幕末の文久2年(1862年)祖父が腰に大小二刀をさし、ちょんまげのサムライ姿の写真を小ブログ(2019年11月23日)で紹介したが、祖父が幕臣として何をしていたのかよくわからなかった。ところが、数代前、先祖を共にする遠縁のお二方の調査で、祖父が幕府関東方代官の江戸詰めの手代である時撮ったことが判った。
祖父は天保2年(1831年)埼玉県深谷市の豪族矢井氏の血を引く旧家の出で、明治31年(1888年)死去するまで天保,弘化、嘉永、文政,文久,元治、慶応、明治の8代の波乱の時代を生きてきた。しかし、わが家は3代にわたって遅い子持ちだったので祖父といっても僕は祖父を知らないし、生き様はもほとんど判らなかった。
ところが、お二方の調査で次第に判明してきた。祖父は少年の頃関東方代官、林部善太郎の手代だった家に養子に出たが、養子先の死亡に伴い生家に戻り、勤め先も佐々木道太郎代官に変わっている。付け刃の知識で恐縮だが、代官の手代というのは、代官の雇人の地方武士で、代官に代って領地の農政などに当たる職だ。祖父も群馬県岩鼻陣屋(高崎市)や山梨県谷村陣屋(都留市)などに足跡を残しているが、最近のお二方の調査で、祖父が幕末の農政学者で下総長部村で農民運動を指導者していた大原幽学とも接点がり、大原の自刃の検視にも立ち会っていた。
まだ祖父については判らない点が多い。前回の小ブログで祖父の写真は時代背景などから横浜の初代写真師、下岡蓮杖撮影だと推測したが、当時祖父の住んでいた江戸下谷の同じ町内には写真家であり画家である島霞谷がおり、横浜よりは地元で撮影したというほうが自然である。訂正しておく。
判明 凄い事だと思います
僅か200年、されど200年、歴史の謎解きは最高の知的な遊びですね。努力の積み重ねは大変なものです