死の名場面⑫(玄宗皇帝の愛妃 楊貴妃)
楊貴妃(ようきひ)といえば、
西のクレオパトラと並んで、
史上に名高い絶世の美女である。
では具体的にはどんな美人であったかは
なにしろ1300年あまりも昔のことだし、
生前の肖像画が残っていないので分らないが、
夏は暑気をきらって、
しきりに涼を求めたと文献にあるから、
ほっそりした美女ではなく、
少し汗かきの豊満な肉体美人だったらしい。
今から約1300年前(719年)
中国は唐の時代、蜀の国の司戸の職にあった楊玄淡の家に、
可愛らしい女の子が生まれ、
玉環(ぎょっかん)と名付けられた。
幼いころに両親を失い、叔父の家で育てられた。
生まれながら玉環を持っていたので
その名がつけられたというものや、
涙や汗が紅かったという伝説がある。
成長するにつれそのたぐい希なる
美しさは周囲に知れ渡り、
やがて17才で時の皇帝玄宗の
第18皇子寿王瑁(じゅおうぼう)の妃となった。
ところが、それから数年後に、
彼女の人生は大きく転換した。
こともあろうに玄宗は愛人になったのだ。
つまり、好色おやじが息子の嫁を
寝とったのである。
この仲を取り持ったのが、高力士という
宦官(去勢された秘書)であった。
そのころ、玄宗は最愛の皇后を亡くして
気が沈んでいたので、
高力士が、
「亡に皇后にそっくりの美女がおります」
と耳うちして、玉環が華精宮という
皇帝の別荘に招かれたとき、
大理石づくりのデラックスな温泉に
彼女が入浴するシーンを
玄宗にコッソリのぞき見させたのである。
彼女のすばらしいヌードを見た老帝は
たちまち一目ぼれした。
「春寒くして浴を賜う華精の池、
温泉、水なめらかにして凝脂を洗う」
これは彼女の悲劇のロマンを詩にした
白楽天の『長恨歌』にある
有名な一節である。
楊貴妃(ようきひ)といえば、
西のクレオパトラと並んで、
史上に名高い絶世の美女である。
では具体的にはどんな美人であったかは
なにしろ1300年あまりも昔のことだし、
生前の肖像画が残っていないので分らないが、
夏は暑気をきらって、
しきりに涼を求めたと文献にあるから、
ほっそりした美女ではなく、
少し汗かきの豊満な肉体美人だったらしい。
今から約1300年前(719年)
中国は唐の時代、蜀の国の司戸の職にあった楊玄淡の家に、
可愛らしい女の子が生まれ、
玉環(ぎょっかん)と名付けられた。
幼いころに両親を失い、叔父の家で育てられた。
生まれながら玉環を持っていたので
その名がつけられたというものや、
涙や汗が紅かったという伝説がある。
成長するにつれそのたぐい希なる
美しさは周囲に知れ渡り、
やがて17才で時の皇帝玄宗の
第18皇子寿王瑁(じゅおうぼう)の妃となった。
ところが、それから数年後に、
彼女の人生は大きく転換した。
こともあろうに玄宗は愛人になったのだ。
つまり、好色おやじが息子の嫁を
寝とったのである。
この仲を取り持ったのが、高力士という
宦官(去勢された秘書)であった。
そのころ、玄宗は最愛の皇后を亡くして
気が沈んでいたので、
高力士が、
「亡に皇后にそっくりの美女がおります」
と耳うちして、玉環が華精宮という
皇帝の別荘に招かれたとき、
大理石づくりのデラックスな温泉に
彼女が入浴するシーンを
玄宗にコッソリのぞき見させたのである。
彼女のすばらしいヌードを見た老帝は
たちまち一目ぼれした。
「春寒くして浴を賜う華精の池、
温泉、水なめらかにして凝脂を洗う」
これは彼女の悲劇のロマンを詩にした
白楽天の『長恨歌』にある
有名な一節である。