「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

スマトラ「戦争遺産」について考える

2016-02-29 05:54:09 | 2012・1・1
インドネシアのスマトラ島に戦時中日本軍が建設したスマトラ横断鉄道の遺跡がある。”戦場に架ける橋”で有名な鉄道九連隊が昭和18年から20年にかけてスマトラのマラッカ海峡側のムシ河の河港の町、パカンバル(Pekanbaru)からインド洋側の内陸の町、ムアら(Muara)まで220キロを結んで作ったものだ。奇しくも、敗戦の日に完成したが、日本軍の撤退後、放棄されたままになっている。

先日、知人がこの”遺跡”を含めて西スマトラの戦跡を調査してこられ、写真を見せて貰った。パカンバルの博物館には、当時現地で使用されていた機関車や工事に従事していたロームシャの姿を描いたレリーフなどが展示されている。しかし、ムアラまでの沿線の鉄路はすべて撤去され、僅かにムアラ駅の駅舎の一部が残っているだけ。他に博物館と同じ機関車が二台、ジャングルの中に保存されている。こういった鉄路や機関車は、戦争中ジャワで使われていたものを、船でスマトラに運搬してきたものだ。

戦後の連合軍メダン裁判は、この鉄道建設に当たって、捕虜やロウムシャを虐待したとして関係者を処罰している。死刑を宣告された第25軍司令官田辺盛武中将らもこの虐待が起訴理由の一つとなっている。知人は鉄道遺跡を見たとあと、第25軍司令部があったブキテインギを訪れ、10数年ほど前まで、日本軍が3千人のロ―ムシャを虐殺したと誤って伝えれた防空壕跡を見学してきた。(写真上)1990年代には、壕の入口には、虐殺をほのめかす残虐なレリーフが所せまと展示されてあったがすべて今は撤去されていた。しかし、2004年に僕らが寄贈したインドネシア語、英語、日本語で記した「防空壕築造記」は配布されていないようである。

スマトラ鉄道についてインドネシア側は、どの程度資料があるのだろうか。パカンバル博物館のロームシャ虐待レリーフの構図は、かってブキティンギの防空壕入口にあったものと同じである。ユネスコには戦争遺産はないと思うが、将来、歴史遺産として保存されるようなことがあれば、当事者の一国として事前に資料を提供する義務があるように思うが、どうだろうか。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
忘却 (chobimame)
2016-02-29 09:26:37
戦後になぜ使用しなかったのでしょうか?
戦争絡みの鉄道なので、反対する世論が強かったのか、市民の足には、ならない場所だったのか。
こうした歴史的な遺産が残るのは、当たり前なのですが、日本は、あまりにも言わっぱなし、やられっぱなしです。
いずれ戦争の話を世界中の人が忘れるだろうと、たかをくくっていたら大きな間違いです。
どんどん作られた歴史が独り歩きしてしまいます。
こと、戦争の歴史に関しては、公平な歴史研究家が少なく、個人の感情が優先された歴史論なってしまいますから、尚更日本政府は、きちんと反論し、日本としての意見を発信するべきです。
日本は、戦争に関わる全ての事を怖がり過ぎています。
どんなに批判されても、いい続けねばなりません。
戦後、日本は、良い意味での大和魂を失い、中途半端にアメリカナイズされた、自由や権利を履き違えたおかしな人達が闊歩するようになりました。
安っぽい人権主張に振り回されず、日本は、日本としての誇りを取り戻すべきです。
その為にも正しい歴史を主張しなくては、なりません。
返信する
正しい歴史を後世に (kakek)
2016-02-29 10:20:36
chobimame さん
軍用鉄道として建設されたものです。僻地であり、民間の需要がなかったこともあります。それに技術移転がされていませんでした。それに戦後長い間、独立をめぐって内戦がありました。
ジャワは戦前は日本国内より鉄道網が発達しており、複線だった場所もありましたが、軍は不要不急の線路を取り払い、機関車をスマトラに運んだようです。
泰緬鉄道と同じように工期が限られていたため、作業は厳しかったようで、現地人のロームシャを中心に多数の犠牲者を出しましたが、日本側もその責任をとっています。
いまだにご遺骨まで収拾されていません。かっての戦地にはこういった”傷跡”が沢山残っています。これが屈折した形で誤って後世に伝わることは怖いです。
返信する

コメントを投稿