歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

死の名場面⑫(玄宗皇帝の愛妃 楊貴妃)

2010年01月31日 | 死の名場面
死の名場面⑫(玄宗皇帝の愛妃 楊貴妃)

楊貴妃(ようきひ)といえば、
西のクレオパトラと並んで、
史上に名高い絶世の美女である。

では具体的にはどんな美人であったかは
なにしろ1300年あまりも昔のことだし、
生前の肖像画が残っていないので分らないが、
夏は暑気をきらって、
しきりに涼を求めたと文献にあるから、
ほっそりした美女ではなく、
少し汗かきの豊満な肉体美人だったらしい。

今から約1300年前(719年)
中国は唐の時代、蜀の国の司戸の職にあった楊玄淡の家に、
可愛らしい女の子が生まれ、
玉環(ぎょっかん)と名付けられた。

幼いころに両親を失い、叔父の家で育てられた。
生まれながら玉環を持っていたので
その名がつけられたというものや、
涙や汗が紅かったという伝説がある。

成長するにつれそのたぐい希なる
美しさは周囲に知れ渡り、
やがて17才で時の皇帝玄宗の
第18皇子寿王瑁(じゅおうぼう)の妃となった。

ところが、それから数年後に、
彼女の人生は大きく転換した。

こともあろうに玄宗は愛人になったのだ。
つまり、好色おやじが息子の嫁を
寝とったのである。
この仲を取り持ったのが、高力士という
宦官(去勢された秘書)であった。

そのころ、玄宗は最愛の皇后を亡くして
気が沈んでいたので、
高力士が、
「亡に皇后にそっくりの美女がおります」
と耳うちして、玉環が華精宮という
皇帝の別荘に招かれたとき、
大理石づくりのデラックスな温泉に
彼女が入浴するシーンを
玄宗にコッソリのぞき見させたのである。

彼女のすばらしいヌードを見た老帝は
たちまち一目ぼれした。

「春寒くして浴を賜う華精の池、
 温泉、水なめらかにして凝脂を洗う」

これは彼女の悲劇のロマンを詩にした
白楽天の『長恨歌』にある
有名な一節である。


死の名場面⑪-9(クレオパトラの死因)

2010年01月30日 | 死の名場面
死の名場面⑪-9(クレオパトラの死因)

クレオパトラの死因は毒死だった。

しかし、厳重な監視下にあった彼女が、
一体、どこから毒を手に入れたのかが鍵である。

彼女の左腕には小さい刺し傷があったので、
毒へびに噛ませて自殺したというのが、
ほぼ定説になっている。

というのは、その日、
一人の農夫が女王に差し上げてくれといって、
果物カゴをもってきた。
番兵がそのカゴを開けてみると、
みごとなイチジクが入っていたので、
別に怪しみもしないで侍女に渡したのである。
おそらく、カゴの底に小さな毒ヘビが
入れてあったのだろう。

クレオパトラの死体が発見されたとき、
室内にはヘビはいなかったが、
窓の下の海岸の砂地に、
ヘビがはって逃げたような跡がついていたのを
番兵が見つけている。

また、一説によると、室内にある水瓶の中に、
あらかじめ毒へびを隠していたともいわれている。

古代エジプトの信仰では、アスピスと呼ばれている
コブラの一種は太陽神の聖なる使者とみなされて、
王冠にも、そのヘビの像が刻まれていた。
いわば王位の守護神であった。

しかも、彼女は捕虜になる前、
女王にふさわしい自殺の方法を考えて、
死刑囚をつかって、いろんな毒物の生体実験をおこない、
その結果、アスピスにかまれて死ぬのが、
一番苦悩がすくないことを確かめておいたのだ。

しかし、二人の侍女も一緒に毒物で殉死していたのだから、
ほんとうに毒ヘビを使ったのなら、
一匹では足りなかった筈だ。
実際は、櫛かほかの装身具に細工をして、
その中に自決用の毒を隠し持っていたのかもしれない。

