「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

インドネシアの「脱走日本兵」の最後の一人

2014-08-27 05:22:47 | Weblog
戦後インドネシアに残留、同国の独立戦争に参加した元日本兵の一人、小野盛さん(94)が東ジャワのマランで亡くなった。小野さんは1979年、残留者の福祉、相互扶助のために組織された「福祉友の会」(Yayasan Warga Persahabatan)の発起メンバーの一人で、小野さんの逝去で同会の230人全員が亡くなられた。この半世紀、なにかと残留者とかかり合いがあった僕には、一つの時代が終わったとつくづく感じる。

僕が初めて残留者の一人Mさんと会ったのは1966年3月、新聞社の特派員として赴任した直後、インドネシア語の通訳をお願いしたときだ。Mさんは独立戦争に参加した功績とのことでインドネシア軍大尉の勲章をつけた在郷軍人服を着て毎日、僕の事務所に現れた。当時、インドネシア語が、まったく解からず、現地の事情にうとかった僕にとっては大変助かったが、1か月で仕事をお断りした。日常の会話の中に、悪魔払いの祈祷をしたら、口の中から蛙が沢山飛び出してきた、といった類の話が出てくるのだ。Mさんは戦前からのジャワ生まれの人だった。

当時日本は、賠償引き当て貿易が始まり、日本の商社はインドネシア語の出来る残留者を現地で雇用し始めた。それまで、残留者の存在は知られていたが、現地の社会の中に埋没していた。そして大部分の方が、折りらのインフレもあって生活に困っていた。「福祉友の会」が出来たのは1979年だが、当時でも日本の企業での働き口がなく、中には完全に社会からドロップアウトした困窮者が多かったみたいだ。「福祉友の会」発足の目的はその相互援助助け合いであった。

1990年の入国管理法の改正で、日系二世、三世が日本に長期滞在できるようになり、残留者の子弟も大挙して訪日したが、日本語が出来ず、習慣も異なり各地で問題が派生した。僕は縁があって、ボランティアとして支援活動をしたが、僕が従来、抱いていた残留者とは違った一面をその時、知った。残留者全員が戦後、日本人としての意気に燃えて独立戦争に参加したのではないということだ。僕の畏友の一人、毎日新聞OBの奥源三さん(故人)が著書のタイトルに「脱走日本兵」と書いたのがよく解る。憲兵など軍を脱走しなければ、連合軍に逮捕されるといったケースを除けば、果たして何人が、他国の独立に意気を燃やし戦争に参加したのだろうか。1万人もの日本兵が祖国への復員を断り、他国のために生命を捨ててまで戦っただろうか。話としては面白いが。

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6 コメント

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Unknown (chobimame)
2014-08-27 09:51:52
またひとつの時代が終わったような感じです。彼らの生きた時代がどのようなものだったのか、今の日本はあまりに情報が無さすぎます。ご苦労なさった世代の方の話が後世まで残って欲しいものです。
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残留元日本兵 小野盛様の訃報 (Swara angin)
2014-08-27 10:28:05
先ずご冥福をお祈りします。 
                  合掌
終戦時の混乱の中独自の判断でインドネシア独立へ参加、
不名誉な「脱走兵」と言われながら、祖国日本とインドネシアの独立へのご苦労に感謝しています。 現在の日本とインドネシアの関係、戦後賠償から両国の復興への礎の方々のご苦労をいつまでも忘れないように。 
福祉友の会、二世三世の方々が一世の方々の精神を継続されるよう願います。 微力ですがこれからもお手伝いさせていただきます。
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Unknown (朱雀)
2014-08-27 12:23:51
小野盛さまの御霊に哀悼の意を表します。合掌。

この度時間があれば、お目にかかりたいと一時思いましたが、東部ジャワにお住まいとのことで、時間の関係上断念しました。
このタイミングでお亡くなりになられるとは…、最後のチャンスを逸してしまったと感じます。
とは言え、動画や証言も残されているようですので、それが救いかと存じます。

残留元日本兵の方のうち、憲兵隊であったという事情で処刑から逃れる理由であった方も少なからずいらっしゃったというのは、御著書で勉強させていただきました。中島正周先生も、純粋にインドネシア独立のため命を懸けて戦ったのは少数派であったろうと語られていましたので、恐らくそうであったのであろうと存じます。
また一方で、確かに各地に本物のサムライがいたのも事実であり、英雄墓地に祀られているということも忘れてはならないことであると存じます。

今回90歳を越えた方々にインタビューする機会に恵まれましたが、やはり日本人はあの困難な状況に置いても知恵を絞ってインドネシア側に武器を渡したり、非公式であっても、独立のためいろいろの支援をしていたのだと思います。
日本人は確かに国益のため戦いましたが、国益第一はどこの国も同じであって、ただそれにとどまらず、少なからぬ日本人が単に自国のことだけを考えていたのではなく、インドネシアのこともよく考えて努力していたのだと思います。そこが日本人の良さではないかと思います。
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スカルノ碑 (kakek://blog.goo.ne)
2014-08-27 16:02:14
chobimame さん
東京の慈恵医大近くの古刹、青松寺境内に二人の日本人、市來竜夫、、吉住留五郎に対してスカルノが贈った碑文があります、”独立は一民族のものならず、全人類のものなり”。亡くなられた小野さんは、市來。吉住両氏の下で東ジャワの山中で、再侵略してきたオランダ軍と戦った日本兵です。
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ジャワ、スマトラ以外の残留者 (kakek)
2014-08-27 16:36:00
Suara angin さん
戦後インドネシアに残留した日本軍関係者については、まだ研究しなければならないと思います。ジャワ、スマトラ以外のも残留者がおります。福祉友の会結成時のリスト(読売新聞大阪版)にのっている他地域の方々は当時の厚生省の資料によるものです。戦後、日本工営の方がバンジェルマシンで残留者の一人と会っていますが、日本人との接触を避け名前を明かさなかったそうです。福祉友の会の資料は、研究団体ではないので、会員以外はの情報は信頼できません。私事ですが、1980年、北海道のテレビ局時代、プライベートの旅行で福祉友の会リストを入手、北海道関係者の方だけ道新で報道しました。多分、小野さんの北海道の家族は、その時初めて小野さんの情報を知ったのではないかと思います。
他にも中部スマトラに残留した方々の戦後の消息がいまだに不明なことなど。調べてみたいのですが、何分高齢では^。

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独立戦争の時代 (kakek)
2014-08-27 17:08:28
朱雀 さん
日本では戦後のインドネシア独立戦争については、ほとんど研究が進んでいません。あの時代、日本は連合軍の占領下にあり、生きるだけで一杯の時代であった気がします。残留者については、中島正周さんの言う通りです。しかし、私的な理由から残留した人も、好むと好まざるを問わず、独立戦争に巻き込まれ、参加せざるをえなかったようです。
最近の研究者の中に、いたずらに残留者を英雄視する向きがありますが、当時の日本人なら、敗戦を聞き一日も早く故郷に帰り、祖国の復興に当たりたいというのが自然です。この研究者は1万人に上る日本兵がいたと書いていますが誤りです。軍を離脱して一時的に戦いすぐ帰国した人を入れても、そんな数にはなりません。
日本の敗戦後直後のインドネシアは、本当に大変な時代でしたね、残留者の記録を含めて改めて検討の余地がありますね。
(ブログに書いたMさんは、中島さんと同じタンゲランにいた方です。中島さんの生前、知っておれば詳しく経歴をきけたのに残念です。明治時代から南方で生活していた一家のようです)

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