「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

マイナーだったフィギュア.スケート

2018-02-18 10:32:52 | 2012・1・1
フィギャ―.スケートで二大会続けて五輪で金メダルを獲得した羽生結弦選手の偉業をネットで”渉猟”していたら、米国のリチャード.バットン選手の名前に行き当たった。羽生選手の偉業は1952年(昭和27年)バットン選手がオスロ五輪で成し遂げた二連覇以来66年ぶりの記録だという。僕ら昭和1ケタ生まれは1956年のコルチナ.ダンぺッオ五輪でトニー.ザイラー選手が回転競技の金メダルを独占したことと、同じ大会で猪谷千春選手が日本人として初めてメダルを獲得した程度の知識しかない。むろん、バットン選手の名前は知らなかった。

その冬季五輪の種目の中でも男子フィギュアはマイナー競技でなかった。1972年、僕は札幌の民放に勤務して、多少一般の人より競技に関心があったが、男子フィギュアの記憶は全くない。スケート競技といえば”銀盤の妖精”ジャネット,リン選手がしりもちをつきながらも銅メダルを貰った話題だけで、申し訳ないが男女シングルで誰が競技し、結果がどうだったか忘れてしまった。

ネットを”渉猟”して意外だったのは、今回、羽生、宇野両選手が金銀を独占したが、過去の五輪では2010年のバンクーバー大会で、高橋大輔選手が初めて銅メダルを獲得しただけで、前回のソチ大会で羽生選手が金メダルを得るまでメダルは一つしかなかった。女子も同じで、1992年のアルベーヴィル大会で伊藤みどり選手が銀、2006年トリノ大会で荒川静香選手が金、それに前回ソチ大会の浅田真央選手の銀しかない。決してフィギュア競技は日本のお家芸ではないのだ。来週、女子シングルもある、男子に負けず頑張って。

やはり世界一でなければ 羽生選手の金メダル

2018-02-17 16:18:35 | 2012・1・1
平昌冬季五輪の男子フィギュア.スケート.シングルで羽生結弦選手が圧倒的な演技で金メダルを獲得した。銀メダルの二位にも宇野昌麿選手が入り、日本選手のダブル受賞だ。これはフィギュア史上初めて快挙だという。このところ、テレビ観戦に多少”食傷気味”だっただけに、若者二人の颯爽たる演技に1時間ほど画面にクギづけにされてしまった。

両選手の金銀メダルの獲得で、日本の17日までのメダル数は金1、銀5、銅3合計9。これは五輪開催前、JOC(日本五輪委員会)が獲得目標にしていた、金を含むメダル数前回のソチ大会8を上まる9で、これで五輪関係者はほーっとしたことであろう。

10年ほど前、民主党(当時)の蓮舫議員が、たしか事業仕分けの集まりで、スパコンを世界一といった答弁に”なぜナンバー2”であってはならないかと追及、話題になった。スポーツの世界も同じだ。金メダルと銀メダルでは価値も有り難さも違う。

平昌五輪も半ば近くなり「北」の美女応援団の顏もアキアキしてきた。日本選手団は、あと幾つメダルを獲得できるだろうか、金メダルどうだろうか。問題は閉会式の終わった後の「北」のスマイル外交と韓国の対応だ。朝鮮半島の春はくるだろうか。期待できそうもない。

"カンボジアに愛の手をチャリティフラメンコショー

2018-02-16 11:40:42 | 2012・1・1
大和市(神奈川県)を拠点に活躍する知人の山口のりこさんが2月17日相模原市でチャリテイショーを開催します。
▽ 日時 2月17日(土)開場13.30 開演14:00-16:00
▽ 場所 相模原教育会館三階大ホール
▽ 前売券 一般4500円 当日券一般5000円
▽ 「インドシナ難民の明日を考える会」 00120-4-41849
売上金の一部はカンボジアに井戸をプレゼントします。

山口のりこさんの厳父は戦後”戦犯”として法務死されており、現在高野山の「昭和殉難者」慰霊活動で活躍され、慰霊碑の前で創作舞踊「カリマンタン幻想」を舞っておられる。



