「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

大正.昭和.平成三代を生きた、ある「防人」102歳の死

2016-12-07 06:33:09 | 2012・1・1
大正3年生まれ102歳の大先輩、今沢栄三郎さんが先月末他界された旨、ご遺族から連絡があった。今沢さんとは10数年前「インドネシアと大東亜戦争」を出版したさい、色々と資料の提供を受け、ご指導を受けた仲だ。昭和15年、教育召集され、そのまま第五師団の給水部隊の一兵卒として、大陸各地を転戦、大東亜戦争勃発とともにマレー作戦を経て、シンガポール上陸作戦にも従軍した。そして、その後、師団の移動に伴い、豪北の南寧の孤島で敗戦まで、国の防人(さきもり)をしていた。(この従軍記は、今沢さんが雑誌に書かれた原稿「わが大君に召されて」を、ご了解をえて小ブログ(2013年4月に10回にわたって転載している)

今沢さんの自伝「徳弧ならず」によると、旧制中学卒業後、書店の店員をしながら、当時の青年の多くが心酔した橋本欣五郎氏(戦前の2,26事件などに関与した右翼活動家。戦後の市ヶ谷裁判で終身刑)の運動に参加、今沢さんはその研究家としても知られている。しかし、その経歴から連想されるような方ではなく、今沢さんは物静かな温厚な紳士であった。

戦後、今沢さんは池袋のキリスト教会にあった東南アジア文化友好協会で事務局長をされていた。この協会は戦争中、インドネシアのアンボンで従軍牧師であった加藤亮一氏(故人)が”今は償いの時”(氏の著書名)として、東南アジアから戦争の犠牲になった孤児たちを集め、寮生活をさせながら留学の面倒を見ていた。数年前、僕は今沢さんの紹介で、シンガポールの虐殺で犠牲になった孤児の一人にあったが、留学中に親切に世話になった今沢さんに感謝していた。また、今沢さんは戦後、インドネシアに残留、独立戦争に参加した元日本兵の組織作りにも尽力された。

ご遺族からの挨拶書面によると、今沢さんは”南方戦地にて病気入退院を繰り返しも内地へ送還されず命拾い40代に肺結核、99歳で再発、最近も2年間で3度の誤えん性肺炎で入退院していましたが病弱な父の生命力、衰えなかった手足、目、耳、毛髪に驚いています”とあった。改めて、大正生まれ、102歳の国の防人の生きざまに、心から合掌。弔辞にさせていただきたい。
(写真は今沢さんの白寿の御祝い。(左)が今沢さん(中)戦友の山下さん(故人)(右)在日インドネシア人回教指導者、イドリスノ師)