「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

              都会の中の井戸

2013-03-13 09:50:00 | Weblog

昨日、税務署へ行く途中、東急祐天寺駅から駒沢通りへ抜けるバス通りでご覧のような井戸を見つけた。僕が子供だった戦前昭和の頃にはどこへ行っても東京には井戸があったが、最近は区部では姿を消してしまった。井戸の近くにはお稲荷さんの小さな社があった。昔、この辺りが荏原郡目黒村といった頃の名残であろう。

            確定申告の医療控除に思う

2013-03-13 06:49:15 | Weblog
昨日、老妻が”夜なべ”して作成した「確定申告」の書類を持って二人して税務署に出かけてきた。あと数日で締切とあってか狭い署内は人で一杯。昔はこんなに混雑していなかった気がするが、加齢による錯覚だろうか。わが家では僅かばかりの不動産収入があるため、僕がサラリーマンの現役時代から「確定申告」をしており、老妻が担当してきた。このため、それがしきたりとなって、退職後も老妻に任せきり、僕はまったく知識がない。

しいて僕がすることと言えば、この一年間かかった医療機関の領収書を整理しその合計額を計算することぐらいだ。医療費が年間10万円を超えた場合には控除されるという制度がある。老妻は健康で歯医者のほかは医者通いをしていない。僕は高血圧と糖尿値が若干高く、その治療のため1か月に1回通院、薬を貰っている。その他に3年前かかった膀胱ガンのアフターケアーを兼ねて内視鏡検査をしている。昨年はたしか10万円以下だったが、今年は難聴の疑いで数回耳鼻科のお世話になっているので、もしかすると、10万円をでているのではないかと思ったら果たしてそうであった。

後期高齢者の場合、医療費が年間いくら位かかるのか調べてみたら86万9千円だという。これは75歳以下に比べると3倍である。僕の場合、窓口負担が3割で、やっと10万円を超えているから、医療費総額は40万円程度であろうか。これからみても後期高齢者の医療費が莫大な額であることが解る。幸い、わが家は夫婦とも健康で、昨日も申告した後、老妻の労をねぎらって台湾料理で、軽くビールで乾杯したが、認知症の高齢者の場合、確定申告の制度は機能しているのだろうか他人事ながら心配だ。

      東京大空襲の後、わが家は強制疎開させられた

2013-03-12 06:41:18 | Weblog
67年前の昭和20年3月10日の東京大空襲当時、僕は目黒川沿いの五反田に住んでいた。幸い空襲の被害には会わなかったが、僅か数日後1週間以内に家を引き渡すように区から命令があった。わが家から100mの所に軍需工場があり、空襲の被害拡大を防ぐためのウムを言わせぬ建物疎開命令であった。

当時僕は中学2年生で、父母と3人家族であったが、命令をうけてバタバタと疎開先探しに飛び回った。運よくわが家は父が定年後退職金で建てた家作が5㌔ほど離れた所にあったので引っ越すことができた。亡父の日記は、強制命令を受けて隣近所はまるで”戦場”のようであった。そんな中、わが家は近所の運送屋に頼みこみ、馬車2台に家財道具などをヤマと積み込んんで引越しした。

戦争末期、強制疎開は東京だけではなく全国各地で行われた。疎開の家屋の撤去作業は主として、14,5歳の国民学校高等科や中学校の生徒が当たった。僕も動員先の工場の近くの駅前商店街の疎開”ぶっ壊し”作業に従事した。専門のとび職の指導で、大黒柱に荒縄をかけ、掛け声とともに荒縄を引っ張った。広島原爆の記録をみると、原爆投下の朝、広島二中(現在の観音高校)の生徒352人が爆心地に近いところで、この建物疎開の作業に従事していて原爆死されている。

この強制疎開による補償金はどうなったか。亡父の日記によると戦後の8月27日、9010円が支払われている。東京の三分の一以上が空襲で焼失,敗戦をはさみながらも行政が機能していたのに驚いた。しかし、戦後の猛烈なインフレで補償金は全く価値を失ってしまった。東京大空襲では10万人の市民が亡くなっているが、まったくからの補償はない。それに比べれば幸運といえるかもしれない。

            僕にとってのもう一つの3.11

2013-03-11 06:53:34 | Weblog
東日本大震災から早や2年である。テレビの画面をみると、被災地の瓦礫は一応片づけられているが、津波の爪痕は残されたままだ。特に福島の東京第一原発事故の周辺地区は痛ましい。除染されても中間貯蔵施設さえ解決されていない。避難地からいつ故郷に帰れるか、そのメドさえついていない。いまだに31万人以上の人が避難所暮らしをしている。

