撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

ドナウ河岸歩き(10)モハーチ

2018-11-20 19:09:40 | 海外生活

いよいよドナウ川もハンガリーをトータルで416km流れ下り、別れを告げる所に差し掛かった。

 

1.トゥッル・イシュトヴァン橋 (Türr István hid)

 ハンガリーの東部地方から西部地方へドナウ川を渡る最後(南端)の橋が、バヤ (Baja) 

 に架かる、鉄道と一緒になった歴史ある、情緒ある(あった)橋である。

                                  Nov. 10 2018

 橋が出来たのは1908年で、小生が最初に渡った時は鉄道とクルマ道が離れた木造の橋

 であったように記憶していたが、今の橋は1998~1999年に大改造されたそうである。

 ドナウは、この時期は水の量も少なく、穏やかに南下し、モハーチ (Mohács) へと向かう

 

2.モハーチ (Mohács) の渡し

 モハーチには橋がない為、フェリーが対岸までの100 mほどを30分ごとに運航。

 手前岸がモハーチの河畔                       Nov. 10 2018

 ドナウ川は写真右方向に流れ、Duna-Dráve 国立公園の深い森の中を15 km ほど進み、

 クロアチアに引き継がれる。

 

3.モハーチの戦い

 歴史には「タラとナラ」は付きもの、もし1526年に若き国王ラヨシュ (Lajos) 2世が

 トランシルヴァニア軍、ハプスブルク軍、ボヘミア軍等のキリスト教国連合軍の援軍をもう

 少し待ってからモハーチの戦いを始めていたら、もし百戦錬磨のベテラン国王であったなら

 ハンガリーは今頃は超大国であったかも知れない。

 ハンガリーにとって非常に大きく歴史を動かした戦いが、ここドナウ河畔にあるモハーチで

 オスマン帝国軍と死闘が繰り広げられた。


 ● 第1次モハーチの戦いの戦場

  ハンガリー第33代国王ウラスロー (Ulászló) 2世はポーランドのヤゲロー家の出でボヘミア

 国王も兼ねており、1514年にトルコへの侵攻を十字軍として画策していたが、2年後に病死。

   その後を継いだのが息子のラヨシュ2世で10歳という若さであった。

   オスマン帝国の皇帝スレイマン1世はチャンス到来とばかり、1521年にはハンガリー領土の

 ベオグラードを奪取し、1522年にはロドス島で十字軍を壊滅し、1526年8月29日には

   モハーチで天下分け目の戦いが始まったわけである。

   キリスト教国連合軍は敗れ、ラヨシュ2世は20歳という若さで戦場に散ってしまった。

   以後、ハンガリー王国は実質上、1867年のオーストリア/ハンガリー二重帝国が発足するまで

   消滅する結果となった。

 “戦闘記念の丘” 入口                         Nov. 10 2018


 数多くのトーテンポールが立ち並ぶ内部の広場

 

 ラヨシュ2世の木像と向かい合うオスマン帝国スレイマン1世の木像

   

 

 何を意味するのか趣味の良くない像もある。 どちらの国の意向が反映されたものか??

   

 

 ● 第2次モハーチの戦いの戦場

 1683年7月の第2次ウィーン包囲攻撃で敗れたオスマン帝国軍は、ハンガリーをじりじり

 敗走し始め、1687年8月12日に二度目のモハーチの戦いが始まった。

 大宰相サン・スレイマン・パシャ(*)率いるオスマン帝国とロレーヌ公シャルル5世が

 率いる神聖ローマ帝国の間での戦いであって、今度はオスマン帝国の敗北であった。

 以降、オスマン帝国は徐々に衰退し始め、1922年には完全に滅亡してしまった。

 一方、ハンガリー国王は神聖ローマ帝国とハプスブルク帝国が兼ねることになり、

 事実上ハンガリーの主権は消滅してしまうことになる。

   Nov. 10 2018

  記念碑は道の片隅にこれだけ。この戦いでのハンガリーの関与が少なかったためかも?

 

 *参考;第1次モハーチの戦いの立役者スレイマン皇帝(後に大帝と呼ばれる)は、

     1566年にペーチ (Pécs) の西にあるシゲットヴァール (Szigetvár) という所で

     この時点では既に病死している。

 <シゲットヴァールにあるハンガリー/トルコ友好公園>                   Feb. 02 2008

    向かって右の像がスレイマン大帝、左はズリーニ・ミクロシュ(この地の城主)

 

4.ブショウ・ヤーラーシュ (Busójárás)

 モハーチと云えば、もう一つ忘れてならないのが、日本(秋田県)にもある「なまはげ」に

 似た、毎年2月に行われる祭事である。 その由来には2つの言い伝えがあると云われている。

  ① 冬将軍を脅かして追い払い、春を待つ祭り.... これが時節からも妥当だと思うが

  ② オスマン帝国の侵攻でモハーチの住民は街を逃れ付近の森の中に逃げ込んだが、ある夜

   ショカツ人の老人が現れて「嵐の夜に覆面の騎士が迎えに来るので、恐ろしい仮面を被って

   出来るだけ大きな音を立てながら街に戻れ、そうすれば無事に家に帰ることが出来る」と

   告げて何処へとなく姿を消した。 数日後の嵐の夜に騎士が現れ、お告げの通り家に戻れた

   という説 ..... 個人的にはこちらの方を採用したいところだが。

           Feb. 03 2008                                  Feb. 22 2009

      

                      

 ショカツ人(クロアチア人の一派)の祭事の為、地元の人ばかりでなく近郊のセルビア

 やクロアチア等の周辺国からも祭りに参加する。

 祭り最大のイベント、各地域団体の民族舞踏コンテスト       Feb. 03 2008

 

 会場のセーチェーニ広場では観衆も輪になって踊り出す。

  

5.モハーチ (Mohács) の教会

 ● 誓約教会 (Fogadalmi templom)

 モハーチの戦場記念教会で1929年にビザンチン様式で建てられたカトリック教会(受胎告知)

                                  Feb. 03 2008

 

 ● 市教区教会 (Belvárosi templom)

 街の中心部に1766~1770年に建てられたバロック様式のカトリック教会(聖ミハエル教会)

  Nov. 10 2018

 塔は1783年に追加され、1909年には聖ステファンと聖ラズローの彫像をファサードに設置

    

    聖ラズロー像           聖ステファン像   

 

   教会身廊部

 

 ● フランシスカン教会

 1724~1771年にバロック様式でフランシスコ会の修道院として建てられた。

   Nov. 10 2018

  街のランドマーク(最も高い建造物)である。

 

     これにて「ドナウ河岸歩き(10)は、お終いです。

 

 

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