郡山は近年の町村合併で今や人口32万人、東北では仙台に次ぐ都会である。明治時代の初めには僅か7千人の宿場町,400年前の松尾芭蕉の時代には檜皮(日和田)葺き安宿しかなかった。明治初期の郡山について作家の宮本百合子は「貧しき人々の群れ」の中で県令だった祖父、中条政恒の時代の住民の貧困な生活を描いている。住民は明治維新後九州の久留米藩などから移住してきた武士たちであった。
郡山発展は安積疎水の引水とそれによる原野の開墾であった。芭蕉時代は奥羽街道の沼ばかり目立つ(奥の細道)原野だったが、明治維新後すぐの明治3年、新政府は国家事業として猪苗代湖から疎水を引く工事にとりかかり、オランダから”お雇い外人を招き僅か3年で延べ80万人を動員して完成した。その歴史は市役所近くの開成館に展示されている。
郡山の奈良時代からの伝説に「采女(うねめ)」物語があり毎年8月第1週の週末に行われているが、これは当時大飢饉の巡察に来た役人と采女の恋物語を題材にしたものといわれ昭和40年から始まっているが今では「東北五大祭り」になっている。
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