「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

5月24日、25日東京連続空襲があった頃

2018-05-24 04:42:03 | 2012・1・1
73年前の昭和20年(1945年)5月23日深夜(24日午前1時40分)、今僕が住んでいる家(目黒区)の裏通りにも焼夷弾の破片が落ちてきた。当時、中学3年生だった僕は、父母と一緒に火叩きで、これを消した。今でも鮮明に覚えているが、亡父の日記(写真)にも記述されており”初めて空襲を経験すと書いてある。戦後の記録によると、この夜山の手一帯にB-25、525機が襲来、6万5千戸の家屋が焼失、762名の犠牲者がでている。

東京では、この空襲についで25日深夜(午後10時20分)B-25、470機が来襲し、渋谷、青山通り、新宿、池袋から三多摩地方にかけて焼夷弾を投下、16万6千戸が焼失、3651人が死亡している。前日の空襲より被害は大きいのだが、当時僕は詳細について知らなかった。亡父の日記によると、24日の空襲で停電しラジオが聞こえず、27日まで新聞も発行されていない。父は26日、目黒の家から渋谷まで電車が普通のため歩いて通勤しているが、初めて渋谷駅前が焼野原と化したのに驚いている。

27日になって新聞が発行されたが、在京の5新聞による「共同新聞」であった。号外のような1枚ぺらで、内容は最小限度の情報であった。その関係もあって、当時の都民の多くは、自分が体験した空襲しか知らない。戦後かなりたってから、僕は同じ区内でも中目黒の空襲で「聞けワタツミ」の筆者の一人が亡くなっているの知った。3月10日の下町大空襲の被害があまりにも大きかったため、他の空襲の全貌が忘れれていくのは残念である。

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