オクタビアヌスは最大の戦利品を失って、
がっかりしたが、女王のいさぎよい最期に
深く感動した。
彼は毒ヘビ説を信じたらしく、
翌年、ローマに帰還したとき、
一匹の毒ヘビが腕に巻きついている
クレオパトラの肖像画をつくらせて、
凱旋パレードをしたという。

ともあれ、女の細腕ひとつで、
栄光あるエジプト王国を護りぬこうとしたが、
そのけなげな努力もむなしく、
彼女の死と共に、約270年続いたプトレマイオス王朝は滅び、
エジプトはローマ帝国に征服されたのである。

ただし、彼女の身体には、
エジプト人の血は一滴も混ざっていなかった。
彼女の祖先はギリシャ系だったのだ。
それなのに、彼女の死はピラミッド時代の
ファラオ(王)継ぐにふさわしく、
その神秘的な自殺によって、
世界一の美女という名声を残したのである。




死の名場面⑪-8(クレオパトラの最期)

2010年01月29日 | 死の名場面
死の名場面⑪-8(クレオパトラの最期)

クレオパトラもオクタビアヌスの軍に捕まって、
神殿のそばにある霊堂に監禁された。
そこは彼女が自分の死後のために
作っておった墓堂である。

大理石づくりの美しい建物だった。
的に包囲される前に、いち早く彼女は
財宝をここに運び込んで隠しておいたのだ。

捕虜になった彼女は、
なんとか自分の魅力で敵将オクタビアヌスを
まるめこもうと媚態をつくしたが、
こんどばかりは効果がなかった。

オクタビアヌスはこの美しい女王を
鎖でつないでローマへ連れて帰り、
戦利品として凱旋パレードのさらし者に
するつもりだった。
その為にも、彼女が自殺しないように
厳重な監視をつけて幽閉したのである。

彼女は食事を拒んで死のうとしたが、
もし餓死したら、逮捕されている彼女の子を
同じ手段で殺すと脅したので、
しかたなく断食をあきらめた。

秘蔵の財宝と引き換えに、
せめてエジプトの王位だけでも、
わが子につがせてほしいと哀願したが、
それも冷たく拒否された。

いよいよローマへ護送される日が近づくと、
彼女は亡夫アントニウスの墓へまいりたいと
申し出た。
幸いゆるされたので、ある朝、二人の侍女を
連れて墓地へ行き、墓石に膝まずいて、
さめざめと涙を流して、最後の別れを告げた。
そして霊堂にもどると、入浴して全身に香油を塗り、
髪も綺麗に整えてから、少し食事をとった。

その後、オクタビアヌスにあてて手紙を書き、
しばらく昼寝するからと行って、
番兵を遠ざけてから、二人の侍女と一緒に、
部屋にこもったのである。

オクタビアヌスは使者がとどけた彼女の手紙を
読んで驚き、直ちに部下を霊堂へさし向けた。
その手紙には、自分の遺体を夫と同じ墓に
葬ってほしいと書いてあったのだ。

霊堂にかけつけた将校がドアを破って入ってみると、
すでにクレオパトラは死んでいた。

王衣をまとい、正装用の宝石を身につけて、
黄金のベットに横たわって死んでいたのである。

その傍で侍女の一人も死んでおり、
もう一人の侍女は虫の息でふらつきながらも、
女王の王冠がずりおちないようになおしていた。

「大変なことをしたな」
と将校がとがめると、
「ええ、でも、先祖代々の王の御子孫にふさわしい」
と、その侍女は言いかけて倒れると、
そのまま息を引き取った。
紀元前30年8月29日のことである。
クレオパトラ38歳であった。



死の名場面⑪-7(クレオパトラとアントニウスの敗北)

2010年01月28日 | 死の名場面
死の名場面⑪-7(クレオパトラとアントニウスの敗北)

オクタビィアヌスの姉であった妻の離婚は
オクタビアヌスが、アントニウスに宣戦布告する
よい口実となった。
事実、二人の間の権力争いも頂点に達し、
いつかは、戦わねばならない以上、
機は熟していたのである。

