最東端の国境から南に回り込む(地図上では下がる)とルーマニアと単独で接する様に
なるが、そこは第一次世界大戦まではハンガリーの領土であったトランシルヴァニア地方の
入口でもある。 状況は日本の北方領土問題とかなり類似しているかも知れないが、恐らく
当時としては500年以上もの間、ハンガリーの国土であり続けたので、凄い数のハンガリー
人が取り残され、もっと深刻な問題であったような気もする。
この地域を以って、東部の国境沿いの教会スケッチの結びとしたい。
ここでの最も重要な街として、ハンガリー第二の都市デブレツェン (Debrecen) があるが
市民公園よりダウンタウンを眺めて見ると、
(1998年5月初訪問時のアナログ写真より)
右側向こうに聳える2本のバジリカ塔がカルヴィン派の大教会である。
街のメイン通り (Piac útja) が駅へと誘う ..... カルヴィン派大教会の塔より眺める
Aug. 21 2008
毎年8月20日の聖イシュトヴァーンの日(祝日)には花祭りが開催される。
デブレツェン (Debrecen) は人口20万人(2019年調べ)の学園都市でもあり、建国の
歴史において、東の政所として、かつて短い期間ではあったが2度、首都になったこと
がある。
● 一度目;1848~1849年のハプスブルク帝国からの独立革命の時
● 二度目;1944~1945年のロシア傀儡反ナチ政権が臨時政府をこの地に樹立。
<ロケーション> .... 朱記箇所が今回の訪問教会
■ デブレツェン (Debrencen) 改革派教会 ... カルヴィン派
教会のオリジナルは、13~14世紀初頭に建てられたらしいが、16世紀に起こった
宗教革命でカルヴィン派の総本山となり、この教会自体は1805~1820年に新しく建て
られた(ネオクラシック様式で)。
街からはローマカトリック教は一時期、締め出された経緯もあり、教会は街のランド
マーク的存在となっているので紹介を避ける訳にはいかないであろう。
1998年5月撮影
黒い銅像はコシュート・ラヨシュの独立宣言像、全国で何体あるのだろうか、
多くの市庁舎前でよく見掛ける。
● 内陣
標準的なホールタイプ(改革派に多い祭壇が真ん中にあり、左右が信者席となる)
■ ニールバートル (Nyirbátor) 改革派教会 .... カルヴィン派
教会は 1488~1511年にゴシック様式で建てられた。
特徴は本体脇の鐘塔で高さは30m、木製の板貼り重ねのジンダイ方式で国内最大。
高さ20mの交差リブ・ヴォールトの天井はゴシックの典型構造
■ ニールベールテク (Nyirbéltek) 聖母マリア教会 ...ローマカトリック
オリジナルの教会は1222年にロマネスク様式で建てられたが、タタール人の襲撃で
破壊された。 15世紀に再建されたがオスマン帝国の支配時代は廃墟になっていた。
オスマン帝国が撤退した後、18世紀に復興されたが火災によって焼失した為、
19世紀に再建されたのが今の姿である。
建物の外観には特徴はないが、内部の壁画が必見。
祭壇部やアーチ壁部に15世紀のフレスコ画が残されている。
壁画はオスマン帝国の支配時代に漆で塗って隠しておいたものを、カトリックに
戻った時に復元したようだ。
■ オー・フェーヒール・トウ (Ófehértó) ローマカトリック教会
教会は14世紀半ばに、ゴシック様式で建てられ、1750年に塔が増築された。
内陣の壁にはフレスコ画が描かれていたが、宗教革命でカルヴィン派に使われていた時
には漆を塗って隠しておいた。
18世紀にカトリックに戻ってきた時に、漆を剥いで復元したのが現在の物。
● 内陣の壁画
改革派教会の壁画は、ビザンチン風の壁画でローマカトリック教会のは聖人や聖書から
の引用が多い。 理由はオスマン帝国は改革派は容認していたようである。
これにて「東部国境沿いの教会スケッチ(4)」で、すべてお終いです。
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