早いものだ。インドネシアの歴史を変えた1965年(昭和40年)9月30日のクーデター(未遂)事件から48年の歳月が流れた。この事件は当時インドネシアではGESTAPO(Gerakan Tiga Puluh)と呼ばれ、事件を起こしたとされるインドネシア共産党(PKI)のイメージをナチス.ドイツ秘密警察(Geheim Staatpolieze)とだぶらせて、国民に対して共産党への恐怖感を煽った。
このGESTAPOによってスカルノ(初代大統領)の国連脱退、マレーシアとの対決などの外交政策は一変し、破綻寸前だった経済も西側諸国の援助で救われた。僕は直接この事件は取材していないが半月後のスカルノからスハルト(第二代大統領)への政権移譲期にジャカルタにいてインドネシアの当時の政治混乱期を、この目で見ている。
このGESTAPOの真相については、半世紀近く経った今でも明らかではない。当事者の一人、スハルトが2008年、何も明らかにせず逝去されたので真相は闇の中である。僕が親しくしているバンバン.プルノモさん(88)は事件後軍当局によって逮捕され7年も刑務所に入っている。プルノモさんは義勇軍出身の大の親日家で当時インドネシア国軍の少佐であった。駐日大使をしたバンバン.スゲン将軍の実弟で、PKIに関係あったとはとても思えない。
GESTAPOの政治混乱でインドネシア各地で、共産党関係者を中心に最大300万人が殺されたという説がある。当時日本の新聞もジャワを流れるソロ川が殺害された人々の血で真っ赤に染まったという報道もあった。真相は不明だが、GESTAPOをきっかけにインドネシアが変わり、アジアが変わり、冷戦体制にもヒビが入ったモメントになった。
このGESTAPOによってスカルノ(初代大統領)の国連脱退、マレーシアとの対決などの外交政策は一変し、破綻寸前だった経済も西側諸国の援助で救われた。僕は直接この事件は取材していないが半月後のスカルノからスハルト(第二代大統領)への政権移譲期にジャカルタにいてインドネシアの当時の政治混乱期を、この目で見ている。
このGESTAPOの真相については、半世紀近く経った今でも明らかではない。当事者の一人、スハルトが2008年、何も明らかにせず逝去されたので真相は闇の中である。僕が親しくしているバンバン.プルノモさん(88)は事件後軍当局によって逮捕され7年も刑務所に入っている。プルノモさんは義勇軍出身の大の親日家で当時インドネシア国軍の少佐であった。駐日大使をしたバンバン.スゲン将軍の実弟で、PKIに関係あったとはとても思えない。
GESTAPOの政治混乱でインドネシア各地で、共産党関係者を中心に最大300万人が殺されたという説がある。当時日本の新聞もジャワを流れるソロ川が殺害された人々の血で真っ赤に染まったという報道もあった。真相は不明だが、GESTAPOをきっかけにインドネシアが変わり、アジアが変わり、冷戦体制にもヒビが入ったモメントになった。
これから読んでみたいと思います。
ヤヤサン・ペタ(ボゴール)のプジョノさんに伺ったところ、「外国人はスカルノが共産党と密接な関係を持っていたと言うが、必ずしもそうではない。プロパガンダが多分に含まれている。」と言われていました。
いま、インドネシアでは一部で9.30事件の再評価が行われているようですね。スハルト大統領はついに真相を語らずじまいだったようですが、今後何か資料は出て来るでそうか。今後調べていきたいテーマの一つです。
謎ですが、当時在ジャカルタ日本大使館員だった方の話では、中国の影響があったのは事実のようです。僕が知っているのは、事件から半月後のジャカルタでしたが、街は中国製の安い商品があふれ、ものすごいインフレで住民は食べるのがやっと、塗炭の苦しみをしていました。バンバン.プルノモさんからは何故逮捕されたかきいていませんが、多分軍内部の闘争の結果だと思います。当時ジャワ島のPNI(国民党)=スカルノが創設した政党=関係者は左遷されていました。
ヤニ将軍たちの死体が発見された”鰐の穴”付近は今やジャカルタの町中になっています。時代の流れを感じます。
先日、知人からインドネシアが東ティモールに侵攻していて、その資金源が日本であると聞きました。そんなドキュメント映画が、放映されたそうです。その知人は、かなり左なので日本はなんと恥知らずな国だと嘆いていましたが、日本が東ティモールの侵攻を支援しているとは思えません。
世界規模でみると、まだまだ争いが絶えないですね。人間は愚かです。
戦後の1960年代、オランダが西ニューギニアを自国領としようとしたとき、日本は終始国連外交を通じてインドネシアを支持しました。ティモール島は、西欧の植民地時代、東はポルトガル領、西側はオランダ領に分割されましたが、もともとは同じ人種です。言語も同じです。戦後インドネシアが独立し、西半分を統治下に置きましたが、東はポルトガルの植民地のまま放置されていました。このため、インドネシア側が”侵略”したようです。日本がこれを支援したという話はきいたことがありません。いずれにしても、かっての西欧植民地時代の”線引き”の影響が残っています。
スカルノ時代の末期には北京、ハノイ、平壌、プノンペン枢軸でした。半世紀前です。随分変わるものです。
昨年ジャカルタを訪れた際に、ヤニ将軍が惨殺されて放り込まれた穴を訪れました。夕方に訪れたので、同行した通訳の方が気味が悪いと怖がっていました。あそこはPKIがアジトにしていた場所で、かつてはワニがよく出る場所で、自殺の名所であったとも聞きました。
あの時、貨物船でプリオクに停泊してました。
日本からの電報は一日2回、長崎無線局(JOS)から発信されます。
船会社が関係商社から依頼された、ジャカルタの商社宛の電報が山の様に着信してテンテコマイをした記憶が残ってます。
インドネシアの海上通信事情を調査する為、停泊中、海運局(プルフブンガン・ラウ)に通ってました。
あの日も、海運局に行き、調査結果をノートにゴチャゴチャ書いて、帰船の途中でした。
プリオク港の検問所で、ツカマリマシタ。
ノートに”PKI”の文字が沢山書いてありました。
”PKI”はジャカルタ(プリオク)の海岸局
(船舶相手の通信局)のコールサイン(呼び出し符号)でした。
インドネシア共産党(PKI)と勘違いされたようです。
危うく、逮捕されるところでした。
懸命に、説明して、何とか釈放されて帰船することが出来ましたが。
想い出しても”危機一髪”でした。
つまらないレスで失礼しました。
オヤスミナサーイ
中国製品は劣悪な雑貨が多く、庶民の日常には約立たないものばかりでした。本当に庶民に必要なものはなく、あっても高価で入手できなかったと思います。僕は2回、白昼ジャカルタの中心街でピストル強盗にあっています(1回は未遂)。レストランで食事をすると、残したものを、腹をすかした人たちが取りに来ました。最悪の時代でした。
。
とんだPKI間違い、危なかったですね。まだ僕もまだ若く
例のKramat Tunggalで臨検にあい、えらい目にあつた苦い想い出があります。あの当時新聞は全部検閲のため、クマヨらラン空港から香港経由帰国する乗客に電文を託し、香港から打電してもらいました。よく遊びよく仕事をしました。