87歳の誕生日 「米寿」所感

2018-02-16 06:36:05 | 2012・1・1
87歳の誕生日である。昔流でいえば数え年88歳は「米寿」の誕生日だ。長寿のお祝いとして、還暦(60)、古希(70)、喜寿(77)、傘寿(80)米寿(88)卒寿(90)白寿(99)という七つの節目の賀寿があるが、うち、五つ目をクリア―できた。正直言って、これまで長き出来るとは思っていなかった。以下は僕の「米寿」所感だ。

平成18年(2006年)75歳の誕生日にあたり”ボケ防止”にと娘の進言で始めた小ブログだが、すでに12年になる。米寿に当たり、僕がその年ごとの誕生日に何を書いていたのか読み返して見た。77歳喜寿の年は、自分個人の”老い”には触れずに、同じ月日生まれの北朝鮮の金正日労働党委員長(金正恩実父)に対して拉致家族を早く返せと批判している。

僕が誕生日に自分の”老い”につぃて触れ出したのは80歳、傘寿の時からだ。一休上人の”正月は冥途の旅の一里塚”に触れ、若い時は”めでたくもあり、めでたくもなし”の心境だったが、素直に”めでたい”を受け入れる気持ちになったと書いている。そして人生百年時代にも触れ、健康に留意し、何事にも好奇心を持ち、ボケ防止に努めようと書いている。

傘寿を祝った後、80歳代になってから、僕は大腸ガンで2回、左膝の人工関節置換手術で入院している。しかし、今は健康で、身障者4、要介護1の認定を受けているが、日常生活は他人の手を煩わせずにすんでいる。しかし、人間の老いはやむを得ない。平均寿命を過ぎた今だが、いつまでも健康でありたい。それが米寿を迎えての願いだ。

”遺骨を抱いて” 激戦で入城式もなかったシンガポール攻略戦

2018-02-15 06:38:35 | 2012・1・1
昭和17年2月15日は大東亜戦争緒戦の勝利を象徴する一日であった。亡父の日記によると、夕刻5時、大本営から海軍空挺隊(落下傘部隊)が1月11日にセレベス島に降下していた旨の発表があり、その10分後にが陸軍空挺隊が見事スマトラのパレンバンに降下したとの発表が”敵は幾万”の勇ましい軍歌にのってラジオから流れた。そして夜10時には、また”敵は幾万”が流れて、南方作戦の勝敗を決するとさえいわれたシンガポールの陥落が発表になった。

シンガポール攻略戦は、1月31日対岸のジョホールバルからの敵前上陸に成功、紀元節(2月11日)までの占拠を目指していたが英国軍の激しい抵抗にあい、戦後、この作戦参謀だった国武少佐がが回顧しているように”勝利はどちらが手をあげてもおかしくない”ほどの激戦であった。10日間の攻略戦で日本軍は戦死者1713名、戦傷者5387人を出している。軍歌”遺骨を抱いて”がそれを物語っている。
◇ 遺骨を抱いて(遼原實作詞 海軍軍楽隊作曲)
  一番乗りをやるんだと 力んで死んだ戦友の遺骨を抱いて今入るシンガポールの街の朝
  男だなんで泣くものか嚙んでこらえた感激も山から起る万歳に思わず頬がぬれてくる(以下略)

亡父の日記によると、シンガポールの勝利は国をあげての祝賀であった。18日を第一次戦捷日として催しを開き、小学5年生であった僕も学校の旗行列に参加、万歳を叫びながら日の丸の小旗を振って行進した。しかし、戦後知ったのだが、現地では普通,戦勝のあと慣例の入城式も行われず、師団ごとに犠牲者の慰霊祭が挙行され、次の作戦準備へと移っていった。激戦の資料は皮肉なことに、現在、日本国内にはなく、英国軍が降伏したシンガポールのブキティマ戦争博物館に保存されている。

天降る「空の神兵」(2)作戦成功の陰に

2018-02-14 05:30:34 | 2012・1・1
パレンバン落下傘部隊(空挺隊}作戦成功の陰には、事前の周到な準備があったことはあまり、知られていない。将兵たちの血のにじむような猛訓練は映画「空の神兵」の中で 紹介されているが、同時に戦前からの一諜報部員の長年にわたる現地調査があった。中野学校第一期生、新穂智(にいほ.さとる)少佐(没時)で、戦前日蘭通商会議に随員として蘭印に派遣され、現地の石油事情を調査、さらに会議決裂後は同盟通信(現在の共同通信の前身)記者としてパレンバン駐在していた(新穂智少佐はその後西パプアに転戦”戦犯として処刑されている。その波乱の人生は、小ブログ2010年12月8日既載)。