オクタビアヌスは、彼の姉が離縁させられた事実をうまく利用した。
それは、カエサルの後継者である自分への
侮辱だと宣伝したのである。

実際、この時まで、元老院議員には、
アントニウスを支持する者がかなりの数いたわけだが、
ほとんどがオクタビアヌス側についてしまった。
おかげで、彼は、ローマ帝国すべてを敵に
回さねばならなくなってしまった。

それでも、かき集められた兵力は、かなりのものであった。
10万の歩兵、2万5千の騎兵、さらには800隻あまりの大艦隊が
アントニウスの手の中にあった。
クレオパトラ自身も専用の旗艦に乗り込んだ。

紀元前32年、アントニウスの軍はマケドニア西南部にある
アンブラキア湾に艦隊を入れ、
自信満々でオクタビアヌスの軍の到来を待ち受けていた。
この湾は、アクティウムを前に望む狭い
海峡の奥の開けた場所で、
大艦隊を収納するには絶好の地形であった。

しかし、ここで、アントニウスはローマ随一と言われる
名将アグリッパの存在を軽く見過ぎていた。

この優れた戦略家の長期におよんぶ包囲作戦で、
やがて、糧食が底を尽き出し、
もう戦をするどころではなくなっていたのである。

紀元前31年9月2日、結果的にアントニウスは
命からがらその場を脱したが、
艦隊は全滅してしまった。

アントニウスはほうほうの体で宮殿に逃げ帰ったが、
そこで、クレオパトラが自殺したと聞かされた
アントニウスも自決を決意した。

そして、自分の剣を抜くと、自らの腹を突いたのであった。
彼女の自殺は解釈を誤まって部下が
伝えたものであったとされる。
まだ、虫の息であったが、彼女のもとへ連れていかれた
アントニウスは、彼女の腕の中で息を引き取った。

死の名場面⑪-6(クレオパトラ、アントニウスを救う)

2010年01月27日 | 死の名場面
死の名場面⑪-6(クレオパトラ、アントニウスを救う)

アントニウスは、否応なく、
戦争を止めるためアレクサンドリアを
後にしなければならなかった。
これは、フルビィアが自分をないがしろにして、
クレオパトラにうつつを抜かす
アントニウスの心を自分に向けたい一心で
事を起こしたのである。

結局フルビィアはオクタウィアヌスに敗れ、
敗走してきた。
オクタビィアヌスは、ライバルとはいえ、
まだアントニウスと戦うつもりはなかったので、
和解を申し出て来た。そして、
アントニウスはオクタウィアヌスと和解をすることにした。
その際、和解のしるしに、アントニウスは、
オクタビィアヌスの姉を新たな妻に迎えたのである。

アントニウスがオクタビアヌスの姉と
結婚したという知らせが、
ローマから持たらされた時のクレオパトラは、
腹わたが煮え繰り返る思いであったに違いない。

それから3年が過ぎた。
アントニウスの忘れがたみの双生児を育てながら、
彼女は恨み言一つもらさなかった。

それどころか、パルチア遠征で大損害を
出して窮地に陥ってしまったアントニウスを
クレオパトラは、援軍を送って救助に駆けつけ、
無事アントニウスを救い出したのである。
こうして、アントニウスはクレオパトラに
一切頭が上がらなくなり、彼女との結婚に承諾して、
オクタビィアヌスの姉であった妻とも離婚させてしまった。



死の名場面⑪-5(クレオパトラ、アントニウスを虜に)

2010年01月26日 | 死の名場面
死の名場面⑪-5(クレオパトラ、アントニウスを虜に)

クレオパトラにアントニウスから、
呼び出しの声がかかった。
アントニウスは彼女を会食に招待したが、
彼より役者が一枚上のクレオパトラは、
逆に自分のところに来させるように話を運んでいった。
クレオパトラの洗練された話術と
優雅な身のこなしの前に魅了され、
41歳のアントニウスは28歳の彼女の魅力の
虜となってしまった。

