前回はセンテンデレの街をスケッチしたが街道(国道11号線)を北にそのまま進むと
ドナウ川にぶつかり、川沿いを暫く辿るとエステルゴムの街になる。
ここまではブダペストから45Km ほどの距離である。 エステルゴム (Esztergom) は
ハンガリー建国の祖とも云うべき町であり 1001年1月1日に初代の王イシュトヴァンが
戴冠式をやった所で、丘の上に宮殿と聖堂を造り、ハンガリーのカトリック教会の中心的な
役割と972~1249年までハンガリーの首都の役割を果たして来た。
町の歴史及び大聖堂の特徴については、本ブログで以前に紹介した (2013/03/10投稿)
したので興味がございましたら、ご参照願うとして、ここでは簡単に参考まで。
1.大聖堂
国王イシュトヴァン1世によって1000年頃に聖アダルベルト教会として創立され、
オスマン帝国の攻撃で破壊されたが1822~1869年に新古典建築様式で再建された。
ハンガリーで最も大きな教会でハンガリーカトリック教会の総本山である。
ドームの高さ 71.5m 、1856年リスト (Liszt Frenc) によって大聖堂のこけら落としの
為、ミサ曲「ミサ・ソレムニス」が提供された。
Jan. 05 2008
主祭壇に掲げられている ミケランジェロ・グリゴレッティの「聖母マリアの被昇天」
は大きさが13×6.5mで、世界で最も大きい1枚キャンバスの油絵である。
見上げると天井には壮大なフレスコ画が、
祭壇の対面、一万本のパイプオルガンはこれまた世界最大と言われている。
翼内陣に嵌め込まれたバコーツ (Bakócz) 礼拝堂は、オスマン帝国の攻撃で破壊さ
れることを恐れ、1600個に分解・保管しておき、大聖堂が再建された時に復元した
という逸話物で最も古い宝物。
丸ドーム(直径53.5m)の展望台からの眺めは、
● 南西の方角にエステルゴムの市街地 (Down town) Nov. 06 2012
● 南に目を転じると聖イグナック教会と旧市街地 (Water town)
● 西の方角にドナウ川を挟んでスロバキアの町シュトロヴォ市が望める。
橋はマリア・ヴァレリア橋で第二次世界大戦でドイツ軍の撤退時に破壊され、
2001年に再建されるまでの半世紀以上も破壊されたまま放置されていた。
● 北方角には蛇行を続けながら、ドナウ川はブダペストへと下って行く
(最終的にはブダペストは南になるのだが)
隣に城と王宮があったが、オスマン帝国の攻撃で、地下に埋もれてしまい、
現在も発掘作業が続けられているという。 以下は12世紀末の城と王宮の想像図。
<ロケーション>
2.ヴィシェグラード要塞 (Visegrádi vár) と王宮 (Király palota)
エステルゴムに着く手前にハンガリーの建国でもう一つ歴史的に重要な城と王宮
遺跡がある。 要塞からの眺めは「ドナウの曲がり角(ドナウベント)」と呼ばれ、
ドナウ川は90度、南に曲がりハンガリーの国土を縦断して行く訳であるが、この
眺めをハンガリーで一番美しいと言う人も多い。
要塞はフェッレグ・ヴァール(雲の上の城という意味)、1250年頃に造られた。
アルパート王朝の衰退後にナポリのアンジュー王朝から来たカーロイ王の時代
(1308~1342年)からマーチャーシュ王の時代(1458~1490年)にこの地で
ハンガリーの全盛時代を築いた。 しかし1526年のオスマン帝国とのモハーチの戦い
での敗北後は、ハンガリーの政局は斜陽に転じる。
● フェリー乗り場よりヴィシェグラード要塞を見上げる(高さ333m)
Jan. 12 2008
● 要塞への登り口 Jan. 12 2008
● 「ドナウの曲がり角(ドナウベント)」 Nov. 07 2012
● 要塞入口より眺める向こう岸はハンガリーのナジマーロシュ (Nagymaros) 村
Jan. 12 2008
● ヴィシェグラード要塞の麓には、王宮 (Király palota) が建てられ、そこはオスマン
帝国の来襲までは桃源郷のような宮殿であったという。 Jan. 12 2008
● オスマン帝国の支配時代は使われることなく廃墟化していた。
ハプスブルク帝国(オーストリア)からの自由戦争(1703~1711年)の時に、
要塞と共に破壊され埋められてしまった。
1934年から今もなお発掘が続いているが当時の想像図では、
ヴィシェグラード博物館展示場にて
これにて「エステルゴムをスケッチ」は、お終いです。
本ブログへのご訪問、有難うございました。