2011年3月11日に発生した、この大震災は日本人にとって永遠に忘れられない。しかし、僕にとっては、もう一つ忘れられない「3.11」がある。それは47年前の1966年(昭和41年)3月11日、ジャカルタで体験した「Superaemar」(3月11日付け大統領に対する権限移譲書簡)である。当時インドネシアはスカルノ初代大統領の外交政策、経済政策の失敗から混乱状態にあった。これを打開するためスハルト戦略軍司令官(のちに2代目大統領)が非常措置としてスカルノに権限を委譲するよう求めた書簡を送った。一種のクーデターみたいなもので、これによってインドネシアの政情は正常化し、脱退していた国連にも復帰、マレーシアなど近隣諸国との友好関係を取り戻し、ASEAN設立への道を開いた。

僕は新聞社の特派員としてジャカルタに赴任した直後に、この政変に遭遇した。前任者もなく現地の言葉も判らない。正式に取材を許されるプレスカードもない状態であった。臨時に支局にしていたホテルの前の大通りの前には連日、学生たちがデモを展開、中国大使館などが焼き討ちにあったりした。夜間は外出禁止令が出ていて一歩も外へ出られなかった。IT時代以前で、電話も英語で会話するよう制限されていた。「Supersemar」はインドネシア現代史では重要な事件で、中部ジャワのソロの大学は校名に「Supersemar」を冠している。

               早春を求めて三浦半島

2013-03-10 08:16:55 | Weblog

昨日、早春を求めて三浦半島へ娘婿の車に便乗して出かけてきた。自宅から10分位で第三京浜玉川JCに入り、途中横浜新道、三浦縦貫道路など幾つかの高速道路を乗り継いで行くと、1時間足らずで三浦半島の一方の入口、長井に着く。
陽気は暖かく、絶好の天気なのに車窓からみる空は何とはなく煙っている。黄砂によるPM25によるものなのか、杉、ヒノキの花粉によるものなのか。老妻も娘もマスクを二枚重ねての重装備だ。長井は戦中は日本海軍、戦後は一時期、米軍のキャンプがあったが、いまはその跡の一角に「JAよこすか葉山」と長井漁業組合が「すかなごっそ」という名前の大型店舗を開いている。土曜日だったこともあって店は地元の客や観光客で大賑わいであった。僕らはここで名物の三浦大根や横須賀海軍カレーなどをしこたま買った。
娘婿は何度もここにきて地理に詳しく、僕らは次の目的地、佐島漁港へ出かけた、漁港の近くには活魚の看板を掲げた店があり、僕らはここで朝とれたばかりのセイゴ、アジなどを一箱千円で買った。店には大きなマンボも売られていたが、だれが買うのだろうか。
葉山の御用邸近くの、行き付けの農家の店先で早咲きの桜を一本100円で求め梅干しや自家製のヘチマ化粧水を買った。海岸通りの一本道はやはり煙っていたが、健康志向の若者たちは、そんなことは苦にもせずジョギングを楽しんでいた。

       辻本清美議員が国会舞台に慰安婦問題で反日活動

2013-03-09 07:26:26 | Weblog
民主党の辻本清美議員の衆院予算委での昨8日の”従軍慰安婦”に関する質問は最低、最悪であった。NHKの国会中継を巧みにハイジャックした意識的な反日活動である。国家予算を審議する重要な委員会なのに、予算とは直接関係のない”従軍慰安婦”について何故長々と質問するのか。世界に向けて”従軍慰安婦”問題をいっそう誤解させる機会を与えたにすぎない。

辻本議員は委員会の会場に大きなパネルを持ち出し、中曽根康弘元首相が、戦時中バリックパパン(インドネシア.カリマンタン島)の海軍航空隊の主計長だった時、街中に“土人女性”を集めて慰安所を作ったという古い文書について国が慰安婦問題に関与していたのではないかとt追求した。辻本議員は文書は防衛省の公開文書だと強調していたが、僕ですら10年も前からこの文書の存在を知っている。もちろん、中曽根元総理もご存知である。何も隠す必要もないものだ。