クレオパトラに誘われるまま、
アレキサンドリアへ向かったのである。

こんなエピソードが残されている。
二人がナイル川で魚釣りをしていた時のこと、
いくら待っても魚がつれずにやきもきしていた彼は、
自分の面子を保つために、猟師に潜らせて、
自分の針に魚をかけさせた。
クレオパトラはすぐにそれに気がついたが、
素知らぬ顔で彼を褒めそやした。
単純なアントニウスは上機嫌であった。
水遊びを楽しむクレオパトラ
翌日も釣りということになったが、
アントニウスの最初の釣り上げた獲物は、
何と黒海でしか取れない種類の魚であった。
釣りのことにうとく、いまだ気がつかぬ彼が、
その次釣り上げた魚は、
ワタもウロコも取られて調理されていた。
ここに至り、アントニウスにも、
すべては、クレオパトラが猟師を買収させて
行った仕業であるということがようやく読めてきた。

この時、クレオパトラは彼にこう言ったという。
「アントニウス様、そのような獲物は
 そのへんの諸候にふさわしいもの、
 あなたの釣り上げる獲物は、
 もっと大きなもの、国家でなくてはならないはずですよ。」

まこと、才気あふれるクレオパトラのユーモアを
伝えるにはふさわしいエピソードである。

この時、クレオパトラ28才、彼女の体には
アントニウスの双生児が宿っていた。

だが、こうした彼のもとへ、
ローマから妻のフルビィアがオクタビアヌスに
戦いを仕掛けたという不意の知らせがきた。


死の名場面⑪-4(クレオパトラとカエサルの別れ)

2010年01月25日 | 死の名場面
死の名場面⑪-4(クレオパトラとカエサルの別れ)

クレオパトラは、カエサルの力を借り、
彼女に敵対する勢力は一掃した。
クレオパトラは実質上エジプトの女王となったのである。

カエサルはアレクサンドリアの権力抗争が終結すると、
10週間の休暇を取り、彼の愛人でもあるクレオパトラとともに、
100メートル余りある王室用の船でナイル川を
さかのぼる雄大な旅に出た。
その船は、記録によると、浮かぶ宮殿のようであった。
船上には庭園から大食堂、神殿まで造られていたという。

この旅は彼にとっては、始めてのエジプト観光の旅でもあり、
二人にとっては、忘れることの出来ぬ
ハネムーンになったにちがいない。

ちょうどその時、クレオパトラは6か月の
身重になっていたのである。

しかし、皮肉にも、それが最後の船上での
ロマンスになるとは、
カエサルもクレオパトラも予想すら出来なかったろう。

休暇が終わると、カエサルは、
ローマに帰った。
カエサルの凱旋式は実に壮大なものになった。

一方、クレオパトラは、カエサルとの間に生まれた
「カエサリオン」を育てながら、
再会の時を待ち望んでいた。
そこへ、とうとうローマから彼女とカエサリオンを
賓客として迎えるべく知らせが届いたのである。
カエサルと別れて、3年後の出来事であった。

クレオパトラは高官らとともに、ローマに乗り込み、
大歓迎を受けて、カエサルの邸に落ち着いた。
今や、カエサルとクレオパトラにとっては、
幸せの絶頂であると思われた。

しかし、予想だにしない破局がまもなくやってきた。
カエサルの独裁ぶりに、共和政崩壊の危惧の念を抱いた
一部の元老院議員たちによって暗殺されてしまったのである。
3月15日のことであった。


クレオパトラの野望はカエサルの死とともに
急速に去っていった。
おまけにカエサルの遺言では、
ローマ帝国の後継者は彼の養子である
オクタビィアヌスということになっていた。
カエサリオンこそ後継者と考えていた
クレオパトラには思いもよらぬ事実に、
彼女は失意のうちにローマを逃げるように
去らねばならなかったのである。

