昨日から降り出し始めた大雪で東京の積雪量は27㎝を記録した。これは昭和44年3月12日以来、45年ぶりとのことだ。この年1月、僕は新聞社から同系列のテレビ局に移り、職も記者からテレビの営業に代って、この大雪の日は都心の広告代理店まわりをしていた。仕事環境が一変したので、この大雪の日は鮮明に記憶にある。
ネットの「過去130年東京の大雪記録」を見たら第一位は1883年(明治16年)2月の46㎝で、二位は1945年(昭和20年)2月の38㎝、三位は1936年(昭和11年)2月の36㎝とあった。この二位と三位の東京の大雪を僕は覚えている。とくに二位の大雪は、敗戦の年の冬、過酷な戦争の中での豪雪だっただけに忘れられない。
亡父の日記には”尺余(一尺は33cm)の降雪。近年にない豪雪だが、ラジオは故障、幸い空襲警報の発令はなかったが、不安の一夜を明かす”とあり、よ翌23日の日記には”出勤の都電が清正前前(港区白金)の坂で脱線、歩いて五反田へ引き返す”とある。僕は中学2年(旧制)だったが、豪雪の中を大田区蒲田の勤労動員先の軍需工場へ出勤している。JR蒲田駅から工場のある六郷まで行進、つま先の破れたズック靴が水びたしになり、指が凍傷になった。
第三位の昭和11年2月の大雪は2.26事件の写真などから26日の降雪だと思っていたら22日であった。当時僕は幼稚園の年少組であったが、幼稚園横の坂を手製のソリで滑ったこと、2.26事件の当日、母親が何か心配そうに僕を迎えにきたことを覚えている。昨日から今日にかけての大雪もベスト.テンに入るものと思うが、80路を過ぎると、いろいろな体験ができる。
ネットの「過去130年東京の大雪記録」を見たら第一位は1883年(明治16年)2月の46㎝で、二位は1945年(昭和20年)2月の38㎝、三位は1936年(昭和11年)2月の36㎝とあった。この二位と三位の東京の大雪を僕は覚えている。とくに二位の大雪は、敗戦の年の冬、過酷な戦争の中での豪雪だっただけに忘れられない。
亡父の日記には”尺余(一尺は33cm)の降雪。近年にない豪雪だが、ラジオは故障、幸い空襲警報の発令はなかったが、不安の一夜を明かす”とあり、よ翌23日の日記には”出勤の都電が清正前前(港区白金)の坂で脱線、歩いて五反田へ引き返す”とある。僕は中学2年(旧制)だったが、豪雪の中を大田区蒲田の勤労動員先の軍需工場へ出勤している。JR蒲田駅から工場のある六郷まで行進、つま先の破れたズック靴が水びたしになり、指が凍傷になった。
第三位の昭和11年2月の大雪は2.26事件の写真などから26日の降雪だと思っていたら22日であった。当時僕は幼稚園の年少組であったが、幼稚園横の坂を手製のソリで滑ったこと、2.26事件の当日、母親が何か心配そうに僕を迎えにきたことを覚えている。昨日から今日にかけての大雪もベスト.テンに入るものと思うが、80路を過ぎると、いろいろな体験ができる。
それでも今は暖房器具がありますから、建屋内に入れば寒いことはありません。洋服や靴も寒さ対策をした物が安価で買えるので、凍えることはありません。
しかし、戦後は物資も暖房器具も不十分ですから、今より格段に寒かったでしょうね。
食糧難は知られていますが、モノもありませんでした。育ちざかりなのに服も靴もありませんでした。敗れた靴や小さくなった服をいつまでも来ていました。家は木造家屋だったので、炬燵で暖を取っていました。23区内でも都市ガスの家は少なく、電気も不足、停電がしょちゅうでした。街の中で焚火がいたるところで行われていました。毎日のように空襲がありましたので、降った雪は防火に邪魔になるので、すぐ除雪しました。子供は疎開していて、雪だるまは見られませんでした。厳しい冬でした。