辻本議員は今、なぜこの文書を”新発見”のようにして国会の場持ち出したのか。ここに戦争を知らない一部の若い世代の歴史認識の問題がある。辻本議員や彼女が関係している”偽学者”は、戦時中の文書の正しい解読が出来なくなっている。一例だが、10年ほど前だが、戦時中にマレーで日本軍による大虐殺を示す秘密文書が発見されたと朝日新聞に売り込んだ”偽学者”がいたが、調べるとマレーの共産党軍掃討作戦に従事した軍の従軍日誌にすぎなかった。

NHKも多分、辻本議員の”中曽根文書”につては、通常の売り込みでは扱わなかったであろう。言葉は悪いがNHKは国会中継ということで辻本議員にうまくはめられてしまった。この国会中継をみた若い世代の中には、”中曽根文書”をみて、やはり軍が関与していたではないかと誤解する者もある。真相を知らない外国のメデイアに与える影響を考えれば、辻本議員の反日謀略といっても過言ではない。

なお、バリックパパンの街は昭和20年7月1日、3万人の連合軍の再上陸で壊滅、軍も現地住民も奥地サマリンダに撤退 途中の戦闘で1万人近い犠牲者がでていることを追記しておく。、


       居丈高な細野幹事長の誤った35人学級理解

2013-03-08 07:02:21 | Weblog
昨日のの衆院予算委員会で民主党の細野豪志幹事長が色々”居丈高”(安倍総理の言葉)に質問していた。何故あんなにいきり立って質問するのだろうか。テレビ中継で国民も茶の間で見ているのだ。質問というより3年3か月の民主党政権の自己弁護にすぎない。今、政治は自公新政権の下、前に進んでいる。それへのやっかみなのだろうか。

教育問題で35人学級の拡充について、日教組と同じ要求を持ち出していた。先日、日教組の代表が民主党本部を訪れ陳情していた。細野幹事長は”子どもは国の宝だ。なのに民主党政権で決めた35人学級を後退させるのだ”といった趣旨である。細野氏はさらに”文科省は35人学級拡充をやめて学力向上にまわすといっているが、学力向上も大切だが教育は個性を大切にするのが目的だ”とまるで日教組の受け売りみたいなことを言っていた。

何故、僕は文科省が35人学級を中止したのか改めて文科省の動画チャンネルを見たら、鈴木寛副大臣が出演していて小学校1年、2年の35人学級を実施するると明言している。予算の関係なのだろう。民主党の要求するよな小、中学校全校実施を見送ったにすぎない。例の民主党の出来もしないマニュアルなのだ。細野氏は質問の中で”消えた年金問題”で民主党政権下では40回も委員会を開いたが、自公政権では一度も開かれていないと批判していた。決められない政治の典型なのに、よくも言ったものだ、

昭和18年3月、僕が小学校(国民学校)を卒業してから70年になる。改めて卒業の集合写真を取出し級友の人数を数えてみたら58人いた。昔も今のように1クラス何人という基準があったのだろうか。しかし、東京のような都会では、どこも大人数のクラスだった気がする。昔はコピー機などなく、宿題など先生がいちいち謄写版をきり印刷していた。多分今の先生よりは忙しかったに違いない。

          民主党代表のお粗末な”質問力”

2013-03-07 06:49:37 | Weblog
昨6日参院本会議での民主党羽田雄一郎(前国土交通相)の代表質問は内容も態度もお粗末そのものだった。質問冒頭からニヤニヤと意味のない笑みを浮かべ、質問はただ用意してきた原稿を棒読みするだけ、それも間違いだらけであった。”物議をかもす”という部分で、なぜか”物事と読み間違えて詰まってしまい、テレ笑いをしていた。みっともない。これが大臣経験者の”代表”質問だろうかー。

まだ覚えているが2009年、麻生内閣だった時、麻生総理の国会答弁の中で漢字の読み方に誤りが多いと、民主党の石井一副代表が予算員会にパネルを持ち出し、総理の国語力をテストしたことがあった。麻生総理が「踏襲」「低迷」「未曾有}「有無」などの漢字を誤読していたというのである。当時民主党は政権につく前で、与党自民党のあらを、なんでも探しだし追求しようとしていた時だったが、さすがに世論は麻生総理に同情的だった。