パレンバン落下傘部隊は昭和17年2月14日午前、すでに占領下にあった馬来のカハン飛行場から梯団を組んんで発進したが、降下地は、すでに新穂少佐らの事前調査で飛行場近くの草地が選ばれていた。しかし、2月は雨季で、約500人の将兵たちは湿地化していた土地に足を取られ、34人もの方が蘭印軍との戦闘で犠牲になっている。

奇襲作戦であったかどうかは別として、パレンバンに降下した2月14日、南方での戦闘はシンガポール作戦が最終段階に来ていた。(15日英国軍全面降伏)しかし、蘭印軍が、日本の落下傘部隊の飛来をまったく想定していなかったわけではない。(写真)はセレベス島メナドに飛来した日本の落下傘部隊を想定して地元住民に警戒を呼び掛け配布されていたビラである。

戦争緒戦、わが国はパレンバンのほかメナド(海軍)西チモール(海軍)の三回、落下傘部隊が降下しているが、それぞれに尊い犠牲者が出ていたことも忘れてはいけない。

天降る「空の神兵」 (1) パレンバンの落下傘部隊

2018-02-13 05:50:31 | 2012・1・1
「わが赫々の大戦果が世界の驚異の的になっている真っ最中の1月11日セレベス島メナドの海の、こえて2月14日スマトラ島パレンバンには陸の神兵が突如天降った。その戦闘と戦果に世界の耳目を驚倒させた」(「写真週報」昭和17年9月16日号)昭和17年2月14日、インドネシアのスマトラ島パレンバンに降下した陸軍落下傘部隊の記録映画上映に当たって、内閣情報部編集の写真雑誌「写真週報」からの引用文(写真)である。

当時、国民学校(小学校)5年だった僕は、「落下傘部隊蘭印奇襲 陸軍部隊スマトラに進駐 海軍部隊メナド攻略参加」の大本営発表をラジオで胸ときめかして聞いたのを昨日のように覚えている。僕らはこの時まで海軍落下傘部隊が1か月も前にメナドに降下していたことを知らされていなかった。上記「写真週報」は”やったな、わが国にも、この用意があったのか。国民の驚きと喜び”の中で落下傘部隊の成功を祝ったと書いている

◇ 「空の神兵」(梅木三郎作詞 高木東六作曲)
   藍より青き大空に大空にたちまち開く百千の花模様
   見よ落下傘空を征く見よ落下傘空を征く見よ落下傘空を征く
記録映画「空の神兵」の主題歌だが、76年経った今でも僕はソラで歌える。

「空の神兵」降下76周年を記念して「パレンバン.デイ」の講演会の通知があった。
▽ 平成30年2月14日(水) 午後5時開場 5時半―7時半
▽ 憲政記念館(千代田区永田町1-1-1)
▽ 連絡先 090-1037-8754 事前予約要
▽ 会費 2000円
▽ 基調演説 ジャーナリスト高山正之氏 ほか。





精神衛生に悪い平昌五輪のテレビ観戦

2018-02-12 07:28:39 | 2012・1・1
12年前、小ブログを開始して間もなくの記事(2006年2月28日)に「無題」というタイトルでトリノ五輪の韓国、中国、、英国のメダル数が”今日はコメントなし、データーだけ”と記載されていた。韓国金6銀3胴3、中国金2銀4 英国金0銀1銅0。僕がこのブログで言いたかったのは、日本が大騒ぎしたのに金メダルはフィギュア.スケートの荒川静香選手1だけの不甲斐なさと、英国だってこの結果だという慰みだった。

平昌五輪は始まったばかりだが、毎度のことながら日本選手の期待外れの結果オンパレードだ。いつもと違い開催地との時差がないためかテレビ観戦の機会が多いからかもしれない。日本選手の予選落ち、下位入賞の画面ばかりで精神衛生に悪い。その上、競技そのものより、「北」の政治面の演出が先行し、南北融和ムードだけを見せつけされている感じだ。美女集団の応援はもう結構だ。