その後、ローマではカエサルの死後、
オクタビィアヌスとアントニウスの派閥に
別れて権力争いが生じていた。


死の名場面⑪-3(クレオパトラとカエサルの運命の出会い)

2010年01月25日 | 死の名場面
死の名場面⑪-3(クレオパトラとカエサルの運命の出会い)

カエサルがアレキサンドリアにいるのを
知ったクレオパトラは、彼の力を借りるために、
死を覚悟で彼に会うことを決心した。

しかし、海上も陸上も厳重に軍隊によって封鎖されていた。
どうして、怪しまれずに彼に近づくことが出来るだろう。

紀元前48年10月中旬の夕刻、プトレマイオス家の王宮で、
ローマ帝国の事実上の独裁者カエサルと女王クレオパトラは、
運命的な出会いをした。

それは、実に不思議な出会い方であったと伝えられている。

カエサルの元に、女王からの伝言を献上したいと
一人のギリシア人が王宮に訪れたのである。
そのギリシア人の名は、アポロドロスと言い、
ジュウタンのようなものを抱きかかえるように運んで来た。
エジプト軍もカエサルの兵士たちも、
一人のギリシア商人の携行品に気にとめることはなかった。

カエサルの呼び掛けにも無言で、
やがて、アポロドロスは注意深く結んだ紐を解いていった。
すると、はたして、その中から一人の小柄な女性が
転がり現れたのである。
それは、まるで、童話の中の1シーンのようであった。

その時、クレオパトラ21才。
今にも壊れるのではないかと思われるほど華奢で、
巻き毛は丁寧に揃えられて、うなじのところで結ばれていた。
カエサルにとって、それは、威厳に満ちた女王というよりは
妖精のような存在に映ったことであろう。

この見たこともない若い女性に、カエサルは最初驚き、
やがて、彼女のたくみな会話、深い知性ときらめくウィット、
気持ちをそそるような恋のかけひきに、
ローマ帝国の53才の独裁者の心はすっかり魅了されてしまった。

そして、宵がふける頃には、クレオパトラとなら深遠な会話、
官能的な快楽をも思いのままだと感じるようになっていた。

しかし、この衝撃的な出会いもクレオパトラにとっては、
緻密な計算の上でのことだった。
この時までに、彼女には、道は一つしか残されていなかったのである。
シーザーに取り入り、彼の権力のもと、
自分を追放した弟とその手下どもを打ち負かすか、
さもなくば、自分が死ぬかしかなかったのである。

そのため、彼女は、水際だった方法で女の武器を
効果的に使うことを決心したのである。

そして、彼女は独裁者カエサルの心を
見事つかむことに成功したのであった。

二人はギリシア語で時が経つのも忘れて夜通し語り合い、
出会ったその日のうちに結ばれたのである。

死の名場面⑪-2(プトレマイオス家の内紛)

2010年01月24日 | 死の名場面
死の名場面⑪-2(プトレマイオス家の内紛)

プトレマイオス家は 長年にわたる近親相姦が、
彼女の身体にも何らかの悪影響を与えた。

しかし、教養面では、
クレオパトラは文句なしに知性の高い女性だった。
植民地内のさまざまな言語にも通じ、何か国語をも自由自在に話した。
プトレマイオス家の内部でも、
エジプト語を話せたのは彼女一人だったという。
その上、彼女は、軍事・政治面にも非凡な指導力を
発揮するマルチ才女でもあったのだ。   

やがて、彼女の父「笛吹き王」は大病を患って死んでしまった。
クレオパトラは父の遺言に従い、
弟とともにエジプト全土を統治することとなった。
この時、クレオパトラ18才、
彼女の弟プトレマイオス13世はまだ10才だった。

勝ち気で女王気質のクレオパトラは、
王座についた時から、統治していくつもりだった。
ところが、政治を補佐するはずの3人の摂政は、
自分たちの野心と利益を優先して、
右も左もわからぬ幼い弟を
自分たちの思いのまま操ろうと考えていた。