羽田雄一郎氏の”物議をかもす”の誤りも物議をかもすほどの事ではないかもしれない。しかし、質問の内容がお粗末だ。民主党は3年3か月の与党を経験して変容した意味のことを言っていたが、国民にとっては3年3か月の失政が、単なる民主党の与党経験の期間であったのでは、たまったのものではない。羽田氏は質問の中で、自分が少年であったとき、父親(羽田孜.元首相)が政治家であったため、いじめを受けた、と告白していた。民主党を代表しての質問である。自分の個人的な体験が質問とどのように関係があるのだろうか。冗談だが、石井―参院予算委員長は、自党の代表質問について事前にテストしてはどうだろうか。

          PM2.5飛来 テレビ解説者の誤認識

2013-03-06 07:14:04 | Weblog
熊本県荒尾市のHPによると、昨日5日のPM2.5(微小粒子状物質)値が国の定める暫定指針値70μグラムを越え、午前8時には110μグラムを記録した。このため同市では市民に対し不要不急の外出を控え、屋外での激しい運動をできるだけ避け、外出時には適当なマスクを着用するように呼びかけた。いよいよ中国の大気汚染によるPM2.5が本格的に飛来し始めてきたのだのだろうか。

僕は環境問題については素人で、PM2.5の健康に与える影響についてはよく知らないが、昨日たまたま見たフジテレビ系の情報番組「知りたがり」で解説者とみられるピンク映画の監督が”自分の子供の頃は、中国の核実験による”死の灰”が飛来してきた”と発言していた。中国の核実験は1964年から80年にかけて新疆ウイグル地区のロブノールで50回近く行われているが、当時その降下物である”死の灰”が日本に飛来したということを僕は知らない。”死の灰”という言葉は1954年、南太平洋のビキニ環礁で米国によって行われた核実験の降下物を被爆した第五福竜丸のさい使用された。

解説のピンク映画監督(60)は、かって在日朝鮮人はすべて植民地時代日本政府が徴兵、徴用で強制連行したという誤った歴史認識で発言した人物だが、この中国核実験による”死の灰”の日本への飛来も何かの思い違いであろう。国民がPM2.5の実態について”知りたがっている”のに何故、こんな素人の誤認識による発言をさせるのだろうか。

わが家で購読している新聞は荒尾市の高濃度のPM2.5について小さく報道していた。環境省は一応PM2.5について基準を設け、国民にもその対応をHPなどで示しているが、それだけで十分なのだろうか。これから黄砂が飛来するとPM2.5値も高くなるという。民放といえトンチンカンな解説者が誤認識に基づき変な情報を流すと、国民は混乱するばかりだ。

           石原慎太郎議員の”アンチ.エージング”

2013-03-05 07:47:35 | Weblog
社会との接点が少なくなってきた僕ら老人にとってテレビの国会中継は色々と勉強になる。安倍晋三総理の答弁は国民の高い支持率に支えられてか、そつがなく、なかなかのものだ。これに反して哀れなのは民主党議員の質問だ。何か質問すれば、それは自党の過去の失政だったりする。これをマスコミは”ブーメラン”現象と呼んでいるそうだが、昨日の衆院予算での大畠章宏氏の質問もまさにそうであった。

民主党政権時、国土交通相、通産産業相の枢要閣僚だった大畠氏は、やがて2年になる東日本大震災について質問した。大畠氏の質問の中で当時の民主党政権の活躍を自讃するような発言をしていたが、僕はそれもあったかもしれないが、それよりも自衛隊員や米国の”ともだち作戦”の兵士たちの姿のほうが記憶にある。皮肉なことにテレビカメラは民主党議員席を映し出したが、そこには当時の菅直人総理や野田佳彦財政相の顔があった。

日本維新の会の藤井孝男議員が憲法改正や教育問題について質問したが、与党だか野党だかよくわからない内容。テレビカメラは維新の会の議員席を映したが、御大の石原慎太郎代表代行の姿がない。議員名札が倒れている。石原議員は数日前、風邪をこじらせ入院中だったことを想い出した。国会議員は国会に出ることが最も重要な仕事だと思うのだが。

石原慎太郎さんは80歳である。都知事の激職を13年間もこなしてきたし、年齢にしてはお元気なようにお見けするが、やはり80歳という年齢である。個人的なことで恐縮だが、僕も80歳を迎えたとき、平均年齢を超えた一種の”安心感”もあって、スポーツクラブへ通うなど、年齢に逆らうような”アンチ.エージング”なことをした結果、帯状疱疹で倒れてしまった。石原さんの気持ちはよくわかるが、くれぐれもご自愛のほどを。僕らと違って隠居ではなく要職にあるのだから。