”「氷点下10度 相次ぐ中断.延期」 「強風 凍る選手」「葛西(紀明ジャンプ選手)も悲鳴 信じられない」-産経新聞(2月12日付け総合面)が伝える現地報告の見出しだが、たしかにテレビ観戦しても厳寒過酷の地での開催がよく伝ってくる。それに米国のテレビ放送の都合で、よりによっての深夜の開催まである。だれのための五輪かといいたくなる。

しかし、他人ごとではない。2年後の東京五輪の8月真夏日開催の暑さ対策は大丈夫なのだろうか。東京から200人の視察団が平昌入りしているそうだが、「他山の石」として貰いたい。それにしても米国のテレビ局の都合で開催時期、時間が左右されるのは、どうにかならないのだろうか。

アリランしか歌えない民族 君が代を皆で歌わない国家

2018-02-11 06:07:18 | 2012・1・1
北朝鮮の金正恩労働党委員長が平昌冬季五輪の開会式に出席した妹の金与正女史ら最高位代表団を通じて文在寅大統領を早い時期に北朝鮮へ招き、首脳会談を開きたいと申し入れた。文大統領は”条件が整えば”と招請に応じるかどうか即答を避けているが、朝鮮半島にある、この二つの「国」は「国」なのか理解しにくい。

平昌五輪を見る限り、南北統一平和ムードだ。開会式には南北選手団が朝鮮半島を型どった統一旗を持って入場、女子アイスホッケーの試合には合同チームが出場、文大統領と金与正女史が仲良く同席応援した。しかし、僕の偏見かもしれないが、五輪の祝賀のムードがない。例えば開会式に会場に流れた「アリラン」の歌だ。”アリラン、アリラン,アラリア、アリラン峠を越えて逝く”で始まるこの歌は王国時代からの民謡で、日本の統治時代にも歌われたが、いかにももの悲しいメロディだ。国を持たない流浪の民の歌にも聞こえた。

今日は「建国の日」の国民の祝日である。戦前に教育を受けた僕らは2月11日は「紀元節」であり国をあげて国歌「君が代」と”雲にそびゆる高千穂の”の「紀元節」式歌を歌ったものだ。しかし、今は政府主催の祝賀式典はないし、昔は家ごとに掲げられた日の丸もない。与党政権の自民党は選挙公約に政府主催の「建国の日」式典開催を掲げていた。

皇紀2668年、連綿と続くわが国の歴史は誇りである。胸を張って国民が建国の日を祝い、君が代を歌おうではないか。アリランしか歌えない分裂国家に同情したい。

「アルマー二」の標準服 軍服戦闘帽の制服

2018-02-10 06:16:41 | 2012・1・1
東京のド真ん中銀座がある中央区立泰明小学校で、この新学期から新「標準服」の着用が決まったようだ。イタリアの高級ブランド「アルマー二」のデザインによるもので、上着、ズボン(スカート)シャツ、帽子四点と、任意のセーターまで求めると、なんと8万円もするとう。いくら天下の銀座でも公立学校では高すぎると国会でも問題になった。

僕は昭和の10年代(12年―18年)、東京の区立国民学校(小学校)に通学したが、当時の子供たちの大半は「通学服」を着ていた。男の子は黒色の折り襟の長袖、半ズボン、夏の期間(6月―9月)は霜降りの同型、学帽は白い布で覆った。ほとんどが「通学服」は”いっちょうら”で、家で遊ぶときは普段着に着がえた。「通学服」がいくらしたか、判らないが、兄弟の多い時代である。下の子は上の子の”お古”を譲りうけていたところみると、それなりの値段だったのだろう。

この「通学服」も戦争が長引くにつれて配給でも入手できなくなり、小学校の名前が国民学校に変った16年頃にはセーターなど普段着で通学する子供が多くなった。17年に伊勢、奈良、京都へ修学旅行へ出かけているが、その時の記念写真を見ると、僕は級友が「通学服」なのに、母親の編んだセーターで写っている。

昭和18年4月、僕は旧制中学校に入学したが制服は、カーキ色(国防色)の軍服まがいのもの(写真)で戦闘帽、通学にはゲートル巻が強制された。これも衣料配給切符の点数内での購入だった。成長の速い少年時代である。すぐに制服が小さくなって困ったが、やがて軍需工場へ勤労動員され。制服を着る機会もなくなった。”欲しがりません 勝つまでは””質実剛健”の時代に育った世代には「アルマー二」は、まったく別世界の話だ。