
追い求めた人なのである。

「旅人と我が名呼ばれん初時雨(はつしぐれ)」

にその気合いが現れている。

そして、死ぬ間際の芭蕉最後の句、

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」

でもまだ、

「道半ばだぞ」

の思いがしのばれる。