早くも昨日で正月の松の内は終わった。しかし、街を歩くと、まだ門松の絵をそのままにしている家がある。昔は1月7日が終わると、一斉に門松を撤去したものだが、だいたい最近は「松の内」という言葉自体が死語になってきた。それと共に昔あった書初め、鏡開きなどの行事もすたれてきたが、「七草粥」だけが逆に都会では盛んになってきた。
わが家でも、子育てや転勤で忘れていた「七草粥」の行事を数年前から老妻が復活させた。昨日も狭い家の庭から、春の七草のハコベとナズナとホトケノザ(写真)を摘んできて、足りない分はスーパーで一金380円を払い一式セットを買ってきた。夕食にその「七草粥」を食べたが、昔、亡母(明治26年東京生まれ)が作ったものと違い、お粥のなかにお餅が入っていない。
正直言って七草粥は美味しいものではない。僕には想い出の中にあるだけだ。戦前、まだ戦争が激化しない昭和のはじめ、わが家では亡母が近くの原っぱから七草を摘んできて、台所でまな板の上に置き、包丁で調子を取りながら七草の俚謡を歌ったのを想いだす。”唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬうちに七草、なずな........"姉さんかぶり、割烹着姿のまだ若かった母親である。
信濃の善光寺、長野市が郷里の老妻は、子供の頃、七草粥を食べたことはなかったという。だから粥に餅を入れなかったわけだ。東京では小正月が明ける1月15日に、砂糖をかけて小豆粥を食べた。この習慣は、わが家ではいつのまにか廃止されているが、周囲でもあまり話題にはならない。七草粥が都会で最近、人気が出てきたのは飽食に飽きた都会人の健康志向と関係があるのかもしれない。