そこで、意志の強いクレオパトラが邪魔になり、
彼らの陰謀により、彼女は、
アレキサンドリアを追われる身となってしまった。

クレオパトラは、シリア砂漠の秘密の場所に
隠れて難をまぬがれたが、3人の摂政どもは、
彼女を捕らえて亡き者にするために、
東方の砂漠地帯に軍隊を派遣してきた。

こうした、彼女にとって危険きわまりない時期と同じくして、
海の向こうのローマ帝国から独裁者カエサルが、
アレキサンドリアに到着していた。

カエサルは、ローマ帝国の権力闘争に明け暮れたあげく、
ライバルであったポンペイウスを戦いで討ち負かし、
戦いに破れてエジプトに逃げ込もうとする
ポンペイウスを追ってやってきたのであった。


死の名場面⑪(絶世の美女クレオパトラ)

2010年01月23日 | 死の名場面
死の名場面⑪(絶世の美女クレオパトラ)

歴史上、最も有名でありながら、
クレオパトラの実像は、今なお、
神秘の厚いベールで覆われている。

クレオパトラは、日本の小野小町、中国の楊貴妃と
並び称され、世界の三大美女の一人に上げられ、
絶世の美人の代名詞のように語り継がれてきた。

「もしクレオパトラの鼻がもう少し低かったら
 歴史が変わっていただろう」

フランスの哲学者パスカルの有名な言葉である。

鼻が低かったからというのは、
我々低鼻族の日本人の感覚では、
鼻ペチャのブスだったらという意味にもとれるが
古代貨幣に刻まれているクレオパトラの横顔は
険しいワシ鼻で、口が大きく、
とても絶世の美女とは思えない。
身体つきも意外と小柄で、
たくましいローマの将軍たちを
骨抜きにするほど、セクシーなグラマーでもなかった。

歴史家プルタルコスは、クレオパトラ7世を、
複数の外国語に通じた、知的な女性と伝えている。
ちなみに、容貌については
「彼女の美貌そのものはけっして比類なきものではなく、
 見る人をはっとさせるものでもないと言われていた」
と評している。彼女は魅力的であったが、
それは雰囲気や優雅で穏やかな話し方に
よるものであったと言われる。

もっとも大きな魅力は、
世界の穀倉といわれたナイル河のデルタ地帯を支配する
エジプト女王としての富だった。

クレオパトラは、紀元前69年1月に生まれた。
彼女の母親は、出産の直後に亡くなっている。
また、彼女には、二人の姉がいたが、
どちらも夭折してしまっていた。

彼女の一族は、土着のエジプト人ではなく
マケドニアの血を引くギリシア人であった。
ちなみに、クレオパトラとはギリシア語で
「父の栄光」を意味するものである。

彼女の属するプトレマイオス家は、
王家の血を純潔に保つために近親相姦を
盛んに行ってきた。
それは、アレクサンダー大王が、
この地を征服し、大王の後継者で将校だった
プトレマイオス1世が統治して以来、
250年間続けられてきた習慣だった。

そうした近親相姦は、
身体や性格にも悪影響を及ぼし、
それが、原因で、一族の者の中には、
てんかん質、異常性格、肥満体の者が
少なくなかったらしい。

例えば、彼女の父であったプトレマイオス12世は、
柔弱な国王として、
民より「笛吹き」と呼ばれ馬鹿にされる始末だった。
彼は酒好きで、酔うと、
何かと笛を吹き鳴らし場所を選ばず、
得意になって踊りだす奇妙な性癖があった。

そして、晩年には、その傾向はますます激しくなり、
女装したり、魔術師の出で立ちで民衆の前に
平然と姿を見せたこともあったほどである。

王のそういった奇妙な性癖は、
プトレマイオス一族に共通して見られるものであった。

やがて、大増税やら、
キプロス島をローマ人に売り渡した件で、
民衆の怒りが爆発し、
この無能の王はローマに命からがら
亡命することになるのである。